7月25日

 朝両替してやっとブルガリアで断られ続けた50ドルをさばける。
朝食付き。 クーボンもらわずにサインもしないで勝手に食ってでる。
 街の観光にでる。
 適当にあるいていると、 すごい城壁を持つ城の様な建物にぶつかる (教会だったけど)。
このあと旧市街と呼べるような石畳にトランバイの走る通りを歩いて、 国立劇場わきをぬけ、 カトリック教会を見学。
3聖人教会見学して、文化宮殿の民族博物館へ。
 この宮殿もなかなか壮麗。 
 なんというか、町全体としてポーランドの香り(行ったことないけど)。 
非常に落ち着いていて、 コンスタンツァは多分ヴァルナと似たような感じであろう、 というあまリブルガリアとの相違は感じなかったが、
ここではなにかごちゃごちゃとした暑苦しさを感じるブルガリアと異なり、 透明な涼しさを感じた。

 文化宮殿の向かいのデパートにはいる。
 なんと天井にぶる下がるデジタル時計が正確な時刻を示している。
 デパートの印象は韓国か香港で見た地元のデパート、 という感じ。
ブルガリアの地方にあるショッピングセンターよりは余程ましである。
 一階にあるスーパーは多分外資系であろう、 陳列は完全に先進国のもの。
2リットルのグレープフルーツ購入。 値札にはだまされたけど。
 12時15分ブカレスト行き。

 駅で買ったサンドイッチはパンも柔らかく、 具もいろいろ入っていて、 ここにも先進国を感じてしまう。
今度も途中で予約者の席を追い出されたが、 隣の個室があいていて、 窓辺で景色を見つつカルパチア山脈に連なる丘を眺める。
コンパートメントではやたらびらびらしたフリル付きの服装の4人のがきどもといっしょであった。

 18時少し前にブカレストに入る。 なにか最後の方は日光のせいか風邪のせいなのか、 やたら汗が出てきて、 だいぶ体調不良になる。
汗で服はもうびしょびしょ。 とにかく宿へ、 と思いつつ地下鉄で統一広場へ。 広場の端にマックの看板。 即座にマクドナルドヘ。

 このあと着替えを購入、 宿探しを始めるが、 なかなか見つからず、 予定していた宿はXeroxのオフィスビルになっていた(後で調べたところ
Oracleの東欧オフィスが入っているビルだった)。
 変わりに探したホテルもなかなか見つからず、 何度か高級ホテルに入りたくなる誘惑に駆られたが、 結局2つ星の場末えた感じの宿になった。
 50ドルにしては、とも思うが、テレビもあるし(2チャンネルしか入らないけど英語(ルーマニア語字幕)の映画もやってたりして利用価値はあった。
交通実習のニュースなどが記憶にある)、部屋も広くベッド2個。 洗面は水漏れがし、 シャワーもだらだら出る程度であったが、 お湯はでるしまあまあ。 洗濯する。
食事にでたつけか? 22時ころには寝た気もする。
 

7月26日

 8時頃起床。 朝食バイキング。 まあまあ。 サービスも悪くない。
9時ちょい過ぎに観光にでる。 
 まずは近所の公園。 清掃人がたくさんいて、 せっせと清掃していた。 ちゃんと放水もしていたし。 好もしかった。
ついで国民の館。 一周。 結構かかる。 一周して統一大通りをあるいて統一広場に戻るまで約2時間。 
 昼はマックでとったように思う。 11時20分ころ。

  その後マギル通りを北上。 青山ブックスセンターのようなしゃれた、規模も結構大きい書店があつた。
街をあるいていてなによりも楽だつたのはちょいと何かを食べる軽食屋がわりとあったことである。 この時点でマックは4件確認。
 旧共産党本部とアテネ音楽堂とやらを見て、 さらに北上、 地学博物館北の公園で14時から15時迄昼寝。
さらに北の湖のある公園迄ゆき(16時15分ころ)、 そこで引き返す。 湖の対岸にはモスクワホテルのような建物。

 引き返す途中で農村博物館を見学。 結構面白かった。 この後凱旋門を見て歩いて勝利広場迄戻る。 
 今度は勝利大通りをホテルコンチネンタルのあたり迄歴史博物館を探しながら戻る。
この時キャシュディスペンサーや白いカジノのリムジン、 チャップリンの曲を漬奏しているレストランなどを見かける。
 その後再び北上、 南京にて中華料理。
 日程終了、 宿に戻る。

 夕飯では久しぶりにビールを飲む。 ライスはだめだつたね。
 

7月27日

 朝一で歴史博物館へ。 でも10時からだったので旧市街を見て過ごす。
 砦跡やブカレスト最初のホテルなども見つかる。 
 歴史博物館には昼頃迄いた。
 1階フロアに並んだルーマニアの歴史上の人物に デゲバルスとトラヤヌスが両方並んでいたのと 中庭の特別陳列室にあつたトラヤヌス戦勝記念柱の実物大レプリカには驚いた。

 このあとピザ屋で昼飯。 まあまあ。
 このあとインターコンチヘ行ったのだっけ。 よく覚えていない。
 夕方民族劇場を探したが、 どうやら改装中か取り壊されたのかとにかくなにもなかった。
 さてどうしようかと、 座り込んで(やばいと思ったけど)ガイドブックを見ていると、 予想通り警察に声をかけられてしまい、 パスポート不所持で罰金30ドルを取られてしまった。
 あ―あ。 
 頭にきたので勢い込んでホテルに帰れば、 親切そうなおばさんがいるし。 気勢をそがれた。
昨日とうりがかりにあったレストランヘゆく。 夕日を眺めつつままあの料理。 値段もお手ごろ。 でもビールが異様に高額で(ハイネケン)5万2000レイもとられてしまった。
 あ―あ。
 モーニングコール頼む。 シビルシェパードの映画を見て寝る。
 

7月28日

 朝9時15分の準急でブラシヨフヘ。
 駅には8時30頃着いていたので、 落ち着いていれば8時54分の特急に乗れたはずなのだが、 9時15分しか頭に無かった。 失敗した。
とはいえそれほど到着時間に差が出る訳ではないと思ったけど。
12時20分頃ブラショフ着。
 カルパチア山脈にはいると針葉樹林になり、 急にムードが変わる。岩肌むき出しの山がそびえ、 急に空気が冷え込んだ様に感じられる。
なるほど、 ホラー小説の雰囲気は確かにある、 とともにカナダの山地を思い出していた。

 車内では口のでかいわりと美人のね―ちゃんと ちょっと英語をはなすカップル(地図みせてよといってきた、 でもキリル文字だつたので彼は読めなかった)等がいたのを覚えている。 
 ブラショフ駅前ではホテルの客引きがよってきたけど少し冷たく断つてしまった。 多分詐欺ではないと思うのだが、 やり方が悪かった。
わざわざ日本人のメモを見せて信用させようとするところが。 まあ仕方ないね。 
 そのへんの駅前のおっさんのタクシーに乗る。 ブラン城を目指す。 いくらだと聞くと600だと計算機に打つてくれる。
 600レイ? よしOK等と乗つてしまってから意外と遠いことに気がついた。 ガソリン給油に走った時点で私は青くなっていた。
 600... ? 10000レイが600枚ということか? それとも600ドル? 60万レイなら約200ドル。 
こらあかん。 帰りは歩くか。 しかしこれ30キロくらいありそう、 半日以上はかかるわ 下手すりゃ9時間くらい。 あ―あ。
 景色なんか見ている余裕もなく、 ずっと黙つてしまった。

 着いた時もう一度確認。 そしたら60000レイであることが判明。 そうか、 桁が多いから1000レイ札の数であらわしているのね。
というかthouthandを単位に表わしているわけね。

 よかつた―。 という訳で安心してブラン城の見学に向かったのでした。
 ブラン城は前日ブカレストの歴史博物館で模型を見ているので、 もっと大きいかとおもっていた。
内部に入つた時も中庭をみてこれが中庭だとは思わなかった。 これは塔の中庭なのね、 程度に考えていたので、 実際の大きさが分かつた時には小さい、という印象をもってしまつた。 ただし内部はからくり屋敷のようで面白かった。 中庭の井戸に遠くからコインをはじいて入れる、 というげんかつぎなのか、 多くの人がトライしていた。

 13時10分頃着いて15時にタクシーに集合。
 14時15分頃には見終わり、 城の北側の資料館と教会(ただの廃虚だった)に行って歩いて城をぐるりと南側にまわり、
土産物屋を見てクロワッサンとコーラを飲んでいるとおっさんにあつた。 逃がさん、 という感じで腕をつかまれたようにもおもえた。

 そのあとはたんに帰るだけだったのだが、 途中に丘の上に城が見えたので 「城?」 とか聞いたら、 どうやら行くことになってしまつたらしい。
 でもそのふもとの村で一人人を拾って、 山の入り口でタクシーを降り、 人気ない山道を上がっていった時はさすがに隙を見て石を拾つて二人のあとに着いてゆくことにしたさ。
 もし襲われそうになったらぶん殴つて逃げようと身構えながら上ったのでした。
ところが実際に城にたどりついてみると、 受け付けがあって、 入場料を払い、 コピーの薄っぺらなやつだけどちゃんとパンフレットもあって、 見学中の観光客も10名程いたのでした。 ここはしかしあたりだつた。 
 中世の城の遺構としてはブラン城よりもよりそれらしかつたというべきか。 崩壊してある部分はそのままで、 修復はほとんどなされておらず、 中庭は畑となっていたが、
それでもなかなかの迫力だった。 おやじが1331年のタタールの襲撃があったのだと言つていた。
 帰りは行きとおお違い。上ってくる人とやたらすれ違った。
上りの時もこうだと変な気苦労しなくてすんだのに。 城を描いている婦人がいた。

 続いて近郊のリゾート地を見に行った。 おやじはイングランドやスペインからも人が来るといったが、 多分正しい様におもえる。
外側から見ただけにしろ、設備は新しいし、 村自体きれいである。 
ホテル、 テニス、 乗馬、 山頂展望台、 ミニ動物園。
これなら先進国から人を呼べると思ったね。 
 最後は旧市街を見下ろせる丘。 う一ん世話になったわ。 
 その後旧市街を通り抜けて駅へ。 おやじに結局10万レイ渡す。 満足したようであつた。

 駅で翌日の電車の時刻は8時34分。 また早起きだ。 
 駅から中心街迄歩く途中エホバの証人の勧誘にあってしまった。
 途中ショップの入っている地下道を通ったが、 きれいで先進国的である。 
 駅まで結構な距離。 ろくに探しもしないで最初に見つかつた高そうなホテルに決めてしまったのだが、 その後すぐに反省した。
なんと60ドル。 さすがに感覚がインフレーションしていると反省。
これまでの支出を夕食時に計算したところすでに478ドル。
 こりゃあかん。 夕食は中華。 面倒くさいのでセットにしてしまったのだが量が多くて食べきれず、 ウェイターに悪いことしてしまった。
 まあ普通のウェイターなのだが、 サービスの悪いのに慣れきってしまっているので、 「もうたべないのいか?」 とか言われて、
すんませ―ん、と思つてしまった。

 食事の前に町を観光。
 確かに旧市街がそのまま残つてはいたものの最初ガイドブックで写真を見た時程ではないな、 というのが率直な感想である。
宿に戻リモーニングコールを頼んどいて部屋ではテレビで 「2010年」を見る。 終わりの方だけだけど。
ヘレンミレンがロシア語でカウントダウンしていた。 
続いてコーマが始まったが、これは20分くらいで止めて寝る。 マイケルダグラスが出演しているのには驚いた。
 

7月29日

 朝6時半にコールしてもらい、 7時にはチェックアウト。
レシート頂戴、というと受け付けのね一ちゃんは結構感じが悪かつた。 昨夜の最初の男はよかったのに。
朝食の話さえでなかった。 まあいい。 ゆっくり歩いて7時半過ぎには駅に着く。
駅前のキオスク街みたいなところで朝食。 まあまあ。
 8時34分の特急でシギショアラヘ。  10時05分頃到着。 
町は小さく、 早速カタツムリの様な正教会見て、 丘を一周、 その後丘に上り城門の前で一体み。
 ベンチでしばらく寝そべる。 その後山の上の教会(修復中)を見て(木の階段が日本の寺院にあるような階段に似ていた)、
カトリック教会見て、  ドラクールの邸の跡のレストラン見て、 なんだかわからないけどあいていた敷地にはいつて(すぐにおいだされたけど)、
時計塔見て、 デパート(これはブルガリアつばいスーパー)見て駅に12時30分ころ戻る。

 結局14時47分の列車しかなくて2時間近く待つことに。
ここで日本人のバックパッカーに会った。
14時47分の各停では運良く英語が話せる学生(この学生はキリル文字読めた)といっしょになって、 時刻表で乗り換え駅と接続列車の発車時刻、
シビウヘの到着時間を教えてもらつた。 らつき―。
 16時頃接続駅ミカ着。 16時56分の発車と言われたが、  16時15分には発車。
17時15分頃シビウ着。

 車内ではミュ―ジシャンらしき連中が一緒だった。
列車がシビウ終点かどうかあやしかったので乗り過ごさない様にと緊張したが、 無事着いて中心街迄近い事もあつて、 紹介された宿はすぐに見つかつた。
片言の英語ができる人であったし、 昨日バックパッカーの日本人が泊まっていることもあってすんなり泊まれた。 一般人の民家を見れる貴重な宿泊となった。
 宿の老夫婦はハンガリー人であった模様。 苗字と名前の順序からすると。
 部屋はなかなかで水を頂いたのだが非常においしかつた。

 夕食は中級(と思われる)レストラン。
 結構安く料理もまあまあだった様に思う。
食事のあと観光。  7時ちょい過ぎには食事は終わっていたので2時間程町を見て回ることができた。
ついでにホテルも見て回った。
 21時頃戻り半には寝た(電気代がもったいないとおもい早めに消灯)。
 水はおいしいし、 ベットも寝心地よく、 これで20000レイは大助かりである。
 

7月30日

 朝8時半頃出たのかな。 8時頃まで家の人がおきる気配がしなかったので 多少ゆっくりできた。
11時20分の列車の予定であったので、 再び街を周遊する。
 今度は市場へいってみた(というか偶然ついた)。

 市場はブルガリアのそれより活気があるように思えた。
チーズを売つていた(多分自家製)のとスイカの山がブルガリアをはるかに上回る規模だったのがもっとも目についた。
 ももを3個買って近くの川辺りで朝食代りに食べた。 車道の排気ガスが苦しかったけど。
 その後歴史博物館を見て11頃駅へ。
 ところが11時20分は無いことがわかり、 13時16分の各停になっちまった。
もはやどこへゆく気にもならず、 駅で寝そべって待った。

 15時26分準急迄はさすがに待つ気はしなかった。
しかしこの列車は非常に遅かつた。 平均時速30キロくらいではないか。 
特に登りは遅い。 じれったいくらい。
 切符は途中駅迄しか買つてなかったのでその駅についた時に慌てて時刻表を見に走り、切待を買い直すはめに。
なにか食いたかったのだがたいしたものは売っていなくて、 取りあえずジュース2本とクロワッサンを買った。

 結局列車がアラドに着いたのは20時28分頃。
列車の中ではず―と向かいに座っていたおっさんが降り際にりんごを4っつくれた。
 また他の乗客の中で英語のできる学生がいて、 ティミシヨアラ行きの列車の接続時間を教えてもらつた。
この列車の発車時刻が20時32分だったので慌てたが、 駅の時刻表は39とあった。
でも列車は32分に発車した。
 おかげで飛び乗りをすることになった。
 最初にジユースのボトルと切符、 タオルを放り投げ、 次にガイドブックとパスポート、 財布の入つた入れ物を放り投げ、
最後にかばんを投げいれて、 続いて自分が飛び乗った。 入り口にいた人に助け上げてもらつたが、 間一髪だった。
 でもこの数分後列車は停車してしまい、 しばらく動かなかったのだが。

 もうかなり薄暗くなっていて、 あまり景色は見えなかった。
案の上切符は乗車券だけで、 車掌から特急券を買うことになった。
彼は英語が少しできて、 日本人の宣教師の友人がいるのだそうだ。
横浜出身で、布教に来ているのだそうだ。 あなたは神を信じるのか、とか質問されてしまった。

 車掌の計らいで個室に座ることになったのだが、 この個室にいた家族が多少妙な取り合わせで親父と二人の娘なのだが小さい方は3っつくらい、
大きい方は16くらいに見えたのだが、 ひょっとしたら母親かも知れない。 とにかくやたらセクシーなね一ちゃんだった。

 ティミシヨアラに着いたのは21時45分、 ホテルに入つたのは22時頃。
レイが不足していたので、 駅前売店で両替してもらう(多分闇)。

 ホテルのカウンターのおっさんは英語が出来てビジネスライクな親切さがあった。 支払いをする前に、 部屋を見てきてくれと言われたのはここだけであつた。
長距離旅行者慣れしていると思つた。

 取り敢えず駅地下にあった地図を頼りに(どのバスか結局よくわからなかったので)中心へと歩く。
結構あるいたが、 全然中心地帯に近付いている気配が無いので、 一度戻ろうとしたが、 通行人にきいたところ、正しいとのことで、なおも歩くと、
その日泊まる予定だったホテルの前に達し、 ほどなく中心部に到達した。
 ピザ屋に入つたのだが、 どうしようもないウェイトレスが一名いた。
そいつとは別のウェイトレスは片言の英語を話し、 最後You want to pay?
と甘つたるい声でいわれたときには別の内容を連想してしまった。
ホテルはトイレ、シャワー共同の安宿だったがルセのに比べれば全然まし。
24時頃には寝たろうか。
 

7月31日

 今日は一日テイミショアラ。
 さして大きな街ではないので、 余裕をもって朝はゆつくりしていた。
 まず中心街の教会にゆく。
中心街に行きつつ車の車種を数えて見ると、 概ね3分の2から4分の3は国産草であるように思えた。

次いで教会へ。 89年の共産主義打倒の時に流血の惨事があつた所。
 その後歴史博物館。 セルビア教会やカトリック教会のある広場(ここでデゲバルスの像を発見)を見て、 
要塞跡をぶらぶら散歩して市民公園やコンチネンタルホテル等のトイレを借りてカウンターのコンピュータをチェック。 ホテルセントラルのトイレは酷かった。 ブルガリアと同じ。
 どつかの公園でしばらく寝そべって休憩。
なんとか700の市場をちょいと見学。

 夕方バスターミナルを探しに出る。
 数キロ歩いてもなかなか見つからず、 日差しは熱く、 も―やめた一、 というところで市場に遭遇、 ここを見ながら反対方向に通り抜けた所、 バスターミナルがあつた。
ブダペスト行きのバスが14時発。 
バスターミナルを探しつつ、 中心街からだいぶ離れた所に行つてしまったが、 その辺りはブルガリアにイメージが近かった。
でも多分ブルガリアよリゴミは落ちていない筈だし、 寂れた雰囲気であるとはいえ、 ブルガリア特有の 「いい加減さ」 は感じられなかった。
バスターミナルを出ると、 何とここがノルド駅の近くであることが判明。
 川岸を歩いて中心へ向かって戻る。

 途中がきどもに小遣いせびられたり、 そいつらが反対からやってきたね一ちゃんに捺れ違いざまタッチしたりしていた。
川岸はテニスコートやプール、 レストラン等が建ち並び、 川ではカヌーの練習をしていた。

 夕食は昨夜と同じ店。
でもポークとかの普通の料理。 今日は英語の出来る働き者のウェイトレス。
アメリカ人子供観光団体が途中大挙して来たので、 非常に忙しくなった。
私は彼らが帰る迄いたので結構長居することになった。 というか今日は駅に泊まるのであまり早く行っても仕方がない。  2、 3時間粘ったろうか。

 殆ど暗くなったところで店を出る。
駅前の売店でミネラルウォーター買って駅のホールのすみっこで寝そべって、 時間の来るのを待った。
 この時こんなことがあった。
 農作業用の粗めのしっかりした袋を持った汚いなりの農民風の男がやつてきて、 袋をすみに置いて切待の列に並んだ。 
袋は動いて、 ぶうぶう、 びき―、 とか言つている。
子豚さんがはいっているのだ。 
身なりの比較的よい(我々の感覚からすれば 「普通」 ということだが) 御婦人が通りかかり、 その奇妙な袋に驚きはたと足をとめた。
しばらく見ていてそれが何かわかったらしく、 この婦人の顔は穏やかな笑顔に変わった。

 ところで念のため料金確認すると、予想通り70000レイではなく、99000レイ。 よかった。 多めに残しといて。
予定通り4時に切符を購入。
予定時間より少し遅れて列車は到着した。 (予定では4時19分の到着)。
溢れる程の乗客を想定したりもしたが、 乗車率は70%程度。 誰もいないコンパートメントを見つける。
後は只寝るだけ。