軍装や武器にはあまり興味が無いのですが、人類の歴史に大きな影響を与えた銃の歴史が意外に
情報が無いのが不思議でした。モンゴル軍が火薬兵器を用いた
ことは中学で学びましたが、それが具体的にどのようなもので、種子島に火縄銃が伝わる迄の間にどのように発展を遂げたのか、まる
でイメージできず、14世
紀後半のブルガリアを描いた映画「秘密兵器」や、15世紀初頭のフス戦争を描いた映画「ヤン・ジシュカ」、永楽帝を描いたドラマ「鄭和下西洋」などで火器が登場しているのを見て、史実はどうなのだろうと
疑問に思っておりました。 最近ようやく、年号の刻まれた初期の銃の遺物写真を目にすることができ、具体的にイメージできるようになりました。 1.元至順3年(1332年)銅製の火銃(大砲)。広州日報に掲載された写真。写真はこちらのサイトから。 こちらのサイトによると、現在発見されている元代の金属火器は5個あるとのこと。 1) 銘文に「铜匠作头李六径,直元捌年造,宁字二仟伍百陆拾伍号(銅匠作頭李六径,直元捌年造,寧字二仟伍百陸拾伍号)」とあり、 「直元」を「至元」と解釈 し、直元捌年=1271年製造と考えられるとのこと。当該サイトに写真あり。34.6cm、口径2.6cm,1.55kg 2)元文宗至順3年(1332年),中国国家歴史博物館収蔵 3元惠帝至正11年(1351年)),中国軍事博物館收藏, 4)1970年在西安出土(銘文なし。13末-14初と考えられている) 5)1974年黒竜江出土(銘文なし),13末-14初と考えられている) なお、どのように検証されたのかは不明だが、西夏時代の火銃遺物も出土しているとのこと(こちらのサイトに写真あり、 1980年5月,甘粛省武威針织厂出土)。 2.洪武12年(1379年)の刻印のある銅製の火銃。45cm。(写真はこちらのサイトから。このサイトに大きなサイズの画像があります) 3.永楽19年(1421年)の刻印のある銅製の火銃(手銃型)。36cm。(写真はこちらのサイトから。このサイトに大きなサイズの画像があります)。 更にこちらのサイトにも、幾つかのタイプの明代手銃画像があり、明代のものは結構遺物 は出土している模様。 こち らの売買サイトでは、洪武年間の遺物(断片)が、1万6千元(約20万円)で出品されています。 ヨーロッパの遺物としては、スウェーデンLoshult出土の1350年のものと、1380年出土のものがあるとのこと(こちらのサイトに大きめの画像あり)。14世紀後半のブルガリアや14世紀初頭を 描いた映画に火器兵器が登場しているのは、史実に則っているのだということがよくわかりました。13世紀前半を描いたブルガリア 映画(「ヨアン・アセンの結婚」)にも火器が登場していおり、完全に荒唐無稽な設定だと 思っていたのですが、どうもそうではなさそうな気がしてきました。このあたりの史実性もそのうち調べてみたいとおもいます。 ところで、14、15世紀の西欧の銃の遺物写真が多数掲載されているサイト(HANDGONNES AND MATCHLOCK)と、宋代に発明された各種火 薬兵器のイラスト入り解説を「図説 中国文明史〈7〉宋―成熟する文明(p42-44)」 に見つけました。これによると、13世紀の中国で開発された各種火薬兵器には多様なものがあり、当初はどれも大した威力は無く、 もっぱら威嚇用の範疇を出 ず、兵器の多様さは、火器をどのように戦力として利用するかの試行錯誤の過程の印象を受けました。モンゴル帝国を通じて西欧に伝 わった火器は、14,15 世紀に銃として急速に進化するものの、明朝でも、西欧程で無いにしても、一応進化した状況もイメージできるようになりました。こ れまで、モンゴル帝国の欧 洲征服に火薬が利用されたとされながら、ポルトガル船の明朝への来航で、一方的に完成された銃が中国に伝わったというイメージが あり、一体その間中国で火 器はどうなっていたのだろうかと、疑問を抱いてきたのですが、ようやく納得できそうな感じがしています。 |