1月5日

6:00アラーム音で目覚める。しかし、また寝てしまい。、6時54分に起床。

急いで支度する。シャワー、温水が出ないこと以外は、あったかい宿だった。

7:14頃出発。宿を出たときはまだ暗かったが、だんだん日があけてくる。宋代の町を再現した通りにつく頃は大分あかるくなっている。

龍亭まで歩く。宿から2Km程度か。龍亭の入場料は35元。高い。8時は過ぎていたが、窓口はいままさに空けようとしているところで、窓口に行くと、引き 出しからチケットを出してくれたので、私が最初の客なのだろう。龍亭は、宋代の庭園を模している公園で、直径1Km程の湖の真中に回廊がある構造をしてい る。

また中心部には、北宋の朝廷の建築物を再現した廟台があり、老人達が、正面の階段を上がり下がりして、健康のための運動をしている。彼らは付近の住民のよ うであり、無料で入場できるのだろうか? 廟台の上からは、開封市が見渡せる。朝もやの中で、それほど見渡しがいいわけではないが、北西方面には、清明上 河図を再現したテーマパークと思わしき方面に、楼閣がもやの中にいくつか見え、宋代の景色もこんなもんだったのかも、という雰囲気が味わえる。北東方面に は、やはり2KM程先のもやの中に、鉄塔とおぼしきシルエットが小さく浮かんでいる。そのまま龍亭の北口まで歩き、7時50頃龍亭を出る。

龍亭をでたところでは、太極拳をやっている集団がいた。
うっすらと見えている鉄塔まで約2kmの目算。歩こうかどうしようか迷った末、タクシーにする。ここで無理に歩いて時間を消費する理由がない。しかし、タ クシーで行って見ると、鉄塔まで1km程度のところの、鉄塔公園入り口で下ろされる。ひゃー。鉄塔まで1kmはあるところに入り口が。これから1kmも歩 くのかーと思いつつ、ここまできたのだから仕方がない。タクシー代5元。入場料20元。鉄塔までさっさと歩いて戻って、8時14分頃、入り口に戻る。鉄塔 のもとまでいったものの、鉄塔に登るには、別途入場料が必要だったことと、このもやでは、龍亭でみた以上の景色は見れないだろう、とも思い、時間もないの で引き上げることにする。

公園入り口から、直ぐ北のところに城壁と城門があったので、200m程歩いて城門まで200m程のところで写真をとり、引き返す。鉄塔公園入り口前にバス 停があったので、そこでバス停看板をみると、この1路線が、繁華街を貫いて汽車站まで行っていることが判明。しかも先の龍亭の北口の前も通過している。あ りゃー知っていればタクシーのったのに、と思っても後の祭り。10分まって8時30分頃バスは発車し、龍亭北口前、清明上河公園脇を通り、汽車站へ。この 1路バスは、繁華街を練って通るため観光には便利かも。

9時05分頃汽車站着。運良く9時10分初の邯鄲行きが手に入り、集票所のお姉さんには「早く行きなさい」みたいなことを言われ。、時間を見るとその通 り。ぎりぎりで乗り込む。51元。こりゃ、結構スケジュール前倒しになるかなーと期待。しかし、いいことがあると、必ず悪いことと背中合わせ。なんと邯鄲 には15時30分の到着。6時間以上かかった計算。地図を見ると、開封から邯鄲までは、高速道路がないのであった。狭いローカル道路をくねくねと走り、い つとはつかず、遅々として進むバスに、途中で、まー最悪邯鄲宿泊でもいいかーくらいの諦め。途中うとうとしてしまい、安陽をいつ通過したのか、さえわから ない状態。磁州、長境で休憩。朝食を食べる時間がなかったので、途中バスが停車したときに入ってきた物売りのおばさんから、卵のサンドイッチと、ロースト ビーフのサンドイッチを買って食べる(それぞれ1元、2元)。

邯鄲はで、この時間で、太原までの距離を考えるとバスはもうないのだろうな、とだめもとで利いてみると、なんとチケットあるとのこと!ひゃーうれしー。で も何時に着くのだろうか。まぁいいや。このはらはら感が、旅行って面白いんだから、と迷わず購入。100元。高い!15:39分チケット購入。

邯鄲の町は広元みたいな町だった。漢字の看板が多く、80年代風の建築物ばかりで、内陸の町という印象。しかしローマ字の看板もあり、WWWのURLの 入った看板を一個見つける。邯鄲駅前でパン3元、バナナ3.5元で購入。昼食を食べようと思ったが、汽車站前にいい店が見つからず、時間もあまりなかった ので、昼食は諦めてパンを買った。

16時20分発車。この太原行きバスは「地球の歩き方」に乗っているようなバスだった。7日目にしてついにそのようなバスに遭遇。
ちゃんとした制服を着て、サーブする車掌がいて、座席は贅沢な3列。暖房もちゃんとしていて、皆上着を脱いでいて軽装である。なによりも新聞を読んでい る、というビジネスマン客ばかり。うーむ。100元も出すと客層が違う。いま思えば、開封でも、宿の近くにあった、相国寺長途汽車站に行けば、邯鄲まで、 鄭州経由の高速バスがあったのかも、と思う。

今日は、大気汚染か、曇りなのかわからない程度には、晴れてきた感じ。途中北京566Km地点で、太原まで67Km、石家荘275Km(石家荘経由)、大 同経由で、北京676Km、大同370Kmの看板。長治あたりを通過しているところで、太原まで186Km。太行山嶺は、思ったとおりあまり険しくはな く、陽がくれるまでに、だいたい山の状況はわかる感じ。少なくとも丹沢よりや険しくない感じ。陽がくれてからも、月が煌々と照っていて、山のシルエットが 良く見えた。17:43分、18:13分、18:37分と、3回峠を越える。太原へ約50Km付近では、2720mの長距離トンネル。このあたりは、トン ネルが断続的に続いており、ずっと下り坂となっていた。太原のある盆地へ向かってくだっていたものと思われる。


19:34−47分。高速のドライブインにて休憩。運転手に、「汽車站を去ってどこにいくのか」と聞かれ、少し会話に戸惑う。このときは「去」の意味がわ かってなかったのだ。普通に[行く」という意味であることを会話手帳で確認したのは後のこと。でもおそらく汽車站までは行かないのか、それとも汽車站に行 くなら、そこまで行こうか、という会話だったように判断。21時過ぎに太原市街に入る。通りに人を殆ど見かけない。やはり寒いのだろうか。注意して見てい ると、たまに人を見かけるが、それ程厳重な防寒装備でもないようで、少し安心する。

21時25分頃、太原着。しかし、またしても中途半端なところでおろされてしまう。予想に反して雪はなく、空気が冷たいという感じ。かなり寒かったが、危 険なほどではなかった。バスを降りた付近にあった招待所に入る。セントラルヒーティングがあったが、窓に鍵がなかったため、ここは辞める。しかし、セント ラルひーてぃんぐが招待所に入っているのであれば、宿探しは楽そうである。少し歩いたが、とても近くに駅がある雰囲気ではなかったため、諦めてタクシーに 乗る。乗ってみてわかったが、なんと駅までは大分距離があった。5km近くあったのではないだろうか。通りにほとんど人がいない。寒いから人がいないだけ だろう、とは思うものの、あまりに人がいないのには、「小さい町なのか?」と少し不安になる。それでも24時間営業のマクドナルドが見えたときにはほっと する。駅が見えてきたところで、駅の手前500mくらいのところでおろしてもらう。5元。



ここから駅まで歩くうちには、招待所にぶちあたるだろう、と思って歩き出すと、客引きのおばさんにあう。この寒空の中、こんなところで客引きか。大変。そ こは、廃墟としか思えない招待所の前。いやぁ大丈夫かな。でも内部は案外いいかもしれないし、と、だめもとで、人のよさそうな人だったのでついてゆくと、 その駅前通り沿いの廃墟の招待所ではなく、廃墟の奥へと真っ暗な通りをさらに奥に入ってゆく。えー大丈夫かい、と思いつつ招待所到着。崩壊しそうな建物だ が、中を見せてもらうと、改善努力が見られる感じ。ベッドもトイレもしっかりしているので、ここにする。家族経営なようで、旦那に金を支払うと、おじいさ んがお湯の入ったポッドをもってやってくる。うん、治安は大丈夫そう。40元。21時40分だった。

ということで飯に出る。24時間営業のマックに行こうと思ったが、通りでまた客引きにでていたおばさんに会う。食事のジェスチュアをすると、駅の方を示し て、「こっちにあるよ」といわれる。マックは反対方向だったので、行くわけにいかず、おばさんに言われた方に向かって歩くと、24時間営業の中華料理の ファストフードがあったので、そこにする。6元の水餃子にする。22時、ようやく夕食にありつく。満月で、なんとオリオン座が見えた。宿に戻ると、まだお ばさんが客引きをしている。おばさんに声をかけ、ホカロンを出す。あっためようと、こすっていると、おばさん「これ日本のなの」とか聞いてくる。少しあっ たかくなったところであげる。直ぐにはあたたかくならないので、効果の程をわかっていただけたかわからないが。。。部屋に戻ってTV見ると、英語の番組。 清朝末期のドイツの進出についての番組らしい。お湯をペットボトルに補給して寝る。




1月6日

6時44分頃、少し寒くて目覚める。でも体調に問題はなさそう。ゆっくりと7時頃起床。トイレへ。そろそろトイレットペーパの残量が気になりだす。
8時前に宿を出て、8時10分頃マクドに。14.5元。(メニューには13.5とあったのだが、なぜ?面倒だったから理由は聞かなかったけど。レジにも 14.5と打っていたし、レシートもくれたので、まぁいいか、と思ってしった)。

8時50分頃にマックを出て散歩に。
太原の繁華街をぐるっと回ることにする。途中でくわした本屋で地図を買う。漢中の本屋でみた高速道路地図と同じものはなかったが、いくつか見比べてみて、 価格もだいたどれも20元前後だったが、8.5元のリーズナブルなものがあったのでそれを購入。この本屋は、旧態依然、いかにも共産主義文化。やたらと店 員が多く(客よりおおい)、接客するわけでもなく自分たちだけでおしゃべりし、お客にはひどく無愛想。レジでは、本をセンサーでチェックしたあと、本と、 おつりを投げてよこすという横柄さ。今回旅行8日目にしてはじめておめにかかる程度だから、既にもの珍しいといえるし、それだけ共産主義が減退していると いうことなのだろう。

ところで、本屋で何冊か地図をみたが、どれも北方領土は日本領となっていた。なにか政治的な意図があるのだろうか?

街を歩くと、香港音楽ががんがん鳴っている音楽ショップ、デパート、ショーウィンドウをみると、かなりの欧米化ぶり。「吉川家」という、吉野家と同じオレ ンジのデザインの牛丼屋発見。このパクリ。いいねぇ。思わず写真を撮ってしまう。先進国度をみるには、公共インフラ、トイレ、通信、高速道路、人の服、 24時間営業、などかなぁ、と考えつつ散策。

9:30頃、純陽宮へ。寺院内の山西省歴史博物館を見学。額面20元のチケットだが、5元では入れる。、純陽宮は、道観とのことだが、その建築は、少し エッシャーが入っている感じの、増築を続けた結果複雑な造りとなっている。漢代の壁画を見れたのはラッキー。あと入り口横に人造の高さ10Mくらいの丘が 作られていて、その上に上ると、元代の騎馬銅像が設置されていた。かなりリアルな銅像で、元代の遺物はあまり見たことがないので、ちょっと感激。10: 20分頃まで見学し、40分頃バスターミナルへ。11時発。72元。

この頃になって、旅行感覚が完全に戻ってきた感じがする。旅行の装備はリストを作っているのだが、今回旅行をしていて思い出したことは、水分補給とマス ク。朝水分を過剰に取りすぎると、長距離移動の時苦しい思いをする。かといって、水分不足になると、乾燥地帯では、体調不良に陥る。このためペットボトル に、宿など、補給できるところで補給し、小刻みの水分補給することが必要。ペットボトルも捨てずに水筒代わりに利用すると荷物が増えないですむ。また、今 回は使い捨てマスク(一個10円くらい)が大活躍。中国都市部は空気が悪いところがあるため、汚染対策になったとともに、夜寝るときは、乾燥対策にもなっ て、大貢献だった。今回5個しかもって行かなかったのだが、もっと持っていってもよかった感じ。
トイレットペーパーを持ち歩くこと、小銭をポケットに入れ、財布は人前で絶対に出さないこと、などは、旅行の準備をしているうちに思い出したのだが、水分 補給については、旅行に入ってしばらくするまで忘れていた。


太原をでて15分程のところで、太原の街を一望に見渡せるところに差し掛かる。結構な大都市だ。
その後、米国西部のフロンティアみたいな荒涼とした、草木もまばらな荒野を走る。天気はよく、これまでのもやと霧に包まれ、1キロ四方さえ見渡せたかどう か定かではない頃と比べると、すっかり青々とした空に覆われ、数十キロ先の山々までよく見通せる。13:40頃大同まで130kM地点のドライブインで休 憩。昨夜程のバスではなかったものの、この旅行では2番目にちゃんとしたバスだったので、車内は暖房が効いていて、隙間風などは入ってこず、車窓からは、 透明感ある景観が、はるか彼方まで見渡せる。このためバスを降りてはじめて、ものすごい風が吹いていて、相当寒いことがわかった。車内から窓越しに見てい ると、天気がいいので、暖かい印象があるが、実際は凍りつくような風がごうごうと音を立てて吹いているところを、バスは疾走しているのだった。

14:10分頃、大同まで100kM地点を通過。バスは真北に向かっていて、このあたりまでは、西も東も10〜20キロ先まで平野が続いて、その先が山脈 となっているのだが、14:20分頃、山脈が両側とも狭まってきて、バスは山脈越えに差し掛かる。太原のある盆地が終わって大同のある盆地との端境の山地 にさしかかったものと思われる。ほどなく、はるか峻険な稜線に、長城が見えてくる。とても敵が攻めてくるようなロケーションではなく、峻厳は山の頂へ向 かって鋭く天を目指して駆け上がっていく龍のようにさえ見える長城は、実用的な防壁としての意味よりも、北方蛮族に対する中国の国威を見せ付ける象徴であ ることがよくわかる。まさに脅威の建築物である。途中看板をみると、雁門関との記載があった。

大同まで69kMあたりから、植林しているような、配置のととのったポプラと思わしき林が続くようになってきた。このあたりではるか東側に、ムーター(中 国最古の木造建築とされる遼代の木塔)のある町が、東の方に見えてくると思ってみていると、はるか東2,30キロ先にうっすらと都市のようなシルエットが みえている。このあたりは、再び東西の平原が、山脈まではるかに見渡せ、その東彼方に見えているのがおそらく応県で、そこにかすかに見えている塔のような ものが、おそらく木塔だと思われる。多分遠すぎてカメラにはちゃんと写らないだろうな、と思いながら一応シャッタを押す。

バスの中では、真田広之が出演しているPROMISEという映画をやっていた。あまり集中してみていたわけではないが、CG使いすぎで、もはやゲームとし か思えない映像にはちょっと辟易してしまう。

15:30頃大同着。途中のドライブインの時の状況からすると、どのくらい寒いのか、と思っていたら、予想に反して風もなく、寒くもなかった。
しかし、到着したバスターミナルは、おそらく市街の南に位置し、ガイドブックの地図にも載っていない。
昼飯にしたかったが、まずは市街に移動しないことには不安なので、バスターミナル前の市内バス停に行くと、バス路線が書いてあり、その中に、市街の地名が 載っていたので、まずはそれに乗って市街に移動することに。大同は、北海道の荒野の真ん中のような町で、南のバスターミナルは、西部劇にでも出てきそう な、町はづれ、という印象がぴったりなロケーション。15時54分頃、医院732の1つ手前のバス停で降りて、善化寺へ向かいながら、昼食ができそうな店 を探すが、お昼どきでないからか、店はあるがどれもしまっている。寒いためか、客引きもやっておらず、店が扉を閉めているため、最初はしまっているのか、 単に寒さのため閉じているのかわからなかったが、しまっていた。南城壁の南側の路地は日影となっていて、ここを歩いているとき、寒さがこたえてくる。全体 的にさびれた北の町、という印象(この印象はあとで繁華街を見つけて変わるのだが)もあり、なんとはなしに、心も物寂しくなり、このこともあって、寒く なってくる。バスの中は比較的あたたかかったため、戸外の気温に体がなじんでいないということもあるのだろう。雪用手袋を付け、寒さ対策のためにお好み焼 きの具が入ってない生地だけのパンのようなものを買って食べる。1元。とはいえ、空気は冷たいが、歩いているとだんだんあったかくなってきて、汗ばんでく る。16時10分頃、しまってませんように、と祈りながら善化寺につく。観光しやすいようにメインストリートに茶色の大きな標識があり、場所は直ぐわか る。

入場料まけてくれるかな〜と思ったが駄目でした。20元。
金代木造建築物は確かはじめてのように思う。ちょっと感激。結構巨大。全部で3つの建築物を見学したのだが、その建築物ごとに、別々の職員が来て、戸締り (おそらく私が中国語を話せたら、解説も)してくれ、「ちょっと経費が無駄なんじゃないかなぁ、1人でいいんじゃないの」と思ってしまった。一番奥には、 金代に作られたと考えられる10Mくらいの巨大な塑像と、元代を推測される壁画があり、圧倒される。中国って、宋遼金代くらい以降の建築物は結構残ってい る、ということが実感されるようになってくる。

16時36分まで見学し、続いて華厳寺へと歩く。ガイドブック掲載地図の精度が甘いのと、途中茶色の「華厳寺」看板を見落としたため、若干遠回りとなって しまったが、16:56分くらいに到着。
華厳寺があるのは、町一番の繁華街のあたりだということが判明。
音楽がガンガンにかかり、渋谷か原宿のようなノリと人手(といってもこの付近だけだけど)。
華厳寺はなんとか見れ、敷地も狭く、職員の案内もなかったので、さっさとみて直ぐに出る。
華厳寺の大殿は高台となっていて、ここから見ると、南東方面に、結構大きな建築物がある。ガイドブックをみると、「下華厳寺」となっていて、こっちの方が より古い1038年遼代建築とのこと。えーっと思いつつ急いで移動。17:04分下華厳寺の窓口に着くが、もうしまっていた。窓口には冬時間18時までと 書いてるのに、窓口の中にいた少女は無情。残念。明日は8時半からとのこと。ここからバスターミナルは結構距離があり(といっても1〜2キロくらい)、明 日朝見学しているとスケジュールが遅れ明日じゅうに北京に着くことは難しくなるかもしれないので断念する。

あとはぶらぶら繁華街を散策しながら、バスターミナルまで移動して、宿を探すだけ。華厳寺の入り口は、おそらく遼代を模したと思われる観光用繁華街に面し ている。半キロ程の通りの両側が遼代建築風に整備されている。開封にも成都にも西安にもそんな感じの通りがあったので、これは中国全土共通の観光対策なの かも。西安は唐代風だったし、成都は、よくみなかったが、おそらく三国時代風に違いない。そう考えると、洛陽には漢代風のストリートがあるのかも知れな い。みてくればよかった。

大同市街は、甲府くらいの規模という感じ。
デパートに入ってみたが、そこは国営なのか、お客よりも店員の方が多く、ちょっと威圧的な感じ。品揃えはほぼ欧米並み。陳列も欧米なみだが、価格も欧米な み。スーツ700元?この大量な商品をこの価格で商品をさばけるのだろうか? 非常に疑問に思ってしまう。徳陽でみたジーンズなどは65元とかで、ある程 度物価に見合った妥当な根付けという感じだったが、この大同のデパートはいったいなんなのだろう?高級店なのだろうか?しかし、高級店が、このような量販 店のような陳列と大量展示をするのだろうか?

と疑問だらけとなってデパートを後にする。市街には、KFCも複数件あり、マクドナルドも1件あった。

歩きながら途中で買った羊かなにかの串焼きは非常にうまかった(1元)。
だんだん北上するにつれ、日が落ちて暗くなり、繁華街も終わって、暗い通りに差しかかる。地図上ではバスターミナルが近づいている筈なのだが、それらしい 賑わいはなく、招待所も見つからない。18:40分、そろそろ歩き始めて3時間となり、この寒冷地では、ちょっと歩きすぎ。疲労に寒さに付け込まれ体調崩 すと困るので、さっさと招待所見つけないと、少し焦りだす。バスターミナルと思わしき建物は既にしまっていた。長距離バスターミナルは終バスが出発したら 閉まってしまうようだ。おそらくそのために、昨夜のバスは、太原のバスターミナルまで行かなかったものと思われる。24時間オールタイムでバスがガンガン 走っているトルコとは大違いである。こんな状況だったからか、汽車站前の招待所付近にいたおばちゃんに声をかけられ、とりあえず見に行くか、ということで 駅前の対面の招待所へ。

そこは見るからに共産時代の産物で、じゃっかん嫌な予感はしたが、「中身改装されているかも。見るだけみよう」という感じで行く。今回一つ思ったことは、 小さい招待所だと、家族が営業努力していたりするが、このような大きな招待所は、官営なのか、官営を引き継いでいるからなのか、共産的な感じが残ってい る。ここも、ドアは鉄の頑丈な扉に替えてあり、室内もセントラルヒーティングが効いていて暖かく、窓もちゃんと閉鎖されていて、TVもあったが、トイレが ひどかった。トイレを確認しないままにここにしてしまったのは迂闊だった。というのは、私の部屋は2階のかなり奥だったのだが、2階にトイレがなかった。 1階まで下りて、さらにトイレは電気がつかなかった。廊下の明かりをたよりに、薄暗い中用を足さなくてはならない。くさいし汚れもひどいし、こりゃひど い。ついでにいれば、衣紋かけの類は、部屋の左右の壁から渡された紐だった。しかし、これで30元という価格にちょっと惑わされ、ここに決めてしまった。

問題はほかにもあった。
部屋に入ってしばらくして気がついたのだが、扉は自動ロックではなく、内側から鍵を使って閉めるタイプだった。管理人が鍵をくれなかったので、当初は、2 個あった椅子とテーブル一個をドアの内側に置いて、侵入者がいれば、音がでるようにしてみたものの、やはり不安なので、管理人のところにいって鍵をもらう 交渉をしたが、これがかなり骨が折れた。「トイレに行くとき部屋の鍵をかける必要があるだろう」と筆部談で伝えると、「なんだトイレットペーペーパーが 必要なのか。1元だよ」などとトイレットペーパーを持ち出してくる次第。最後は実演して、やっと鍵の必要性を理解してもらったが、途中「こいつらやばいの かも」と若干疑ってしまった。宿を変えるか、とちょっと思ったものの、しかし、ここまで戸締りにうるさい奴の部屋に侵入しようと思うだろうか、と一応鍵を 借りることに成功したので部屋に戻る。

内側から鍵をかけてみると、結構頑丈な錠で、直径1cmくらいの2本の棒でロックがかかるタイプ。これでは少なくともドアから進入することは不可能であ る。念のため、壁に秘密のドアや、薄く蹴破られそうなところがないかチェックする。少なくともセキュリティ上は問題なし。問題はトイレだけ。

というわけで夕飯にでる。もう体力の消耗が怖いので、うろうろせずに、汽車站駅前の店にする。ちょっとまともなレストラン。ここで13元の鴨料理(ライス 1元)にする。若い店員ばかりだが、みな愛想がよく、特にウェイトレスに一人はメモ用紙をもってきて色々質問してくる。「あなたはどこのくにの人」「名前 は」「中国のどこの都市がよかった?」「大同はどう?」などとたわいもない内容だが(そもそも高度な会話は、私の語学力上無理なわけだけど)。穆寿(穆 は、糸偏だったと思う。寿は、寸の部分を「タ」と書く文字。フォントが出ないので寿で代用)さんという名前だと教えてくれる。こうした筆談が、日本人のイ メージアップに直結するとは思えないが、少しは意味はあるだろう。

20時頃宿に戻る。洗面所も1階のトイレの横。しかも明りはつかない。仕方がないので、ウォッシュテッシュで手や顔などあちこち拭くだけで終わり。ウォッ シュテッシュはこれまで一度も使わなかったが、はじめて活躍することになった。TVちょっとみて21時15分頃には寝る。2枚ある掛け布のうち1枚を、2 つ折にして、シーツの上に敷き、その上に寝る。掛け布団が1枚しかなく薄いので、布団の上にコートを置いて寝る。コート着たまま寝るという最悪の事態には ならないで済んだ。寒くて風邪をひくことが懸念されたが、これはこれで結構快適だがやっぱり熟睡とまではいかなかった。長いは無用で、早めに寝て早めに起 きてでかけることにする。



1月7日

21:30には寝るが、23時10分に一度起きてしまい、1時半までは頭が冴えてしまい起きていた。
この間他の部屋が結構騒々しかった。1階のトイレにいく。次に起きた時は、4:50頃。またトイレに行く。その後ちょっとうとうとして、5:30頃に目覚 める。そのままゆったりと起きていて、完全に眠気がなくなるのをまって6:30に起床。トイレにいき、暗闇の中で用を足して、部屋に戻っても一度ちゃんと 拭く。

部屋を出るとき、注意したのに、鍵を閉じ込めてしまった。締める直前まで、「鍵を持って」と頭の中で繰り返していたのに。管理人の親父の対応が心配された が、意外にすんなりと対応してくれた。
受付で身振りとメモで伝えると、おもむろに「錠はどこだ」と親父。「203号」と私。一瞬の間。

親父予備の鍵を探して、部屋まで戻ってあけてくれた。悪い親父ではなかったと思う。外に出ると、外は真っ暗。
7:15分にチケット購入。張家口まで35元。7元で、ジュースとパンを買う。
7時56分までベンチでまって、バスへ。バスの行き先は張家口とはなっていないが、洛陽と違って、バスの数台しか並んでおらず、そのへんの親父皆が、「あ のバスだよ」と案内するから、これは大丈夫だろう。

8時05分出発。
暖房はあまり効いていないようで、車中えらい寒かった。が、ホカロン使わず、耐えているうちに10時を過ぎたあたりから、あたたかい陽が差し出し、窓側が あったかくなってくる。他の乗客は、暑いからか、カーテンを閉めてしまった。感覚的に暑いのである。
景色はずっと単調で、大西部みたいな感じ。河は凍結し、集落はほとんどない。時折バス停があり、客を乗せる。時々砦跡のようなものが数キロ置きに見られ る。古代の遺跡だろうか?バスは旧式バスなのでゆれがひどく、砦跡は、座席と反対側の北側にみられるため、写真を簡単には取れない状況。
列車の路線が北側に平行して走っている。


途中、どこかの集落で一度停車。トイレ。このバスはやはり張家口直通でないようで、うとうとしていて、停車したな、とう気配がしたと思ったら、運転手に呼 びかけられる。ここで下りろ、ということらしい。下りると、ライトバンの小型バスが、横に停車していて、車掌が、2元程その運転手に支払っている。なるほ ど、ここからはこのバスに乗り換えか。で、乗り換えて、12時頃張家口着。

ライトバンに乗った時、どこに行きたいかと聞かれ、水母宮と伝えていたため張家口の、おそらく中心部で、しばし他の乗客を乗せるために待つ。
12:39分に水母宮につく。
路面際は雪が凍っている。おろされたところに、水母宮とかかれたゲートがかかっているが、その先に道が伸びている。積もった雪が凍結している幅5M程の道 路を300mほど北に向かって歩くと、モンゴルのパオが数個見えてくる。どうやら、民宿施設のようで、冬は休業しているようだ。その先に駐車場をかねた広 場があり、その脇に集票所があった。入場料10元。

とにかく、「古長城」と書かれたところを目指そうと決めていたので、上を目指して上る。入ったすぐのところに遊歩道の案内看板があり、とにかくあがってい けばよさそう、ということで、とにかく上に向かっている道を上がる。12:58分、なんとか亭、と書かれた見晴台まで上がる。張家口の町が一望に見渡せ る。舗装された階段はそこまでで、そこから先は未舗装の山道が続いている。だれもこないだろう、と荷物を亭に置いてさらに上を目指す。100m程登ったと ころで、断崖にぶちあたり、ここで無理すると遭難しそうなので、あきらめる。古長城は、まだ遠そうである。はるか1km以上先の断崖の上にそびえる長城の 写真をとって、戻ることにする。

13:18分、バスを降りた公路に戻る。
タクシーはなかなか来ず、途中通りがかったバスにも、「大境門」には行かない、といわれてしまい、結局2kM近く歩いて、市街に入ったところでタクシーを 拾う。タクシーのって15分程で大境門に到着。10元。途中スキー場の看板を見かける。へぇ。かなり近代化は浸透してきている感じ。

大境門(明時代の長城の関門)では、入場料10元支払って、長城の壁が、石組の荒いつくりの部分まで上がる。相当急な階段で息切れがする。ちょっと気分も 悪くなる。空気は冷たく、ほんと、北部に来たって感じ。ここからは、長城北側の部分となる町と、南側に広がる張家口の市街が見渡せる。日中戦争中の兵士の ことをちょっとだけ想う。

戻ると、門のところにバス停があり、丁度バスがきたが、なんと小銭がないので、行ってもらう。14:08分、タクシーで汽車站まで行ってもらう。6.5 元。
汽車站前の店で食事。といっても、昼食時間帯をはずしてしまったので、休憩に入っている店がおおく、数件先の、店前で奥さんが客引きしている店で食事。9 元。チンジャオロースーを注文。ピーマンがぶっきりのチンジャオロースー。結構うまい。親父が色々話かけてくる。酒飲むか?中国はどうだい?日本は一大文 明だ、というので、「中国もいまそうなりつつある」と書く。ここで思ったのは、「文明」という用語の使い方だ。「進んだ社会」というほどの意味で使ってい たように思えた。40分くらいまで食事して、汽車站へ。15:00発の北京いき。67元

北京行きバスは結構あたらしいバス。
昨夜の寝不足がたたったのか、バスの中でうとうとしてしまう。
16:55分パーキングで休憩で目覚めるも、完全に目が覚めず、トイレにいかなかった。
東花園収費站過ぎたところで、トラックが10km程、渋滞で連なっていた。どうも、一般車両の車線1車線と、トラック用の2車線が分けてあり、トラックの 方はほとんど渋滞で停車している。反対車線は、ほぼ空となったトラックが走っている。つまり、これらは、北京に物資を運び込む一大輸送隊なのだ。すごい! というか、北京という発展しつつある大都市が、このような莫大な物資を一方的に吸い上げている状況に少し衝撃を受ける。このまま北京までずっと続いている のでは、と軽くくらくらしたが、実際には10Km程度続いただけで済んだ。八達嶺ICの手前辺りで、バスは高速から下ろされ、一般車だけが、高速道路を通 れるように規制が引かれていた。ここから先は、トラックは一般道を通るのだろう。途中日没を見る。カメラに収める。八達嶺スキー場とう看板も見かける。


八達嶺のあたりは、険しい産地で、トンネルも多く、長城を探したが見つけられなかった。
だんだん疲れて体調不良になってくる。やがて北京市街へ。
真っ暗になったあたりで、高層ビルやネオン、日本のラーメン屋の看板などが見え始め、やがて渋滞に。ガイドブックの地図に記載のあった、前門という地点ま で400Mという看板をみつけ、ほっとする。自分がどこにいるのか、の位置を把握することはとても重要だ。
北京南站の看板があるところで循環高速を下りる。

下りたところに汽車站があるのかと思ったら、簡単には見つからず、しかしバスの車庫と思わしき、駐車しているバスがたくさん集まっているところに向かって 歩くと、市内バスの乗り場が見えてくる。薄暗く、寂れている感じ。これが北京の駅かと、少し心細くなる。キオスクで交通地図を買うも、あまり役に立たない 感じ。地図4元。

20路バスが、天安門と、大柵□を通るので、それに乗る。
バス停の数を数えながら、天安門広場で下りる。
天安門広場は思ったとおりの広さ。近くにあった旅行会社でホテルが聞ける、と思っていくも、結構冷たく、「ここなツアーだけ扱っていて、ホテルの手配はし ていない」とのお姉さんのお言葉。それでも、予算を言うと、「首都ホテル」というのを紹介してくれたので、そこに向かう。角を東の方に曲がって 200〜300mとのことだったが、500mくらい歩いても見つからないので、計画を変更し、繁華街である王府井に向かうことにして、また北へとバス通り を曲がる。

途中にあったホテルで聞いてみるとそこは外国人は泊められないホテルとのこと。
しかも予算をいうと、「そのクラスのホテルは、もうしわけないけど知らない」と申し訳なさそうに言われる。きっと京王プラザホテルのフロントで、2000 円くらいで泊まれるホテルの心当たりはない?と聞くようなものなんだろうな、と聞かれた方の困り具合がなんとなくわかる感じ。で、天安門前から東に伸びる 大通りまで出ると、かの有名な北京飯店が。

巨大な北京飯店と、手前、その向こうに続く、巨大な建築物群、幅50mはあろうかという広い道路をみて、絶望的な気分に襲われてしまった。
もしかしてこのあたりの官庁街は、このような大建築物が集まっている地帯であり、安ホテルの集まっている繁華街などないのではないだろうか?
王府井とは銀座のようなところに違いない。そんなところは高級店ばかりなのでは?と思う一方、「いやいや、高級ホテルの近くには、必ずそこに泊まれない階 層のお客用の安宿があるはず」という旅行一般のありかたを頼りに王府井に足を踏み入れる。

すると、ほどなくマクドナルドがあり、「この分なら」と期待させてくれる。
100m程あるくと、「王府井」という看板を記念写真に取る観光客の群れに。さらに歩くと、ごしゃごちゃした飲食店街「王府井小きつ街」へ。奥まったとこ ろに、「米聚賓館」という看板があり、高いかも、でも一応だめもとで、と行って見ると、思ったよりも安い金額。200元そこそこ。部屋を見せてもらうと、 暖房で蒸し暑いくらい。ちゃんとお湯もでて、窓の鍵もちゃんとしていて、電子ロックの部屋。やったー、よかったー、とホットする。20時頃チェックイン。 208元。

20:21分まで部屋で休憩し、食事に出る。安くて(といっても日本円で3000円だから必ずしも安くはないが)いい宿を見つけられて気分がよかったから か、宿を出たところの串焼き屋で、いきなりぼられて(串焼き1本10元。しかも看板に1元と書いてあるのに、この串焼きだけ10元などといわれ)、カっと して、金は払ったが、串焼きをそのまま路上に捨てた。本当はこのような行為は身が危ないかも知れないのだが、思わずやってしまった。宿は目の前の宿なの で、宿泊場所は割れている。ちょっと戻ってくるとき、待ち伏せでもされたら、と少し怖くなってしまった。

食事は、最後の夜くらい、と高いものを食べようと思いつつも、結局この「王府井小きつ街」の中の飲食店へ。でも北京ダックがあったので、注文(66元)し たのだが、なにかよくわからないことを色々言われたので、北京ダックはやめて、別の48元の鴨料理にする。いい金額なので量を警戒してご飯をたのまなかっ たら、意外に普通の量のものがきた。ビールはどう?といわれたので、思わずチンタオビール(5元)注文。すると、なんと、720ミリのボトルが来た。量が 多いので、飲んでいるうちに体が冷えてくる。よく見ると、店の中は暖房があまく寒い。鴨料理はとてもうまかったが、体が冷え切ってしまった。

21:40分まで食事して、店を出たとろで、焼餅のようなものを買う。6元。結構物価高いな、と思う。
その後、観光と、体をあっためることをかねて、王府井を北の端まで歩き、その後東単まで出て、東単を南下して、宿まで戻る。
裏通りにいくつも安宿がありそうである。今度きたら、余裕で宿探しができそう。
22:21分宿に戻る。
戻ったときには、「王府井小きつ街」はもうみな閉店していた。

宿でTVを見ると、「流行最前線」みたいな番組やっていた。俗説を疲労し、「これは美容にきくのか?」という問いを出して、それを専門家が、実際はどうな のか、などと解説する番組。先ほど買った焼餅を食べる。甘辛い具が入っている餅だった。



1月8日

7:30頃起床。疲れている感じ。
他の部屋でTELが鳴っている。きっとモーニングコールなのだろう。
TVつけると「大明王朝」という番組の紹介をしている。NHK大河物語の紹介と同じような感じ。神宗万歴帝の時代、佑王、司空、なんとかという宦官?勢力 の三つ巴の争い、という内容らしい。TV見ながらゆっくりと起きる。

8:27分に宿を出て、王府井入り口付近のマクドで朝食。セットを頼んだのだが、でてきたのをよく見ると、ハンバーグの入っていないマフィンだった。 ちょっとがっかり。2階に行ったのだが、そこには、どう見てもマクドナルドの商品を注文した顧客ではなく、駅の待合室のように、適当に持ち込んだ商品を食 べる人、なにも飲食せず、化粧しているオバサン、井戸端会議のようにだべっているだけのおばさん、暇そうな若者のグループなどがいた。王府井は、銀座のよ うな場所なのだが、この雰囲気は、日本の「近所のファミレス」の雰囲気。とても銀座のような場所の雰囲気ではない。しかしまぁ、いづれは中国全土で、マッ クがこういう雰囲気の場所になるのだろう。1990年後半のブルガリアのソフィアのマクドナルド、が外国人と金持ちの溜まり場で、それなりに高級レストラ ンの雰囲気をかもし出していたのに比べると、王府井のマックは、田舎の駅の待合室のような雰囲気。まぁマック程度でへんにタカビーにならないところはいい と思うが、しかしせっかくの北京の中心で、ちょっと田舎くさい感じは、それはそれでどうもなぁ、という気にさせられてしまう。

天安門まで歩き、9:04分に故宮に入場。ガイドブックには100元とあったが、40元で入れてしまった。冬場なので、観光客も少なく、この料金なのだろ う。天安門前には、日本語も聞こえた。日本人はじめ中国人、欧米系の観光客が、個人、団体問わず、多く集まっていた。天安門に上ろうかと思っていたが、あ まり高くなく、眺めがすごくよくなるわけでもなさそうなので、取りやめ。荷物を預けなくてはならない、とガイドブックにあったこともあり、あまりその気に ならなかった。天安門を入ると大きな中山公園という大きな広場があり、そこはまだ紫禁城敷地ではないようである。中山公園の先の門を越えたところまで無料 で入ることができた。

となると、紫禁城観光とは、故宮博物館に入らなくても、中山公園のさわりの部分までは、無料で散歩できてしまう、ということになる。
チケット売り場では、各国語の音声ガイドのレコーダを貸し出していたが、見て回る順路やペースを、ガイドレコーダの順番に依存するのが嫌なので、借りな かった。とはいえ、後でレコーダを使って観光中の欧米顧客が手にしているレコーダを見たところ、紫禁城の各館毎にボタンがあって、選択できるようになって いるようである。ま、あたりまえか。そのくらいでないと、現実的な運用に耐えられない。でも、建築物の前には、漢字と英語の縦看の解説があるので、特に困 ることはなかった。漢字が読めるというのは、本当に便利だと思う。旅行中、ほとんど欧米人を見かけることがなかった。これは旅行シーズンをはずしている し、あまりメジャーでない観光地を回っていたからかもしれないが、欧米系旅行者を見かけなかったのは、漢字の拠るところも大きいのではないかと思う。

故宮について誤解していたたことが幾つかわかった。
まず、中国政府が紫禁城内にある(クレムリンのように)、と思い込んでいた。
天安門広場は、東京の国会議事堂前広場のようなものだと思い込んでいた。
次に、紫禁城は大枠は明代にできたものの、建築物は清代に建て直されたのだろう、と思い込んでた。が、明代の建築物が結構残っていることがわかった。
更に、故宮博物館というのは、紫禁城の中の一部に、そういう博物施設があるのだと思っていたが、紫禁城の各建築物そのものが、そのまま展示室なのだ、とい うことがわかった。

とはいえ一方で、

−敷地が広いわりには、建築物の間隔も広く、殆ど1階建てなので、床面積としてはあまり大きくない
−公開展示物も、展示スペースの間隔が広く、思ったほどの数が展示されていない印象を与える

ということもわかった。
かつての大国の宝物というのは、ウィーンのハプスブルク宮、イスタンブールのトプカプ宮、テヘランの宝石美術館しか見たことがないのだが、ウィーンやトプ カプ宮の宝物の方が、数もあり、豪華な印象がある。紫禁城の展示スペースが広すぎて、このような印象になってしまっているだろうか???

ところで、紫禁城の各建築物の建築年代や改修年代を見ると、その殆どが1420年、1776年、とあり、いわゆる永楽帝・乾隆帝の各王朝の極盛期となって いる。彼ら帝の時代を境目に、国勢が下り坂になることを思うと、歴史遺産としての価値は残してくれましたものの、結局のところ、仇花のように感じられた。 私はやっぱり、いくら絢爛でも、次の時代の分まで蕩尽してしまう成果物は、あんまり好きにはなれないなぁ。


天気がよく、いわゆる冬晴れの青空が広まっている。人造の河は冷たく凍りついている。朝早いからか、観光客でごったがえしている、という程込んでいるわけ ではなく、場所によっては、その館のあたりには私一人だったりするので、淡い冬の青空のもと、冷たく張り詰めた空気と静けさが周囲に立ち込めている。ふ と、傍らの路地から、清朝時代の侍女か使用人があらわれてくるかのような錯覚に襲われるのだった。

故宮博物館の前の広場(中山公園)の東西にある長い回廊のような館では、個別のテーマ展がやっていて、全部で8種類くらいだろうか。チケット売り場は広場 中ほど設けられた集票所の建物にまとめてチケット売り場があり、近くによっていくと、それぞれの窓口からおばちゃんたちが手招きしている。こういうところ が結構ほほえましい。一応選んで、古代からの歴代王朝像展と西太后展、官女展にする。各々5元くらいだったと思う。お安かったがそれなりだった。歴代像と いうのは、歴代王朝の君主の蝋人形のようなものがマネキンのように並べられているだけ。それでも、衣装のちょっとした特徴や、遼の王が歴代に入っているな ど、参考になる部分はあった。

撮影は自由にできた。一応どの館内にも係りの人がいるので、カメラを取るしぐさで許可をとってから撮影した。
鏡というものは、漢代から元くらいまではほとんどクオリティも形状も大きく異なるところはない感じである。清代になると、現在の横浜中華街は骨董品店でも 売っているような、装飾が入ったもの、漆柄のようなもの、鏡のような形状のものなど、多少バラエティが増えてくる感じがするが、他の文化圏の鏡と比べる と、戦国の古代から、清代まで、ほとんど変わらずに受け継がれた、という印象を受ける。

館内毎に、様々な展示会が開かれていて、西太后の私生活の写真や、生活雑貨、溥儀の生活雑貨、清代書籍や、古代青銅器、古代〜清代までの鏡、唐代三彩の彫 像などのシーズン展示が催されていた。これに対して常設展示は、皇后や皇帝の居室といったものが多かったように思う。清代の書籍展示では、はっきり何メー トルと書いてあったか忘れてしまったが、数キロに渡るのではないかと思えるような乾隆帝の在位60周年記念の時の祝祭の模様を描いた絵画の巻物が展示さ れ、世界最長の絵画、との説明がついていた。館は皇后の館が多く目に付いた。官庁や政務施設などは多くはない、あるいは故宮博物館の展示範囲外のところに あるのではないか、という印象を受けた。軍機処の役所の建物などは、他の巨大な建築物と比べると、用務員室という程度の規模でしかない。少なくとも皇帝や 皇后の居室である建物よりも小さかった(といっても公立学校の図書館くらいの床面積はあったように思えるが)故宮の中に書店もあって、歴史関係の書籍や、 観光用写真集などがあったが、これというレアな書籍があるようには見えず、洛陽の古墓博物館と比べても、一般の本屋とあまり変わらない感じで、掘り出し物 がある感じではなかった。北側城壁の直ぐ内側にあたるところのトイレは、入り口のところに四つ星トイレと、☆☆☆☆、と書かれていて、日本のデパートにで もある普通のトイレと変わらないものがあった。きっと、この☆は昔につけられたもので、当時は、西側先進国のクオリティは、四つ星に相当したのかな、など と思ってしまった。

故宮北出口付近で外人のおじさんと中国人の若者がなにやら言い合っているところに差し掛かる。もめているのかと想ったら、外人が「グラシアスって中国語で なんていうんだ」と若者に聞いていた。きっと案内かなにかをしてもらって中国語で御礼を言おうとしたものの、言葉がわからないので、質問していたのだろ う。そばを通過際「謝謝ですよ」と一言ってあげたところ、やっとわかったみたい。

13:04分、故宮を北側の出口から出るて、王府井の本屋へ向かう。バスに乗ろうかとおもったが、停留所が直ぐに見つからなかったのと、乗っても、途中で 乗り換えになりそうなことから、歩いてもあまり変わらないだろう、ということで歩くことにする。歩いていて思ったことは、紫禁城の近所なのに、普通の民家 のような路地があることにちょっと驚いた。北京の真ん中で観光名所なので、もっと繁華街しているか、役所や企業で埋まっていてもいいように思えたが、意外 に普通な町並み。

途中の食堂でお昼にしたので(今回タンタン面6元)、王府井の書店に着いた時には14時頃になっていた。歴史書籍のコーナーをみたが、中国地図出版社の地 図が見つからず、店員に聞いてもわからなかったが、普通の旅行や学習用地図のコーナーの隅に、歴史地図帳を見つけた。目当ての郭沫若編集の詳細な古代地図 を見つけたが、バラでは買えないようで、商代以前から、南北朝までの4巻がセットになっている。このサイズの資料が部屋のスペースを占めることを考えた途 端、ちょっと買購買意欲がそがれてしまった。

しかもよくよく見ると、詳細であり、現代と古代の地図が重ねて描かれていて便利ではあるが、現代の町名の数と比べると、結構古代の町はすかすかな感じ。こ の程度のクオリティのものに対してわざわざ保持するよりも、インターネットからダウンロードした方がいいのでは?と思ったのも理由の一つ。結局詳細な4部 ものの方は、価格の確認さえせず(価格の記載が本体になかったが、店員に聞く意欲もなかった)、総集編にあたる、上下2巻本の方の下巻を買うことにした。 上巻の方(古代〜南北朝)までは、以前西安にて入手しているので、今回は、隋以降を扱った下巻を買うことにした。価格のところにシールがはってあって、 25元とある。帰国後1998年に購入した上巻を見ると、5.7元となっており、4倍も値上がりしていることになる。記憶では、詳細版4巻本の方は240 元くらいだった気がするから、今は1000元くらいになっているのかも知れない。元のレートはあまり変わっていないから、物価の値上がりはかなりのもので ある。

この本屋は20階建てくらいの高層ビルで、7〜8階くらいまでが本屋のようである。入り口や、各階のエスカレータの乗り降り口付近に2本柱のセンサーが取 り付けられていて(日本でもCD売り場にあるあれ)、かなり近代的な感じ。

本を買って王府井書店をあとにしたのは14時27分。結構時間が押している。
西単まで歩いている時間はないので、地下鉄に乗ることにする。地下鉄は、チケットは自動販売機ではなく、集票所。3元。地価鉄は込んでいて、しかもボロ かった。いつできたのだろうか?ちゃんと整備しているのだろうか?と思ってしまった(帰国後調べたところでは、このとき乗った1号線は、1969年の建設 で、結構古かった。整備ちゃんとしない共産主義では、あの汚れはまぁ仕方がないか、という感じ)。


西弾には14時40分くらいに着く。バスターミナルの前にも結構大きな書店があった。今は見ている時間はない。旅行代理店がありそうな方へ進むと、それら しいバスが見えてくる。バスのところまで行くと、近くにチケット売り場が。ラッキー。飛行場が複数あったりして、違った方に行ってしまうとシャレにならな いから、一応首都空港と確認してチケット購入。窓口は英語OKだったのでひさびさに16と60を聞き間違える。高いなぁと60元払うと、34元おつりが 戻ってきた。やれやれ。1994年にウェールズのホリーヘッドで、宿代16ポンドを60と間違えて、ATMに走ったときのことをふいに思い出す。そういえ ば当時も16と60の聞き取りがうまくできなかったっけ。全然進歩してないな。俺。

14時51分、バスに乗り込む。乗り込むときにオバサンが、「何時発の便?」と聞かれたので17時と答えると、「よし乗れ」という感じだったので、「結構 時間的にやばいのかな」とちょっと思う。空港まで30分から1時間を見ていたのだが、まさか成田みたいに遠いの?と少しだけ不安になる。

14時58分発車。渋滞は、予想以上ではないものの、やはり渋滞していた。でも15時40分頃には空港に着いた。よくよくガイドブックを見ると、第1ター ミナル、とあるので、第1ターミナルで下りたのだが、そこは実は第2ターミナルだった。看板間際らしいよ、と、動く歩道上を走って第1ターミナルに行く が、中国南西航空のカウンターしかない。インフォめのお姉さんに聞くと、国際線は第1ターミナルとのこと。またあわてて戻る。走って汗かいてるうちに、チ ケットが汗でふにゃふにゃになってしまう。やっと第1ターミナルについたので、エアチャイナのカウンターでふにゃふにゃチケット出すと、「ここは国内線で す」といわれ、またも走ることに。15:04分やっとチェックイン。やれやれ。汗臭いふにゅあふにゃチケットですいません。とカウンターのお姉さんに心の 中で恐縮。

その後、出国審査での危険物チェックで、パスポートケースの中にコインが入っていたりして、予想以上にチェックに時間がかかってしまう。旅行中同じ服を着 たきりだったので、本人が自覚するほどの悪臭は放ってなかったと思うが、におったとしたら、危険物チェックの担当の人には申し訳なかったと思うが、同時 に、この入念さは、悪臭くらいでは、ひるんで簡単にチェックを切り上げてはくれることはないのかも、とも思わせられた。また同時に、センサー使ったボディ チェックの担当者が若いお姉さんだったので、またも「臭ってたらごめんなさい」と心の中で思ったのだった。

出国し、ゲート前のトイレで、日本の気温に合うよう、セーターやボトムのアンダーウェア(いわゆるももひきという奴だ)を脱いで、財布を入れ替え、時計を 日本時間に合わせ、日本到着時の準備をする。

トイレを出ると、なんとゲートが変更になっていて、変更後のゲートに着いた時は16:30分。まだ若干時間があったので、お土産を買いにゆく。安いもので 1パケット7ドル〜。ひえー。お茶菓子のようなものを、職場2ケース、英会話教室用1ケース購入し、合計21ドル=166元。2〜3日分の宿代相当であ る。今回30000元両替したが、結局残ったのは300元程度だった。

旅行代金が日本円で38000円くらい、購入した書籍とお土産入れて、4万5千円程度の出費となった。まぁ、あまった分は、次回来るときの初日の費用に使 えばいいので、次回以降の両替の面倒は省けることになるので、そこそこあまったのは、それでいいのかも。

16時45分頃搭乗。右側の座席だったのだが、最初、夕日が右窓から見えていた。どうも、北京を出てしばらく南下し、その後東に向かうルートだったようで ある。21時丁度に成田到着。東京の夜景は見逃す。21時32分のスカイライナーで日暮里で乗り換え。23時16分頃自宅帰宅。


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