デルベント要塞について


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 ロシア連邦ダゲスタン共和国のカスピ海沿岸都市にデルベントという都市がある。 ここはトランスコーカサスを抜けて西アジアと南ロシア平原を行き来する回廊の一つとして古来から利用されてきた。カスピ海とコーカサス山脈東端の間に位置している為、狭い回廊をなし、その地形的特性は、北方南ロシア平原から西アジアへ略奪目的に押し寄せる遊牧民族防衛の要衝となった。
 歴史に記録の残るところでは、キンメリア人が紀元前6世紀にここを通過して西アジアに入ったと推測される、ペルシャ人もこの回廊を通過して中央アジアから南西イランへ至ったと推測される。紀元4世紀末の民族移動は ここを通過してササン朝へ侵入する民族(フン、アラン、ブルガールなど)が後をたたず、歴代ササン朝王はトランスコーカサスの防衛に腐心し、ビザンティン皇帝から借金をして防衛線を維持する事態にまでなった。 特に4世紀北方遊牧民アラン族の侵入が激しくなり、438年にはササン朝によって「アランの門」と呼ばれる要塞が築かれ、後代更に拡張を続け、ホスロー1世治下で巨大な規模に拡張された。城壁は内陸46キロ地点まで延びていたとされ、これはカスピ海東岸に やはりホスロー1世によって築かれた160キロに達する長城と一体となって北方民族防衛の為の機能を担っていたと言える。
  要塞は非常に堅固で 切石で覆われており、エフタルや突厥の侵入を防ぐことに成功した。もっとも626年のヘラクレイオスと突厥の共同作戦ではデルベントは突破され、ティフリス(現グルジアの首都トビリシ)を包囲した。
 ササン朝滅亡後は ハザールとイスラム帝国がデルベントを巡って攻防を繰り替えすことになる。 713年イスラムのハビーブ・イブン・マスラマが要塞を攻略し、更にアルメニア総督ジェラーフ・イブン・アブダラーフ・アル・ハカミが721年〜737年に渡ってハザールと攻防を繰り返した時期、数度デルベントにおいて攻防が繰り返された。

 イスラムではこの城塞を「門中の門」と呼び、トルコ人も「鉄門」と呼んだらしい。 イスラム勢力はついにこのデルベントを超えることなく1828年トルコマンチャーイ条約によってロシアの支配下に入った。

  現在では南北にある2つの城壁と塔、ササン朝に起源を置く丘の上にあるNarin Kala城の他、大浴場と貯水タンク、共同墓地、6世紀のアルメニア教会などの遺構が残っているらしい。