1月3日

 7時5分起床。 熱を計る。 
 36.3度。 でも安心してはいけない。 起きぬけは いつも低めにでるのだ。
着替えて支度したあともう一度計る。 36.8度。 ほら見たことか。 
 まあ今日は一日移動だけだし、 薬飲めばなんとかなるだろう。

 8時30分頃バス停へゆく。 
 9時半の出発までのあいだ朝食を取ったりして過ごす。

 始めの内は右手南の方向に雪を被つた山がずつと見えていた。
バスは曲がりくねった山道を走る。 12時にとある村で20分程休憩。
 この村は緑灰色の石がけずれて刺き出しになっている斜面にある。 なんとも奇妙な場所であった。

 午後にはいってバスは2400級の雪を被つた険しい出近くを抜けて行く。
この時カメラが異常動作を起こした。 
 触つてもいないのにフィルムが巻き上がってしまい、 枚数が0にリセットされてしまうのである。
この症状は5月山本さんとベログラチックに行ったときにも発生していたので、、 電池を外して一度リセットすれば直ったので、 今回も同じ処置をする。
イオアニアには30分遅れの14時10分到着。 
 バス停近くの定食屋で昼飯にして15時のバスでイグメニッツアへ。
 17時、日没まじかにイゴウメニッツァ到着。
 まいったのはこのあとプレベザ行きのバスが1日2本くらいしかなく、 最後の奴はもう行ってしまっていたことである。
 こりゃ困った。
 イゴウメニッツァとプレベザの中間のパラガ迄なら10分後の発車である。
 しかしこのパラガにホテルはあるのであろうか?
 地図のマークによるとパラガは村の一つ上の各付けである。
 イゴウメニッツァ級の町ならばホテルがあることは確認済みであるが、 パラガクラスはどうなのであろう?
 しかし中間のパラガからならプレベザ行きのバスがありそうである。
 まあいいや、 行くだけ行って、 だめならタクシーか、 引き返すか、 それも出来なければ歩くか野宿か、
どっちにしろ死ぬことはあるまい。 ということでパラガ行きに乗る。

 これは完全に生活バスであった。 
イゴウメニッツァに働きに来ているやつか、 買物、あるいは遊びに来ている子供が途中の村で降りてゆく。
走り出して30分もしたところで ほぼ完全に闇になる。
闇の中をいったいどんな町につれてゆかれるのか、
バスは疾走する。非常に不安である。 しかしこの不安とスリルが私の場合面白いのである。
これだから旅行止められない。 ここはインドの山奥ではないのだし。 ブルガリアだったらちょっと考えるけど。

 ということで緊張と不安の1時間後到着したところは 海辺のリゾート地であった。 
 ホテルはあった。
 しかしKTELが見つからない。
 バスは適当な路地で客を下ろして帰りの準備よろしく折り返して停車しているし。
ふらふらと町をKTELかポリスか旅行会社を探してみたが なかなか見つからない。
旅行会社の親父は英語がわからなかったので、 向かいの店のおっさんを呼んで説明を聞くと、 プレヴェザ行きは明朝7時にこの先の角から発射する。
KTELは無いの?「そう、それが問題なんだよ」などといってる。
 

 取り敢えずバスの問題は解決したので、宿を探す。 
といつても最初に行つたところのおっさんの感じが良く、 5000とまあまあのほ段であつたのでここに決めた。
 部屋にはベッドが3っつあり、 真っ赤な毛布と白いシーツ、テレビ付きの清潔な部屋で、 OLかカップルが海に来るとき利用するような部屋だつた。
念の為に親父にバスを確認すると、 やはり7時の発車だという。 OK。 大文夫でしょう。
 親父にいいレストランない? と聞いたのだけれど聞いて5分後には忘れていた。 
 しかし適当に見つけた店で食った豚の手のガーリックステーキは大当たりだった。
1850であったあけど2000おいてくる。 大体この辺で夕食2000、 宿5000というパターンが出来つつある。

 このあと体鯛は悪いので無理をしないようにしつつ町の中心部を見て波止場へ行き、 岩場に下りて地中海に触れてみる。
ふと見上げると小さな岬に要塞の跡がライトアップされていた。
 要塞へ登るほどの無理はしたくなかったので、 始めは登ろうなどとは考えてはいなかったのであるが、
迷路の様に入り組んでい上がり下りのある路地を歩きつつ 「あの向こうはどうなっているのかな」 などとやっているうちに要塞の入り口に到達してしまったのだが、
しかし要塞は見学は不可らしく、 何の表示もなく扉が閉ざされているだけであった。
 私の背後からバイクであがってきた女の子二人組も要塞に入ろうとして来たらしく、 扉のところまで行つてがつかりしてもどってきていた。

 この小岬の反対側への道が続いていたので、 思わず降りてみるとそちら側は海岸。
 波止場の方は波止場沿いに店が並び、 突堤の先では何人もが釣りをして賑やかだだったのに、 
こちらが側は誰もおらず店も無く、 ひっそりとした波打ち際だけがあった。
月とさざ波の中、例によって石を拾った。
 更に右手遠く数キロメートル先の山の上にもライトアップされている要塞があった。
宿へ戻って親父に聞くと、 手前の小さい要基は14世紀にヴェネツイア人のつくつたもので向こうの要基はアルバニア人が19世紀に作つたもの。
アルバニアは手前の要基攻略用に作成したのだが、 距離が遠すぎて攻め切れなかつたのだそうな。
20時45分に宿にもどり連続ドラマのヘラクレスを見て10時頃寝る。コマーシヤルでイ
ンターネットをやつていた。一応アドレスを写しておく。
 
 

1月4日

 モーニングコールは6時にセットしてもらったのだが5時50分に目がさめる
6時35分に宿を出る。 まだ真っ暗である。 夜明けの気配さえない。
 バスが停車しているところに行ってよく見るとKTELはちゃんとあった。 
というか喫茶店の前に時刻表の紙が張ってあったのである。

 どこ迄いくんだと開かれ、 ペロポネツスヘ渡りたいと地図で示すと、 半島へ渡つたところまでの切符を売ってくれた。
定刻とおりバスは出発。
 8時25分プレヴェザ着。 9時のアテネ行きに乗り換え。
 地図によるとここには要塞があることになつている。 ちょつと散歩して探してみるが見つからない。 10分あるいたところで引き返す。 9時10分に出発。
 しかし5分ほど走ったところで降車させられ、 フェリー用のチケットを買わされた。
バスごとフェリーに載りこんでいるバスもあったが、 我々のバスは全員降車することになっているらしい。 まぁ90ドラクマなのでどーでもいい値段なんだけど。

 プレヴェザはスレイマーンが1538年にヴェネツィアとイスパニア連合軍を破った場所である。
因みにあとで帰ってから調べてみると アクチウムの海戦もこの付近であった様である。
空はどんよりと低く垂れ込め 雲の切れ間から若干の日が差す程度。
プレヴェザは大きなほぼ円形に閉じた湾の出口北側にあり、 このフェリーは対岸の南側へ渡るのである。
 対岸を撮影したところで、またもカメラは異常動作。 フィルムが巻き上がって終了してしまった。
 お陰でこの後の要塞が撮影できなくなってしまった。
 9時50分頃渡り終え、12時頃にはベロポネソス半島へのフェリー港アンディリオへ到着した。
アンディリオと対岸のリオには要塞が残っていて、 アンディリオ要塞の上部にはギリシャ国旗が翻っていた。

 12時55分対岸に到着。 
 リオ側のフェリー発着場にはフィルムを売つている様な店は無かった。
要塞を見学に行く。 入場は自由で入り口脇の受け付けのある建物には誰もいる気配が無い。
受付に案内プレートがあったけどギリシャ語だけであつたので、 この要基がいつの時代のものかもわからなかつた。
6世紀とビザンティンがなんとかとはあつたのだけど。仕方がないので要基の見取図を作成する。
 

 昼食変わりにスプラキを買つて食つたのだが、店のおつさんの態度は悪かつた。
まるでブルガリア人だ。パトラまでのパスは市内バスを利用するらしい。
チケットは車内で買えるものだと思つていたら、 途中チケット売場のあるバス停で停車したとき何人かが切符を買いに走り、
他のお客が私にも 「チケット!チケット」というので私も買いに走つた。
45分程でパトラ市内へ。 長距離バスのリば(KTEL)の近くで降ろして賞う。

 パトラのKTELは港にあつた。 ここはイタリアヘの玄関口らしい。
適当な時間のビルゴス行きも見つかり 15時にはパトラを出て16時45分にビルゴス着。
そろそろ日没である。 
 ビルゴスは若干内陸部にあり、 海岸までは12キ日ある。 市内バスでは間に合わない。 日没を見るならタクシーしかない。
しかし行つてみて水平線が雲に隠れていたらどうする? と色々考えたのだが、 
KTELのある通りの角からふと見上げてみると200mくらい先に教会があり、 しかも若干登りになつていて 教会の壁がオレンジに染まつている。

 あっこからみえるかも、と考えて行つてみると教会の向こうは1〜20mくらいの崖になつていて ちょっと前のマンションが邪魔だったけど、
日没はここからでも見えそうである。 
 しかも海面近くは雲に覆われ、 水平線に沈んで行く夕日を見ることはできそうにもないから、 わざわざ海岸までいくこともなかつたわけだ。
17時25分、 日没後の余韻も味わってから大急ぎでKTELへ。 17時30分のオリンピア行きになんとか乗れる。

 バスには日本人男性が一人乗つていた。
「あの一失礼ですが日本人ですか? フィルム余分にもっていませんか?」と聞いてしまったら、 あっさり 「ないよ」 で会話は終わった。
 オリンピアへ行く間に日はとっぷりと暮れた。
 18時30分。 着いて直ぐトリポリ行きパスの時刻を確認。 明日12時40分。
このあとフィルムを買いに入つたみやげ物屋で英語版の観光ガイドを購入し ホテルを紹介してもらう。
しかし紹介されたホテル 「フィディヤス」 は受け付けに誰もいない。
しばらく待ったが誰も来ないので、 次のホテルヘ行つたがここも誰もいない。
で次に行つたホテルは村で一番遺跡から速いところらしく、 お値段も4000とリーズナブル。 ここに決めた。
このあと食事にでたらまたしてもなかなか店が見つからないという事態に遭遇。 時間も早いことだし、探しまわって
やっとホテルのレストランを見つけた。 
 客は5,6組で全員観光客。でもそれほど高くもなく、2200ドラクマ。
19時50分宿に戻る。
 

1月5日

 7時20分ころ目が党める。7時50分にはオリンピア遺跡に到達。
遺跡の公開は8時かららしいのだが、 失礼な(ブルっぽい)受付はないか言いたそうであつたがほっといていて入場してしまう。
 競技場跡を見たあと、 昨日の夕食のパンの残りと水で朝食にする。 このパターンはこの後数日間続くことになる。
オリンピア遺跡でもつとも印象に残っているのは フィディアスの仕事場を撮影しようかどうしようかと迷つたことと、
ゼウス神殿の柱の巨大きと競技場である。
競技場の縦は267歩分、 スタートラインとゴールラインの間は248歩、 横は40歩であつた。
遺跡の最後の写真を撮つた瞬問またも勝手にフィルムが巻き上がってフィルムが終つてしまつた。 ひえ―。 

 遺跡は1時間くらいで切り上げて博物館へ行く。 
 入場する時遺跡の窓口で聞いたら11時のオープンだという。
しかし出るとき売店でオリンピア遺跡の図面を購入した時 そこの親父は博物館はあっちだよ。 いけいけ。 とゆ―よ―なことを言うので
 「開いてるの?きっきは11時からって言われたよ?」
 「開いとる」 などというから行ってみると博物館入り口前のベンチに座っていた観光客に11時からだよ、 と言われる。
くそー。やっぱり。
 という訳でこの間にフィルムを探しに村迄戻る。 村まで歩いて10分以上かかるのである。
フィルム購入して電池を入れ換えてリセットする。 ついでに靴下履き替えて(オリンピア遺跡の夜露一杯の雑車に靴はぐじょぐしょになつていた)、
爪を切って博物館へ。  11時5分くらい前に着く。
 この博物館も不親切だね。
 何人も入り口近くのベンチでまつてんだから、 開場したらひとことそういってもいいんじゃないの? なんだかここもブルつぽいなあ。

 この博物館では兵士の装備とガーコイルみたいな妖怪やハーピーの像がもっとも印象に残つている。 これはカメラに収まっているといいんだがなぁ。
兵士の兜が前7、6、5世紀と順に幾つか並べてあって結構、段々洗練されてゆくのがわかる。
 東洋人の客も何人かいた。
 館内は10のパートに別れていて、
石器時代からの遺物、陶器等の部屋、 兵士の装備等ブロンズの遺物中心の部屋、
プラクシテレスのヘルメス像だけの部屋、 ニケの像等のある部屋、 オリンピア競技優勝者の像の台座の陳列してある部屋、
オリンピア遺跡のミニチュア模型の展示してあるロビー等からなっている。
ローマ人の像の部屋にはローマ皇帝やその家族の像、 ドミティアヌスとその妻、 小アグリッピナ、
マルクスアウレリウスの妻のフアウスティナとアントニウス=ピウス、及びその妻のファウスティナ。
そしてアンティノスの像があり、 アンティノスとくればその次ぎは、予想通りハドリアヌスの像があった。
ハドリアヌスを撮ったら、 またカメラのフィルムが巻き上がってしまった。 あ一あ。 完全におかしい。 やつば電池かな?

 というわけで若干長居してしまい急いでバス停へ戻る。 
電池を購入し、 そうそう、 ドルも両替しとかなくちゃと思ったのが間違いであった。
銀行の自動両替機に100ドル突っ込んだところで機械がおかしくなり、
銀行の人が悪戦苦闘した挙句、 やっとししわくちやで一部破けた100ドルが回収できた。
こっちはもうバスの時間がきがきではなかった。 しかも余計なことに銀行の親父がマニュアルで両替してやる、 とか言ってコンピュータに打ち込みはじめたのだが、
1回目は領収書の用紙をプリンターにセットしていなくてエラー。
こっちはもう 「バスが来ちゃう!」 「急いで」とじれったくていらいら。
 キーボードを打つのも 「俺にやらせる」 と叫びたくなるくらいののろさ。
結局親父は締め、 悪いけど、 とかいつて100ドル返してきた。

 もはやバス停まで走ることになった(といっても100mくらいだけど)。
見ると向こう側からバスがやってきている! 
 バス停前のインフォメーションに飛び込むと、客が一組みチケット買つている。
彼らが出て行つたあと、 インフォメーションのおばさんはなにかをコピーし始める。
 チケット中で買える?と半ば叫んだところ、 OKとのこと。 外へでて20秒後位にバスがやってきた。
窓からインフォメのおばさんがあのバスよ。 と私に示している。

 この様に慌しかったからだろうか、 バスの中でカメラの電池を買えても異常が直らなかったので
(つまりとうとうカメラは壊れてしまったとしか思えない)、 一気に気分が落ち込んだ為なのか、
トリポリまでのバスが山道続きで酔ったのか、 これまでの疲れが出たのか、 単に風邪が悪化したのか、
恐らくその全てだと思うが、 トリポリ迄のパスの車内ではひたすら体調は悪く半分寝ていた。
 途中でバスの交替があり、 乗客全員そっくり別のバスへ移ったのだが、 これなど半ば朦朧とした状態で、 今でもうろ覚えである。
乗り換えた後半のバスはギリシャで乗ったバスの中ではもっともモダン 悪く言えばピンクのシートとブラックの車内、バーみたいな車内と言えなくもないが、
窓は羽目殺しで、窓枠はつや消しの高級そうな素材の黒。
これまで載ったバスの中でもっともよさそうなバスなのに、 こっちは気分最低だった。

 しかもオリンピアを12時40分に出てトリポリに到着したのは16時20分。
山道とはいえたかだか100キロ程にこんなにかかるとは。
 トリポリから12キロほどのところにマンティネイアの遺跡がある。
 バスは遺跡から3キロのところを通過した。
 多分テーベがスパルタを破ったマンティネイアの戦いはこの付近で行なわれたのであろう。
トリポリではスパルタ行きのバス停は600m先の別の場所だそうで、 移動。
列車の駅前国道を挟んで反対側のカフェがスパルタ行きの停留所であつた。
どうやらトリポリスパルタ間の運行は無いらしく、 アチネ‐スパルタ間のバスになるらしい。
 
 カフェで遅い昼飯にハンバーガーを食べてバスを待つが、 眼性神経痛がひどくなり始め、 とうとうタオルに水を濡らして苦痛に耐えることに。
最悪なことは更にこのあと訪れた。 バスから降りる時カメラを床に落としてしまつたのだが、
この程度のショックなら何度もあったので大文夫だろうと思つていたら打ち処が悪かつたらしく、 カヴァーを開けてみると
コントロールバネルがわれて液晶表示がうまく表示されなくなってしまった。 あーあ。 完全に壊れたわ。 もう。 物理的に。

 17時15分頃スパルタ行きバス到着。
 気分は最低。 もはや夕食などとらなくていいから早くくホテルに駆け込んで眠りたい心境。
トリポリ‐スパルタ間はけ62キ日だけど今度は早く18時20分に到着する。
 バスの時刻を確認する気力もなにもなく、 どっちが中心かもわからず勘だけを頼りに適当に歩く。
10分程で程無く中心へ。 俺ってやっぱり土地勘がある、 と感心してしまう。
 スパルタは南北に走るメイン通りの公差点が中心で この角付近にホテルが集中していた。
 1件目のホテルは高くてパス。 2件目5000、 ここにした。

 部屋へ飛び込んでタオルを水にぬらし、 ベッドに倒れ込んで目を押えつける。
1時間ほどそうしていると回復しはじめ、 取りあえず夕飯を食いにいける程度にはなった。
 ホテルを出て、まず向かい側のコダックで使い捨てカメラを購入。
それからレストランを探しに出るが、やはりなかなか目指す店は見つからず、 よくある軽食屋に入る。
ここには海老があつた。 食事をすると更に回復しだしたので街の散歩に。
街路樹はオレンジの樹。 これにイルミネーションが取り付けられていてとてもきれいでファンタジックであった。
 21時10分、宿に戻ってテレビをつけるとニヨラスケイジの出演している映画
がやっていて、思わず見てしまう。