越人歌は古代タイ系語なのか?

 

 

 「越人歌」は、前漢末期、劉向が編纂した「説苑」という書籍の「善説」に治められている歌のことです。映画「女帝」でも挿入歌として使われ、ヒットしたようですが、その出典となった元の歌は、タイ系の言語ではないか、との説があるとのことです。歌は、戦国楚の王子、共王(前590-560)の子で、前528年に令尹(楚の宰相)を勤めた子晰が翻訳・記録させたものとされています。中国の、少数民族、壮族の学者の韋慶穏が1981年に発表した「越人歌と壮語の関係試探」(「民族語論文集」所載「中国社会科学出版社*1)が、そのタイ語説のはじまりで、その後の古代越族タイ系民族説の論拠として各所で引用されるようになったようです。そもそもタイ系の学者という身内分析な点が気になるけれど、きっと壮語の上古音と漢語の上古音を比較した上で論じているに違いない、と一応信じることにして、ここでは越人歌をご紹介します(その後、他の論述を参照するに、どうやら現代壮語の比較であって、この点を批判する向きもある様子です)。なお、ここでの記載は、殆ど 《山海经》考古——夏朝起源与先越文化研究(黄懿陸著) を参考にしています。

 

*1 本論文については、「揚雄≪方言≫輿方言地理学研究(李恕豪著 巴蜀書社(四川師範大学文学院学術叢書)2003年)」p4に記載がありました。入手できる機会があれば、読んでみたいのですが、現時点でこの論考は参照できておりません。

 

 

 子晰は康王(前559-545年)、霊王(善540-529年)と同母弟で、子晰はその歌を、越語のままで聞いたのですが、非常に気に入り、楚語に翻訳させたとのこと。元の越語が当時の漢字でそのまま記載され、合わせて漢語訳が併載されています。越人歌を、現代壮語で解釈することが可能だ、というのが韋慶穏氏の論旨で、黄懿陸氏の本書に、①越語発音版、②漢語翻訳表記版、③現代壮語で越語版を読解した場合の現代語訳が併記されているます。下記に、②と③に現代日本語をつけてみました(私の適当な解釈です)。

 

①越語バージョン(前528年当時の漢字の当て字)

 

濫兮卞草濫予  昌恒訳予昌州州堪 州焉乎秦胥胥 縵予乎昭壇秦逾滲 (1行欠損) 提随河湖

 

(別の書籍*2には、下記の文字のものもありました)

濫兮卞草濫予?  昌恒訳予? 昌州州堪。 州焉乎秦胥胥、 縵予乎昭壇秦踰滲 (1行欠損) 提*1随乎河湖

*1 手偏ではなく立心偏 )

*2 -「大明山的記憶 -駱越古国 歴史文化研究 - Research on the Historical and Cultural of Ancient LuoYue」(広西民族出版社)」

 

②漢語翻訳版(前528年当時の漢語翻訳版)

 

今夕何夕兮、搴洲中流、今日何日兮、得予王子同舟  蒙羞被好兮、不訾詬耻

心幾頑而不絶兮得知王子、山有木兮木有枝、心悦君兮君不知

 

*「大明山的記憶」記載版。こちらも若干文字に異同があります。

(今夕何夕兮?、搴洲中流、今日何日兮?、得与王子同舟  蒙羞被好兮、不訾詬耻

心幾頑而不絶兮、 得知王子。 山有木兮木有枝、心悦君兮君不知 )

 

 

子晰が記録させた時に、楚語的漢語として記載したのか、中原漢語(雅言)で記載したのか、或いは、楚語的漢語を、劉向が前漢時代の漢語に翻訳したのかまでは、調べておりません。

 

 

③現代壮語で、①の越語版を読解した場合の現代中国語訳

 

今晩是什么佳節、舟遊如此隆重、 船中座的是誰? 是王府中大人、王子接待又賞識、

我只有感激、 不知今何日能否与王子再遊、 (欠損) 我内心感謝你的厚意

 

*「大明山的記憶」記載版

(今天是什么好日子哩、我們挙行隆重的船遊。 船中端座着高貴的王子、

 王子的賞識使我無限感激。我不知道何日再能与王子同舟哩? (欠損) 再次感受王子的深情厚意 )

 

 

④現代壮語で解釈したものの中国語訳(③)の日本語訳

 

今晩は何の祝日ですか。船で遊覧すると凄く気持ちがいいですね。

船の中に座っている人は誰ですか?それは王府の貴人ですか?

王子様が招待してくれ、私を認めてくれるなんて、

ものすごく感激です。この後は、いつ王子様とまた再び遊覧できるのでしょう。

(欠損) 私の心はあなたの厚意への感謝の気持ちで一杯です。

 

⑤漢語表記版(②)の日本語訳

 

今晩は何という夕べでしょう。中州にでて草を摘む

今日は何の日ですか? 王子と一緒に船に乗れますか?

好かれるのは恥ずかしいけれど、みっともないとは思いません。

王子様のことを考えると心がはずみます。山に木あり、木に枝あり。

私はあなたが好きですが、あなたは知らない。

 

 

 

というように、一部に相違はあるのですが、かなり近い意味となっています。韋慶穏氏の論文が試探となっているため、当時の段階では論議の余地はまだあり、その後この観点がどうなったかに非常に興味があるのですが、現時点ではそこまで調べておりません。2007年発刊の本書(山海経考古)や、2003年発刊の「揚雄≪方言≫輿方言地理学研究」でもそのまま引用されているところを見ると、その後特に論議が深まったりしたわけではなさそうな感じもしています。越語壮語説の研究についてそのうち詳しく知りたいと思うのですが、とりあえず壮族が越人の末裔で、ともにタイ系語族である論拠としては、現段階ではひとつの有力な仮説だと言えそうです(蓋を開けてみたら、平勢説のように強引な解釈を屋上屋を重ねる如く展開した結果、という落ちかも知れないけど)。

 

 

 古代広西に住んだ、駱越人を扱った論考集「大明山的記憶」にも、古代越語タイ系説についての論考が掲載されています。そこでは、漢代に登場した単語について、現在壮語とタイ語での発音の比較が記載されています。ロジックは、漢代では、壮語とタイ語がまだ未分化で、分化してから導入された言葉は、別々の単語である可能性が高いが、分化前に漢語から導入された言葉は、同じ起源なので、現在の壮語とタイ語でも、近い言葉である、というなんとなく無理も感じられるロジックに基づいています。とはいえ、状況証拠くらいには使えそうな感じもします。下記にその一部をご紹介します(文字の後の数字は、壮語、タイ語の声調、武鳴は、広西壮族自治区の省都、南寧真北50km程にある、壮族中心地のひとつ。龍州は、ベトナムとの国境のある友誼関近く。南寧西200㎞)。

 

意味

北壮語(武鳴方言)

南壮語(龍州方言)

タイ語

登場時代

水田

na31

na21

na33

西漢前

水牛

va:i31

va:i21

Khwa:i33

西漢前

棉花

fa:i33

pha:i24

fa:i41

西漢前

-

thai33

thai24

東漢

-

tsang11

tshang41

便宜

tsi:n55

thuk55

thu:k22

 

という感じです。こうしてみても、全単語中での漢代に使われ始めた言語の共通割合を見せていただかないことには、単に壮語とタイ語は同じ系統なのかも、という印象以上のものは受けないのですが、タイ系言語の南西に位置するタイ語と、東部に位置する壮語に共通点が多いとなれば、古代においては、ほぼ単一の言語だった*可能性がある*、程度のことは言えそうです。

 

 更に、「揚雄≪方言≫輿方言地理学研究(李恕豪著)」にも、現代タイ語と似ている漢代の南楚語についての解説が掲載されている。同書p207 では、「野凫」は、漢代南楚語で「鷿」といい、「鷿」の古音は pietで、現壮語の鴨を意味する、pit 、布衣語のpit、傃語のpet 、侗語のpatに近い、との記載がある。また、p208では、「蟒」は、漢代南楚では「蟅蟒」と言い、今の「蚱蜢(バッタ)」の事。蟅の古代音は、tjiakだった可能性があり、これは、現代壮語のバッタを意味するtak、侗語のtjak、毛難語*3のdjiak、水語のdjiakmaに近いとの記載があります。

 

*3 毛难语は人口3万人のタイ語系言語

 

 同書には、呉と越は、もとは同じ民族で、言語も共通していたが、呉の方が先に華夏語の影響を受けたとの解説があります。「方言」によると、呉越語は、楚語の影響を受けている、と考えられるそうです。この理由として、同書p218では、呉の初代である太白兄弟は、最初に楚に出奔し、その後、呉に入った、との伝説を牽いています。伍子胥も、范蠡も楚の人で、こうした人の移動は、楚人が呉越に文化的な影響あたえたことの反映でもあるとのこと。このあたりの説明として、「呉越春秋」に登場する「漁夫の歌」が引用されています。「呉越春秋」では、前522年に伍子胥が楚から呉へ向かって逃亡している時に、船の渡し人が符牒として歌った「漁夫の歌」が収められていますが、「揚雄≪方言≫輿方言地理学研究」p220では、歌の記述に「兮」の字が入る点が「越人歌」と同じ特徴を示しており、呉語と越語が同系言語だった痕跡である可能性を指摘しています。同書では、呉越が完全に民族語を放棄したのは前306年以後と推測される、としていて、越語は次第に古代漢語の影響を受けて同化した、としています。

 

 

参考資料

 《山海经》考古——夏朝起源与先越文化研究(黄懿陸著)民族出版社2007年8月

-「大明山的記憶 -駱越古国 歴史文化研究 - Research on the Historical and Cultural of Ancient LuoYue」(広西民族出版社)」

-「揚雄≪方言≫輿方言地理学研究(李恕豪著 巴蜀書社(四川師範大学文学院学術叢書)2003年)

 

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