後
漢末の人口激減について
後漢時代の人口変遷をまとめたhttp://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/column10.htmlを見ると、
一応資料の上での人口変遷傾向が見れる(資料としての信憑性はともかく)。 これまでのスレでは後漢末〜三国時代の人口が論議されていたが、前漢末ー後漢
初についてはどうなのでしょう。
一応57年に2000万程度で、前漢末の6千万の3/1だが、出典を忘れてしまったが(多分後漢書)に、赤眉の乱で1/2に、更に統一戦争の過程で1/2
になったという記載があり、すると、赤眉で3000万、統一戦争で1500万に減り、36年の統一後の20年で500万程度回復した、ということで、36
年当時の
1500万程度はありえた数値だという気もします。これも戸籍把握力の問題と言えなくもないので、続いて後漢のその後の人口増加を追って行くと、
75年に3400万、88年に4300万となり、漸次把握人口が増加したというよりも、人口が増加したという感じがします(最大1500→3000万を政
府安定による戸籍把握による増加だったとしても、3400->4300は人口増なのではないでしょうか。当然その時点でも把握できていない人口は
あったものと思います。)こう考えて来ると、豪族による囲い込み傾向は後漢末の方がより進展していたとしても、ある程度の人口減はあったものと思います。
後漢初では少なくとも3000万程度には減少していたのではないでしょうか?
次に後漢時代の状況ですが、105年の5300万を一つのピークとして人口は4000万代で40年間程推移し、同時に戸数あたりの人口も減っていますが
これは安帝時代の異民族の反乱や、天災による人口減を物語っているのではないでしょうか? 流民化の場合世帯数も減少すると思われますが、
40年間で世帯数は増えています。これは兵士として徴収された人民の戦争による死亡や災害による死亡を意味し、世帯構成員の減少は
生活感覚としては苦しくなる一方であり、この状況がやがて黄巾の乱へと向かう社会不安の根底にあったのではないでしょうか?
そこで思うのは戦乱時代は秩序だって行われる時代とまったく混乱した時代は分けて考えるべきかと思うのです。後漢末の人口減は、極端に減少したのは200
年頃までで(飢餓、病気、殺戮)、その後は秩序立った先頭による微減、もしくは、社会安定化による微増だった(どちらの可能性もあり、全体としてえたか
減ったかはわからないが)という可能性もあるのではないでしょうか。
また、後漢時代豪族による土地併合が行われ、そこに没落小農民が所属するようになり、人口把握が困難になっていたとすれば、後漢時代の人口統計に反映し
ているのはないでしょうか? しかし156年までの後漢人口はあまり減少してはいません。これに対して魏時代の統計人口は激減しています。これらのことを
考え合わせると、やはり後漢末の人口現象は大きかったといえるのではないでしょうか。