2019/Apr/14 created

ハドリアヌス『永久告知録』の出典 および 十二表法の条文数

 
 まえまえから気になっていたことをちょっと調べてみまし た。

(1)十二表法の条文数

 前451年に制定されたローマ最古の成文法、12表法。高校生の頃ローマ史の本を読んだ時は、なにぶん古いもの であることから、聖徳太子の17条の憲法のように、12条の条文だと思い込んでしまいました。その後大学では、12枚の 銅版に刻まれた、ということを知りましたが、その頃は、一般的な古代ローマの銅版碑文を見たことがなかったため、凱旋門 に刻まれている石碑文のように、大きな文字で刻まれたもの、という勝手なイメージをもってしまい、銅版一枚あたり、 2−3条程度のものだろう、と思い込んで今に至っています。

 さて実際には何条あったのか、検索してみました。十二表法の条文の全訳は、一応、比較ジェンダー史研究会のサイ ト(こちら) にあるのですが、記事冒頭に(未完)となっていて、「B史料(翻訳:日本語訳)全文→佐藤篤士」との文言との整合性が不 明です。この訳は、日本語版Wikipediaの訳文とほぼ同一で(Wikipediaの十二表法の訳文は(こ ちら)、明らかに佐藤篤士訳を用いており、著作権を明記しないとまずいのではないかと思うのですが)、 Wikipediaの記事の条文の部分には、(抜粋)と書かれているため、これが全部かどうか不明です。

 幸いなことに、末松謙澄 訳註ウ ルピアーヌス羅馬法範 : 羅馬法総評十二表其他附録』(帝国学士院、1924年)が国 会図書館デジタルライブラリで公開されており、p209-333で全訳が公開されています。比較ジェンダー史研究会 の訳文と比較してみたところ、条文のカウントの仕方が違うだけで、内容はほぼ同一のところも多いことがわかりました が、省略部分も割りとありました。以下に異同を示します。

比較ジェンダー学会サイト掲載の訳文     『ウルピアーヌス羅馬法 範』の訳文

 第一表(全四条)                 (全九条)     
     二条            :      二条と三条
     四条            :      五、六、七、八条
     なし             :      九条
    
 第二表(全二条)         :      (全四条)
     なし             :      一条、四条

 第三表(全四条)         :      (全六条)
     一条            :      一条と二条
     二条            :      三条と四条
     なし            :      五条、六条前半
     
 第四表(全二条)        :      (全四条)
     なし            :      第二条(有名な、家父 長が家族の生殺与奪の権限を持つとの条文)、四条

 第五表(全二条)        :      (全十一条) 相続関連

     なし            :      一、二、三、六、八、 九、十、十一条

 第六表(全二条)        :      (全十一条)
     なし            :      一、二、三、四、五、 八、九、十、十一条
     六条            :      一部文言が異なる
     
 第七表(全四条)        :      (全十条)
     なし            :      一、二、三、四、五、 六、八、十条
     七、九条         :      一部文言が異なる

 第八表(全六条)        :      (全二十七条)      なし            :      一、五、六、七、八、九、十、十一、十四、十五、十六、十七、十八、十 九、二十、二十三、二十四、二十五、二十六、二十七条
     一条            :      二条
     二条            :      三、四条(賠償額の単 位が違う(ジェンダー学会訳はセステルティウス、末松訳はアス))
     三条            :      二十一条
     四条            :      二十二条
     五条            :      七条
     六条            :      十二、十三条

 第九表(全三条)        :      (全六条)
     なし            :      一、二、四条、
     一条           :      三条
     二条           :      五条
     三条           :      六条

 第十表(全三条)        :      (全十一条)
     なし            :      二、三、四、五、六、八、十、十一、
     二条           :      七条(若干文言が異な る)
     三条           :      九条

 第十一表(全二条)      :      (全一条)
     二条           :       なし

 第十二表(全三条)      :      (全五条)
     なし           :       一、三条
     一条           :       二条
     二条           :       四条
     
    合計37条        :       105条

 双方の条文数は、単純計算で約三倍ありました。末松訳の複数の条文が、佐藤 訳でひとつになっている13条分を佐藤訳に加算すると、全部で50条になりますが、それでも二倍の開きがあります。
ということがわかりました。
     
(2) ハドリアヌス『永久告知録』の出典

 ハドリアヌス帝関連書籍では、「永久告知録」というものが登場します。しか し、その実態について言及しているものがあまりありません。私の学生時代の学部の西洋史(1980年代)では、まだ 法制史(とそれに基づく共同 体史)が主流でしたので、言葉には触れた記憶があるのですが、当時私はこれをあまり重要なものだと思っていませんで した。卒業後に読んだ『ハドリアヌス帝の回想』の訳者解説に

「「執政法令」を条文化し、《永劫の法》 としてこれを全帝国の憲法となした」

という一文が出てきて驚きました。ある程度体系化した法集成である「ローマ法 大全」でさえ、憲法という概念とは大分異なるため、「永久告知録」とはいったいどういうものなのか詳細を知りたいと 思っていました。

 通常の学生レベルのローマ法理解では、ローマ市民向けの市民法と、非ローマ 市 民とローマ市民の係争を裁く万民法、各都市固有の法があり、十二表法以来の伝統的ローマ法は市民法に属していました。これらに対して、属州総督 の巡回裁判による法解釈や判例、法務官による裁判における法解釈や判例、皇帝裁判における法解釈や判例、皇帝勅令等 が時代が下るにつれて追加されてゆき、やがて膨大なものとなり、これら雑多な法の整合性をとるために、帝政期に入る と法学者達の著作が隆盛し、 更にカラカラ勅令により全自由人が単一の法律に従うことになってしまったため、それら総てを総合化する単一の法典化 へと向 かった、という理解です。

 ハドリアヌスの時代は、まだカラカラ勅令以前ですので、「全帝国の憲法」と い う概念は、理想としてはありえても、実際に作ろうとした場合、様々な固有の法を持つ集合体が沢山ありすぎて、現実的 には非常に困難です。となると、ハドリアヌスが目指したものは、全帝国の憲法というほどのものではなく、雑多になっ た法律を整理する全体的なフレームワークか(これなら憲法といえなくもない)、或いは歴代の皇帝勅令だけに限った、 後世の言葉でいえば、勅法彙纂のようなものだったのではないか、或いは単純に法務官法(Edictum praetoris:上述の法務官による裁判における法解釈や判例に基づく告示)の集成 等ではないかと思われるわけですが、とにかく実態がわかりません。

 カラカラ勅令後であれば、帝国全体の、自由民に適用する共通法が必要ですか ら、どんなに考えなしの為政者であろうと、帝国全体での統一法典の整備は必要となることはわかるわけですが、カラカ ラ勅令以前の場合に統一法典化作業のようなものが行われていたとすると、それは、その為政者独自の見通しや帝国の向 かう方向性に対する見識を示していることになる、という点で、非常に重要な話です。
今回調べる気になったので、調べてみました。


@ 
永久告示の用語は、 『ローマ皇帝群像』のハドリアヌスの伝記には登場しておらず、4世紀の史料、エウトロピウス 『首都創建以来の略史』の第8巻17節(邦訳は上智大学リポジトリ(こ ちら))に、前193年に皇帝となったサルウィウス・ユリアヌスの記載箇所で、

「神君ハドリアヌスの下で永久告示を作成したサルウィウス・ユリアヌス」

とでてきます。これだけでは永久告示の内容は不明ですが、別の史料、

A 6世紀のローマ法大全を構成する学説彙纂(邦訳千賀鶴太郎著『ユスチーニアーヌス帝欽定羅馬法学説彙纂』第1巻 第5章2節(国会図書館デジタルライブタリー版(こちら))p108) に、

「一切の法規は人類の為めに制定せらるるを以って先ず其身格を説きたる後に其の他のものを論述すべし且つ其分門は 永続告示を模範とすれば各章の順次も成るべく之に順すべし」

とあります。このことから、「永久告示」なる、法規の構成の模範となるものが、ハドリアヌス時代に、サ ルウィウス・ユリアヌスに よって制定されたことがわかります。この『学説
彙纂』の文言は、3世紀末に活躍した法律家の ヘルモ ゲニアヌス(245-311年)の文言の抜粋であるため、3世紀末にも、サルウィウス・ユ リアヌスが制定した「永久告示」が、その名称のままに利用されていたことがわかります。

一方、上記「学説彙纂」には、

「一切の法規は人類の為めに制定せらるるを以って」(p108)という文言があり、次の頁には、「奴隷制は万民法に 属する一制度 にして之が為に或人は自然に反して他人の支配に服従す」(p109)

とあるように、自由民を対称とした万民法だけではなく、奴隷も含めた人類全体を対象とする自然法の概念が登場してい て、この部分や、第一章冒頭部(p3-p10)では、自然法・万民法・市民法の定義を記載していて、この部分は憲 法っぽいといえなくもありません。
学説彙纂』が永久告示の構成を継承してい るとしするならば、永久告示の冒頭の内容も『学説彙纂』のような、自然法・万民法・市民法を整理する文言であった可能性はあり、一応「憲 法」といえなくもなさそうです。しかし証拠はないので、反対に、自然法・万民法・市民法に関する記述は、永久告示の文言そのものには入っ ていない可能性もあります。上記p108の文言は、3世紀末に活躍した法律家のヘルモ ゲニアヌス(245-311年)の文言であり。つまりカラカラ勅令後の文言です。「其分門は永続告示を 模 範とすれば」とあるように、永久告示は、「分門」(各論)の部分の模範であることから、過去の勅令や法務官法(法務官告示)を対象とした集成である可能性 もあります。

 法務官告示Edictum praetoris)と は、法務官(プラエトル)及び属州総督(プロプラエトル)が発した法令(Edict)であり、在任期間中に告示したも の、とされています。基本的には、在任期間中のみ有効な法令なのですが、後任の法務官や総督も、殆ど内容を変えずに赴任 後、告示していたものなので、実質的に永続的な法令となっていったそうです。この実態を踏まえ、「永久告示」の「永久」 という文言を巡って議論があるそうです。

上記『ユスチーニアーヌス帝欽定羅馬法学説彙纂』(1921 年、有斐閣書房)p20-21の訳者註釈で、「永久」に関する議論を整理し、三つの意味に解釈できる、との解説がありま す(この場合の法務官とは、都市ローマの法務官だけではなく、属州に赴任した総督や皇帝領管理人等の法務官就任者が就任 する法務官級職のこと)。

1)各々の法務官が、法務官赴任時に、任期中に「中断なく≒(期間中)永久に」実施する法令として告示した。「永 久」とはあくまで赴任期間内を示す。
2)赴任した法務官が前任者の告示をそのまま(惰性的に)踏襲する法務官が多かったから、「永久」という俗称で呼 ばれた
3)前任者の告示の中で、後任者によって永続的に継承されるべき条文を「永久」といった

1)と2)の「永久」の文言には、特に非凡な意味という感じはありません。もし、3)であれば、「永久」には積極 的な意味づ けがあるわけですから、ハドリアヌスの指令は非凡であるように感じられます。2)であっても、惰性的に踏襲されていた法 務官告示を集成し、法典的な構成(分門)を確立した点では、一応ハド リアヌスとサルウィウス・ユリアヌスの功績はありそうです。が2)の「永久」という文言は、慣習的・伝統的・働かない法 務官  という程度の意味しか持ちませんから、残念な感じにはなります。

これがどっちかということはわからないようで、西村重雄著書評)吉原達也著「「「永久告示録 Edictum Perpetuum」の再構成について―訴訟告示と訴訟方式―(―)〜(三)完」(法学論叢(京大)第一〇四巻第二号・第六号、第一〇六巻第一号) (1978-9年)」(1980年)PDF) によると、一部には、ユリアヌスの告示の編纂作業自体を否定している学者もいるそうです。

 現在発見されている同時代史料では、永久告示の言及がないそうですから(同時代史料であるサルウィウス・ユリア ヌスの現存する著作断片にも含まれていない模様。ユリアヌスの先祖やキャリアは、ユリアヌスの著作断片から知れるとのこ と)、帝国の憲法といえるほど過大評価はでき ないように思えますが、結果的にであれ、後代の先鞭をつけた、という意味では、帝国法典化の発端として意義づけられても 良いのではないかと思います。

 吉原達也氏は、ドイツの永久告示の研究者、オットー・レーネルの1909年の『永久告示録』(Das Edictum Perpetuum)の部分訳を出したようで、こ ちら国会図書館にあるようです((上)は2014年38頁、(下)は2015年41頁( こちら))。レーネルの原著は、こ ちらで公開されています(ドイツ語)。603頁もあります。また、こちらに、1877年のブライアン・ワー カー(Bryan Walker)という方の「The fragments of The Perpetual edict of Salvivs Julianus」(PDF) という、サルウィウス・ユリアヌスの断片を集成し、英語解説を付した書籍も見つけました。

 『ユスチーニアーヌス帝欽定羅馬法学説彙纂』1-7-1(p19-20) では、

「大判官法(jus praerorium)とは大判官(praetores)が公衆の便益の為めに国民法を或は扶持し或は修正するの目的を以って採用したる法なり之を称して 名誉官法(jus honorarium)とも曰ふ大判官の名誉官たるに因りて此名称あり」(大判官=法務官、国民=市民)

 とあり、法務官法は、名誉官法ともいうそうです。

サルヴィウス・ユリアヌスに関しては、他に法務官法集成を命じられた125年とか永久告示録を命じられた132年 という年号が登場します。この出典も気になります。そのうち見つけたら追記したいと思います。


(3) 方式書とは

 法務官法(ius praetorium、法務官告示)の成立状況の実際がよくわからないため、調べてみました。

 ローマ法関連文献には方書式という言葉がよく登場しますが、いままでは、ローマ史に限らず、現代法曹用語では自明用語 なのかどうかさえ、よくわ からないまま流していましたが、今回調べました。

 方式書の具体例が、『ローマ法の歴史』(ミネルヴァ書房)p68に記載されています。以下書式を引用します。

「争われている物がローマ市民法によればアウルス・アゲリウス(Aulus Agerius)のものであることが証明されるならば、そしてこの人物が審判人の裁定に従ってアウルス・アゲリウスに返還されないならば、審判人は、アウ ルス・アゲリウスのために、その物が値するであろう金額の有責判決をヌメリウス・ネギディウス(Numerius Negidius)に下すべし」

 ヌメリウス・ネギディウスは、日本用語では、原告甲、アウルス・アゲリウスは被告乙とのことで古代ローマの法学 者が利用した匿名とのことです。実際の判決では、甲と乙の部分に当該訴訟の実名を記入し、金銭訴訟の場合は金額を記入し て判決文が作成されたそうです。

こういう文書形式に個別事案の個人名と金額等を挿入し、訴訟方式を決めて裁判を行う、これが方式書訴訟だそうです。この 方式 書 は多数種類があり、実際の裁判では、法務官は、適用書式を決定するのが仕事とのことです。

 その後案件は、審判人(案件ごとに雇われる)に移管され、審判人が、法務官から引き継いだ書式に案件の 個別名をあてはめ、原告の申し立て内容が事実かどうかを審議し、その審議の場が、原告と被告の代理人である弁護人が活躍 する裁判となり、最後に審判人が判決を下したそうです(法務官と審判人の仕事については、他に『ローマ法とヨーロッパ』 (ミネルヴァ書房、1996年p14-15、31、柴田光蔵著「ROMAHOPEDIA (ローマ法便覧) 第五部」(PDF) p-127-9も参照しました)。

 法務官告示とは、この方式書を、就任した法務官が広場に張り出す一種の法律適用についての施政方針のような告示 のことを言うようです。ただし実案件では、就任時告示済方式書では対応できないものが出てくるため、案件ごとに随意に新 規方式書を作成した模様で、これが法務官法となってゆき、最終的にサルウィウス・ユリアヌスによる「永久告示録」に繋 がってゆくことになったとのことです。従って中央政府で法典化が進むにつれて、法務官が個別案件で独創性を発揮する機会 は減少し、私人から構成されていた審判人は法律家が就職する国家役人である職業裁判官となっていったとのことです。

□その他メモ
・末松謙澄版 『ガイウス法学提要』国会図書館デジタル版(PDF)
・ウルピアヌスがアントニヌス勅令に言及した部分を見つけました。『ユスチー ニアーヌス帝欽定羅馬法学説彙纂』1-5-17、邦訳第一巻p122「凡そ羅馬領土内の住民はアントーニーヌㇲ皇帝 の勅法に因りて羅馬市民権を享有す」
・更にp122の次の節は、ハドリアヌス帝の勅令となっています。
・出土文書から再現した都市ヘルクラネウムの奴隷と主人の79年の裁判事例の 再現紙芝居ドラマ(youtube
・古代ローマ史論集CAESAR'S ROOM 「ローマ法 概説

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