1月8日 

 5時30分には目が覚めてしまった。 モーニングコールを待って起床。
6時35分には宿をでてバスステーションヘ。
 バスは7時発の予定だがなかなか来ない。 
NEMET(よく考えてみるとスラブ語で「ドイツ」)行きというやつが停車しているばかり。
 7時になってもアテネ行きは来ないので、 とうとう7時にエンジンをかけたNEMET行きの運転手に開いてみると、
これがアテネ行きだそうな。
  え―ずるい。良い席をとろうと早めに来ていたのに。 何故ならばこのパスはサラミナ水道脇を通過する筈であり、丁度窓からそれが見えるであろう事を想定していたからである。
まあ仕方が無い。
 ギリシヤの長距離バスの検札は発車してから直ぐに来るとは限らない。
場合によつては1時間以上も走ってからくることがある。 
この時は10分程走つてから検札が途中で乗り込んできたのだが、 検札が乗つてくるのと入れ替えに降りていった客がいた。 ただ乗りだろうか?
 どこで検札が乗つてくるのかをよく知っていれば、 これを利用して短期間のただ乗りが出来ることになるが。。。。
 30分程走って夜が明けはじめた頃に サラミナ島との海峡脇を通過した。 ちらりとだが見れた。 
しかし海挟の両側とも森林におおわれ、 クセルクセスが戦闘を見たところはどこなのだろう? 
あれでは木がじゃまで見れないではないか。
 とか考えてしまったのだが、 なんのことはない、 あとでガイドブック読んでて気づいたのだが、 サラミナ水道は別の場所であつたのだった。
サラミナ島の北側ではなく、 東側だつたのでした。

 ともあれサラミナ水道を見れたと満足していた私は8時にはアテネに到着したのでした。 
バスターミナルに着いた時の最初の印象は、ターミナルが高速沿いにあった為(高速というか、東京でいうと環状8号みたいなところ)か騒音がすごかつた。
しかしこの騒音はまさしく大郁会のものであり、 昨年旅行したウィーンやブダペストでは味わえなかつた、 日本を出て以来の「大蔀会」の騒音だった。
非常に懐かしく、馴染みのある騒音であつたのだ。
 到着したアテネのバスターミナルは巨大でだったが ここからはデルフィヘのバスは出ていないとのこと。
インフォメーションでタクシーを使えと言われたが、 時間も早いことだし、 普通バス、 と言つたら、 直接行くバスはないよ、といって420番バスでいってそこから歩くしかない、と無愛想なインフオメーションのお姉さんがバスターミナルの住所と名前を書いた紙を書いてくれた。
 バスに乗つてから思い出したのだが、 切符は車内では買えないんだった。
 やベー、 でもこの前パトラで、切符売り場のあるパス停で停まつてくれたようにどこか切符売り場のあるところで降りて買えばいいや、 
と思っていたら10分程走って、運転手がここで降りてこのとおりをまっすぐ行けばリオシアン(デルフィ行きパスターミナル)へ着くよ、 結果的には只で乗せてもらった。

 実はデルフィ行きパスターミナルはここから本当に直ぐのところにあつたのだが、 余計な情報の為にこれから2時間迷い続けることになったのであつた。
「地球の歩き方」によると、024番の市内バス沿いにリオシアンがあるとある、 付録のアテネ地図にもその位置が記されていた(と誤解してしまつた。実は付録の地図にはリオシアン
行きの24番のバス停の位置が書いてあったのだが、 このリオシアン「行き」の 「行き」の部分が目に入つていなくて、 パスを降りてから24番線沿いを30分間歩き、
それでも見つからないので024番のパスに乗って(今度はチケットを買つて)また30分、
 地球の歩き方付録の地図で指摘されている(と私が思いこんだ)リオシアンヘと行つたのでした。 
 ところが着いてみるとそれらしきものは無く、 その辺の売店の親父にきいても全然違うとこれまた無愛想な返事。

 その場所はハドリアヌス門とゼウス神殿の前の大通りであり、 ハドリアヌス門とゼウス神殿を見ることが出来た。
時間が無かつたのでどちらも近づいてよく見ることは出来なかったが、 その巨大きにはちょっとたまげた。
実際これまでこの旅行に限らずあちこちで色々遺跡を見てきたが、遺跡自体に感動したことはなかつたのだが、
遠目から見ただけにしろゼウス神殿にはちよつと、 これまでに無い圧倒されるものを感じたのだ。
今度来るときが楽しみである。 
 この時路地の隙間から一瞬アクロポリスの丘の裏の城壁の部分を拝むことも出来た。

 さてもう時間もないのでタクシーで移動することにする。
タクシーの運ちゃんは親切で、 いちいち通りの名前を教えてくれながら移動した。
しかも料金はこれまでの経験からしてもまとも。 
 しかし。 タクシーは私が来た道を戻っていくではないの。 そのうち私が歩いた所迄戻り、ついにはバスを降りた地点の近くにまで来てしまった。
ことここに至り、 さすがに気がついた。 それまでは「地球の歩き方」に苦情を投稿してやろうと考えていたのだが、
間違つているのは私の方で、 そう考えてよく見ると、 付録の地図には「リオシアン行き」のパス停と書いてあるでないの。
やられた。 ちくしょ―。でもこんな普通の市内バスのバス停なんて付録の地図の範囲にいくつもあるわけだし、そこだけがリオシアン行きのバス停ではないのである。
 誤解を招く書き方をしているともいえる。
 まあアチネの中心部もちょっと見れたことでもあるし、 まいいか。 
10時15分くらいにリオシアンバスターミナルに着くと丁度10時30分のデルフィ行きがある。
それに乗ったところ、直ぐ後ろの座席から聞きなれた言葉が聞こえてくる。 
振り返って見てみると二人とも新聞を広げていて顔は見えなかったが、 左の男の新聞は「デモクラツィア」。 右の男の新聞は「24チャサ」。
二人ともまごうことなきブルガリア人であった。ひえ―。きつとマフィアや一。
 

 アチネからデルフィに行く途中までは4斜線の高速である。 バスはずんずん高速で走る。
天気もまあまあ。 いい気分である。
計算違いは、ルート的にそっちの方が短距離なのでプラテーエの近くを通過するルートを通るのであろうと考えていたら、
遠回りでも高速の方が早いからか、 プラテーエの近くは通過出来なかった。
その変わリテーペの近くを通過たのだが、 半分居眠りしてしまい、 いつテーペを通過したのか良く分からなかった。
景色を見ることもこの旅行の目的なので、移動はなるべく日中にして、 車中でも眠らない様にしてきたのだが、 やはり睡魔には勝てず、 
さりとてせつかく来ているのだから、眠ることは出来ないとがんばる為か中途半端にうつらうつらしていた。

 13時10分頃デルフィ到着。
ブルガリア人二人組はデルフィの一つ手前の待町(スキーリゾート地らしい)で降りて行った。
 この上天気では余程上の方にいかない限リスキーは出来まい。
 デルフィ遺跡はパス停から歩いて10分程。
遺跡自体には特にこれといつた感想はないが、 デルフィは山の斜面にあり、 天気がすごくよく、
グレイの、ほぼ岩からできている山の稜線と真つ青な空の境が見事な迄にくっきりとしていてそちらにばかり目がいつてしまった。
ここにも競技場があってなかなかのもの。
広さはオリンピアのものよリー回りちいさく、 横32歩、 縦216歩であつた。
 博物館にはデルフィのご御神物である「世界のへそ」とかいう石があるとガイドブックに書いてあったので、博物館の目玉かなと思っていたら、
どこにあるのかわからなく、 「これが?」 というようなぞんざいに陳列されている物体だった。
デルフィ遺跡はフランスによって発掘調査がされたとのことで、 陳列は全てフランス語かギリシヤ語のいづれか。英語が無いので展示を見るのも早かった。

 15時前にはバス停に着く。
発車時刻は15時15分となっているがチケット売り場は閉まっている。
バスが来るかチケット売り場が開くまで待っていたら、 遺跡や博物館ですれ違つていた東洋人達がやってきて、
チケットと売り場が閉まつているので私に質問してきた。
 彼らは男性2人とどちらかの奥さんとその子供で韓国人だった。
 私と話したその男はイギリスの大学で公共管理(?)について勉強しているとのこと。
(多分公共行政のことだと思う) そのうちチケット売り場が開いたのでいってみると、
バスは今日はもう無いと言われてしまった。えーっ?どーして?そこの掲示板に書いてあるじゃないの? というともう20分も前にでた、 とかでたらめとを言う。
そんは害ない。 僕は30分も前から前でまつてたんだ、というと、
「バスが出ただろう?」
「どこから」  「そこのパーキングから」 「・・・・・」 そー言えば1台とまっていた。
しかし韓国人と話をしていていつ出発したのか気づかなかつた。 でも
「あれはラミア行きじゃあなかったですよ。そこの看板にはラミア行きが15時15分に来るとあるじゃないの」
 「途中のアンフィサ迄行つてそこから乗り換えるのだ」
 「....」 うっそ―。

 ちよっと頭に来ていたので親父の前で無言で立ち続けていたら、 店にやってきた男に何かを話していて、
その男がタクシーしてくれることになつたらしい。
 フォルクスワーゲンのワゴンで思いつきり飛ばしてくれた。 
このおっさんは英語の単語すら殆ど通じない人だった割には 「バスはアンフィサを16時に出る」 とか 「ブルース・リーは日本人か?」 とか
なんとか会話が成り立つから不思議である。
 タクシーの代わりだと考えていたので、降り際にお金を払おうとしたら、 受け取つてくれなかった。
う一む。 ちょっとギリシヤ人見直しちゃつたな。 12キロの距離をおんぼろワーゲンですつ飛ばしてくれたうえに お金も要求しないなんて。
感謝、感謝。

  ミアへの途中はテルモピュレーのそばを通過することになっている。
ここはペルシャ戦争でスパルタ王レオニダス率いる360名のギリシャ軍が ペルシャ軍本隊と戦い全滅したところ。
しかし彼らが時間を稼いだおかげでその後の戦いに勝利を収めることが出来た、 という場所。
 記念碑がある様なのだがどこだかはわからなかった。

 ラミアには17時30分についた。 
なんか予想していたよりも小さな町なのか。 KTELはバススターミナルではなく、 売店とカフェのくっついた店がKTELをかねていた。
ラリサ行きバススはここではないとのことなので、 500mくらい歩いてラリサ行きKTELを探す。 そこも売店カフェのKTEL。
しかもラリサ行きバスは無く、 手前のヴォロス行きの翌朝なそうな。 えー? そりゃ困る。
「電車は?」 ということで電車の駅を紹介してもらい、 また500mくらい歩いて電車の切符売り場へゆく。
20時25分に駅行きのバスが来るので、 この切符売り場へくればいいとのこと。
この時点で未だ18時前だつたのでゆっくり町を見物して夕飯を食うことにする。

 しかし交通の不便な町でバスや駅は分散しているし、 こ―ゆー町あんまり好きじゃないなあ、 と住民を無視した旅行者の視点で勝手に決め付ける。
 街は丘のふもとにあり、 丘の上には要塞が。
しかしそこまで見に行ってる暇はないしど一せもう閉まっているだろうし、 ハリス=アレクシウのCD買って飯食って戻ろうとしたらなかなかCDショップが見つからない。
 喫茶店や菓子屋はあるのに。
こんな街きらいだ、 とまた勝ってに決めつける。 やっと見つけた店では置いていなくて、 紹介してもらつた別の店には置いてあつた。
しかし高かった。 6950ドラクマ。
 値札付きだからぼられているわけではないが、 ドル換算でも23ドルくらい。 結構高級品なのね。
これで所持金が不安になってしまった。 またしてもVISAに頼らなくてはならないとは。 くっそー。 
極力VISあを使わない様にしているのにも関わらず、 どーしてこーなるのだ。
自動支払機でまたも10000ドラクマキャッシング。 あーあ。 
 更になかなか定食屋が見つからない。聞いてみたけど見つからない。 安定食屋や 軽食屋の直ぐ見つからない街も好きではない。
仕方が無いのでピザ屋へ入ってしまう。
 結構咳が出ていて体調は悪い。 空腹でもあるし。
でもピザはえらくうまかった。高いだけあるわ(1800ドラクマのビザだもの)
 
 列車の駅までバスで送迎。 10分程度でついた。 
この時送迎バスにも電車を利用しないにもかかわらず載っている人がいた。
 この送迎バスは検札も何もない。
う一ん。 うまい利用法だ。
 駅の時刻表によると20時45分の発車となっていたし、 ホームから向かって右がテッサロニキ、左がアテネとなっているので、
左から45分にやってきた電車に乗ればいいと単純に考えていて乗つてしまつたら、 なんと元来た方に走リはじめたではないの。
大急ぎで乗務員室へ飛び込んで、 ラリサ行きの切符を見せて停まってもらう。
 運転手は 「ハポネかい。はっはっは」 と言って停めてくれた。
 まだ100m程度しか走り出していなかったのでよかった。
 結局テッサロニキ行き列車は遅れに遅れて21時10分ころ到着し、 20分頃の出発となった。
 途中村村の明かりが見えていたが、 ブルガリアとは大きく違う。
 ギリシャの村明かりはブルの都市の明かりである。

 11時15分ラリサ着。 ここではバスターミナルとホテルを探すという任務が残っていたのだが、
なんと駅前にホテルとバスターミナルがあり、日本の駅前の様である。
バスは丁度良い時間のものが無いので結局また電車を利用することにする。
 明日6時50分発のテッサロニキ行きの切符を買ってホテルヘ飛び込んだ。
 ホテルは6500ドラクマとちょっと足元を見られた様な金額だったけど仕方が無い。 もう時間も遅いし。 
ということでモーニングコール頼んだのだけど、ちゃんと覚えているかなぁ? なんか不安で眠りも浅く、 5時40分頃にはおきてしまつた。

 しかしラミアの街には手前勝手に色々文句ばかりたれていたけど、別にあの街が悪いわけじゃなくて、親切な人が多かったし、
街自体は結構いいところだつたのではないだろうか。