唐
天可汗と唐太宗の歴史の改竄
杉山正明の「遊牧民から見た世界史」を読みました。 噂に聞く、過激論者主張とはいったいどんななんだろう? 一方的な意
見をとうとうとまくしたてているのかな と 半ばおっかなビックリで読んだのですが、その点についてはおおいに期待を裏切られ、結構理性的で
バランスのと
れた文章が展開していたので 驚きでした。 「モンゴルは戦争をほとんどしていない」、戦争をしても「むしろ負けることが多かった」など、
ちょっと、と思
う記載もありましたが、こうした意見は 少数で、 寧ろ納得のゆく主張が多かったように思えます。 唐 太宗が 北部遊牧民族から「天可汗」
の称号を貰っ
た、というのもそのうちの一つ。
唐王朝はトルコ系又はモンゴル系鮮卑族の系列であり、 王朝的にも、唐王朝は 北魏-周-隋 の流れを汲む 鮮卑系国家。 中国の断代史
観と それを
推し進めた中国史書が、本来単一の国家を それぞれの王朝が別々の国家であるかのような イメージを作ってしまった。 という主張です。
同時期の西欧に眼を転ずると、フランク王国は、メロビング朝、カロリング朝と王家は変わっても、国家は同じフランク王国と見なされている。
なのに、中国
では 北魏と隋が別々の国家のように考えられている。これはおかしいのではないか、ということです。
北魏は拓跋氏を中心として成立した鮮卑系氏族の国家であり、また唐太宗に天可汗の称号を与えた突厥はトルコ系。 唐は北魏の後裔なのだか
ら、突厥から
すれば、同じ遊牧民族系なので、 天河汗の称号を太宗に送ることは、 「中国皇帝」に称号を送ったのではなく、 同じ遊牧部族を統率する 氏
族の長として
太宗に 天可汗の称号を送った、という意味あいがあったのではないか、というのが杉山氏の主張です。
そうして、そのような、漢民族よりも寧ろ、突厥に近い唐王朝の体質を隠蔽するための手段として編纂されたのが、晋代以降の「正史」という ことになるとのこと。 確かに、中国25史のうち 6史(晋書、周書、北斉書、隋書、梁書、陳書)が太宗時代に編集され、更にこれ 以降、私人が歴史書記述を禁止されたことの意味を考え合わせると、 唐王朝は 歴史改竄の必要性に 強く迫られていたと考えても差し支えない と思います。
また、遼王朝が出現して、「キタイ」という言葉が中国を示すものとして西アジアに広まる前は 拓跋氏 に発する「タブガチュ」という言葉 が中国を意味する言葉として用いられていたとのこと。 唐王朝もそもまま タブガチュと呼ばれたことから、西アジアの民族から見ると、唐と北 魏は同じもの として意識されていた可能性が高いことになります。