書 物

− 書物をめぐるあれこれ -

 (1)文字

 文字は秦時代に大篆、小篆という書体が制定さ れ、漢代 になってより簡略化した隷書体が現れ、後漢には芸術化した書体の八分体(八文書)、更に崩した草書体が現れたとされ ていました。しかし近年発掘される竹簡木簡などに 記載された文字によると、秦時代から隷書体(草隷書)というものがあったようです。 六朝時代、隷書と楷書が並存していたが、草行書も並存していた。この変化は北魏でも平行して起こった。篆隷楷は彫刻しやすく、墓誌などに残されているが、行草書 も、墓誌の職人がメモ的に記載したものが残されている。

(2)書物

 当時は絹や竹に文字を記載しました。絹は高価 なので一 般的な媒体としては23cmx2cm、厚さ1ミリ程度の竹の板を数十枚紐でまとめた竹簡を書物として利用していまし た。竹簡は重いので重量で量を測ること があったよう です。

 「秦始皇帝は一日○○の重さの書類をさばい た」

などという言いかたがなされていたようです。

 また、非常にかさばるものであったようで、特 に竹の部 分よりも紐の部分がかさばる要因だったようです。近年の日本 都市部の住宅事情では、全集本など本の置き場にこまって購入できないことがあったりしますが、書籍となると、当時は 物理的問題が大きかったようです。大体 現代の書物と比較すると同じ情報量を格納するために500倍の収容スペースが必要だったようです。

 「経書を筆写すると、荷車で運ばなくてはなら なくな り、あらぬ誤解を招き政府に嫌疑向けられる」 などといわれていたようです。
 
 絹は50cmx9.2mのサイズで5〜600銭 したとのこと で大変高価だったようです。

 麻などを原料とした紙も前漢当時から存在して いたよう で、発掘されています。しかし前漢時代の紙は 文字を記載する媒体としてではなく、包装用のものであったようです。 (まったく書物が無かったわけでもない らしく、紙の経書が1世紀頃には存在していたらしい) これを改良して文字を記載する媒体にしたのが後漢の蔡倫とい うことのようです。 後漢時代に書物の 媒体として紙と竹簡とどちらが普及したか、ということはよくわかってはいないようですが、三国時代になお竹簡が大量 に発掘されている(湖北省長沙市走馬 楼)状況は、やはり後漢時代には 竹簡と紙では竹簡の方が主流だったといえるのかも知れません。 とはいえ、文字は  学術用書物だけに利用されるわけでは なく、手紙、公文書、通知書、命令書など多様な場で利用されます。 命令書や通知書などは引き続き竹簡で十分なの で、竹簡が後世も利用され続けたと見るこ とも出来ます。竹簡が黄紙へと公式に変更されたのは5世紀に桓玄が出した政令によるとのことです。
 これに対して、学術書や儒教の経書などは、膨大 になるためも ともと竹簡には不向きであることから、これらについては 急速に紙が普及したという見方も出来るようです。140年 頃を境に学者達は紙の利用を求めるよう になっているようです。
 
  土紙 低品質な紙
  黄紙 (黄壁*で染めた紙)

(3)本屋

  漢書は出現直後から思想界に大きな影響を与 えた書物 らしいのですが、これはどうやら紙の普及と無縁ではなさそうです。漢書は班固が記載した部分が大体92年頃、妹の班 昭が完成させたのが112年頃とされ、 だいたい2世紀前半に急速に学者の間で普及したようですが、この時期は 政府や学者の間での紙の普及の時期とほぼ一 致しているようです。

 また書籍が市場で売り買されるようになってき たようで す。といっても紙はまだ貴重だったので、市場で売り買されたのは竹簡の書籍だったと推測されます。こうした売り買い はひょっとしたら戦国時代から既にあっ た可能性もありますが、漢代は大学が普及したため、学生達が市場で取引することが多くなってきたようです。なので専 門の本屋といったものはまだ無かったよ うで、斉梁代-隋唐のあたりで本屋が成立していったようです。思想家の王充は若い頃お金が無くて、市場で本を立ち読 み(または座り読み)して勉強したそう です。

 漢代では写本作成のことを「傭書」といい、班 超はこの アルバイトをして過ごしていた時期があり、後漢の李合*も賃書をして過ごしたという。しかしこれは政府の写本作成で あった可能性が濃く、民間のものでは無 いと推測される。これに対して、民間の傭書業は3世紀頃からはじまったようである。ただしこれも市井の間ではなく、 貴族の世界のことと考えられる。

(4)どんな本がよく読まれていたのか

 個人の蔵書というものは、戦国時代では主に学 者のもの だったようである。これが秦漢の政策を通じて政府の独占物となってゆくのである。 
前漢代は書物は政府の独占物で、一般の人々に普及していたわけではないらしい。 蔵書家といわれる人は政府から特別 に書物を下賜されたか、政府の高官を数 世代つとめ、次第に書物が蓄積されていったものと考えられる。 

 前漢末当時では班ゆうが最大の蔵書家だったら しく、揚 雄や桓譚などの学者が書物を見に来たという。「史記」はその内容から政治的に危険な書物とされ、政府機密となり、役 人や王族でも読むことは出来なかったら しく、存在が世の中に知れ始めたのも宣帝時代、政府蔵書校訂関係者などが読めるようになったのは成帝期くらいのこと らしい。前漢末期、政権が傾き出しては じめて 政府機密ではなくなり、一般学者達が読めるようになったというものらしい。

 後漢末期では蔡邑が万巻の蔵書をもっていると され、当 時最大の蔵書家だったが、これも政府からの下賜物が大半を占めていたらしい。とは言え紙の普及は民間人の蔵書を可能 にした。とはいえせいぜい100巻程度 であって、当時の有名は書物(史記や漢書)が100巻以上であったことを考えると、まだまだ書物は民間に普及してい たとは言えなそうである。しかし、三国 時代には 郡の中級役人でも「史記、漢書、東観漢記」などを読んでいたことから、蔵書はともかく、本を何らかの形で 閲覧し、読んでいる人口は増えてきてい ると言えそうである。

 これが晋代になると蔵書家が大量に発生しはじ める。以 下のような諺も発生した。

  「本を貸す馬鹿、返す馬鹿」

 これは晋の大臣で著作家の杜預(222-84 年)が息 子に言ったとされる言葉。晋代の最大の蔵書家は宰相張華で車30台分の蔵書をもっていてたとされ、数千巻程度の蔵書 であればもう「蔵書家」と特別視される 程の蔵書数ではなくなっていたらしい。また地方でもその程度の蔵書家は現れていたらしい。これが5世紀に入ると 1,2万の蔵書家が現れ始める。

 政府の蔵書ですが、光武帝が洛陽へ遷都した時、2000両の車で運んだという記録があるとのことです。1両で何巻分を運 べたので しょうか? 

  (5)識字率と読者 

識字率がまったくわからないのですが、少なくと も12万 人(前漢末)いるとされた官吏は文書行政のお国柄、読めたことでしょう。本を読む階層としては役人と役人を目指す青 少年くらいなのでしょうか? 彼らが読 んだ本と言えば恐らく儒教関係の経書の類ではなかったかと推測されます。漢書には小説などが出てきますが実際に小説 の読者がいたのかどうか。。。(まだ調 べていないので、そのうち調べます)。

 

参考

-「後漢時代の政治と社会」  名古屋大学出版、東晋次  「中国出版文化史」井上進 名古屋大学出版、「古代江南の考古学」白帝社 羅宗真