どんなお金があったの?

 商業的な取引には布や金、銅貨などがお金として使われていました。

(1)銅貨について

~国家の物流管理手段としての硬貨~

 政府へ納める税金には銅貨が使われていました。後の唐の時代では、税金は租庸調というように現物で納められていましたが、前漢時代は銅貨1 本で納税しなくてはなりませんでした。何故そのような政策になっていたのかというと、史上空前の広大な領土を統合し、領土全体の物品を国家が調整しなくて はならなくなったという背景があるようです。領土は統合されましたが、各地方社会の範囲と経済的にまとまりのある地方各地域は統合されているわけではあり ません。 各地では特産物も違えば、物品に対する人々の価値観も異なっているでしょう。放っておけば、国家は政治的に統合していても、地域経済は分裂した ままだったでしょう。そこで国家が物流を管理し、広大な領域を経済的に統合し、バランス良く管理する手段として銅貨を用いたのです。この観点からすると銅 貨は 商業の発展により発達したものではなく、政府の物流管理と財政政策の為の道具という側面が強いことになります。

 前漢時代、安定した銅貨は五銖銭と言われる貨幣でした。武帝時代に初めて作られ、その後ほぼ120年間安定した通貨として機能しました。 120年間に280億銭が鋳造されたとのことですが、これは政府の財政収入の7年分の量でしかありません。前漢末に280億銭が流通していると仮定してみ ると、6000万人の人口で割ると一人当たり400銭しか所有できない計算です。1世帯5人家族としてみると2000銭で少し余裕のある数字になります。
 
 

~ 硬貨は必ずしも政府の鋳造物ではなかった~

 現代では貨幣の鋳造は全て政府が行っていますが、当時は政府と民間の区分けが明確ではありませんでした。前漢初期は民間が貨幣を作成してい たので、品質にばらつきがあり、常に実際の重さが問題になりました。政府が鋳造することになって以降も地方政府で鋳造するなど、結局重さや品質にばらつき がでました。武帝の時代に中央政府が独占することになり、やっと信用のおける安定した通貨が出まわることになりました。

~ 偽造について ~

 米国ドルの偽造紙幣が出まわり問題になることがよくありますが、最近の日本でも偽造貨幣が出まわることが多くなりました。漢代でも事情は同 じで、貨幣の偽造は、資金がある犯罪者は、銅貨を溶かして銅の含有量を落とした改鋳をしたようです。こうすると見た目は同じでも貨幣の重さが変わります。 もっと安上がりの偽造は、1枚の貨幣をドーナツ型にくりぬき2枚とするものです。漢代以降中国の貨幣は伝統的に真中に穴のあいた形態をしています。これは 中国のみならず、東アジア全体に広がる独特の形態です。1枚の貨幣をドーナツ型にくりぬくと、当然外側の輪の部分と内側の輪の部分ではサイズが異なるので すが、こうした貨幣が実際に流通していたようです。
 

貨幣の話
 

 秦-漢代にかけて、半両銭という貨幣が利用されていました。半両銭は 名目通貨であるとされています。 もともと半両=12銖(7.8グラ ム)という意味で「半両」とされたわけですが、 初当時は政府が貨幣を鋳造するわけではなく、民間に任されていたので、実質の重さは、鋳造された場所や時代とともに変っています。民間で鋳造するの で、実質的な重さは半両で はなく、4銖であり、4銖半両銭と呼ばれたらしいのですが、実際は3銖程度の重さが殆どだったようです。 恐らく貨幣価値としても重さに連動して3 銖程度だったのかもしれません。 
但しカウント上は1枚1銭である為、1銭で何が買えるかは重さに連動していたのかも知れません。  また、銭は 貨幣の主流だったかどうかもあやし いもので 布(帛)や皮幣、白金や 現物取引の方が実際の経済活動にメインに利用されていた可能性が高いようです。

 民間の貨幣はどんどん軽くなってゆき、インフレの進行となったのでこれの対策として 呂氏時代に8銖半両銭を発行しますが、これはデフレ現 象となってしまったそうです。今までの貨幣2枚で8銖銭と同じ価値になるわけですから、品質を保証するために政府の財政収入は減り、納税者 は 同じ1銭を納入するのに2銭が必要となり、打撃となったようです。

 最終的には118年武帝代に5銖銭が発行され、貨幣は政府が品質保証をするものとして、名目貨幣化したようです。 113年には貨幣発行は 中央政府独占となったそうです。この時はだいたい4グラムでほぼ5銖の重さだったようです。

 とはいえ、まだ重さと価値の連動は続いていて、人々の意識の上でも5銖=1銭がスタンダードとして安定したということなのではないでしょう か?

 王莽政権下で1銖=1銭の貨幣発行(小泉直一)が開始され、貨幣は完全な名目貨幣化したようですが、定着せず、5銖銭に戻され、失敗に終 わったようです。 これに対し、王莽が導入したとされる大泉50というのは1枚(12銖)50銭と決めた完全な名目貨幣です。この場合の基準は5銖銭=1銭というのが 前提です。この場合、絶対価値からすると本当は2.4倍しかないのに(12銖:5銖)50倍である、と政治的に決めています。これは実質 20倍の価値を大和泉50に認めていることを意味しています。

ただし、これが、

1.実質価値を人々が重視すれば、2.4銭として流通する
2.名目価値を   ”         50銭   ”
(勿論5銖銭=1銭の感覚がねづいていることが前提) 

 ということになります。

1枚が何銭かは、個別に 時代毎に判断するしかないのではないでしょうか? ただ、武帝発行の5銖銭は唐代の開元通宝までの基本通貨であった とされること、更に武帝後ー王莽間 は比較的貨幣政策が安定していたことで、武帝-王莽間は1枚=1銭の理解で概ねよいと考えています。

インフレがひどくならない限り、名目貨幣は機能すると思います。紙の紙幣になじんでいる現代では 実質価値はあまり問題にされませんが、古代 にあっては どうしても「実質価値」意識はぬぐえないものと思います。 その時代に、ほぼ名目貨幣として機能した前漢武帝-王莽間の5銖銭 は、すごいことだ、というのが私の感想です。
 

 このように、秦-漢中までは 銅の重さで取引をしていた時代のありかたと、我々が通常利用している 「名目価値」との狭間にあり、貨幣価値 の理解は複雑であるように思えます。 我々にとっては、金本位制が廃止されて以降、貨幣と実質価値(購買力)の2者関係しかありません が、当時は 重さ(絶対価値)と貨幣と実質価値(購買力)の3者関係だったので面倒なのだと思います。

 この時代の貨幣とは、近代社会の経済における貨幣とは意味が異なるのだ、という学説があるようです。 (銅の)貨幣は古代資本主義のインフ ラではなく、中央政府の経済コントロールの手段(道具)であった、というもので政府が税金の貨幣納入に拘ったのは (銅の)貨幣を 循環さ せることで広大な世界を統合し、コントロールする為だ、との見解です。

 実は古代地中海世界での貨幣経済の繁栄も、共通の側面が大きいのではないのかと思っています。

 私のHPで1銭=330円としたのは、単に下級官吏の給与600銭を20万円相当、と恣意的にしただけです。、山田勝芳氏の「秦漢財政収入 の研究」などでは1石=100銭としており (勿論インフレ事情などで年によりばらつきがありますが)、大人男性が1月2.5石、女性が1.5石、子供1石程度で生活できた、という見解をもと にしています。これだと子供2人の4人家族で6石=600銭=20万円=年240万円で、でだいたい計算が合います。 ただし、これだと下 級官吏は米以外何も買えないということになってしまいますが、下級官吏が給与収入だけ
から暮せたとはもともと思えないので、一応この数字をとっています。

貨幣の作成方法と厚さ

武帝時代 金130:銀20:銅1の実質価値比率

-参考-

山田勝芳 「貨幣の古代中国史」 朝日選書
岩波世界歴史3 「中華の世界と東方世界」所収  中国古代の貨幣経済と社会 佐原康夫