世論の形成 郷論と風謡


士大夫豪族(郡国官僚 掾史)と非士大夫豪族(県吏)

知識人階層 出身地に限らず、郡国学へ行けたことなどが、知識人の横のつながりをもたらした。

漢代の教育制度は、出世というサラリーマン養育の教育だったが、同時に人々の知識レベルも向上し、また一般基礎研究学問にも寄与した。しかし、「大学」の 意味が中世欧州で発生した研究機関としての大学とは異なっていたことは間違いない。 漢代は、東洋的な教育・知識人のあり方の基礎構造を確立した。
 
前漢後期から後漢時代になると、古典に依拠した会話が一般的になりだす。依拠したとは別の言葉でいうと、縛られた会話であり、一々古典を引用して自分の考 えを述べるということで創造性が徐徐に詰まれて行ってしまう。これは地中海世界でも同様であった。前漢後期から後漢時代になると、古典に依拠した会話が一 般的になりだす。依拠したとは別の言葉でいうと、縛られた会話であり、一々古典を引用して自分の考えを述べるということで創造性が徐徐に詰まれて行ってし まう。これは地中海世界でも同様であった。こうした現象は文明の成熟と衰退の一つの指標なのかも知れない。

班昭には、出世競争に疲れた という話が出てくる。 漢代は 知識人は役人であり、役人はひたすら出世の強迫観念と競争にさらされ ていた。 漢代にあっては、知識は官吏への道だった。
                             晋代には 知識はきばらしになっていた。

漢代の学者

 春秋公羊伝が主流派(董仲舒や公孫弘) 春秋左氏伝」は武帝代に発見されたが、政府秘蔵とされ た。 後漢代は、公羊伝の今文に対し、古文派が台頭し、 少しでも多くのことを学ぶ姿勢「博学」「@博覧」という言葉が目立つようになり、単なる経書を覚 えるだけではない、自身の意見を語る「著述」という姿勢が強まる。

 後漢における学術の中心は太学にあり、文化は政府の独占物だったが、魏晋以降は貴族の手に移っ てゆく。著述により名を残すことが尊ばれるようになり、盗作や偽作が横行し始める。

劉向  「別録」 図書目録・解題集 蔵書校訂プロジェクト主催 

劉きん* 「七略」 分類目録 (「漢書 芸文志としてダイジェスト版として残る) 合計 13000巻の書物

董仲舒 「公羊董仲舒治獄」 

班(ゆう*) 班彪大伯父 劉向の蔵書校訂プロジェクトメンバー

揚雄 「法言」

応劭 後漢末 「漢書」注解

崔援* (-143)

服虔

桓譚

衛広

馮商 成帝期「史記」続編を拝命(10余編)

楊憚 司馬遷外孫

ちょ(*猪)少孫

史考山

陽城衡

蔡邑* 蔵書家

蔡文姫

吉茂

向朗

杜預(222-84年) 呉を平定。 「春秋左氏経伝集 解」

葛洪(283-363)

左思 「3都賦」