漢代教育制度 

 教育制度は漢代に整備された。整備の目的は武帝代の儒教知識を国家運営に正式に利 用するよ うになったことが挙げられる。武帝時代に全国の郡に教育機関が整備されたが、これは郡国学(地方国立大学相当)であ り、平帝代、王莽により地方教育制度が 整備され、地方高等学校相当が建立された。私立学校も建設され、中には後漢代、貴戚の子弟の為に四姓小侯学という学 校が建設された。生徒が多いと、教授は 直接諸生に講義は行わず、弟子の中の高業弟子が行うことが多かった。


 王莽代の地方教育制度



現代での基準
教師
学生
講義内容
郡国 大学
五経百石卒史(元帝代)
諸生
県、 道、邑、侯 国
高等学校
経師1名




小中学
孝経師1名



小中学 孝経師1名

     

初等教育

 現行の小中学に相当する教育機関として、 書館・書舎 といわれるものがあった。 だいたい8歳頃から 15歳頃の 児童が学習したようである。閻里書師といわれる教師1名でテキストには以下のも のが利用され た。

1.識字

                     蒼頡篇 (蒼頡篇、爰歴 篇、博学の3篇からなり凡そ3300字)
                     司馬相如 「凡将篇」

           史遊 (元帝期) 「急就篇」
             李長 (成帝期) 「元尚篇」
             揚雄  「訓纂篇」(上記3編をまとめたもの)

2.算術


             六甲、九九、急就、三倉など

場所によっては、書館・書舎と国立の序、痒とは同一であったケースもあると考えられ、先生は郷の父老などのこともあったと思われる。

        中等教育

     県校では中等教育が行われ、孝経と論語を諷誦(暗記)したようである。抱大体 15歳くらいまでで 終了した模様。

 高等教育

1.太学
    太学とは東京国立大学相当にあたる。
 
    学長を博士祭酒、教授を博士といい、生徒を博士弟子といった。博士弟子は特別選抜であったが、太学生は地方からの推 薦や600石の官吏子弟(平帝代)が入 学できた。寄宿舎
があり、順 帝期 240房、1850室新築したと の記録があるとのこと。


武帝
昭帝
宣帝
元帝
成帝
後漢
後漢末
博士
7

12


14

博士弟子
50
100
200
1000
3000->1000


太学生






30000

2.郡国学

 構成員は太学と同じ。郡国も私学も別の地域から入学してもよかった。数百 名〜1000名の 学生がいた。学長は文学主事掾、教授を文学掾、郡文学博士といった。生徒は郡学生、弟子、諸生、諸郡生徒、文学弟子 などと言われた。

3.私学

 師-弟子-門生からなる。師は中央や地方官僚が勤めることもおおく、実際地方官が在任中に教授したケースはかなり多 く、私学はかなり流行っていた模様。

4.学生の収入


年間5千銭程度は必要だったと思われる。 傭作、賃春、売書、諸生傭、賃書などをして生活費を稼いでいた。学生は官僚、 豪族、富農などの子弟が主流だった が、貧農出身者にも門戸は開かれており、貧農出身者も決して少なくはなかった。妻が田に出るような家庭出身事例もあると のこと。

5.卒業後の進路

    1.太学へ進学するか、中央官僚になる
  2.郡県の官吏
  3.郷里にて教授する者
  4.その他

 当然、郡県の官吏になったものはその後、中央官僚を目指したと思われるし、郷里勤務となった者は、郡県の官吏を目指し たものと思われる。

 

438年 宋文帝 儒学・玄学・文学・史学の4学とした
470年 明帝 総明館に統合、玄儒文史4科とした

-出典「後 漢時代の政治と社会」  名古屋大学出版、東晋次  「中国出版文化史」井上進 名古屋大学出版

※2018年3月3日追記:
 『世界子どもの歴史 9巻 中国』(第一法規:1984年)のp159によると、1908年の統計では、初等 学校の生徒が115万3780人、半日(小)学堂の生徒が2万2813人、女性とが755人、合計約118万人 のこどもが初等教育をしていたとされています。当時の人口4億に対して、0.295%です。かりに人口の15% 程度が3-12歳だとすると、6000万人のうちの118万人の2%程度です。漢代でもこの程度だった可能性が あります。一方、後漢代末期の洛陽の太学3万人は、後漢末人口約5500万人の0.05%です。太学は都の大学 です から、初等就学生が太学の学生の10倍いたとしても30万人、人口の0.5%、100倍いたとした場合、人口の 5%程度です。仮に太学の学生が15-30歳として、その年齢人口が15%だとすると、825万人中3万人で 0.36%となります。太学入学者数と同数の学生数が3-12歳の年齢帯にいると仮定し、この人口帯も人口の 15%だとすれば(近代以前の人口ピラミッド構成からすると、15-30歳よりも多いと思われるのでこのように 仮定する)、初等学校生徒は同様に0.36%となりますが、太学進学者が初等教育学生の1/10とすると、初等 教育就学対象者の約3.6%が、児童就学率となります。太学進学者が初等教育学生の1/20であれば、1.8% となり、1908年の2%に近い値となります。このあたりが、後漢時代の初等教育受講者率なのではないでしょう か。女性はほぼ対象外であった可能性を考慮すると、男子児童25人に1人が公的教育を受けることができた、とい う推定ができそうです。

 一方、唐代の『通典』に残る、後漢の役人数約 15万人余全てが読み書きできたと仮定すると、総人口中の約0.27%となります。太学在籍者の年齢帯別割合 0.36%に近い値です。知識人といえる層は0.3%程度、多くても0.5%程度、初等就学者はその5-6倍の 2%程度(男性のうちでは4%、というところなのかも知れません。なお、女性は公的教育に参加する割合は低くて も、知識人の家庭では、家庭内教育を受けた可能性があるため、実質的な初等教育受講率は、女性の場合でも皆無で はなかったと思われます)。