05/05/2004

  漢籍に現れたローマの使者




 最近漢籍の西域伝を見て いて、今 まであまり知られていなかったように思える情 報を見つけました。まずはそれらを以下に列挙してみます。

・「晋書」 巻97列伝67の大秦国についての記述と巻3帝紀3武帝の太康五年 (284年)の個所に、大秦王が使者を送って来た、とい う記述がありました。武帝紀の方には「林邑、大秦国各遣使来献」とあり、今のカンボジア辺りの林邑と一緒に記載されていることか ら、南海経由で使者が来た可能性が あります。「後漢書」に記載された166年の大秦王安敦の記載と同様、正式の使者ではなく、商 人が正式な使者を語っただけ、という可能性が 高いとは思いますが、こ こで重要なのは、この時代、まだ中国とローマの両方を知り、交易をすることで利益を得ている商人の存在があったことと、中国側も ローマへの関心を維持して いた可能性がある、ということです。284年という年は、ローマも中国も混乱を抜け出し、西域も直轄地ではなかったものの晋に朝 貢し、西アジアもササン朝 下に安定していた時代です。
紀元1世紀と同じような世界が安定していた時代が一時的に再現した時代なのではないかと思います。このような安定した時代背景 を、かの使者の記述は裏付け ているように受け取ることも可能なのではないでしょうか。

「新唐 書」、「旧唐書」の拂菻伝。 貞観17年(642年)波多力 とい う王が遣使をしてきた、という記載。ヘラクレイオスのことかも知れません。
ビザンツ帝国は伝統的に遠交近攻策を多用していま したので、これ はイスラム帝国に攻められたビザンツの使者だった可能性が強いと思います。乾封2年(667年)、大足元年(701年)、開元7 年(720年)にも使者が あったとのこと。

・「宋史」巻 490列伝第249の拂菻国(ビザンツ帝国)についての記述。(「ローマ」をギリシャ語ではロウムと発音し、これをペルシャ語で はフロムと聞き取ったこと から、中国では拂 菻(ふつりん)という記載をとるようになった) 
元豊四年 (1081)10月に拂菻王 滅力伊霊改撒始が大首領の[イ尓]廝都令廝孟判を派遣してきたという記述。これはありえそうに思え ます。中国と異な り、古代ローマでは滅多に遠方に使者を送ることは無く、もっぱら使者を迎えることしかなかったのですが、ビザンツ帝国は遠交近攻 策を多用していました。 1081年当時はセルジューク-トルコに攻められ、背後からトルコを叩く勢力を求めていたことは間違いありません。更に当時東方 のキリスト教王「プレス タージョン」伝説が流行っていた筈です。ビザンツはユスティニアヌス時代にも突厥に使者を送っていますから、宋に使者を送ってい てもおかしくはないと思う のです。因み に滅力伊霊改撒始は滅力伊霊(ミリイル=>ミハイル)、
改撒始(カイサシ->カイサル)で、ミカエ ル7世(在 1071〜1078)のことかも知れません。使者のたどったルートですが、西方の地理の記述が拂菻、大食(アラブ)、ホータン、 ウイグル、青唐、となっているので、 中央アジア経由で来朝したものと思われます。元祐6年(1091年)にも使者が来朝したとの記述。

使者の記述は以上ですが、大秦の記述は後漢書、三国志、晋書、魏書、北史にあり、旧唐書、新唐書、宋史に拂菻国の記載がありま す。

なお、
隋書だと、ササン朝はたったの兵2 万。 タージは40万、ローマは100万 とある。どちらも領域は万里とのこと。