1月2日

6時半頃起床し、7時過ぎに宿を出る。8時発の西安行きチケット購入。73元。
高速に乗らず、国道沿いに30キロメートル離れた城固に向かう。漢中−城固間はまったくの未舗装。スピードを出せず時間がかかる。
城固付近で、城固−西安329Kmという看板を見かける。城固ではまた、張騫墓へ4Kmという看板もある。町の中心に5M程の巨大な石像があり、はるか遠 くを見つめているような

その像は恐らく張騫ではないかと思われる。唐突に漢中についてふと思った。殆どタクシーを見かけた覚えがない。単に目に入らなかったか、意識しなかっただ けかも知れな

いが。しかし交通量かかなりあった。城固の辺りから日本ではみかけなくなった3輪トラックをよく見るようになる。

9時35分羊県着。ここは町の中心に信号がない規模の地方町。ロータリー付近に5階建て程度の建物があるだけ。羊県のバスターミナルで休憩になったので、 ここで朝食にとパ

ンを買う。この季節なのに、道の両側には一面緑の畑が広がっている。確かに四川盆地は豊かなのか、と思う。

11時16分頃、雪がちらつきだす。既に山岳地帯に入り、結構な標高になっている筈である。11:20分頃、収費站に着く。トンネルの料金所の模様。この あたりに、蔡倫封地、

という看板があった。西安まで231KM地点だった。トンネルを抜けると出し抜けに雪山となっていた。川端康成の世界である。ところが、こんなところでも 携帯のコールが入っ

て普通に会話をしている乗客がいる。驚き。

11:40分頃、一度平地に出る。雪もなし。バスはスピードを増すが、その後再び山岳地帯に入る。11:58分、西安まで204Km地点。12:04分ト イレ休憩。12:10分と20分に漢中

行きバスとすれ違う。続いて41分には3台の漢中行きバスとすれ違う。だいたいここが漢中−西安の中間地点ということだとすると、ここまで4時間かかって いるので、大よそ

の到着時刻は16時頃ということになる。

12時半頃、ふたたび雪になり、今度は路上に積もっている。12:43分、ついにチェーンを巻くことに。12:55分、秦?川という看板がある。ここらの 地名なのか。西安まで

168Km付近。13時24分、チェーンを外す。峠の茶屋でお昼休憩。5元で昼飯。このあと峡谷地帯を延々と走る。谷底に見え隠れする川は、深く透明な碧 に覆われて川底の明暗ま

でくっきり見て取れ美しい。将来はキャンプ場として開発されてもおかしくないクオリティ。ただしこの道路ではたちどころに渋滞してしまうだろうけど。

16時頃、西安のある盆地に入る。
平地に入っても、うっすらと雪が積もっている。平地に入ってからやっと西漢高速に入るが、高速入り口にある行き先表示看板には、漢中方面は通行禁止のマー クが。やはり

まだ建設中なのだろうか。それとも冬季閉鎖なのだろうか、判断がつかない。16時49分西安着。中途半端な時間から、新版ポセイドンアドベンチャーを放映 しはじめたので、

途中までしか見れなかった。西安城壁西南付近のバスターミナルに着く。

城壁西南部から、城壁公園を散歩しつつ西安散歩を開始。みぞれが降っていてひどく寒い。雪用手袋を出し、寒さに耳が痛むので、マフラーをスカーフのように 被る。西門か

ら中央楼閣まで伸びる通りは、唐代建築を意識した総合的で計画的な通りの設計・建築となっていた。記憶では1998年に訪れたときにはこのような状況では なかったと思う。

唐宮城の大明宮の復元イラストのような巨大なショッピングセンターにはたまげた。しかし、いかにも近代建築に、昔の宮城の屋根瓦を取ってつけたような統一 感のない建築

物。その巨大さ壮大さには驚くけど、デザインとしてはイマイチ。そう思っていたら、今度は中央の楼閣の東南部に、まったくモダンなデザインの、これも巨大 なショッピン

グモールができていた。結婚式用の、円筒形の白い帽子の箱というか巨大なケーキの箱をいくつも重ねたようなデザイン。こちらは、中国風のかけらもない。こ れも巨大さと

デザインには驚くけど、純粋にただの現在建築という感じ。その先、中央を南に向かうとおりを南門まで歩くが、南門近くには、ヴィトンとプラダの巨大な ショップが。こち

らは、まるでパルテノン神殿のようなイタリアかパリにでもありそうな設計。いづれにしても西安中心部がかなり西欧化してきていることはよくわかった。南門 に飾られたイ

ルミネーションがきれい。南門までいって、再度楼閣まで戻り、ショッピングモールの前を東に折れる。しばらく歩くと、1998年に泊まったホテルが見えて くる。王府酒店と

いう名称だったのか。その先には当時両替した中国銀行がある筈、と思っていたら、記憶の通り。中心の楼閣から、西と南のメインストリートは大幅に変わって いたが、東へ

向かうこのとおりは、当時と殆ど変わっていないようだった。


火汽車站集票所が見えてきたので、その周辺で宿を探そうと思い、火汽車站集票所の前を西に折れて200M程先に、結構最近できたと思われる招待所を発見。 70元で、かなりコ

ンパクトで近代的な設備。ここにする。お湯もちゃんと出た。19:05分宿到着。寒い中を2時間も散歩してまわったことになる。少し休憩して食事に出る。 近所にイスラム料理

屋があったのでそこにする。家族経営のお店。店員の娘が「どこの人」と聞いてくるので、「日本人」というと、他の皆に「日本人だってさー」と伝えにいって いる。食事

12.5元。
その後、汽車站を探して散歩するがなかなか見つからない。火汽車站集票所に行くと、良く見るとそこは、「代理」と書いてある。つまり、ここは駅ではない。 確かによく考

えてみると、この規模は西安ほどの駅の規模とは思えない。ひょっとして駅は更にもっと北なのでは、と思い歩くこと10分。20時10分頃、なにやら、ライ トアップされた高速

道路の高架のようなものが、通りの先のビルの間に見えてくる。あった。これが駅か、と思いつつ近づくと、高架だと思っていたものは、駅前を飾る巨大なデコ レーションで

あることがわかる。高架と駅の全貌が、近づくについて見えてきて、「ふおおおおおお」と思わず唸ってしまった。まるで東京駅丸の内口に、巨大な高架をかけ て、黄色い光

でライトアップしたような規模である。高架の上には、左右に楼閣が2基づつあり、これもイルミネーションで覆われている。これは凄い。しかも中国と西欧の 両方の要素が

融合しているイメージに一番ちかい。驚いた。とにかく驚いた。

 部屋に戻って、本日の日記、支出と明日の予定をチェック。ガイドブックには、西安〜洛陽間425Kmで6時間とある。えー?、明日は早く起きなくては。 日本から持ってきた

ペンがインク切れ。明日買わなくては。シャワーはちゃんとした水の勢いで熱湯が出る。ありがたい。21時52分寝る。




1月3日

5時23分目がさめる。ゆっくりと6時12分に起床。6時35分に宿を出る。
6時58分、駅でペンと朝飯を買う。ペン1元。「ペン」で通じた。朝飯4.5元。バス代90.5元。
7時20分発。ここまでは非常に順調だったのだが、何故かバスはずーっとゆっくり走る。時速20Kmも出ていない。乗客を探してるのだろうかと思っていた が、そんな風でもない

。西安東のバスターミナルに8時頃入った時は、ここまでは、乗客探していたのかな、と思っていたが、ここを出てすぐにタイヤ会社の前で停車したので、つい に、トラブルだ

とわかる。しかし、トラブルだと判明するまでは相当イライラした。何故他の乗客は騒ぎ出さないのだろうか、と思っていたら、そういうことでしたか。8時半 頃までかかって

やっと修理終了。その後、高速入り口でまた乗客を拾い停車。この時、次の洛陽行きバスが追いついてやってくる。彼らの乗客が少ないのか、全員私の乗ってい るバスに移動

してくる。これで客数もそこそこになった。ついに高速に乗って順調に出発。9時になっていた。やれやれ。

10:56分、洛陽まで205Km地点に至る。反対車線の看板に書かれた西安までの距離数を見ると、高速道路での西安-洛陽間距離は355Kmほど、とい うことになる。やせて木もまば

らな黄河土地といわれるが、そのままのイメージの大地がバスの両側に展開している。大地はいたるところで侵食が進んでいて、険しい峡谷をなしていて、その 峡谷の断崖の

下に、洞窟がいくつも穿ってある。これがあの、洞窟住居というやつか、とはじめて目にする。洞窟住居は、放棄されているように見えるところもあれば、現在 も利用されて

いるものもある。

13:34分洛陽到着。
バスターミナルのバスの台数は、西安では60台ほどだったが、洛陽は200台くらいは停車していそうなくらい大きなターミナルである。しかし雑然とした感 じ。とりあえずトイ

レ行って駅前でおばさんから地図を購入する。6元。食事しつつ(水餃子6元)、店のおじさんに白馬寺までいくバス路線バス乗り場について聞く。56路で駅 前から出ていると

のこと。バス停横にある案内所を3箇所尋ね歩いて56路乗り場に辿り着く。

14:18分に56路バスに乗車。14:45頃、白馬寺に着く。
白馬寺は専用のバスストップがあり、観光用の店が境内入り口前広場両側にずらっと並び、大観光地。ここで客引きしているおばちゃん、おじさんに漢魏洛陽城 を聞くと、白

馬寺の入り口まで戻ってから、東だよ、と入われる。入り口前に停車している、バイクの後ろに座席をくっつけた簡易タクシーのおっちゃんに聞くと、10元で 行ってくれる、

とのこと。早速乗車。すると、単に白馬寺前の国道を、そのまま東に1Km程行ったところで停車。まぁ、この際、高いだのなんだと文句は言うまい。この両側 南北に広がって

いる田んぼの畦道がそうなのだそうだ。ということで、難なく遺跡に到達。15時頃だったろうか。

まずは北に向かって歩く。戻る時に歩数を図ったら国道から約900歩ほどの地点に、何も銘文の記されていない石碑が建っており、多分これが洛陽城と示す石 碑なのだろう、と

いうことでここで引き返す。この辺りで3,4Mの高さの、城壁だったものと思われる土手となっている。3時13分。空は、この旅行はじめて薄い青空模様と なり、太陽の場所がな

んとなくわかる。これまでの、毎日500M四方くらいしか見えなかった視界の悪さと比べると、この奇跡は、単に洛陽がそういう地域だからなのか、普段の行 いがいいから、霧

が晴れてくれたのだろうか、と能天気にも考えてしまう。とにかく、西側の白馬寺敷地方面以外、数キロ四方に渡って一面畑が広がっていて、気持ちがいい。憧 れの場所にこ

れたこともあって、天気もよくて実にいい気分。

国道に戻ると、バイクタクシーの親父が待っていた。ありゃ。帰っていいって言ったつもりだったのに、伝わらなかったか。待たせちゃって悪かったな。する と、親父、南側

の方に歩き出す。国道から70M程南へ行くと、電車の線路があり、フェンス囲いがしてあるが、フェンスの一部が切り裂いてある個所を教えてくれ、線路の南 側まで案内してく

れる。親父に案内料としてもう6元渡し、帰りは自力で帰る、と身振りで伝えて別れる。

さて、南の方は、畦道ではなく、城壁も数メートルの高さの藪土手となっている。藪のため、土手の上を歩くことはできず、土手の東側の畑の脇を歩く。一面ニ ラだと思われる植物が栽培されている。極力栽培されているニラを踏まないように気をつけながら500M程行くと、やっと土手の際に畦道が出てきて、この先 1kM程先まで続いていた。1Km程いくと、土手は東に向かって曲がっていて、これが南端かと思われる構造だが、現在の調査によれば、南城壁は洛水によっ て流されてしまったとのことなので、ここではないことになる。この東に向かっている部分は本当のただの土手なのか、それとも、都の遺跡の一部なのか不明だ が、土手はここで東と南に分岐し、南に向かって伸びているので、更にその先を歩く。しかしこの先は、小川によって分断されていて、小川まで下って渡った り、再度畑まで登ったりと、靴や手が泥だらけになりながらの行軍となった。歩きながら、冬でよかった、とも思う。夏であれば、藪蚊が大量にいたり、蛇や毒 虫などが出たり、青々とした雑草に、土手の中に垣間見える城壁らしき遺構の部分の見分けもつけがたかったかもしれない、と思うからである。だたし冬でも、 雪が降っていたりしたら、散策はもっと大変な状況に陥ったものと思われる。

16時20分頃に南端と思わしき部分に到達。ここで、今度は土手の西側を歩いて国道まで戻ることにする。
16時48分、国道まで戻る。白馬寺には17時10分程に到着。あわよくば白馬寺もみようかと思ったが、既にクローズとなっていた。

18時頃市内に戻るが、市内に戻るバスの中で、体がどんどん冷え切っているのがわかり、若干具合が悪くなる。遺跡散策中、汗をかいてきたので、セーター1 枚になっていたら、思ったより冷えてしまったらしい。体の芯まで冷えてきた感じで、余裕をもって宿探しをすることができず、汽車站前の招待所の客引きにつ かまってそのまま入ってしまう。1件目は、エアコンがないので断り、2件目は、片言の英単語を知っているので、ちょっとやばいかなぁ、と思いつつ一応部屋 の中身を見る。エアコンはあるものの、共産時代の学校のような内装で、部屋中なんとはなしにトイレのにおいのする部屋。これで140元は高い。100元な ら、と断るために言っていたら、段々値下がりして、とうとう100元でいい、と言われ、もともとこっちが出した言い値なので、断れなくなってしまい、仕方 が無いので100元でここに泊まることにする。しかし、チェックインしてからよくよく見ると、窓に鍵がなく、トイレも水が流れない。お湯も出ない感じ。エ アコンの効きも悪い。これにケチをつけて、今度こそキャンセルしよう、と受け付けにクレームに行ったら、少年(青年)が、まず部屋と代えてくれ、しかしそ こも鍵がなかったので、3階南側の各部屋の窓を全部確かめ、ついには、鍵はあるが、窓がちゃんと閉じない部屋から、鍵を取り外してきて、私の部屋に取り付 けてくれた。

招待所内は、2階はまだ改装中で、2階の踊り場にはTVの箱が山積みとなっている。まさに今、旧態依然たる設備を近代的にしようと努力している最中である ことがわかる。青年も一生懸命にやっていることがわかったので、なんとなく、店員は安全だろう、とも思い、これ以上ケチをつけるのはやめて、ここに泊まる ことにした。部屋を変えたことで、トイレは流れるようになり、エアコンも2時間くらいつけておくと、急に効きがよくなることがわかったし、シャワーも、 10分くらい出していると、お湯が出ることもわかった。洗面所とトイレにいたる扉をちゃんと閉めておけば、トイレ臭は部屋には入ってこないし、洗面所のト イレ臭は我慢することにすれば、わりと快適ではある。

体が冷えているので、先ほど見かけたラーメン屋に行く。イスラム料理屋だった。牛肉ラーメン注文。4元。
食事後、購入した地図に、隋唐洛陽城城壁跡地となっている、駅近くの場所を、1時間程散歩しながら探すも、遺構は見つからないようなので、あきらめて部屋 に戻る。途中でバナナと牛乳ジュースを買って20時45分頃宿に戻る。漢魏洛陽城城壁探検で泥だらけとなった靴を洗う。大分汗をかいたので、着たきりだっ た下着を新しいものに変える。


1月4日

6:20分頃起床。TVつけて、しばしワームアップ。7:00頃からゆっくりと仕度を開始する。
7:30頃には、外は既にかなり明るくなってきている。これは東に移動してきたため、日の出の時間が早くなったということなのだろう。とすれば、明日から 30分程早めに活動開始をシフトした方がいいだろう。開封ではもっと朝が早くなるだろう。

受け付けで、親父が近郊観光地のエクスカージョン案内にうるさかったが、なんとか古墓博物館へのバス路線を聞き出す。83路。
7:40分発の新安県行きバスに乗る。6元。しかし乗客は私一人。なので、予想通り、バスはあちこちより道し、乗客確保に努めることに。
30Kmしか離れていない新安県には9時頃の到着となった。ターミナル前ですぐにタクシー拾う。最初のタクシーは若い兄ちゃんで、断られてしまった。「東 関村東城門」とメモに書かれ、おそらく、「そこは近いのだから、歩いていけ」ということであったと思われる。しかし、距離も場所もよくわからない状況で は、やはりタクシーが一番ということで、2台目に来たタクシーでお願いすると、30代中頃のオジちゃんドライバー、行ってくれる、とのこと。で成る程、 あっという間(5分くらい)で着く。

場所は、バス通りを戻って、確かに市街地の東端の方にある橋迄行き、その橋の東側の脇を、北に下ってゆく道に折れて、500Mくらいの地点にあった。つま り「中国の歴史散歩第2巻」の記載のあった、新安県の市街から500Mという記載は、間違いではなかった、ということになる。洛陽駅前で入手した地図で は、新安県市街の東数キロ地点に見えるため、これは、現地情報より日本書籍の情報の方が正しかった、という例になった。タクシーは10元。距離の割に高い のはもちろんだが、ガイド料が入っていると考えれば、まぁ妥当か。場所の情報さえあれば、バスターミナルから充分歩いていける距離である。恐らくバスター ミナルから1Km程度だと推測される。

 というわけで、本旅行優先順位第3位の漢函谷関に来ました。
おもったよりも大きい。9時13分頃から40分くらい、歩いてみて廻る。「中国の歴史散歩」に記載のある、東側100M程にある橋の残骸遺構は判別できな かったが、漢函谷関の全体像と、ロケーションについてはよくわかった。谷間にあり、直ぐ北側の山に向かう斜面、20M程度上を列車が、多少距離があるが、 南側の山に向かって500M程度のところ、洛陽への国道が通っていて、漢函谷関は、その南北の丘の間の谷間に構えられている。関のトンネルの両側に、露台 の遺構が残り、全体として鳥が翼を広げたような形状をしている。遺構の上に上って、ひとおおり南側の鶏鳴台から、北側の太初台までいって、戻る。一部版築 跡と思われる部分も見ることができた。

関の東側は、ほぼ畑が広がっているだけで、西側に、おそらく東関村という名称の村があった。関の西側10M程度のところの路地の北側に、「漢函谷関文化研 究所」という看板のかかっている、村のほかの家と区別のつかない構えの施設があった。一応調査は続いているのだろう。

村の真中を通っている道を500M程戻って、国道に戻る。国道手前50M程は、かなりの急坂を登らなくてはならない。国道にでて、1,2分すると、直ぐに バスが来た。途中乗車なので、5元でいいだろう、と思って5元だけ渡すと、それですんなりOKだった。新安県だけではなく、新安県の先にある町からのバス も通る東西の街道であるため、バスはかなりの頻度で来るので、交通事情は非常によいと言える。洛陽を訪問する人は足を伸ばして、ここまで来てもいいのでは ないだろうか。また新安県は、治安上宿泊することがあまりお奨めできない程度の地方都市なのだが、漢函谷関をもっと観光地資源として、多少の有料施設とし てもいいから、観光産業を起こせば、治安に関する不安は改善されるのではないかと思うのだがどうだろうか。漢魏洛陽城や漢函谷関など、放置されている施設 を、有料化して整備し、売り出すことを検討してはどうだろうか、と、洛陽市の観光課(に相当するところに)に投稿しようかと思ってしまう。

9時55分頃に新安県をでて、10時48分頃洛陽駅前汽車站に着く。
駅前の83路バス停に待つこと15分、バスが来る。地図を見ていると、近いように思えたが、結構遠い。しかも、一つ手前の祁山のバス停(12個目のバス 停)から、次の古墓博物館のバス停まで2k以上はありそうで、しかも、祁山バス停通過後、大きな交差点を西に向かって折れるため、一つ降りるバス停を間違 えると、結構大変なことになる。そのかわり、古墓博物館のバス停は、バスが西に向きを変えてから付近に何もないところを延々と走るので、降りる場所を間違 う、ということなないかと思われる。

古墓博物館バス停下車地点で、「古墓博物館」と書かれたアーケードの看板があるので、場所はわかるのだが、博物館自体は、そこから更に500Mくらい北へ 向かって歩く。やれやれ。なんでこんな場所に、という疑問は後ほど氷解することになるのだが、11:40頃博物館入り口について、1時間程見学する。あま りに人がいないので、「まさか休館では・・・」と若干不安になるも、ちゃんとやっていたし、私がチケット買っているときにも、タクシーで、一組の中国人 カップルが見学に来ていたので、ほっとする。

この博物館の展示は予想以上、期待以上の充実ぶり。22基の、前漢から、宋代までの墓がそのまま移築されていて、自由に墓の中に入ってみることができる。 しかも、入り口の案内版を見ると、北魏宣武帝稜が敷地内にあり、こちらも見れるようになっている。これで入場料20元は安いかも。

館内に入ると、最初に洛陽近郊のジオラマがあり、隋唐洛陽城と漢魏洛陽城の場所が、マッチ棒程度の灰色の枠を城壁に見立てたジオラマの上に貼り付けてあ る。その両側に、様々な書籍を取り扱った売店があり、もしかしたら、大書店よりも充実しているのではないか、と思える程の書籍が並んでいる。これは最終日 に北京で、大書店を訪問してわかったことだが、洛陽関係の考古歴史書籍については、この博物館は圧倒的である。プロならばともかく素人が洛陽関係資料の資 料を入手するには、この博物館はお奨めだと思う。しかし、値段が高い。日本並の値段で、こちらが欲しくなるような内容の良書となると、680元とか980 元もする。日本円で一万円とか一万5千円とかである。しかも、書籍自体に値段が付いているから、日本人向けにぼったくり値段をつけているわけでもない。定 価である。これら高額書籍は、紙質もいいし、ほぼカラー刷りの先進国並のクオリティであるため、このような価格とならざるを得ないのだろうが、それにして も高い。ということで、洛陽近郊古墓の壁画を扱った比較的安めな割には充実した内容の、380元の書籍を、値切って300元で購入。結構粘ったが、これ以 上安くはならなかった。(「洛陽漢墓壁画芸術」河南美術出版社 2004年7月) しかし、私の粘ったが、ここの親父も、色々な本を取り出してきて、終わ る気配がない、凄い商魂と粘りだった。まぁ、客が殆どいない状況では、暇だったろうし、一人の客に何十分でも応対しても問題ないので、あれだけの粘りを示 したのだろうが。このまま付き合っていると1時間くらいは解放されそうもないので、早々に古墓博物館のガイド(32元)と上記書籍を買って古墓の見学に進 む。

親父が、購入書籍を新聞紙で丁寧に梱包してしまったおかげで、見学中に書籍の中身を確認しない結果となってしまったため、帰国後にこれら書籍の内容を参照 してからわかったことだが、曹魏古墓の中の北側壁画は、写真をとったのに、南側壁画を見落とした、というミステイクをしてしまった。北側よりも、南側壁画 の方がクオリティが高いのだ。まぁ、仕方が無いか。洛陽東南60Km程の地点にある、密県の漢墓は、この古墓博物館に移築されておらず、長い人生、多分将 来のどこかで、もう一度くらい洛陽に来ることもあるだろうから、そのとき密県の古墓とともに、ここももう一度くればいいや、とあきらめることにする。その 他の墓も色々参考になり、驚かされるものもあった。例えば西晋の墓では、墓の玄室の四隅に柱があり、この柱が、1.5Mくらい、丁度あごのところで切れて いる柱ががあるのだが、案内人のおじさんが一つの柱の前に立ち、私が反対側の柱の前に立ち、おじさんが言葉を発すると、伝送管のように、私の目の前の柱頭 部分から、おじさんの声が聞こえてくるのである。これは意図した設計なのか、偶然にそうなった現象を利用して、博物館で見世物にしているのか、そこはわか らなかったが、もし意図した設計であるとすると、これは凄いことである。

宋代の墓は、内部の意匠が複雑になり、地下に家を復元したようになっている点に興味がそそられる。また、親父が、5元払えば見せてあげる、との言葉に、な んだかよくわからず扉を入ると、2つの金属でできた、水の入った洗面器のようなものがあり、これが、両側の取っての部分を手でなぞると、水が噴水のように 波立つのである。この洗面器のようなものは、宋代か金代の遺物、という風に扉横の説明書きにあったように記憶しているが、あまり定かではない。

最後に北魏宣武帝の稜を見学する。入り口のところで管理人と思われるおばちゃん達が4人ほど雑談している。稜の標高は目算で30M程か。稜入り口を入る と、斜めに下っているトンネルがあり、これが70M程度だろうか。トンネルの先は玄室となっていて、標高15Mほどの、とんがり帽子のような形状の石組み (版築だと思うが)の玄室となっていて、青白い光でライトアップされていた。中には、特に装飾のない石棺が1個放置してあるだけ。写真を取ろうにも、オー バーフレームとなってしまい、ただの青白い石壁しか写らなく、玄室の構造もわからない写真となってしまうので、玄室は撮影しないままに終わる。


帰りのバスでは、1元札がなかったことに気がついたが、「運転手が両替してくれるだろう」と思って乗ったら、無理で、運転手は「いいや、乗ってけ」という ジェスチャ。

無料で乗ることになってしまったが、なんとなく他の乗客に気まずい。只で乗せていただいているのだから、と席が空いても座らないようにする。こういういい こと(?)が

あった時は気を引き締めなくては、と思いつつも、はやりこの後悪いことが起ってしまうのだった。まぁ、大体そういうものだが。

1時20分頃洛陽汽車站に戻る。昨日食事をしたお店で昼食にしようと思ったが、店を間違えて一見前の店に入ってしまう。餃子5元。この調子であれば、嵩山 の523年建設の塔を訪問できる、と思い、ケ封県へのバスチケットを購入。19.5元。窓口のお姉さんが「許昌行きに乗るのよ」とメモに書いてくれたが、 段々なれてきたからか、検票口にいる人に聞けばいいや、と検票口で、そこにいたおじさんに見せたら、わざわざ案内してくれる。しかしなかなか見つからな い。これだけ台数が多いのだから見つからないのも仕方が無いか、と思っていると、許昌行きとは異なる目的地のバスの乗客にどこ行きかきいている模様。運転 手はすぐそばの飲食店で食事中とのことで、そこへいって、チケットを見せると、その運転手は、そのままチケットを切ってしまう。これでは許昌行きのバスに 乗れなくなってしまう。この段階でちょっとあやしいと思ったが、他の乗客のいることだし、そのままバスに乗って待つ。すると、先ほど案内したおっさんが乗 り込んできて、案内料よこせという。5元。うるさいので5元払って退散してもらう。バスは13時50分発のはずが、全然発射する気配がない。なんだかうさ んくさそうな(チャールズブロンソンに似ている)おっさんとかが乗ってきて、こちらをじろじろ眺めている。そのうち、40歳くらいのおっさんと若造も乗っ てきて、あれこれ聞かれる。ふたりとも黒い皮ジャンを着ている。「日本人か」「日本からきているのか」「日本円持ってるか」「どこにいくんだ」「少林寺 か?おまえ少林寺やるのか?バスの運転手もやっているよ」「一人か?」などと聞かれるに至って、危険信号が一気に危険領域にはねる。13時50分丁度に、 前の方から、許昌行きのバスが発車しているのが見える。「ちょっと、どうして発車しないの」と運転手(こいつも黒い皮ジャン)聞くと、「14時30分の発 車」だという。これは明らかにおかしい。13時50分発のバスがあるのに、何故こんなバスを案内するんだ。いいかげんやばいと思ったので、14時10分、 隙を見てバスをおりる。4対1では勝ち目はない。もう一度許昌行きチケットを買おうと窓口に戻ると、なんと先ほどの男たちのうちの一人がついてきて、窓口 のおばさんになにやら行っている。「こいつは俺達のバスに乗るからいいんだ」とでも言っているのだろうか。いよいよやばいと思い、この汽車站から乗るのは やめることにして、汽車站自体から逃げ出す。

火汽車站の脇に、もう一つ長距離汽車站があり、そこにケ封県行き井の看板があったのを記憶していたので、そこを利用することに変更する。ところが、いざ汽 車站についてみると、もうケ封県に行くことは考えておらず、開封行きのチケットを注文していた。なぜ心変わりがしたのかといえば、ケ封で彼らが待ち伏せし ていないとも限らない、と考えたため。ケ封県自体が少林寺で有名な観光地であり、日本人観光客目当ての犯罪者が多数いてもおかしくない。日本に住んでい る、と書いてしまったことも、気が緩んでいた証拠だろう。中国在住とでも書けばよかった。しかし、開封行きチケットは「没有」。最初の汽車站に戻るのは、 奴らが発車する30分までは、奴らまだいるかも知れない。恐いので、結局最初の汽車站の前で発車待ちしていた鄭州行きに、その場で運賃払って乗り込む。 35元。こちらのバスは、子供、少年、女性が多く既に満車に近い。安心。
14時39分発。殆ど高速だったので、鄭州市街には16時半頃には到着。
しかし、市街に入ってから渋滞に巻き込まれる。17時15分汽車站着。鄭州手前40Km程のところで、黄河大地の侵食地形は終了し、平野部となる。
17時30分発開封行きチケットを購入(12元)し、お茶買ってトイレいってさっさと移動。鄭州は、高速の高架が市街にかかるなど、近代都市の風貌がある が、あまり外資が進出しているようには見えない。やはり内陸都市という印象である。

開封-鄭州間は、高速道路一直線であるため、19時には開封に到着する。この高速道路は、日本の東名高速道路なみの間隔でナトリウム証明が煌々とともさ れ、しかも車はほと

んど走っていないという状況。まったくのエネルギーの無駄である。ナトリウム灯照明を一本おきにしても、充分明るいと思う。この調子で、中国全土の高速道 路の夜間照明

をしているのだとしたら、中国のエネルギー消費は莫大な量に達するだろう。まさに世界の資源をがぶ飲みしている印象だ(しかし、ここまで明るい照明は旅行 中ここだけで

、この先、太原や北京近くでも日没後の走行をしたが、殆ど照明はなかったので、少しほっとした)。

駅前に沢山招待所があったが、時間に余裕があるので、ゆっくり探す。2Kmくらい北上し、19時50分、ほぼイメージ通りの家族経営の招待所を発見。60 元。エアコンはなかったが、電熱を扇風機で放熱する仕組みの暖房器具があり、これが、エアコンよりも暖かい暖房効果があることがわかる。
夕飯に出て店を探して歩いていると、更に幾つも招待所が見つかる。更に、相国寺長途汽車站があった。つまり、開封市街の南にある汽車站から、招待所を探し て2Kmばかり北

上しているうちに、相国寺長途汽車站まで来てしまい、相国寺長途汽車站周辺の一番遠い招待所に宿泊することになった、というわけ。20時10分頃、夕食。 少しちゃんとした

店に入る。鴨料理。日本酒煮込みのようなソースの味。17元。


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