タバ
リーの歴史(02/04/19)
歴史上の陰と陽
(02/03/16)
アラビアのキリス
ト教王 (02/03/16)
パ
ルティアの痕跡 (02/03/16)
国王廃位
(02/03/15)
歴史小説
合
衆国とローマ その3
合
衆国とローマ その2
合衆国と
ローマ その1
フランシス・フクヤマが用いた意味とは別の意味で、「歴史の終わり」と呼べる時代があったように思えるのです。 例えば前 項で述べた各時代のお終いに「完成された時代」あるいは「抜け殻の様な時代」というものがあり、これは 各時代にとっての 「終わり」 の時代なのでは ないか、と思うようになりました。 例えば古典古代世界でいうと2世紀以降の地中海世界、4世紀以降のササン朝、後漢以降の中華世界。古典古代世界の創造 的エネルギーが迸った時代の後に、形式主義的で尚古的、沈滞、または完成、という 内的発展のエネルギーが出尽くして、外的刺激が無いと発展しようが無い 全体的に 「終わった」 時代です。 他に例をあげるとすると、遊牧民の時代の末尾を飾る オスマン、サファヴィー、ムガール朝。 7世紀以来のイス ラーム世界の完成であり、同時に 長期に安定していた半面 発展の終わった時代。 例えば 前9-7世紀のオリエント世界の終幕を飾るアッシリア帝国。 例えば中国の明清の時代など。
我流世界史時代区分
このHPでは現代世界にとっての古典時代ということで紀元前7,8世紀頃から紀元7世紀頃を一つの時代の区切りとして扱っ ています。その時代世界は主に4つの世界に分かれていて、それが現代世界の枠組みの基層にある、という見方をとっています。 それではこのような認識方法 に基づくと 世界の歴史の流れの中でこの時代はどのような位置付けにあるのだろうかと 考えてみました。 すると以下の様な認識に至りました。【古代】
現代世界に直接繋がらない古代。 古代オリエントは一つの世界として完結しているように思えるのです。【現代】1. 前3000-2200年頃 エジプト、メソポタミア、エラム、ディルムン、インダス文明 それぞれが 僅かながら交流しつつ 別 々の世界として独立していた時代。
2.前2200-500頃 オリエント世界の時代
これは更に以下の各時代区分がなりたつように思えます。
1) 古典時代 前2200頃0-1800年頃 エジプト、メソポタミアの古典時代。 インド-ヨーロッパ族の民族移動により終焉。
2) オリエント世界の時代 前1800-1200 エジプト新王国、ヒッタイト、クレタ、ミケーネ、バビロニア、アッシシア、ミタンニ、ウガリトなどが 台頭しオリエント世界が一つの到達点に至った。オリエント世界の「現代」。
3) オリエント世界の衰亡 海の民族の侵入によりオリエント世界が衰退し、既に光輝を失った抜け殻のようなオリエント世界がアッシリアにより統一され る時代。 それとともにイラン、フェニキア、ギリシャ、イスラエルなど次の時代の胎動が開始した時代。現代世界に直接連なっているという意味でひと括りに捉えられるものと思うのです。1. 前800-後600頃 古典古代世界 インド-ヨーロッパ語族の時代。 地中海世界、イラン、インド、中華世界の4つの世界。
2. 600-1500 遊牧民族の時代 アラブ、トルコ、モンゴルなど遊牧民族の時代。 イラン世界はイスラム帝国期、 ヨーロッパは中世、 中国は第 2帝国の時代。
3. 1500- 現代世界 ヨーロッパ、イスラーム、インド、中華の4つの世界。
タバリーの歴史の第五巻ササン朝の巻を読んでいて、なんとなく、タバリーの歴史は全6巻くらいで、6巻はササン朝滅亡からタ バリーの時代まで、と思いこんでいました。 ところが最近なにげにamazon.comを引いたら全部で38巻もあり、 第5巻など最初の序章のそのまた序章にすぎないものなのだと知り、 また日本の「世界の古典」の翻訳事情の偏りを思い知らされちょっと衝撃を受けるとともに、偏たりを是正すべく タバリーの歴史の何冊かも購入しそうになっ てます。ひょっとしたらマスウーディーやヤークートなどの著作も欧米では出版されているのでしょうね。日本の岩波文庫やちくま書房の古典全集って 欧州と 中国に偏っているとは認識していたものの、 タバリーの38冊には驚きました。せめて抄訳くらい出ていてもよさそうなのに。フィルダウシーでさえ全訳でな いのでしょうがないか。。。。
しかし、紀元650-900年のイスラム帝国史を時代によっては数年 刻みで1冊の本として読めるなんて、まったく知らなかったし そうした 本が本屋や図書館の書だなに並んでいる欧米圏がうらやましいし、反面 「だったらせめてもちょっと前のササン時代もせめてその1/4の密度で歴史を書いて くれていてもよかったのに」 とか 色々考えてしま いました。タイトルを見ている限り カーディシーヤの戦いや、南イラク征服、イラン征服などを各1冊の密度で読めるようなので、 そのうち購入してしまい そうです。
歴史の対象である地域・時代について かねがね子供の頃から考えていたことがあります。それは、同じような地域・時代、あ るいは民族であっても 陰と陽というイメージに分かれてしまう地域・時代というものがあるということです。 どういうことかというと、例えば古代オリエン ト。 エジプトのイメージは陽 でメソポタミアは陰 というイメージがあります。 別の言葉でいうと陽はメジャーで陰はマイナーということでしょうか。 なんとなく両者とも大きな意味では同じ範疇に属するのに、片方が陽性のイメージでメジャー、片方が陰性のイメージでマイナーな存在となってしまうケースっ て 歴史以外でも世の中に割りとあると思うのです。例えばセントラル・リーグとパシフィック・リーグ。第2語学選択時のフランス語とドイツ語。
私は歴史上では以下の時代・地域にそれを感じるのですが、これを読んだかた、どう思われますか?ご意見をお聞きしたいところです。因みに私は子供の頃か らどういうわけか「陰」に惹かれてしまう習性があります。・エジプトとメソポタミア
・ギリシャとフェニキア
・バビロニアとアッシリア
・前漢と後漢
・オスマントルコとセルジュークトルコ
・アケメネス朝とササン朝ペルシャ
・ロマノフ朝とリューリク朝
・徳川幕府と室町幕府
・唐と隋
・ローマ帝国とビザンツ帝国
今日は発見したことが多いので 久々に色々書いてます。なんとイスラム発祥前の話ですが アラビアのラハム王国の国王にキ リスト教徒がいたとのこと。 知らなかった。。。。ひょっとして有名な話なんでしょうか? とにかく私は驚きでした。 キリスト教徒の王というのは ア ル・ムンディール4世(在575-80年)と その子のアル・ヌーマーン3世(在580-602年)のお二人。ネストリウス派キリスト教徒だったそうです。 もともとペルシャ国内のキリスト教徒はネス トリウス派が広まっていて、これはローマ帝国内でエデッサだったかカルケドンだったかの公会議で異端とされたため、ローマ帝国内のネストリウス派教徒がペ ルシャに移住してきたという政治的経緯の産物だそうですが、ラハム王国はユーフラテス川の南に位置するペルシャの陪臣国だったので 影響を受ける下地は あったと思うのですが、それにしてもビックリ。エチオピアとか、アルメニアとかグルジアとかコプト教徒とか、非アラビア人では、イスラムの大波にも飲まれ ず キリスト教を維持し続けた民族がいるので、アラビア人にもどこかにキリスト教徒がいてもよいのでは、と思いました。 ひょっとして私が知らないだけで アラビア人キリスト教徒はどこかにいて結構有名な話?(後日:今のヨルダンあたりにあったアラブ人国家ガッサーン王国がキリスト郷国としてビザンツ帝国 に従属していることを知りました)
ササン朝時代 今のグルジアの東部に相当する地域はイベリアと呼ばれていたそうですが、4世紀以降ここの君主になったの はなんとパルティアのアルサケス家の一門であるミフラン家だったとのことで 驚きです。 しかも国王はキリスト教徒に改宗したそう。。。 これも驚きで す。 そうしてもっと驚いたことに 現代に至るまでグルジア人の間では パルティア風の名前が使われているとのこと。意外なところに古代パルティアの、末 裔とまでは言わないまでも 現代への名残を発見してちょっと良い気分。 因みにキリスト教に改宗した当時のアルメニア国王もパルティアのアルサケス家の 王。アルメニアの場合はどうなのでしょうか。 また、両者ともアラブの征服後しばらくして中世に王国を築きますが この時の王朝はパルティアの血を引いて いたのでしょうか。。。。
最近ササン朝に関して読んでばかり。このHPの更新もやたらとササン朝に関する部分ばかりになってきてしまいました。 サ サン朝のトップページを別に作った方がよいような気にもなってきています。 でも誰も興味は無いんだろうな。。 下手にアクセスされて「誤訳で有名な」な どという風評が立つよりましか。。ところで、 このササン朝で最近ふと気がついたことがあります。それは、「国王の廃位」という現象が わりと多く見られる ということです。 しかも中には廃位されたあとも 五体満足に生きているのみならず、 引退もせず政府に居座るケースもあったよう。 ササン朝って東洋的 専制君主国家だと思っていたので、通常このての国家では 殆どの場合暗殺されるか、廃位された後暗殺されるかのどちらかで、例え生き延びても 眼を潰され たり手を切られたりするものなのではないでしょうか?良くて幽閉。 と言ってもササン朝の場合も全員が全員生き延びたり無事に余生を送ったわけではないと 思うのですが、それにしても 「暗殺」と比べて 「廃位」の多さが目に付くのです。 以下にちょっと一覧を作ってみました。
(廃位)
アードゥルナルセ ホルkミズド2世子。貴族たちに廃位され、弟のシャープールが王位についた。その後の消息は不明。
バフラーム3世 叔父ナルセスとの内紛で退位。 恐らくその後殺されたと推測されるが正確には不明。
アルダシール2世(貴族と聖職者に廃された) その後無事に暮したらしい。
ホスロー(ヤズダギルド1世没後一時王位につくが、バフラーム5世の登場で退位) その後の人生不明。
ホルミズド (ペーローズ兄。ヤズダギルド2世死後即位。ペーローズとの内戦に敗れて退位) その後の人生不明。
ワラーシュ (カワード兄。ペーローズ死後即位。貴族と聖職者に嫌われ退位に追いこまれる) その後の人生不明。
カワード (ワラーシュ弟。廃位されてギルギットの牢獄に幽閉されるが脱出して復位)
ザマースプ (カワード弟。 貴族と聖職者の支持でカワードを追放して即位。結局カワードの復位で退位) その後の人生不明。
アルメニア王 アルタクシャサ 428年ササン朝併合により廃位。上記廃位のパターンは 4、5世紀に集中しています。 これに対し同じ4,5世紀に 在位中に明確に暗殺された王たちは、
シャープール3世
バフラーム4世
ヤズダギルド1世
シャープール(ヤズダギルド1世子)だけ。 廃位された王よりも暗殺された王の方が人数が少ないという結果になっています。 もっともササン朝末期ホスロー2世以降は殆ど全員 暗殺されて終わっていますから 寧ろ4,5世紀に特徴的な現象と言えなくもないとも思います。(ホルミズド4世以降の末期と上記時期以外は暗殺も廃位も起 こっていない)。 また、ササン朝では暗君というのがほとんど見られず、皆国王はそこそこの治績を残しているようです。これは国王の資質としての条件が厳 しく、大抵は王になる前に地方領国の統治者を努めて 治績を上げた王家の一族が王になる という習慣によるようです。国王は王者でなくてはならず、その点 有徳の人物でなくてはならないとした中国と似ていますが、廃位が多いのは 廃位されるような無能な人間が党派争いに使われることもない、また党派の方も 無能な人間まで押したてて無用な混乱を国家にもたらすことも無い、というコンセンサスがどこかにあったのではないでしょうか? また国王の権力は法に制限 されていたとのこともあり、 これはつまり一種の国家秩序優先の考え方のようにも思えます。
こう考えてくると、ササン朝という国家は野蛮な専制国家ではなく、こうした観点でもローマや中国に匹敵する内容を持つ国であったと思うの です。
歴史小説(12/09/.01) 赤羽亮の小説「流沙伝説」はパルミュラ女王ゼノビアを扱った小説で スケールも大きく 当時のローマとササン朝イランという2 大世界帝国間の狭間で生きるパルミュラを舞台とした国際謀略小説である。軍事的にはまったく対抗しきれない大国の狭間で翻弄される小さな都市国家が 諜報 活動を最大限活用して うまく大国間を泳いで行くストーリは この時代くらい古い歴史小説としては少ないと思う。 パルミュラ在住の中国人などが出てきて 孫子呉子の兵法の講釈をパルミュラの諜報部員に行ったり、ゼノビアの父がかつてササン朝のセレウキアで暮していた時 ササン朝のスパイになっていたな ど、舞台設定も面白く、楽しめる小説である。 しかし一つどうしても納得できないのは、登場人物達の台詞に「アルダシール1世」とか「シャープール1世」 とか「1世」という言葉が出てきてしまっていること。当然だがアルダシール2世もシャープール2世もこの時代にはまだいない。ササン朝の今上国王がシャー プール1世なわけで、その父親がアルダシール1世。シャープール2世が誕生し、国王に即位するのはこの時代のだいたい40年後でアルダシール2世となると 即位は100年以上あと。この小説の時代にはまだ「アルダシール」という国王も「シャープール」という国王もまだ一人しかいないのだから、この時点で「ア ルダシール1世」とかいうのは絶対におかしい、不可能な台詞なのである。登場人物の台詞以外の部分で、作者が使うのならまだしも、台詞の中にでてきてしま うのは絶対におかしいよね。 作者が語る部分くらい「1世」とかいれとかないと、いつの時代だの話だか読者にはわかりにくくなる、ということもわかるのだ けど、本当は出きれば 歴史小説は当時の目線で方って欲しいので、当時の人が使っていた用語の範疇はでて欲しくないよね。 例えばこの小説中に「比翼連 理」という台詞がでてくるけど、これは唐の時代の白楽天の詩がもとで一般に膾炙されるようになった言葉だから この時代の登場人物が語っちゃいけないと思 う。 熟語となると これはなかなか難しいとは思うけど、人名や称号、国名などは気をつけて欲しいところ。歴史小説で一番チェックしたくなるのはこの部 分。現代の我々だって、英国女王は「エリザベス女王」というのが普通で、あまり「エリザベス2世が」とか言わないし、ワシントンとかリンカーンなどの場合 は「ワシントン大統領」とは言わないはず。だから当時の人も例えば3世紀くらいの人が「トラヤヌス帝が」とか日常会話で話していたのかどうか?単に「トラ ヤヌス」と言っていたんじゃないの?明かにその当時使われていた筈のない言葉が出てくると興ざめになってしまうもの。 よく中国の小説でも、前漢代の小説 の中で、後漢時代に書かれた「漢書」が作者の語る部分で出てくることがあるけど、こうした歴史書の引用は中国歴史小説に非常に顕著で もう一つの様式と いっていいと思うが、これも私の場合結構興ざめである。あと登場人物が「漢帝国」とか「ローマ帝国」とかいうのもちょっと興ざめ。
女王の世紀(11/10/01) 7世紀前後は女王が目立つように思えるのは気のせいだろうか。最近新羅の善徳女王(在632-647)、真徳女王(在647-54)の存在とアーザルミー グドゥクトというササン朝の女王(在631-32)について知りました。この時代、中国には則天武后(在690-705)が登場に、日本にも斉明天皇、持 統天皇(在697-701)が現れています。また少し時代は下りますがビザンツ帝国にもイレーネ(在797-802)がいます。偶々偶然なのでしょうが、 それでもどーしてなのだろう、と思います。この時代全世界的に共通していた現象は世界宗教が広まっていたことが上げられます。それが、女性の主権者の登場 となにか関係があるのでしょうか?古代にもちらほら女王は見られましたが、近代以前で7世紀くらい女王の登場が目立つ時代も珍しいように思えます。
プトレマイオス地理 書かねがね、15世紀くらいに復刻された古代の地図を見ていて、なんであんな地図が復刻できるのか、非常に疑問だったのです が、地理書には緯度と経度が書いてあったんですね。それを元に地図を作成したということだったのですね。。。。やっと理解できました。
春秋について中国古代の書物に春秋左氏伝、春秋穀梁伝、春秋公羊伝 というものがあるのは知っていましたが、 魯の年代記「春秋」の注釈であ ることも知ってはいましたが、実際に本を見てみて驚きました。百聞は一見に始かず、とはよういうものだと思いました。 注釈というからせめて 三国志の斐 松之の註のようなものだと考えていたのですが 全然違ったのですね。。。 問題の年代記が本当に 箇条書きの年代記というよりも年表みたいなもので、 本 文の99%が「伝」の部分だったとは。。。。 うーむ。 しかもそれぞれ 同じ事件についても解釈が違っていて、それが伝の作者の立場を反映しているとは なかなかスリリングではないですか。同じ事件に対する読売新聞と朝日と産経新聞の記事みたいなもののよう。 皇帝ハドリアヌスは プブリウス・アエリウス・ハドリアヌス が本名で、プブリウスが個人 名、アエリウスは氏族名、ハドリアヌスが家名だそうです。我々「姓名」というとおり、苗字と名前の二つしか通常もたないので、この氏族名、家名という感覚 がよくわからなかったのですが、最近「藤原氏千年」(講談社現代新書)を読んでいて今更ながらやっとわかりました。その本によると藤原氏という氏族が段々 栄え、一族の数と規模も大きくなってくると、単に「藤原氏」だけではどの人なのか分類が困難になってきたので「家名」というものが必要になってきて、冷泉 家とか一条家とか近衛家という家名が成立したとのこと。確かに私の場合も 親戚が集まる場所では、親戚同士地名で呼びあったりするので、それと同じだとい うことが分かりました。そして更には我々日常で「氏名」という言葉を用いており、これは「家名」ではなく【氏名】なのだと今更ながらに気づきました。定期 券を購入する時、アンケートに答える時、我々は「家名」ではなく、「氏名」を用いているのですね。氏族制社会なんて古代の話でよくピンときませんでした が、ところがどっこい現代社会も実は氏族社会の名残を留めていることが実感できました。してみると、現代でも氏名、家名、個人名 でもよいように思えま す。
セルジューク朝とかサーマン朝とかブワイフ朝とかガズニー朝とかサファビー朝とか、この ○○朝という言葉のニュアンスがどうしてもよくわからなかったのですが、最近やっとなんとなく納得できる理屈を見つけました。こんなこと私だけが知らな かっただけなのだろうけど。。。日本史でも武田家とか今川家とか上杉家とかの戦国大名は基本的には「甲斐」とか「駿河」とか「越後」とかの国とイコールな のでしょうが、元々の国を越えて勢力を及ぼすことになると、「武田方」とか「上杉方」というようになり、特に国名があるわけでもなさそうです。きっとイス ラム諸王朝もきっとこれと同じなのでしょうね。子供の頃は「セルジューク王家のトルコ王国」でないのが不思議 どうしても 「セルジューク朝」というもの の 国家としての実態や、当時の人々になんと呼ばれていたのかが イメージできなかったのですが、日本の戦国大名のようなものだと思うにいたり、やっと理 解できるようになりました。
戦国大名が守護とか守護代という資格で実際は独立国家であったように、イスラーム勢力もアミール とかスルタンとかの称号で支配したということなのでしょうね。
私は長らく、パルティアの国家名が分からないのが不満でしたが(ササン朝は「エーラーンが国名」 で王家の名称と国名はちゃんと分けて認識されていたようです)、「アルシャック」は「武田家」みたいな感覚で用いられていた言葉だと思うと理解できます。 しかしそう考えると、「武田家」というのも 武田朝 と言っていいと思うし、足利家や徳川家も徳川朝と言ってもいいように思えます。「合衆国は全ての人に門戸を開放した。それゆえに異人種・異民族・異文化が混ざり合って動く合衆国は、そこに住む全員が、各々の分野での 労働にいそしむ社会をつくりあげたのである。ここでは、共通の祝祭日には大統領が主催する祭儀が行われるが、民族別や宗教別にもそれぞれの祭儀が自由に行 われている。このことは、各人が各様に、自分たちの尊厳と正義を維持するのに役立っている。 合衆国は、誰にでも通ずる法律を与えることで、人種や民族を 別にし文化を共有しなくても、法を中心にしての共存共栄は可能であることを示した。そして、この生き方がいかに人々にとって利益になるかを示す為に、数多 くの権利の享受までも保証してきたのである。 この合衆国は、一つの大きな家である。そこに住む人々に、合衆国という大家族の一員であることを日々思わせ てくれる、大きな一つの家なのである。」
多分お気づきのことと思いますが、若干変な文章だと思われたかと思います。この文の「合衆国」を「ローマ」に、「大統領」を「皇帝」にす ると、原文になります。この文は28日発売の塩野七生「ローマ人の物語 9」P388から引用した、2世紀の文人が行った演説です。若干奇異ではあって も、ぼーっと読んでいる限りは上記の文は 現代の合衆国像としても受け入れられるのではないでしょうか?
現実には民族差別や弾圧など力による支配という側面があったことはともかく、建前として追求している理念は かなり酷似しているように思えます。塩野氏 は著作に置いて、「海の都の物語」では潜在的にベネチアと日本の比較を行っているものとされており、「ローマ人の物語」もローマと潜在的に合衆国の比較を 行っている、という評価があり、もしそうだとすると、上記の演説は かなり恣意的に選択され、翻訳されたものだといえるのかも知れませんが、それでも、建 国期の合衆国が 一部の制度名称や機構についてアテネでなく、同時期のベネチアでもなく、クロムウェルの体制でもなく、なぜローマ共和制から採ったのか、 と考える時、合衆国の心性のどこかに、「法と正義により世界を統合し、秩序を与えたローマたれ」という意識がある様に思えるのです。
アウグストス時代の帝政ローマをイメージするには、現代合衆国の世界支配ということが 参考になるのでは、と個人的には考えています。世 界大半にUS軍が進駐している現代 ですが、これをローマ軍と考えてみると紀元前1世紀の地中海世界がイメージしやすいのでは。だんだんローマ軍の支配圧力が強力になってきて、反面自分の国 の支配者がだら しなく国家崩壊を呈してきたとき、自国の政府が軍の総帥としての皇帝(大統領)のコントロール下に直接置かれるのはまだ納得できるが、合衆国本土の「上 院」議員の支配を受 けるのは嫌、という意識。そこで属州(US以外)は皇帝直下、イタリア(US)と一部の国(中米のとある国とか)は上院(元老院)支配の形態をとった、と いうふうにイメージしてみるの はどうでしょう。
私は個人的にこう考えると、皇帝の必要性がわりと納得しやすいのです。 軍事力が強大でローマ(US)に屈服するのは 時代の趨勢、しかし ローマ元老院(上院)に支配される のは嫌。 という場合、 元老院(上院)を越える統率者(大統領)が要請される、という考え方です。「服属する国々の政府要人がUS大統領選挙人538名 に加わった状態」というの がアウグストゥス体制をイメージする場合に近いのでは、と思っています。日本の政府代表者が大統領間接選挙人を選んで、彼らが投票する支配者と、US国民だけから選挙されて選ばれた上院議員とどちら に統治されるの?ということでは、(あくまで私 個人的に)大統領の方が 納得しやすい、と思える ということです。
ところで記憶があやふやなので確認したいのですが(間違っていたらご指摘ください)、確か イタリア出身者(ローマ人以外)を 大量に元老院身分にしたのはカエサルからで、それ
までは殆どイタリア出身の元老院議員はいなかったと思います。属州出身の元老院議員の進出は1世紀からのことで、ローマが「帝国」になったと されるBC168年-BC64年の間
は、属州出身の元老院は殆どいなかった筈だと思うのですが。元老院の属州支配の限界が、マリウス、スラからカエサルを経てアウグストスに至 る、 親分(用語忘れました)-クリ
エンテラ 関係のヒエラルキーの頂点たる「第一人者」の支配を要請した、という理解はだめですかね。別の言い方をすると、個人的心情としては、US国民選出の上院議員に支配されるのは嫌だけど、私のボスのボスのボスである合 衆国の有力者に支配されるのはまだあきらめも
つきます。(独立を維持できないのであれば仕方が無いとう条件下での話です)
早い話、日本政府のトップにUS国民選出の上院議員がつくのは嫌だけど、私は合衆国の会社の子会社に勤務しているので、日本法人社長のボス は本社社長となり、彼が大統領選
に出馬したら、支持した方が、まったく知らない、我々の権益と無関係な上院議員が日本の首相になるよりも まし、ということです。 ローマの 紀元前1世紀のローマ支配の拡大はこんなかんじだったのではないかと、思うのです。
5. 「王朝滅亡」西欧の王朝交替は、あまり「王朝滅亡」などという表現は使わないけど中国史では皇帝がその地位を簒奪されただけで、政府が崩壊したわでで も国家が滅亡したわけでも無いのに「滅亡」という言葉を使うが、何故なのだろうか。ブルボン朝が倒れたからと言ってフランス滅亡ではなく、ユスティニアヌ ス朝が倒れたからといってビザンツ帝国が滅亡したわけではない。こうした考えに立って中国史の「滅亡」を整理すると、「滅亡」したと言える政権・国家は もっと少なくなると思われます。
例えば後漢-魏-晋へ至る過程は政権内の有力者による王朝交替に過ぎず、実質的には「後漢帝国」が続いていると思えるのです。また唐末から五代(後梁・ 後唐・後晋・後漢・後周)を経て宋に至る王朝交替もクーデタ・軍団による皇帝擁立などであり、後周 郭威-柴英への交替にいたっては中国史では珍しい養子 による皇帝位の相続である。唐-宋は明らかに連続している1国家である様に思えます。
別の観点で見ると、中国は秦の統一以降漢民族による中華帝国の連続であり、例え征服王朝といえど結局中国化してしまったのだから、政権が崩壊したとして も それは中華帝国内での王朝交替と変わらない、という観点もあるかもしれません。しかし どうやら 中国がずっと漢民族の国家・社会であったというのは 間違いの様で、北方民族の侵入は実際にはもっと明確な民族的・社会的相違と変動があったと言えるらしいのです。五胡十六国時代の異民族の侵入は 結局漢民 族に同化した中国王朝になってしまったわけではなく、実際には元朝を立てたモンゴル人が明の成立でモンゴル高原に引き上げる時まだモンゴル人であった様 に、五胡十六国時代に華北へ定住した異民族はそのまま華北社会・民族の性質を変えてしまった様なのです。隋王朝による中国統一の回復は フランク王国が西 欧とビザンツを統一してローマ帝国を復興するようなもので、それは既にローマ人ではなくゲルマン人による帝国として明確に意識されることでしょう。中国史 においてもこの様に、五胡十六国時代の異民族である北魏や隋の成立は単なる王朝交替とは言えないと思うのです。 極端に言えば秦以降の中国には3っつの国 家・社会があったと思うのです。一つは秦-漢-晋-南朝。二つめは北魏-唐-宋-南宋。3つめは明-現代中国。中国史において「滅亡」したのはこの3つの 国家だと思うのです。
このところ、合衆国の成立とその後の歩みに対する古代ローマとの関係に興味があります。
合衆国の紋章は双頭の鷲(ローマの紋章)だそうです。また、上院はSenateで古代ローマの元老院(Senatus)そのもの、下院 (representativでしたっ け?)は言葉は違うけど古代ローマ「民会」(Populares)で意味はほぼ同じ。ワシントンの政府や立法府施設は古代ローマ建築に似ている。なぜアメ リカ人はローマ帝国の映画や TVをよく作るのか。「世界の警官」として世界へ軍隊を派遣する意識。。。 合衆国がローマを意識していることは明白だと思います。合衆国人の心性・意識 へのローマの関わりと 影響についてだれかご意見ありませんでしょうか?(上記スペルはうろ覚えなので細かい間違いはご容赦ください)。
3. 1998年7月31日の南京夕刊紙に掲載された 「甘粛省に古代ローマ人の村」 に関する記事
BC53年カルタエの戦いで敗北し、行方を絶ったローマ兵6000人が、はるか中国へ到達し たとの説がある、が、彼らの子孫であると推定される甘粛省の村が発見されたという記事。結構あやしい記事らしい。この問題に関する議論はこちらを ご覧ください。
2.ロー マ、イラン、漢の人口について湯浅赳男「文明の人口史」(新評論社)には古代国家の人口推計が出てきます。 この本自体 が「と」本かどうかという問題もありますが、推計では各国の人口推移は以下のようになっている様です。広島大学総合科学部助教授 加藤徹氏の 中国の人口の歴史 にも情報があります。それらによると概ね漢代の人口は以下の推移を辿ったとのことになる様です。 但し漢書など当時の調査は漢の支配地すべての総計ではな いため、実際に漢に服していた人口数はもうすこし多いものと考えられるとか。
(1)漢
BC206年 戸数 300万戸(楊学通 推計)
AD.2年 戸数 1223万戸 5959万人(「漢書」地理志)
AD.25年 約1500万人
AD57年 戸数 427万戸 2100万人(「冊布元亀」) 32.007.820人 (後漢書「郡国志」の注?)
AD75年 34.125.021人(後漢書「郡国志」の注?)
AD88年 43.356.367人(後漢書「郡国志」の注?)
AD105年 53.256.229人(後漢書「郡国志」の注?)
AD144年 戸数 994万戸 4973万人(「冊布元亀」)
AD157年 5648万6856人(後漢書「郡国志」の注)
AD220年頃 約500万人 魏250万、呉150万、蜀100万)
AD263年 約767万人 魏(443万)(晋書の郡国志の注)、呉(230万人 (但し280年の数字))蜀(94万)(三国志の注)
AD.280年 戸数 245万戸 1616万人(「晋書」食貨志」)漢代-晋代の人口(限らず中国ではその後も同じだが)は起伏が激しく、平均人口を定義するの は難しいと思いますが、概ね建国期2000万から最盛期6000万が暮していた様です。
(2) ローマ
AD14頃 5400万人となるらしい。(「文明の人口史」P106-107)
ガリア(490万)ヒスパニア(600)イタリア(600)シチリア( 60)コルシカ・サルディーニャ( 50) ドナウ諸国( 200)
ギリシャ(300) 欧州計( 2300万) 小アジア( 600) 小アジア周辺( 700)、シリア( 600)、キプロス( 50) アジア計( 1950万)
エジプト(500) キレナイカ( 50)、アフリカ( 600) アフリカ合計( 1150万)(3) イラン
全く記録が無いので全然わからないらしい。しかしアッバース朝時代の記録では旧ササン朝領 の人口が1000万(多く見積もって1500万人)はいたらしいので、1000万あるいはそれ以上の人口がササン朝の最盛期には住んでいたと思われる。(4) ビザンツ
今調べております。14年のローマの記録と、16世紀初頭のオスマン朝の人口が約1600 万人程度なので、1000年頃最盛期のビザンツ帝国も1500万人程度は居住して
いたかもしれません。まったくのえいやの数字ですが。資料発見次第掲載する予定です。
1.漢代国名に関する疑 問
国名に関して私が前前から持っていた疑問なのですが、
「史記」の大宛伝だったと思うのですが、大宛城内で井戸を掘った技術者が「秦人」とされていて、同じ事件の記述を漢書では「漢人」と記載されています。
班固は、史記に「秦人」とあるのを単純な「間違い」だとして「漢人」に変えたのではないか、と、私が読んだ本(なんだったか忘れましたが)解釈していまし たが、私 はひょっとしたら前漢期の前半百年くらいは、中国の西半分の住民は「秦人」と自称あるいは他称していたのかも知れないと思うのです。秦統一前100年間く らい は秦は7国中1番の大国で領土も他の国より大きく後の統一期の領土の西部の殆どが「秦」であったと仮定すると、「秦人」という意識が住民に根付いていても おか しくないと思うのです。歴史の浅い「漢」より「秦」の方がはるかに定着していたと思うのです。7国の名称で「○○人」という意識が消え「漢人」=「中国 人」になるには漢成立後100年以上はかかったのではないでしょうか。その意味で、没頭の「史記」の記述は正しい様に思えるのです。
ローマ帝国では、ローマ世界が法律的に、ローマを中心とした都市の集まりではなく、「ローマニア」 となったのは212年にカラカラ帝の勅令が出て以降ですが、「ローマニア」という語が定着したのは5世紀になってからとのことです。 私は当時の人々に意 識に興味があるので、当時の住民が自分と自分の済む地域や国家を、どの様に認識していたのかに非常に興味があるのです。 漢代の人は自分を一体何人と認識 していたのでしょう?自分の国をなんという名前で認識していたのでしょう?漢人?中国人?大漢?華人? もちろん相手(自分が邯鄲の住民として斉の人に対 する時と匈奴と対するときとでは自称も変わる でしょうが。。。
「ローマニア」が定着してしまったので、中世ビザンツ帝国人は自らを「ローマ人」または訛って 「ルム人」と自称していたとのことです。漢代と同時代のイランには「パルティア」と呼ばれている国家がありますが、これはローマ・ギリシャ人がそう言って いただけで、当の「パルティア」の住民は南の方をパールス、今のトルクメニスタンあたりをパルタヴァと呼んでいて、イラン全体は「アルヤーン」と言ってい たらしいです。当時の人間の自称、自国称は結構大事なことだと思うのですが何故か簡単にはわかりませんでした。ローマ人はパルティアと呼び、中国ではアル シャック(安息)が伝わり、住民の自己認識の単語が基本的な歴史の概説書に載らなくなってしまったのはちょっと複雑です。我々NIHON人も1000年後 には「JAPAN人」とされてしまうのでしょうか。。。