古典古代時代の文化について長年調べています。今回は古代インド料理の話です。 古代ローマ料理については、古代の料理書(『古代ローマの料理ノート』 (アキピウスの料理書))が残っています。漢王朝時代の料理については、前漢時代の書『塩鉄論』に若干 記載があり、6世紀北魏で編纂された『斉民要術』は南 北朝時代の成立ですが、北方民族の影響を受けていない料理の記載もあり、それが漢王朝〜魏晋時代の料理を留めていると考えられて いるそうです。古代ペルシア料理は、ペルシア帝国末期から10世紀頃の間に成立したと考えられる小品『ホスローと小姓』(こちら) に記載があります。 これら古代ローマや漢王朝と同時代のインドの料理はどういうものだったのでしょうか?古代インドの料理についてはどんな史料が あり、どんな料理だったのでしょうか? そこでちょっと調べてみました。 検索してみたところ、『チャラカの食卓』 という本がでてきたので取り寄せて読んでみました。この本は現代インド文化研究家である伊藤武氏と現代インド料理研究家香取薫氏 の共著で、歴史学ではなく、基本的には現代インド文化研究側からアプローチした書籍です。 古代インド社会の文化に疎い私にとっては、前提知識が不足していて、読み出してしばらくはわかりにくい感じがしました。冒頭プ ロローグの章でなんの説明もなくチャラカ・サンヒターやアユールヴェーダという言葉が登場し、第一章「基本テキスト」章の最初の 節の題名が「チャラカの薬膳理論」となっていて(なぜ最初にこの話が?)、その後何の解説もなしに「チャラカ・サンヒター」の料 理の記載された部分の翻訳文が続きます。当初「基本テキスト」が古代文献の翻訳だとわからず、翻訳の後の49頁になってようやく 『チャラカ本集』が何であるのか、という解説が登場し、先程の翻訳は古代文献のものだったのかわかる、という流れです。 このように、本書は大変興味深く、面白い内容が掲載されているのですが、構成に難があるように思えます。後続の内容も、復元料 理の記載や紀行文、レシピが混在しているような印象を受ける部分があり、読み返す時には問題ないのですが、初見では、非常に乱雑 な構成に思える(人もいる)かも知れません。レシピなど、同じ内容が繰り返されているのは、著者の伊藤氏と香取氏の章に重複して 登場するためで、終章に至っては、伊藤氏の本文の間に香取氏の数行のコメントが入る構成となっています。従って、以下の本記事で は、本書の内容を整理することをひとつの目的としています。よって、古代インド料理の具体的内容については、『チャラカの食卓』 をお読みください、ということになります。。。。。 1)史料 古代インドの料理の情報をもたらしてくれる古代文献には、『チャラカ本集』(チャラカ・サンヒター)、『実利論』(2巻15章 糧食庫長官の章/岩波文庫p157-163など)『シュラウタ・スートラ』 『マヌの法典』があるそうです。これら文献名が一緒に登場するのはプロローグだけで、その文章は、これらに調理に関する記載があ るので、まとめてみれば古代インドが復元できるのではないか?と、本書の企画を思いついた箇所です。それぞれの史料についての解 題があるわけではありません。翻訳と文献解題のようなものがあるのは『チャラカ本集』(ただし僅か)だけです(『実利論』や『マ ヌの法典』は邦訳が入手し易いため出典確認は容易ですが、『シュラウタ・スートラ』のような情報が少ないものは解説がほしかった ところです)。遺跡から発掘された料理の化石とか、食器に付着していた食物の分析、といった考古学史料については言及がありませ ん。 また、食事の様子や食器についても言及がありません。古代の浮彫りや壁画に食事の様子が登場している筈なのですが、それらにつ いての言及もありません。このあたりは残念でした。一方、現代インドの料理との関連については多数記載があります。 『チャラカ本集』は、古代インドの医術であるアユールヴェーダの文献のひとつで、チャラカとは、クシャナ朝カニシカ王の侍医と いう伝承もあるようです(出典漢籍『雑宝蔵経』(北魏))。しかしこうした伝承から1−2世紀、北西インドの成立と考えられて るそうです。チャラカ本集の作者はアグニヴェーシャでチャラカは改訂者とのことです。『チャラカ本集』は全8巻120章あり、第 一巻27章の250-285節が、本書で翻訳されている部分です(第一巻の全訳書籍はこち ら)。8巻の構成内容の説明等は一切なく、突然250節からの邦訳が登場し、更に読み進めていくと翻訳部分以外にも (1巻8-15、35-87、179節などでも)食材に触れている箇所があることがわかり、なぜ、食材・料理に触れている部分の 邦訳を全部掲載しなかったのか、との疑問とフラストが出てきます。 チャラカの本文には、サンスクリットのカタカナ表記で材料名が登場しています。材料名には現代日本語で何を意味するかの注釈が あるものの、その出典は、様々な文献・辞書から推定した(p28)とあるだけです。ここの推定の解説がもっとも重要なような気が するのですが、言及がないのが残念です。 2)地域 インドといっても地域は広大で、地方により料理の特色があるとのことです。本書は随所でそれを指摘しているのですが、記載が全 体に散らばっていて、まとまった記載がないのが残念です。地域性は、著者がインド各地を歩いた体験も実証資料として役立ってお り、ここは本書のもっとも独自性のある貢献部分のひとつだと思うので、章を立てた整理が欲しかったところです。 『チャラカ本集』は北西インド、『実利論』はマガダ地方(現ビハール州)であり、両書に登場する各種スパイスを一覧にし、何が 共通し、何が地域独自に登場しているのか、を整理した箇所(p71)など、有用な箇所が多々あります。著者は、現代の料理を現地 で体験した経験も含め、ネパールや東インド等周辺地帯に古代料理の風格が残っている、との指摘は非常に重要かと思います。ただ、 重要な情報であるにも関わらず、出典がない記載があるのも残念でした(例:p88に「クシャーナ帝国の都プルシャプラやカーピ シーでは、タンドールを用いた発酵タイプのパン、ナーンが焼かれていた」とあります。ほとんど情報のないクシャン朝について具体 的過ぎる情報です。プルシャプラ(現ペシャワール)、カーピシー(現ベグラーム)から発掘さ れた遺物の浮彫りかなにかに描かれていた等と考えないと納得できないほど具体的です)。 3)歴史的展開 古代中世近世のスパイスの歴史的展開について、エピローグで若干触れられていますが、本書の各所で、このスパイス/食材は現在 では利用されているが、古代では利用されていなかった、というような記載が分散しているので、歴史部分も復元料理に入る前の部分 で章を設けて記載した方がよかったように思えます。 4)本書の目次 本書は以下の章立てとなっています(カッコ内は頁番号と要約)。最初の三章が伊藤氏、後半二章が香取氏の担当。ただし伊藤氏の文 中に香取氏が数行のコメントを入れている箇所が(その逆の箇所も)多数あります。 --------------------------------------------------------------------- プロローグ(4) 1.基本テキスト(12)『チャラカ本集』第1巻27章250-285節の翻訳と若干の解説 2.二千年前のインド料理(32)(上記邦訳を著者の経験から解析し、料理の手順に落とす部分。いくつかの料理行程をイラスト 化、チャート化しており、わかりやすい) 3.“チャラカ”曼陀羅(116)(伊藤氏のインド料理紀行エッセイ) 4.復元された料理たち(182)(香取氏のインド料理エッセイ) 5.チャラカの食卓レシピ(210)(2章で復元した料理の写真(モノクロ)とレシピ、食材の解説) エピローグ(277) --------------------------------------------------------------------- 5)その他 食事の回数、食事の風景、食器など、古代インドの宮廷や、一般家庭各々の食事の様子がわかる記載が(見逃しかも知れませんが) 不足しているような点も残念でした。p88で小麦粉でできているチャパティーについて、「インド人が数千年これを主食としてき た」と書いてあるのにもかかわらず、復元料理に入っていないのも不思議でした(わざわざ復元してみる必要もない、ということなの かも入れませんが)。当時、チャパティーは食事に必須のものとしてあり、そのおかずとして米料理があったのか、米料理がある時 は、チャパティーは食べないのか?など、記載されている各料理をどのような組み合わせで食していたのか、も不明でした(見落とし ているのかも知れませんが)。現代日本人の感覚からすると、ご飯食とパン食は一般に別々ですが、定食の付け合せに少量のスパゲ ティが入っていることがあります。これと逆に、チャパティは基本的に主食であり、おかずとして米料理が出ることもあったのでは? などと考えてしまいましたし、p54-55の穀物の料理化フローでは、チャパティの原料は米・小麦粉どちらでもいいように取れる 書き方がしてありわかりづらいところがあります(英語版Wikipediaのインド料理の記事に掲載されているこ ちらの画像では、チャパティと米料理が両方皿に盛られているので、古代もこういう風に食べていたのかも知れませ ん)。 というわけで、本記事は、古代インドの料理の具体的内容の話というより、書籍『チャラカの食卓』の感想文となってしまいました が、古代インドでは、肉や酢を今より食べていた、酒もいまより普通に飲まれていた、現代インド料理の主要スパイス、コリアン ダー、クミン、ターメリック、レッドペッパー、ガラムマサラのうち、ターメリックとレッドペッパーは古代インドには無かった、ネ パールや東インドでは比較的古代料理の風格が残っている、砂糖はなんとなく南米から入ったイメージがありましたが、古代インドに あった等々『チャラカの食卓』は非常に参考になりました。 アユールヴェーダについても大量の日本語書籍が出ていることも今回初めて知りました。本屋で見かけていても、無意識にスピリ チュアルものと一緒にしていたようです。ヨガをやっている人には周囲にかなり多いものの、私自身ヨガに関心がないので今まで意識 化しませんでした。現代日本人の関心を集めているということで、そのうちアユールヴェーダ関連書籍をどれか読んでみようと思いま す。 ※本書にて、インドの地域料理の相違に興味が出ました。少し検索したところ、都心のチェーン・インド料理店サムラートに、インド東西南北四種カレーという のがあるので注文してみました(こちら)。今年 5月から販売開始している新作のようです。日本にある本場インドカレー屋は基本的にネパールカレー屋だと思っていたのですが(サ ムラートもかつてあった中野新橋店の店員が、実はネパール人だといっていた記憶がある)、一応違うようです。インドにいったこと がないのでなんともいえませんが、ベンガル・フィッシュカレーは確かに辛かった。パンジャブもバンガロールもバターチキン風。 ちょっと辛さが違うだけで大きな違いはあまりない感じ。ゴア・フィッシュカレーはタイのグリーンカレーを魚にした感じでした(本 品は、通販だけの販売とのことで、レストランのメニューにはありませんでした)。 |