2015/May/01 last updated



ト ラヤヌス伝(カッシウス・ディオ「ローマの歴史」68巻)

 


  史料の位置づけ:ローマ史は、共和政期については、共和政初期:リヴィウス、中期:ポリビュオス、後期カエサル、キケロ、サルスティウス等多くの史料、共 和政全体の人物伝としてプルタルコス対比列伝等からおおよその通史を知ることができます。帝政期については、1世紀:スエトニウス、タキトゥ ス、2世紀以降、ローマ皇帝群像 アンミアヌス・マルケリヌスの歴史、等で4世紀末までの通史をおおむね知ることができます。これらは日本語 訳も刊行されています。しかし帝政期では、タキトゥスとスエトニウスではドミティアヌス帝時代まで、ローマ皇帝群像はハドリアヌス帝から始 まっていて、その間のネルヴァとトラヤヌスの時代、ディオクレティアヌスからコンスタンティヌスが抜けています。ネルヴァとトラヤヌス時代に ついては、2世紀末から三世紀初頭に活躍した元老院議員カッシウス・ディオの史書に通史が掲載されており、現時点では日本語訳がないため、こ こではその部分を英訳から訳出しています。



    
 カシウス・ディオ

 

Roman History

ローマの歴史

 

68巻の概略(Epitome of Book LXVIII*1

 

  

1 ドミティアヌスの後に、ローマ人はネルヴァ・コッケイウスを皇帝に任命しました。

ドミティアヌスに関して感じられた憎しみのために、彼の肖像-それの多くが、金や 銀でできていた-は溶かされました。そして、これを材料として、多量の お金が作られました。また、アーチも、非常に多くの数のものが、この1人の男性のために建設されてきていましたが、それも取りや めになりました。ネルウァは、また、反逆者(maiestas)の容疑で公判中であるすべての人々を解放し、追放者たちを元に戻 しました。そのうえ、彼は、彼らが、彼らの主人に陰謀をたくらんでいた全ての奴隷と、自由民たちを殺しました。そ うして、主人に対してどのような不平も持っていない階級の人びとを許し、更に、ユダヤ人の生活の様式や、反逆者 (maeistas)の誰をも、人々は告発することを許されませんでした。知識があるそれらの多くの人が死ぬようにと非難され、 特に他の人々の間で、特に哲学者のSerasが非難されました。皆が他の人々を起訴していたという事実により、騒動が全く今やほ とんど引き起こされなくなっていた時に、執政官のフロントーは、注目すべきは次のようなことだと言いました。

 

 誰も何もしないと許可された人の下で、皇帝を持つことは悪しきことだが、全てを することを許可された全ての人々の下で皇帝を持つことは、より悪しきことだ(※皇帝が人々を規制することは悪いことだが、何でも 放置することはもっと悪いことだ、の意味だと解される)。これを聞いて、ネルウァは、事のこの状態が、将来に渡って続くべきでは ないようにと命じました。ネルウァは現在健康について、非常に年を取っており、非常に弱々しく(例えば、彼はいつも食物に吐かな ければなりませんでした)、つまり彼は寧ろ衰弱していました。

 

 

2 また、彼は名誉のために、金や銀の像の作成も禁じました。ドミティアヌスの下で理由もなく彼らの財産を奪われた人々に、彼は、それらがまだ帝国の国庫で見 つけられていることができたものについてはすべてを返却しました。彼は非常に貧しいローマ人へ、6000万セステルティウスの価 値がある土地の割当てを承諾しました。それらの売却と分配を担当する何人かの元老院議員を任命して。基金が不足したとき、彼は銀 と金でできた多くの備品と大量の衣類を売却しました。その上、家具や彼自身のものと、皇居に属したもの、多くの財産と住宅も、事 実上、不可欠であったもの以外のすべてを。彼は、しかしながら、価格について値段を交渉しませんでしたが、このことは多くの人々 の利益となりました。彼はできるだけ経費を減らすために、多くの犠牲、多くの競馬、およびある他の見世物を撤廃しました。彼は、 自分に対して元老院では、彼が元老院議員のいずれも殺さないだろうという誓いを立てて、彼自身への陰謀にもかかわらず、その誓い を守りました。そのうえ、彼は最前列の人々の忠告なしで何もしませんでした。彼の様々な法則の中に、いかなる男性の去勢をも禁止 す るもの、およびいかなる男性による姪との結婚も禁止するものがありました。執政官であるときに、彼は、彼の同僚としてヴィルギニ ウス・ルフスを連れ出すことをためらいませんでした。この男性は皇帝としてしばしば敬礼されていたのですけれど。ルフス の死の後に、一つの碑文が彼の墓に置かれました。それはウィンデクスを征服した後に彼が自分自身のためではなく、彼の国に権力を 要求したということに対してでした。

 

 

3 ネルヴァは、統治をし、それがよかったので、彼はひとたび注目されることにな りました。

「私は帝国の役所を私が放り出すことを妨げるようなことは何もしなかったし、安全 に私の私生活に戻れることを妨げることも何もなかった。」

 

 カルプルニウス・クラッスス(有名なCrassiの子孫)が何人かの他のものと 共に彼に対して陰謀を計画したとき、彼は、彼らを見世物の前に座らせ、(彼らはまだ彼らが伝えられた事実について無知だった)、 本当に剣を与えたなら、その場で死んだとしても彼が気にかけなかったのを示す為に彼らに剣を与え、それらが鋭いかどうか(しばし そうしていたように)、剣の表面を見て点検しするように(座らせた)。

 

 カスペリウス・アエリアヌス、彼はドミティアヌスの治世の元でそうだったよう に、彼の元でも法務官達の司令官となり、ある人物を処刑することを兵士に要求したことで、彼は、兵士が彼に反抗するのを刺激しま した。ネルウァは、鎖骨をむき出しにし、喉を彼らに向ける程激しく抵抗しました。しかし、彼は何も達成しませんでした、そして、 アエリアヌスが願っていたものは、そのやりかたから外されました。従って、老齢という理由の侮蔑の中に自分がいることを見つけた とき、ネルヴァは国会議事堂に昇って、大声で言いました。

「良い成功がローマ元老院と市民と自分自身に伴われますように」

「私はこれによりマルクス・ウルピウス・ネルヴァ・トラヤヌスを養子にします」

その後、元老院では、彼は、彼をカエサルに任命して、彼自身の手で書かれた伝言を 彼に送りました(トラヤヌスはゲルマニアの総督でした)

 

 

「あなたの恋の矢によってDanaans(*1)が、私の涙に報いりますよう に」

 (英語原文 "May the Danaans by thy shafts requite my tears." )

*1 神話の神Danaus神の子孫

 

4 このように、トラヤヌスはカエサルとなり、後に皇帝となりました。ネルヴァは生きていて、彼には親類がいましたが。しかし、ネルウァは国家の安全以上に家 族関係を評価していなかったし、トラヤヌスを養子にする傾向は少なくなかったのです。なぜなら、トラヤヌスはイタリア人や Italotの出ではなく、スペイン人であり、以前外国人がローマの主権を持つようなことはなかったからです。彼は国籍というより むしろ人の能力の見ることを信じていました。この行動のすぐ後に、1年、4カ月と9日間統治して、彼は亡くなりました。それ以前 彼の人生は65年、10カ月、および10日間でした。

 

 

5 彼が皇帝になる前に、トラヤヌスは、以下のような夢を見た。

 彼は、元老院が絵で代表されるような、紫色で縁取りしたトーガと衣服を着て、頭 上に王冠をつけた老人が、最初に、彼の首の左側の上に、そして、右の上に指輪で印を押したと考えました。皇帝になったとき、彼が どんな善人も殺したり、公民権を奪わせないと特に宣言した、彼自身の手で書いた手紙を元老院に送りました。そして、彼は、その時 だけ ではなく、その後も誓いによってこのことを確認しました。 彼はネルウァに反抗したアエリアヌスと法務官達を呼びにやりま した。彼が何ら かの目的に彼らを使って、そして、そのやり方から彼らをやめさせるために。ローマに来たとき、彼は、より良い集団を喜ばせるため に、多くの諸事の管理を改革するために多くのことをしました。公立の事業について、彼は珍しく注意を払い、多くの許可を与えまし た。例えば、彼らの子供の支援と彼が好意を持つ善良な市民に対する支援のためイタリアの諸都市に対して。

 

 プロティナ(彼の妻)が最初に宮殿に入ったとき、彼女は、階段と大衆に面す るために振り向いて、言いました:

 

 「私が去るとき、喜んでいるような、そのような女性としてここに入ります」

 

 そして、彼女は全体の治世の間、非難を全く被らないような振る舞いで行動しまし た。

様々な王から来た大使は見世物では元老院議員の区画に、トラヤヌスによって席を与 えられました。

 

 

6 ローマでいくらかの時間を過ごした後に、彼はダキアに対して征服戦争を開始しま した。

彼は、彼ら(ダキア人)の過去の行為を考慮に入れ、彼らが毎年受けていた金額で悲 しんでいて、また、彼らの力と彼らのプライドが増大していたのを見て取ったからです。

 彼の戦いをもたらす進撃を知り、デケバルスは怯えるようになりました、今彼は、 前の機会に征服したのはローマ人ではなく、ドミティアヌスだとわかっていたが、今彼は、ローマ皇帝トラヤヌスとローマ人の両方相 手に戦うことになるということを知っていました。

 彼の正義、彼の勇気、および彼の習慣の簡素さにおいて、トラヤヌスは最も目立ち ました。彼の身体は頑健で、彼が統治し始めたのは42歳の時で、彼は、非常な進取の気性を持っており、彼がほとんど他の人々と同 じくらい砕骨邁進しました。そして、彼の知力は最高の状態にあり、彼には若者の無謀さも老年の不活発もありませんでした。

 

 例外なしですべての良い男を賞賛し名誉を与えました。羨まず、殺しもせず。そし て彼 らのひとりさえ、憎みもせず恐れもしませんでした。中傷には、彼はほとんど注意を支払いませんでした、そして、怒りの奴隷 ではありま せんでした。彼は、他の者のお金と、不当な殺人を同じく控えました。

 

7 彼は平和の為の仕事と、戦争の為に莫大な額を費やしました。

そして、非常に多くの緊急に必要な修理を道路、港、および公共建築に行い、彼はい ずれのためには誰の血も流さずに行いました。彼は、非常に高潔であって、寛大であったので、ぼろぼろに崩れたキルクス(戦車競技 場) を拡張し、美しく装わせた後、ローマ人々にとってそこを適切な場所にした、と声明を刻ませました。これらの行為のために、今、彼 は尊敬されるよりも、愛されることにおける喜びを取りました。彼の、人々との関連は、威厳による元老院との彼の交流と愛想によっ て明らかとなっていて、つまり彼は全ての人々によって愛され、敵を助けたひとによって恐れられていました。

 

 彼は狩猟、宴会、彼らの労働、計画、および冗談で他の人々に加わりました。しば しば、3人の他のものを彼の(2頭立ての)馬車で連れていって、彼は、時々護衛なしで市民の家に入って、そこで楽しんだりしまし た。話すこととなったなら、厳密な意味で彼は教育を欠いていたにもかかわらず、話をしにきた時には、本質的に集中し、良く知って いました。そして、高い地位において彼がもっていなかった気質が全くありませんでした。私はもちろん知っていました、彼が少年と ワ インに執心していたことを。もし彼が、いやな行為やなにか卑しいことを我慢したり、遂行したりしたなら、この結果として彼は非難 を被ったことでしょう。しかしながら、それがそうであったように、彼は、彼が欲しかったすべてのワインを飲み、酔いをさましたま までいました。そして、少年との関係では、だれにも危害を加えませんでした。もし彼が戦争を楽しんだとしても、彼は成功が達成さ れた 時満足し、打倒された最も厳しい敵と彼の同国人は称賛しました。また、通常、そのような事情(軍人側のうぬぼれと傲慢)から生じ る結果はかつて、彼の治世の間、現れず、そのようなきっぱりとしたやり方で、彼はそれらを統治しました。

 

 

8 これらの理由で、そして、デケバルスには、彼を恐れる正当な理由がありました。

ダキアに対する彼の遠征においてトラヤヌスはTapae近くに集りました。そこは 野 蛮人が露営していて、大きなきのこが彼のもとに持って来られました。そこには、ラテン語の文字で書かれた伝言があり、 Buriと他の 同盟国が、トラヤヌスが退却し、平和を維持するよう忠告する効果を持っていました。それにもかかわらず、彼は、 敵と交わって、多くが 彼自身の側で負傷しているのを見て、敵の多くを殺しました。そして、包帯が尽きたとき、彼は彼自身の衣服 を惜しんだりせすに、数篇の 切れへとそれを刻みました。戦いで死んだ軍人の名誉において、彼は、祭壇が建設されるよう命じ、葬 礼が毎年実行されるよう命じました。

 

 

9  デケバルスがこの敗北の前にさえ使者を送ったにもかかわらず、長髪の男性ではなく、前のように、帽子を着用している者の中で最も高貴なものを送りまし た。

これらは彼らの武器を投げ、そして、彼ら自身の身を投げ出し、地にひれ伏して、 トラヤヌスに拝礼しました。そして、可能なら、デケバルス自身が会って、彼と協議することを許されるべきで、彼が命じる全てのこ とを約束することを許可されるべきだ、さもなくば、少なくとも彼らと諸事を論じるために誰かを送るべきだ、(と言いました)。送 られ たのはスラとクラウディウス・リヴィアヌス長官でした。しかし、何も、デゲバルスがあえて彼らに会おうともせず、この機会 に使者 も送らなかったので、何も達成されませんでした。トラヤヌスは要塞化された幾つかの山々を捕らえ、それらの上に武器と捕 獲するための 機材を見つけました。その上でFuscusの時にもってこられた標準装備と同様の兵器と機材を捕獲しました。マ クシムスがデケバルスの 姉妹と、強い立場の者を捕らえたという話を知ったデケバルスは、あらゆる要求に例外なしで同意する準備ができていました。しか し、彼は、彼の同意に我慢するつもりだったわけではなく、一時的に反対の立場をとることで、時間稼ぎをするつもりでした。

 

 それで、彼は、彼の武器、機材、および工作班を明け渡して、脱走兵を返して、砦 を壊して、捕らわれている領土から引き下がって、その上、ローマ人が行ったのと同様に、敵と友人とを同じ人として扱うこと をいやいやながら約束しました。ローマ領土から彼のもとへ来るように男を説得することによって、彼が彼の力の最も大きくて最も良 い部分を取得し続けることができていたので、帝国から脱走した兵であれ、脱走兵であれ、避難所を与えることはしませんでした。彼 がト ラヤヌスの元に来た後、この戦争は、地に平伏して、敬礼して、武器を投げ出しました。また、彼は使節にその件に関して元老 院に行かせました。彼がその体で平和の批准を保証できるように。この協約を結んだ後に、皇帝はサルミゼゲトゥサ (Zermizegethusa)の軍 営を去り、領土 の残り中のあちこちに守備隊を配置し、イタリアに戻りました。

 

 

10 デケバルスからの使節は、元老院に連れて来られ、彼らの兵器は捨て、捕虜の態度で手を握って、懇願のいくつかの言葉を伝えました。 このように、彼らは、平和を 得て、武器を受け取りました。トラヤヌスは勝利を祝い、ダキクス(ダキアの征服者)の称号を与えら れました。劇場では、彼が剣闘士競 技を主催し、彼はそれを喜び、パントマイムのダンサーが劇場に連れ戻され、 Pylades(彼らのうちの一人)に魅惑されていました。勇敢な男性に予想されたかもしれないように、民政に関するいかなるも のにも注意を払わないことはなく、正義に消費しなかった ということもありませんでした。これに反して、現在、アウグストゥスの フォルムで、リヴィアのポルチコで、それが裁判所のほかの場所でし ばしば呼ばれたように、彼は裁判を指示しました。

 

 デケバルスが、何度も条約に反する行いをしていると彼に報告されたことで、武器 を集め、軍務から外れていた人を集め、砦を修復し、隣人に使者を送り、以前、彼と意見を異にした人を傷つけました。 Iazyges の領土を併合するかのように遠くまで行くことさえしました(トラヤヌスは後に、彼らがそれについて尋ねてきたと き、彼らに返さなかった)。

したがって、元老院は、彼が敵であると再び布告しました、そして、他のものについ てそれをゆだねることの代わりにトラヤヌスはもう一度、自分で彼との戦争を行いました。

 

 

11 多数のダキア人が彼らの忠誠をトラヤヌスに移し続けました。そして他のある 理由でも、デケバルスは再び講和を求めました。しかし、彼が、彼の武器と彼自身の両方 を降伏するように説得できなかったので、彼は軍団を集めて堂々と進軍し、彼を支援する、降参した国々を召集し、もし彼らが彼に従 うなら、彼ら自身は危険にさらされるし、もしどのような危害に悩む前に彼の側で戦うことが、彼らにとってより安全で容易であるな ら、滅ぼされ、そして後に同盟国を死別するときに征服されるよりも、自由を保持しようと宣言しました。

 

 デケバルスはあからさまな混乱でうまくいっていませんでしたが、それにもかかわ らず、策謀と偽りで、彼はトラヤヌスの死をもう少しで達成させるところでした。彼は、何人かの脱走兵に、彼らが彼である皇帝が一 般 に近づきやすく、今や戦争の緊急事態のために、望む者はだれても絶対に会議への参加を許可されるか、トラヤヌスから離れたところ で出来るかどうかを確認しにモエシア(現ブルガリア)に行かせました。しかし、彼らはこの計画を行うことができませんでした、彼 らのひとりが疑われて逮捕されて、拷問中に陰謀の全体を明らかにしたためです。

 

12 次に、デケバルスはロンギヌス、ローマ軍団長で、戦争で、自分自身を王にとっての恐怖としている彼に会うよう説得する招待状を送りました。何を要求されて も彼がする、という口実を設けて。彼は、次に、彼を逮捕して、トラヤヌスの計画に関し公けに彼に質問しました、そして、ロンギヌ スが、何を認めるのも拒否したとき、拘束はせずに護衛の下に彼を連れて行きました。

そして、使節をトラヤヌスに送って、彼はIsterと同じくらい遠くに彼の領土を 受け戻すつもりがあり、彼が戦争に使ったすべてのお金について保障されるように頼みました。これが、ロンギヌスの返却条件でし た。トラヤヌスは、ロンギヌスを非常に重要だとみているかどうか、わずかにまだ重要だと考えているかどうか、をデケバルスがわか らないように、あいまいな返事を返しました。

 

 滅ぼされることを妨げることが目的である一方で、大きくでた条件で、目的を守る ことにありました。それで、彼が何をするべきであるかをまだ考えている間、デケバルスは引き延ばしました。差し当たり、ロンギヌ スは、自由になる為の安全な毒をもっていたので、トラヤヌスに勝つためにデケバルスに約束しました。王は、彼がしていることを疑 いもしないことを期待し、そしてまた、自由民(*デケバルス側の民のこととおもわれる)の安全を得られるようにする為に、王は彼 を厳格に見続けるようなことはしませんでした。彼は、陳情を含む手紙を彼の代理に書いて、トラヤヌスまで運ぶためにそれを彼に与 えました。次に、他の者が行ってしまったとき、彼は、夜、毒を飲んで、死にました。10人の捕虜とロンギヌスを変換する為に彼に あ たえた約束をするため、デケバルスは、トラヤヌスに自由民を要求しました。彼はすぐに、彼がその件を実行できるように、ロンギヌ スと共に捕らえられた百人隊長を送りました。そして、百人隊長から、ロンギヌスの話の全体を聞かされました。しかしながら、トラ ヤヌスは彼(百人隊長)を返送しないで、また自由民を明け渡しませんでした、帝国の威厳には、彼の安全がロンギヌスの埋葬より重 要であると考えた為です。

 

 

13 トラヤヌスはIster(ダニューブ河/ドナウ河)川の上に私が彼を十分賞賛できない石橋を建築しました。本当に、輝かしくて、しかし、彼の他の業績を、 これは凌いでいます。 基礎の幅は60を超え、高さ150フィートの断面を持つ石の20の柱を持ち、お互いの柱の間隔は170フィートあり、これらはアーチによって接続されてい ます。それは、建設費で人を驚かすことはなくでも、渦巻でとてもいっぱいの水と、凄い泥の底の上で、深い川に置かれたというその こと自体に驚かされないでしょうか?もちろん、流れをどこでも紛らすのは不可能です。私は川の幅について話しましたが、流れは一 様にそれほど狭くは無く、2つ同じ地面に橋桁が立ち、他のところでは3本建ち、しかし、もっとも最も狭い地点では、橋を架け るのに最も良い適していたその場所にひとつ橋梁を立てるやり方で橋桁の幅が決まっていました。川の下流は、このような狭い箇所へ の凄い流れとは対照的で、もの凄い流れへを再び拡大した後、より荒々しく深くなり、橋を建築するという困難を見積もる際にこの特 徴を考えなければなりません。またそしてこれはトラヤヌスの構想の大きさを示している業績の1つです、私たちにとって、使わない 橋ですが。まるでそれらが何も人間の知恵が達成できないものがないのを示す唯一の目的のため に建設されたかのように、渡る以外 に意味の無い単なる埠頭が立っています。

 

 彼が、Ister川(*ドナウ川)が戦争時に凍っていたいくらかの時に、向こう 側にローマ人が 渡ってしまったかもしれないと恐れたので、トラヤヌスは橋を架けました。そして、彼はこのようにして渡河してしまった者への接触 を容易にしたがっていました。ハドリアヌスはまた、それは野蛮人にとっても渡河を簡単にするかもしれないので、これに反して、恐 れていました。彼らがモエシアへ渡河するよう、橋で護衛を圧倒したので、彼は一度橋の上部構造(*橋梁のことか)を取り除きまし た。

 

 

14 トラヤヌスは橋によってIsterを渡河したので、迅速でというよりむしろ安全という観点で戦争を行って、困難な戦いの後に結局、ダキアを負かしました。 侵攻の間に彼自らが良い指導力と勇気の多くの行為を実行して、彼の軍は、多くの危険を冒して、彼に代わってすばらしい勇気を示し ました。治癒ができるかも知れないとの望みで、酷く傷ついている騎士が戦場から運ばれた後、彼は回復できず、(彼の負傷がまだ彼 の心臓に達していなかったので、)彼のテントから飛び出し、もう一度前線の自分の場所に行き、大きな武勲を示した後に死にまし た。彼の都と彼のすべての領土が占領されて、彼に捕らえるという危険が迫った時、デケバルスは自殺しました。そして、彼の頭は ローマに運ばれました。このように、ダキアはローマ人に臣従することになり、トラヤヌスはそこに数々の都市を設立しました。

 

 サルゲティッサ川の下に隠されていましたが、デケバルスの宝物は発見されまし た。川は彼の宮殿を通過していました。何人かの捕虜の助けで、デケバルスは川のコースを曲げて、河底を掘り、多量の銀、金、およ びある量の湿気に耐えることができたかなりの価値の他の物を穴に投げいれました。次に、彼はそれらの上で石を盛り合わせ、そし て、土を積み重ねて、川の流れを元に戻しました。彼は、また、同じ捕虜に彼の外套と他の洞窟にある自然物のような工芸品を預けた あと、彼らが何でも明らかにするのを防ぐために彼らを遠ざけました。しかし、ビシリス(何をしたかを知っていた彼の仲間)はこれ らのものに関して捉えられ、これらについて教えてしまいました。

 

 この頃、パルマ(シリアの総督)は、ペトラ周辺でアラビアの地域を征服して、そ の地をローマ人に臣従させました。

 

 

15 ローマへのトラヤヌスの帰還時には、非常に多くの大使達がインドを含む多様な野蛮人たちが彼の元にやってきました。そして、彼は123日間に見世物を催し ました。そして、1万人の剣闘士が戦い、野生のと、飼いならされた動物がおよそ1万1000匹殺されました。

 

この同じ期間に、彼は、Pontine沼地を通って石の道路を敷設して、ほとんど の壮大な建物と橋とともに道路も提供しました。また、彼は悪い状態に擦り減った全てのお金を溶かさせました。

 

 

5 彼は、誓いをたてました。彼は、血を流さず、彼に対して計画された陰謀であっ ても、彼の行為によりうまく計らうことを約束しました。生来、二枚舌、狡猾、残酷さには全く傾きませんでしたが、彼が無視した他 のものやよいものには名誉を与え、愛し、歓迎しました。そのうえ、彼は時代の結果のごとく、より温和になりました。

 

 

リキニウス・スラが死んだとき、トラヤヌスは公葬と像を彼の為に与えました。この 男は、そのようなある程度の富と地位に到達したので、彼はローマ人のために体育館を建設しました。しかし、とてもすばらしいの は、彼が示したトラヤヌスへ、トラヤヌスが彼に示した友情と信頼でした。皇帝に影響力を持っている全ての人におこるのと同様に、 彼もしばしば中傷されましたが、トラヤヌスは決して彼を疑ったり憎んだりしませんでした。これに反して、スラをねたんだ人が非常 にしつこくなりました。皇帝は彼の家に夕食におしかけ、彼の全警備を解除したので、最初に、スラの医師を呼び、彼の両目に塗布し て、次に、顎鬚をそらせる床屋を呼びました。(皇帝たち自身は、残りも同様に、この古代の習慣に続いていました。 顎髭を生やすファッションを最初に行ったのは、ハドリアヌスでした)。このすべてをした後に、彼は、風呂に入って、夕食を食べました。その翌日彼は、スラ に関する中傷的な発言を作ることを日々行っているものが常にいることをこの友に告げました。:

 

「もしスラが、私を殺すことを望んでいたなら、彼は昨日、私を殺しただろうに」

 

 

16 今、彼は、中傷された男の場合について、危険を冒すことですばらしいことをしましたが、よりすばらしいことは、彼が決して彼(スラ)によって危害を加えら れることはありえないと、まだ信じていることです。このように、彼の信念の信用は、他の憶説ではなく、スラの個 人的な行為によって強化されたのでした。本当に、彼(*以下スラ)は最初に、法務官達の中で完璧な人物であり、この役人が彼の傍 らに身に着けている剣であり、彼はその刀を抜いて、それを取り上げて言いました。

 

「この刀を取ってください、私が良い判決を下すなら、あなたはそれを私のために使 うことができる。もし駄目な判決なら、私に対して使ってください」

 

 また、彼はソシウス、パルマとケルススの像を設置し、彼らが残りの面々より上 になるよう尊重しました。それら、しかしながら、彼らの中で彼を倒そうとした者がいました。それはクラッスス。彼は、元老院の前 に 持って きて提訴して、それらを罰させました。

 

 また、彼(*以下、トラヤヌス)は図書館を建設しました。そして、彼は、すぐに 自分 への記念碑として巨大な円柱をフォルムに設置しました。彼自身の業績の記念碑として機能するように。それに関しては、全体 的に小山 のようになっていたので、彼は円柱の高さと等しくなるようにそれを削りました、その結果、フォルムと同じ高さとなりま した。

 

17 次に、彼はアルメニアとパルティアに出征しました。その口実は、アルメニア 王が彼の王冠(ディアデム)を、彼の手からではなく、パルティア王から得たというも ので、彼の本当の理由は名声への願望でした。

 

 トラヤヌスがパルティアに対して出発して、アテネと同じくらい遠くまで来た時、 オスロエスからの大使に会いました。大使は、平和を求めて、贈り物を提供してきました。彼の進軍を知ることで、王は脅かされるよ うになりました。トラヤヌスが彼の行為で彼を脅やかし、利益を得ることがよくあったのです。彼は彼の自尊心を打ち砕き、戦争を避 けるよう嘆願を送り、同時に、アルメニアをファルサマシリスに与えました。ファルサマシリス(*グルジア王)は、同様にパコー ルースの息子であり、王冠が彼に送られるよう要求していました。

彼はエクセダレス(Exedares,)を退ける為に言いました、ローマ人もパル ティ ア人もどちらも満足すればいいが、皇帝は贈り物を受けず、口頭か書面でも回答をせず、友好は言葉ではなく、行為によって判断される と言明をしている。そして、彼がシリアに達したとき、適切なことをするだろう。この記憶によると、彼がアジア、リュキアと隣 接している州を通ってセレウキアに進んだということです。

 

18 到着し次第、アンティオキアでは、オスロエネのアブガルスが友情に関する贈り物と伝言を寄越しました。彼自身は現れませんでしたが。トラヤヌスと パルティアの両方を同じように恐れ、その理由から、彼は、中立であることを試みていたので、彼とは打ち合わせになることにはなら ないでしょう。

 

 

32 ルキウス・クイエトゥスはムーア人であり、ムーア人達のリーダーとして騎兵 軍の指揮官との階級にありました。しかし、基本的な指揮に対して中傷され、彼は、当時任務から解雇されて、不名誉をかこっていま し た。しかしながら、その後、ダキア戦争がきたとき、トラヤヌスはムーア人の支援を必要としました。彼は、独りでに彼のもとに来 て、かなり勇敢な行為を示しました。これのために尊敬されて、彼は、2番目の戦争において、はるかにすばらしくて多数の功績を示 し、現在の戦争では、勇気と幸運で最終的に昇進し、元法務官(ex-praetors/総督)の中に登録されて、執政官となり、 次に、パレスチナの総督となりました。これは主に、彼への嫉妬と憎しみと、彼の破滅を感じさせました。

 

 

18 トラヤヌスが敵国に侵入したとき、その領域の地方長官(サトラップ)とその 地域の王子は贈り物をもって彼に会いに来ました。これらの贈り物の1つは服従することを教えられていた馬でした。それは、前脚の 上 にひざまずいて、近くにで立った人になら誰でも頭を下にたれました。

 

 

19 ファルサマシリスはかなり乱暴なやり方で振る舞いました。最初の手紙では、彼自身を「王」と署名しましたが、答えが全く来なかったとき、彼は、この称 号を省略して、再び書いて、マルクス・ユニウス、カッパドキアの総督に、彼に送るように頼みました、彼が彼を通した何らかの要 求を望んでいました。トラヤヌスはそれに従って、ユニウスの息子を彼に送りました、彼自らがアルサモサタへと進みました。彼は戦 をせずに、そこを取りました。次に、彼は、サタラに来て、贈り物でAnchialus、HeniochiとMachelones の王に贈り物を与えました。アルメニアのElegeiaでは、彼はファルサマシリスを受け取り(*会い)、軍営の中の法官席に座 らせました。王子は彼に敬礼し、彼の頭からディアデム(王冠)を取って彼の足元に置き、それを再度授けられることを期待して黙っ て立っていました。ここで、兵士達は、まるで何らかの勝利のために呼ぶかのように大声で叫んで、トラヤヌス・インペラトールと呼 びました。(彼らは王、アルサケスの子孫、パコールースの息子、およびオスロエスの甥を見て、無冠と無血の勝利とそれを呼びまし た。オ スロエスの甥は、トラヤヌスの前に王冠なしに、捕虜のように立っていました) 叫び声は王子を脅かしました。王子は、侮辱と 受け取り、それは彼の破滅を意味すると考えました。そして、逃れるように方向転換しましたが、彼が四方で取り巻かれたのがわかる ので、彼は、群衆の前でやむを得ず話をさせられないように請いました。それに従って、彼はテントに行かされました。そこでは、彼 が彼が願っていたもののいずれも得ることが出来ませんでした。

 

20 彼は若い時にそうしたように、軍営の外へ飛び出しました。

しかし、トラヤヌスは、彼を送らせ、再び法官席に座らせ、彼が望んでいたすべてを 聴衆の前で言うように命じました。個人的な席で言われた会話は、人々を無知におく為、異なった報告が出来てしまう為です。特に 彼が持っていた宣言は、この司令官ファルサマシリスは、もう沈黙を守らず、非常に気兼ねなく話しをしました。聞いていると、彼 は、破 られもしませんでしたし、捕らえられもしておらず、自発的にそこに来ただけであり、彼は虐待されるべきでなく、王国を受け取るべ きであると信じていました。ティリダテスがネロからそれを受けたときのように。トラヤヌスは、彼のすべての所見に対して適当な回 答を 行い、彼はアルメニアにだれにも引き渡さないと特に宣言しました。そこは、ローマ人の所有で、ローマ総督がいることになっていた ので。しかしながら、彼はファルサマシリスが行きたいところへ行かせることを許しました。

 

それで、彼は、彼のパルティア人の従者と共に王子を送させ、誰も反逆を始めないよ うに連携すべきだということを確認するために、騎兵の護衛を彼らに与えました。しかし、彼は、王子と共に来たすべてのアルメニア 人は、彼らがいたところに留まるように命じました、彼らは既に彼の臣下だったので。

 

 

18 彼がアルメニア人の全土を捕らえて、多くの王に勝ったときか、または彼らが 自発的に臣従したので、彼は友人として扱われ、一方、他のもので、もっとも、反抗的なものとは、戦いなしで鎮圧されました。元老 院は彼に、通常の全ての多くの名誉を投票し、その上、Optimus(最高者)、またはMost Excellent(最善者)の称号を彼に授与しました。彼は彼の軍隊の一般と共にいつも徒歩で行進しました、そして、全体の作戦の間中軍の要望と気質に 気を配りました、時には1つの要望に、時には別の要望で彼らを導き、そして、彼は彼らが遭遇したすべての川を渡河しました。 時々、彼は彼の偵察兵に誤報を出させるように歩き回らせ、兵士が全く同時に軍事的な操縦ができるように練習し、どんな危険も大胆不 敵で準備ができるように努めました。彼がニシビスとBatnaeを占領した後に、パルティクスという称号を与えられました。しか し、彼の武器(*軍事的成功)よりむしろ彼の性格に関する限り彼はOptimusの称号に、すべての残りよりはるかにすばら しい自尊心を持っていました。

 

 

21 丁度良い地点で守備隊を出て、トラヤヌスはエデッサに来て、アブガルスを初めて見ました。アブガルスが以前、多くの機会に、皇帝に使節と贈り物を贈ってい ましたが、彼自らが最初にひとつの弁明をし、続いてもうひとつ弁明し、アルバニアの隣国の支配者Mannusや、 Anthemusia.の支配者Sporacesの場合のように、姿を現すことに失敗していました。

 

 しかしながら、この機会に、彼の息子、Arbandesの説得によって、部分的 に紹介されました。その息子はハンサムで、若者のプライドをもち、トラヤヌスの好意を得ていたので、アブガルスは、少年という強 力な 斡旋者がいたのこともあり、多少トラヤヌスの前で恐怖を感じつつ、彼(アブガルス)は、路上で彼と面会し、謝って、許しを得まし た。それに従って、彼は、トラヤヌスの友人になって、宴会で彼を楽しませました。そして、夕食の間、彼は、彼の少年が何らかの野 蛮人(*この場合は「異邦人」)のダンスなどを実施するために少年を連れて行きました。

 

 

22 トラヤヌスがメソポタミアに入ったとき、Mannusは通知を彼に送りました、そして、また、Manisarusは平和を求めるために使節を急派しまし た。オスロエスは彼に対して作戦を練っていて、トラヤヌスが捕らえたアルメニアの一部とメソポタミアから放逐する準備を整えてい ま した。

 

 トラヤヌスは、彼がなした約束を保持するように彼のもとにくるまで、彼を信ぜ ず、彼の行為によって申し出を確認する、と返答しました。この機会に、アディアバネの王がローマ人の手で、全てを失ってしまうだ ろう と、アディアバネの王、Mebarsapesへの補助の軍団を送ったとしたことで、トラヤヌスはMannusも疑っていま した。した がって、今回のトラヤヌスも、近くに引き寄せる為に待つことはせず、彼らがアディアベネへと進軍しました。このように、 Singaraとその他の場所が戦いなしでルシウスによって占領されました。

 

 

24 皇帝がアンティオキアに滞在していた間、ひどい地震が発生しました。多くの都市が傷を受けたましたが、アンティオキアはその中で、どこよりも不運でした。 トラヤヌスはそこに越冬する予定だったので、多くの軍人と多くの民間人が、訴訟、大使館、仕事や観光関連のあらゆるところに四方 からあちこちに集まってきました。無事な人々の国が全くありませんでした。このように、アンティオキアは、ローマ人の一方の世界 で災害を受けました。多くの雷雨と不吉な風があり、だれも、今までに、多くの弊害がそれらから生じるなどと予想したことがなかっ たと言えるでしょう。

 まず最初に、突然の轟音が轟き、そして、物凄い揺れが続きました。大地全体が隆 起 し、建物が空中に飛び上がりました。或るものはばらばらに壊れて、破壊されて高いところに運ばれ、一方、他のものは、この道を投 げだし、さながら海の大波で投げられたように、ひっくり返され、そして、残骸は開けている地方でさえ、ひどい範囲に広がりまし た。タイルと石にでできた、研摩材を打ち壊し、打ち砕く衝突が最も恐ろしいものでした。そして、思いもよらない量のほこりが発生 し、何を見るのも、話すのも、聞くのも困難になりました。家の外にいる者でさえ、多くの人びとが傷つきました。存在しているもの は、まる で崖から落下するかのように大地をにひっつかんで、乱暴に暴れ回り突進しました。或るものは不具になり、他のものは殺 されまし た。いくつかの場合、木さえ空中に、屋根の上など全てにむけて放り出されました。家に閉じ込められて、苦しめられた多くの人がみ られました。多数くが、降下してくる破片の力によって殺されて、かなりの数が廃墟で窒息しました。石や材木の下に埋められた体の 一部が横たわっている人々が恐ろしく苦しみ、もはや生きていないか、即死した人を見つけることは困難でした。

 

 

25、それにもかかわらず、多くの人が、このような無数の群集が、予想されたかの ように救われました。無傷で逃げられたものはほとんどいませんでした。多くが脚か腕を失いました、そして、或るもので彼らの頭を 割られました、そして、それでも、他のものは血を吐きました。執政官のPedoはこれらのひとりでした、そして、彼はすぐに、死 にました。一言で言えば、それらの人々がその時受けなかった暴虐な経験に類するものは、他には全くありませんでした。そして、天 国が数昼夜地震を続けていたように、人々は、恐ろしい苦境にいて、無力でした。彼らの何人かが、彼らに伸しかかる建物 の重さの下でつぶされて、死んで行きました。そして、他の者たちは、偶然、自分達が空き地、そのような空間ができるほど傾いてい る材木の中や、アーチ状に広げられた列柱の間で生き残るチャンスがあったとしても、そのような場合は必ず飢餓で死ぬことになりま した。地獄がついに静まったとき、廃墟を登ることを冒しただれかが、まだ生きている女性の合図を見つけました。彼女は、一人で はありませんでした。幼児がいました。そして、彼女は、彼女の母乳で自分と彼女の子供の両方を食べさせることによって、生き残 りました。彼女を掘り出して、彼女と共に彼女を蘇生させて、彼らは、その後に、他の山を捜しましたが、死んでいる母親の胸でしゃ ぶっている子供を、まだ生きている人が救うのを見つめることもできませんでした。死体を引き抜いたとき、彼らはもうそれら自身の 救出でさえ少しも喜びも感じることができませんでした。

 

 とても恐ろしいのは、このときアンティオキアを圧倒した災難でした。トラヤヌス は彼がいた部屋の窓を通って外に出ました。人間より大きい身長の何かが彼について来て、彼を先に導きました、だから彼がほんのい くつかの軽傷だけで逃げることができました。そして、衝撃が数日の間広がり、彼は戦車競技場で野外生活を送りました。カッシウス 山自身さえ、揺れ動き、その頂点では、傾くように思われたほどゆられていて、市を崩壊に落とし込みました。また、他の丘に移り、 そして、以前に存在していなかった多量の水が明るみに出てきましたが、多くの流れが消えうせました。

 

 

26 トラヤヌスは春先に敵の国に急行しました。そして、チグリスの近くの領域が船に適当な材木でむき出しであるので、彼はニシビスの周りの森林で組み立てられ た船を、荷車に乗せて川の上に持って来ました。それらを分解して、再びまとめることができたような方法でそれらを造ってあった のです。彼はGordyaean山の反対側の流れに橋を架ける際に大きな困難に遭遇しました。野蛮人が対岸に立ち、彼を妨げよう としたのです。しかし、トラヤヌスには船と軍人の両方が、かなりの量があったので、いくつかの船が非常に手早く固定されまし た。一方、他のものは、重い歩兵と弓の射を持っている者の正面に係留され、また他のものは、まるで河を横切ろうというかのよう に、道を疾駆し続けました。これらの戦術と、とても多くの船が一度に木の無い土地から一気に現れるのを見たために、敵はかなり狼 狽し、野蛮人は道を明け渡しました。そして、ローマ人は、アディアベネの全体の所有物を持って、横断しました。これはニシビス近 くのアッシリアの地区でのことでした。そして、アルベラとガウガメラ(アレクサンダーはその場所の近くでダリウスを征服 した)も、この同じ国にありました。また、アディアバネは、野蛮人の言葉でAtyriaと呼ばれていましたたが、それは (Assyriaの)の二重のSをTに変えた、Atyriaという名称で呼ばれていました。

 

22 AdenystraeはSentius(百人隊長)がMebarsapes の使節として送った強力な地位(の者)でした。彼はそこで後者によって投獄されましたが、後で、ローマ人の進軍に呼応して、彼の 何人かの仲間囚人、および彼の拘束から逃れている者の支援を得て、守備隊の指揮官を殺し、城門を同国人に開放しました。

 

 

26 この後、彼らはバビロン自体と同じくらい遠くに進みました。苦しみからかな り自由でいられました。パルティア人の力が内戦で破壊されていて、このときもまだ争いに目を奪われていました。

 

27 ラテン人に関することを書いているカッシウス・ディオ・コッケイアヌス は、この都市[バビロン]には400スタディウスの路地があると書いています。

 

(Semiramisは建てました…… 都市)

カッシウス・ディオ・コッケイアヌスによると、周囲が400スタデス(スタディオ ン)あります。

 

 ここで、そのうえ、トラヤヌスはバビロンの壁が造られていた結合剤を見ました。

焼かれたレンガか小さい石による接着に使用されると、この材料はとてもすばらしい 接合性を発揮し、それらを岩石やどんな鉄よりも強くするほどまでにしました。

また、彼は広場で、致命的な蒸気を発行する開口部を見、その蒸気が、その息を吸入 する 翼のある動物や、陸生動物も滅ぼすのを見ました。

 

 本当に、地面の上で遠くに広がっているか、周囲に遠く広がっているなら、その場 所は住みよくないでしょう。しかし、現状通り、蒸気はそれ自体の中で旋回し、残りは静止します。したがって、その上を十 分に高く飛ぶ生物と、側で牧草を食べる生物は安全です。私は、アジアのヒエラポリスで別の、そのような広場を見ました。 鳥を使ってテストしていました。私は、また、かがんで、自分で蒸気を見ました。それは一種の貯水槽の中に入れられていました。そ して、劇場はその上に建設されていました。それは弱められた人間を救う全ての生き物を滅ぼします。これが私が理解することができ ない理由です。私は単に私が見たように見たものを関係づけ、聞いたように聞いたものを関係づけています。

 

28 トラヤヌスは、運河をチグリスからユーフラテス川に通すことを計画していま した。彼はこのルート沿いに彼の舟を降ろし、橋を 作るために舟を使用できるよう しました。しかし、この川にはチグリスよりはるかに高い標高があることを知るに及び、橋の構 築は取りやめました。水が洪水で激しく流れ下っていて、ユーフラテス川を航海不可能にしてしまうかも知れないと恐れた為です。

 

 そこで彼は二つの川を分断している非常に狭い空間の向こう側に船を引きずってゆ くために、運搬用の推進器を使用しました(ユーフラテス川の全体的な流れは、沼地の水はけを良くして、そこからチグリスとどうに か接 合しました)。

続いて、彼は、チグリスを横断して、クテシフォンに入りました。この場所の財産を 取得 したとき、彼は、尊崇すべき皇帝であり、パルティクス(パルティア征服者)の称号の権利を打ちたてました。元老院によって 彼に投票さ れた他の名誉に加えて、彼が望んでしかるべき同様な多くの勝利を祝う権利を(元老院が)彼に与えました。

 

 クテシフォンを奪取した後で、彼は紅海まで航行する望みを抱きました。

ここは海洋の一部であり、以前岸を統治した人によってそのように命名されていまし た。

彼は、Athambelusが王であったチグリスにある島、メッセネで易々と勝利 を得ました。

しかし、気付くと、海洋から来る潮流とチグリスの強い流れが合わさり嵐のような状 況となり、非常に危険であることがわかりました。

 

 Athambelus(チグリスの島の支配者)はトラヤヌスに、貢納を支払うよ うに命じられたけれども、忠誠を示し続け、SpasinusのPalisadeの住民は、そのように言われているが如く、そのよ うな王を親身に受け入れ、彼らはAthambelusの統治権を受けました。

 

 

29 次に、彼は海洋自体に来て、そこの自然を知り、船がインドに向けて出帆しているのを見たとき、言いました:

「私がもっと若かったなら、インドにも渡ったであろう」 彼はインドについて考 え始め、インドの事に関し好奇心が強く、アレクサンダーという幸運な男のことを思ったのです。

彼は、彼自身がアレクサンダーよりも遠くに進軍したと宣言したことだろう。そし て、彼が征服した領土を保持することができないとしても、そのように元老院に書き送ったことだろう。この達成のために、彼はあら ゆる名誉の中で、好きなだけ多くの国への勝利を祝う名誉を得ました。彼が元老院に書き送った多くの人々は、幾つかの場合には知的 に 彼に従うことはおろか、名前を正しく使用できないことさえあったという理由で(※従軍している兵士は状況をよく理解できる程知的 ではなかった、という意味だと思われる)。それで、ローマの人々は、彼自身のフォーラムの他の多くの捧 げ物以外に、彼のために凱旋門を準備していて、彼の帰還のときに彼に会うために、ローマからずいぶん先まで進む心構えでした。

しかし、彼は2度とローマに戻れない運命にあったし、彼の以前の功績に匹敵するも のはなんであれ達成することもできず、それらの以前の獲得したものを失う運命にありました。彼が大洋を下り、再びそこから戻っ てくる間に、すべての征服された地区が、騒ぎに巻き込まれ、不快にさせられて、様々な人々の間に置かれた守備隊が追放されるか、 殺されました。

 

30 トラヤヌスはバビロンでこれを知りました。彼がこれを正当化するための土 手、石、および廃墟以外何もみなかったけれども、名声の為か? それともアレクサン ダーのため、アレクサンダーがそこで死んだ部屋で犠牲を指示したという彼の精神の為の両方の為なのか?ともかく彼はそこに行きま した。

 

 反乱を知った時、彼は反逆者に対してルシウスとマクシムスを送りました。後者 は、戦 いで破られ、苦しみました。しかし、ルキウスは他の多くの成功に加えてニシビスを回復しエデッサを捕獲し、略奪し、燃や しました。セレウ キ アもまた、エルシウス・クラウスとジュリアス・アレクサンダー、中尉達により占領され、燃やされました。

また、パルティア人が反乱を始めるかもしれないと恐れたトラヤヌスは、彼ら自身の 王を彼らに与えようと考えていました。クテシフォンに来たとき、彼は大平野の中ですべてのローマ人と同様にそこに当時、あったす べて のパルティア人を呼び寄せました。

次に、そびえ立つ台座を登って、鷹揚な言葉で彼が成したことについて説明した 後、彼は、パルティア人にファルサマスパテスを王に任命し、頭上へ王冠を置いたのです。

 

 

LXXV

 

 Vologaesus(Sanatrucesの息子)が、戦いに参加する前にセ ウェルスと彼の軍隊に対して、着飾って隊列を整え、休戦の保証を尋ねたとき、トラヤヌスは使節を彼に送って、平和の見返りとし て、アルメニアの一部を(彼に与えることを)承諾しました。

 

31 続いて、彼はアラビアに入り、ハトラの人々に対して活動を開始した為、ハトラの人々も反乱を起こしました。

この都市は大きくなくて、また繁栄していなくて、周囲は、ほとんど砂漠であり、水 も((品質は不十分な状態で、少量しかない水を節約して使っている)、木材も、かいばさえありませんでした。これらのかなりの損 失が あってさえ、町は防衛する余裕があり、その町で奉納されている太陽神のように多人数による攻囲を不可能にしていました。

この時のトラヤヌスと、その後のセウェルスの両者が、壁の一部を破壊しましたが、 両者とも壁と取り払うことはできませんでした。トラヤヌスは壁に対して騎兵を送りましたが、彼の試は失敗しました。そして、攻撃 者は軍営に戻って きました。本当に、皇帝自身は、彼がかつて乗っていたときのように、かろうじて負傷から逃れることができまし た、彼が知られるを避 けるために皇帝の衣装を傍らに置いていたという事実にもかかわらず。しかし、敵は、彼の厳然とした白髪頭 と、彼の厳かな相貌 を見て、彼の状態を疑い、彼をねらって撃って、彼を護衛する騎兵を殺しました。

雷が轟き、虹が出ました。明るさと暴風雨、あられ、および雷電が、彼らが襲撃をし たの と同じくらい頻繁にローマ人に押し寄せました。

そして、彼らが飲食したときはいつも、ハエはそれらの飲食物に止まり、いたる所で 不快を引き起こしていました。

 

32 そして、そこから、トラヤヌスは出発し、少し後健康を損ない始めました。

その間、シレネの領域のユダヤ人は、彼らの頭に信頼できるアンドレアスを置き、 ローマ人とギリシア人の両方を滅ぼしました。彼らは、彼らの犠牲者の肉を食べ、内臓を使って自分たちのベルトを作り、彼らの血 液を自分たちに塗り、皮を着て衣服としました。彼らの多くは頭からのこぎりを振り下ろし、2つに分断しました。彼らの他の者は野 獣に 与え、また他の者は剣闘士として戦わせました。全部で、22万人の人々が死にました。

エジプトでも、彼らは、Artemionの指導の下で多くの同様の暴挙を犯し、キ プロスでもそうしました。そこでは、24万人が死にました。

そして、この理由で、ユダヤ人は決してその島に入らないだろうが、彼らの一人が 嵐にで岸に打ち寄せられたとしても、彼は殺されました。

ユダヤ人を服従させた他の者は、トラヤヌスによって送られたルシウスでした。


33 トラヤヌスは、メソポタミアへの新たな遠征を準備していましたが、彼の疾患 が彼をひどく苦しめ始めたときに彼は出発し、イタリアに向けて出帆するつもりでした、プブリウス・アエリウス・ハドリアヌスとそ の軍隊をシリアに残したままで。

したがって、アルメニアを征服することにおけるローマ人と、メソポタミアの大部分 と、パルティア人達は、無駄に苦労と危険の中をうける事態が生じました。

パルティア人は、ファルサアマスパテスを拒絶し、もう一度自身での統治を 開 始しました。トラヤヌス自身は、彼の病気の原因が、彼に施されていた毒のためであると疑っていました。

しかし、あるものが言うには、彼の場合には、調べていた血液の流れの中 で、血液は、毎年身体の下の方に流れるのだ、と言っています。

また、彼は脳卒中を患い、彼の身体の一部が無力となり、一面に水腫ができていまし た。キリキアの我々がトラヤノポリスと呼ぶセリヌスのもとに来て、彼は突然呼吸が絶えました。彼の支配は19年間と6カ月と15 日でした。

 

 

 

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 *1 68章の現存部分は、11世紀ビザンツ文人クシフィリヌスによる要約しか残っていないため、 「概略」とのタイトルとなっている。

-引用元

 英訳サ イト 「Cassius Dio: Roman History」 の68巻より

 

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