10月23日

 午前6時55分カシュガル着。 寒い。 あたりはまだ真っ暗である。 切符売り場はもちろん開いていない。
食堂が開き、食事の準備に火をたきだす。 そばへいって火に当たりながらポロ(羊肉ピラフ)の作り方を見学する。
8時15分やっと切符を買うことが出来る。14時発ヤルカンド行を購入したあと、 朝食。  
 ここらのチャドルは茶色で、 顔も完全に覆っている。 なんだか日本製子供向け番組の戦闘隊員みたい(ショッカーの様な)。
食事中はそのチャドルの中にもちこんで、食べている。 
 
 ついで銀行へ行って両替。 銀行の営業時間は北京時間で10時から。
ハミとかでは北京時間で9時からだったから新彊省のなかでも西では更に時差を設けているようである。
 この時差を考えると、 今日は現地時間では4時55分についちゃったことになるのね。

 カシュガル観光へ。 旧市街を職人街からイスラム寺院まで歩き、 イスラム寺院を見学。 寺院前の広場はバザールとなっていて、
もう人で一杯である。 広場の東側には映画館などあった気がする(記憶違いかも)。
スイカをひときれ買って、 バザールと旧市街をふらふら散歩しながらターミナルへ戻る。
 旧市街はアラブのメディナみたいで、迷路の様に入り組んでいる。

 旧市街では途中小学校があて校庭で 子ども立ちが羽子板のようなものをもって 得体の知れない遊戯をしていた。
ウイグル地区の出口でスイカを買って、12時半駅へ。

 17時45分ヤルカンドへ。 途中黄色くなったポプラ並木がきれいだった。

 ヤルカンドの交通公社にはもう4人部屋にベッド一つしかあいてはいなく、 一応見せてもらったが、 やめる。
もう一方のホテルは結構距離があり 15分くらい歩く。 多分この町一番の高級ホテル莎車賓館。 私にとっては高すぎるので、
200元のところ150元にしてもらう。 それでも高いが。

 18時55分散歩に出る。東に行くにつれ 滑走路のように幅広い 8車線もあるメインストリート上がバザールで埋められている。 道路というより広場として利用されている。
車も少ないし。 段段東へ行くと 車よりロバ車が増えてくる。
 1キロほどゆくと道も狭まってきて、 完全にウイグル人街となる。 ほぼ町の東の端までいったところで引き返す。

 夕飯ラグメン。 20時20分ホテルに戻る。
 

10月24日

 8時7分目が覚める。 日の出日没時刻は東西で結構差がある。 例えばおおよそ以下の時刻である。

           日の出      日没
 トゥルファン   8時30分   19時30分
 コルラ       9時頃     19時50分頃
 ヤルカンド    9時15分頃  20時10分頃

  このホテルにソックス一足忘れてしまう。 
 9時40分バスにのるが11時20分まで発車しない。 
のどがひりひりする。ルゴール塗る。 12時加油站でトイレ。 19時半ホータン着。

 チケット売り場で明日の切符買おうとしたおころ、ばばあの態度最低。
宿はホータン迎賓館。 中華屋で夕食。 ホータンもヤルカンドも埃が酷い。
ホータンの中心部の道路は工事中。 ほこりの原因。 どうやら天山南路で漢人街が大体完成しているのが、コルラから反時計回りで ヤルカンドまで。
ホータンが建設中で半分くらい出来ているところ。
 ここから東の天山南路では滑走路の様なメイン通りとバスターミナルビル程度が整備されているだけで、大きな施設の整備はこれからという感じ。

  コルラで会った日本人バックパッカーから、テンシャン山脈なんて見えないよ、といわれた時、きっと南道も同じだろうな
ぁ、と思っていたら、まさにその通りであった。
 両側砂漠。数百mくらいの山は見えていたが、「山脈」というものは何も見えなかったわ。ははは。喜谷関から敦煌間の祁連山脈の方がよほどよく見えた。

22時半頃寝る。
 

10月25日

 6時50頃起床。まだ真っ暗である。7時45分にはバスステーションに着くが、当然開いていない。
8時15分まで待つ。 
 待合室に全従業員の写真入り名簿が張り出されていた。 モデルのような凄い美人のウイグル娘がいた。 なんでバス会社の従業員なんてやってんの。
チャルチャン行。 窓口のおばさんは昨日と同じ人だったが、 今日は親切だった。 
ちゃんとどのバスがそうかまで裏口から出てきて教えてくれた。 

8時45分に乗車したが9時半出発。 米国人と日本人と一緒になる。 
10時。 ドライバーと助手達朝飯。 11時我々の昼飯。 2時45分ケリヤヘ到着したところで、今日はここで宿泊となる。
理由不明。 3人でバスステーションのところの交通公社へ泊まることにする。

 この交通公社は新築でこぎれいだったが、 部屋は寒く なんだか寒くて調子が悪いので 布団かぶってしばらく休む。
 でかけるきにならない。 風邪ひきそうである。

 16時、ひと寝入りしたら回復してきたので 散歩へ出る。 
町の中心の方へ行くとやたらと凄い人込み。
どうもバザールのようである。 考えてみたら、今日は日曜日であるから、 するとこれは日曜バザール。

 十字路を境に1キロ四方、 通りは露店と群集で埋まっている。 凄いバザールである。 見渡す限り延々と続いている。
銀座の歩行者天国みたい。 もっともあれより道幅はせまいけど。

 あとで日本人に聞いたところ、カシュガルの日曜バザールは8車線の通り一杯に広がっていてもっとすごかったのだそうである。

 バザールではバスの助手も見かけたから、 これが今日この町で宿泊することになった理由なのだろう。
18時部屋へ戻って使い捨てカイロつかってうとうとする。

 日本人学生は京大生で米国人はアリゾナ州立大学院の学生だった。 京大生は米国人の勧めた葉っぱに、 気分が悪くなったそうで、
部屋でねていることになり、 米国人と夕飯にでる。 何の葉っぱだったっけ。 確かバザールで買ってきたものだとか言ってたが。。。

 米国人の学生(♂27歳)と飯を食っている時のこと、 この米国人が、 中国人と日本人が会話が出来ないのに
筆談出きるのを不思議がったので 漢字について講釈した。 
例をいくつか紙に書いた。 「漢字は発音は意味がない。 例えば...」
セイコウという文字は 「精鋼」 「成功」 「精巧」 とか書いていたら、 中国人のウェートレスのお姉さんがなにやってるの?と覗きにきた。
私が「性交」と書いているまさにその時に。 いやーん、と顔を赤らめて店の奥に引っ込んでしまった。 「ちがうんだー」と叫んだがもとより通じる筈もない。

  ところでバックパッカーとは名のりあわないものなのであろうか?
 米国人が、今日町で私を見掛けたので 「呼んだんだけど、名前を知らなくって、 ミスターと読んだんだけど、君は気がつかづに行ってしまった」
・・・・そう言えば、 どっかでミスター、と聞いたかもしれない。 しかし 「ミスター」 という呼び声の大半は露店の勧誘。 無意識に無視してしまったのかも。
 因みにそれでも名乗り会わない我々。
 コルラであったバックパッカーにせよ、 イランであったバックパッカーにせよ、 名乗り会わない。 
これが普通なのだろうか? 試しにいつまで名乗り会わないのかなぁ  とおもっていたら、 結局4日間一緒に移動していて、 
最後の日の夜までお互いに名前を知らずに終わってしまった(最後の夜にアドレス交換したので名前はわかったが)。

 しかし名乗り会わなくとも、 何をしているか、 どこにすんでいるのか等は詳しくなっているのだった。
 

10月26日

 7時20分にバスへゆく。何人かの他の乗客も起きてきている。
彼らも従業員も招待所の方に泊まったらしい。 運転手達は8時頃まで起きてこなかった。
9時頃漸く出発。
 この時 街の東側の 朝のバザールを通過したが、 この時が この西域旅行で 一番旅情をかき立てられた。
 せわしく行き交う人々。 湯気を立てる湯沸かし中のなべ。 準備中の食堂、 露店。 5頭の駱駝がひかれていった。
道は未舗装で、 そのなかをゆっくりバスが 人やロバを掻き分けるように すすんでいくのだ。 
 まるで19世紀の町の様子を描いた絵画の様だ。 この地域といわず、西トルキスタンや、トルコ、あるいはブルガリアの19世紀の町の朝のバザールを
描いた絵画の世界が、まさにあった。 

 11時半。 ニヤについて昼飯となる。 12時45分出発。
しかしいきなり騒ぎ出してバスを停止させ、荷物をとりに戻る中国人とかがいて、 本格的に出発したのは13時20分頃。
 この中国人はなかなか戻ってこず、ついに痺れをきらした運転手が、彼の荷物を道路に出して出発しようとしたそのときに、
乗客の誰かか 叫んだ。
 しばらくしてバイクの荷台に載せてもらって 男が戻ってきた。 やれやれ ひと騒がせ。

 再度出発してしばらくして、タリム盆地を横断する砂漠公路への分岐点があり、さらにしばらくして道は未舗装路に突入した。
おかげで平均時速は一層低下した。
 

 21時50分頃 チャルチャン着。 もう真っ暗。 ニヤを過ぎたあたりから殆ど対向車は来なくなっていて、
真っ暗な空間をぽつんと我々のバスだけが走っている。 対向車がある場合は1キロか数キロか、ともかく
大分手前からそれとわかる。

 チャルチャンでは おなかが空いていたので、 まず飯を食いたかったが、
米国人が安宿を探すということでそちらを優先させる。 なんせこの町のガイドブックは彼しか持っていなかった。
(地球の歩き方ではここから東の西域南道は乗っていないのだった)。 やっぱりロンリープランネット持ってくるべきだったわ。
 しかしなかなかホテルはわからず、 結局ムスターグホテルとかいう高いホテルになってしまう。 
しかし3人部屋で1人66元はあまりに高く、ねばりにねばったがそれ以上安くならなかった。
 実はムスターグが高いということで、一般の中国人が宿泊する招待所へも行ってみたのだが、 米国人にとっては ちょっと汚すぎて値段との折り合いがつかずNGだったのだ。
こうして2時間くらいホテルを探して行きつ戻りつしていたので 空腹の私には非常にこたえた。 
明日にひびくなー、と思っていたら、実際そうなってしまった。

 23時50分。 ひもじい思いのまま寝る。 用意のいい京大生はインスタントラーメンを食べていた。

 ニヤから先は未舗装でそれも遅くつくことになった理由の一つである。
 

10月27日

 寝坊した。
 あわてておきて8時45分にバスステーションに行くと、 今日のチャルクリク行きバスはもう出てしまったのだそう。
ホータン行、 コルラ行はまだ出発していなかったが、座席は一切ないとのこと。 
 10時からチケット売り場が開くとのことでそれまで朝食食べて待つ。
10時に窓口がひらいたもののあまりに酷い争奪戦に参加をあきらめ、窓口があくのを待つ。
 しかしイスを引きずってきてイスの背にあがって前にひしめく連中の頭ごなしに金を差し出すという あまりの無秩序ぶりには吹き出してしまう。
 ああまでしてチケットとれなくてもいい、と思う。わたしゃ旅行者だし。

 結局皆が焦って購入していたチケットは チェルクリク行ではなかったみたい。 
殆どお昼になってしまったので、 もう一度軽く食事して、 二人にも教えてやろうとホテルへ戻る。
とちゅうで反対側から歩いてくる二人と落ち合い、 一緒にバスステーションへ。
その後3人で 清真食堂で食事。 二人とも小食、 色々分けてもらっているうちに、 ラグメンが食いきれなくなってしまった。
食後ホテルをどうする、 ということになり、 京大生は金が不足しているので、 招待所にするという。
 アメリカンは招待所の貧相さから20元は高いと、ムスターグにするという。 私は健康が心配だったのでその問題さえクリアされれば、
招待所でよかった。 ムスターグ、 あれで66元は高いと思ったし。 
 そこで京大生と私は招待所に泊まることにする。 
 京大生に付き合って銀行や郵便局へいったり、 チャルチャンを散歩。 
 バザールで織物生地を購入する。 あとは先の店へ戻って3時間半ほどお茶。 
21時半宿に戻る。 招待所では そこに日本語が話せるおじさんがいて、 故城があるのだが、ジープ1台200元でチャーターできるが、
明日行ってみるか?といわれる。 漢代のものとのこと。 ちょっと心がゆれたが、時間が無いことだしあきらめる。
 最初「故城」ではなく「工場」と聞こえ、工場の見学?なんかすごい工場なの?と思ってしまった。よく聞いたら、故城。

  招待所の部屋には7つベッドがあったが、 雑な板張りで隙間だらけ。 
布団1枚では隙間が寒い。 上に布団2枚に毛布1枚、 下に布団1枚毛布3枚しいてねる。
トイレは野外にあり、 夜中トイレに起きたとき、 非常に寒かったが、星星がすごくきれいだった。
 

10月28日

 6時半に起きる。7時50分出発。
8時10分バスステーション着。 ミニバス。
8時40分ころ出発する。 満員である。
アメリカンなかなか来ない。 彼はすっかり新彊時間で暮らしてしまっているので、 朝はきついのである。
カシュガルで2週間も暮らしていたとのことで、 すっかり新彊時間での生活がなじんでしまっているのである。つまり、8時は彼にとっては6時なのである。
この点では私はずっと北京時間で暮らしているので、早起きは楽。 
 発車間際、そろそろあきらめかけた頃、アメリカンはやって来た。

 最初に休憩したところは、砂漠化進行中の元オアシス。 数百年前は緑あふれるオアシスだったに違いない。 こんな感じで他のオアシスも
やがては砂漠になってしまうのだろうか。

 12時半昼飯。 干上がった川沿いの1件しかない食堂。
ロバはドンキーと教えてもらったところがここ。 水が貴重なところで、 皿は使い置きの水で洗っていた。
  東南方向に若干山がある以外は ほぼ360度 沙漠というところ。

 17時チャルクリク着。
途中2度ほどバスから下りてみなで車を押した。 砂にタイヤが埋まってしまうのである。 皆で押している横をトヨタの4WDが摺り抜けていった。 さーすが。

 アメリカン曰く、アメリカには砂の砂漠というものはないのだそうな。
 「俺はこれを見に来たんだ」 と砂砂漠見て感動してた。 このあたり、日本人のイメージする砂漠の意識と似ている様に思う。

 チャルクリクに着いて、 明日の切符を買うとき、 なぜか係りの少年に腹を抱えて大笑いされる。
失礼な奴だ。 しかしここで腹を立てて切符を売ってくれなくなってしまったら困る。
我慢する。 しかし一体なにがおかしかったのだろう? すっかり砂にまみれてグレーになってしまった髪だろか?

 17時半ホテル着。 簡易宿泊所だ。 コルラの交通公社みたいなところ。
18時10分から19時散歩に出る。

 新彊省の地図を買う。 これはちょっともうけた気分。 
 中国ではタイタニックはヒットしていたらしくキャラクター商品(トランプとか)がやたらでていたが、この西域極北の地、西域南道のチャルチャンでも売っていた。
なんでカシュガルでなくチャルチャンが極北なのかというと、 西域南道は西半分しか舗装されておらず、たどり着くのが非常に困難だから。
 困難度からするとチャルチャンが、天山南路の町では極北ということになると思う。

  町の中心街にビリヤード台が。ここでも流行ってる。

 散歩している時、 写真を撮らされた。 3人で夕飯にして22時頃寝る。

  なんとサラーム・アレイコムこの地域でも通じるらしい。 イスミニス・ネも通じるらしい。 驚いた。
アメリカンはトルコ語を勉強しているとのことで、多少会話が成り立ってる様であった。