西欧ルネ サンスの起源はビザンツかアラブか? 

 

 

 西欧ルネッサンスをもたらした、古代ギリシア・ローマの古典知識は、どのルートからもたらされたのでしょうか?

  一般には、イベリア半島の十字軍によるレコンキスタを通じて、コルドバ・トレドのアラブ著作がラテン語に翻訳されたルート、或いは、一時 的にアラブ領土であったシチリア島を奪還して成立した中世シチリア王国の、特にフリードリヒ2世時代に、アラブの著作が翻訳されたルート という、アラブ経由のルートがあるとされています。これに対して、エルサレムへの第四回十字軍が、コンスタンティノープルを占領し、ラテ ン帝国を築いて以降、更には1453年ビザンツ帝国の滅亡時にイタリアへ逃れたビザンツ人から、古典知識が西欧にもたらされた、との意見 もあるようです。西欧ラテン語への翻訳運動が、12世紀には始まっていることを考えると、この時の中心はコルドバ・トレド経由ということ になるかと思うのですが、活動がより活発となってゆく13世紀を考えると、シチリア経由や、ラテン帝国経由も重要なルートだったことにな るように思えます。

 

  ビザンツかアラブか、というテーマの回答は、結局その両方だった、ということになるかと思うのですが、実際のところどうだったのか、2つ の方法で少し調べてみました、ひとつは、イブン・アン=ナディームのフィフリストに登場するアラブ人とギリシア人の数を比較したもの、、 2つ目は、9世紀のビザンツ文人フォティオスの「図書総覧」、ビザンツ大辞典Sudaの項目と、フィフリストを比較することで傾向を把握 する方法です(今回の話は、古代ギリシア・ローマの古典知識がルネサンス西欧にもたらす貢献をしたのはビザンツかアラブかを見てみようと いう話であって、純粋にアラブで発生した科学が西欧ルネサンスに与えた貢献についての話ではありません)。

 

 

イブン・アン=ナディームのフィフリストに登場するアラブ人とギリシア人の数

 

 

  10世紀のイ ブン・アン=ナディーム著の書誌辞典「フィ フリスト」英訳版巻末に記載されている、掲載人名索引を数えることで、どの分野のギシリア人の著作がアラビア語に翻訳されて いるのかを調べて表にまとめてみました。人名索引は、3300人近い膨大な量なので、数えなおしはしておらず、正確な数字は若干前後する かも知れませんし、別名や俗称のある人物は、項目に「XXを参照するように」と書かれており、重複項目は除外するようにしましたが、完全 に除外切れなかったかもしれず、数字は若干前後するかも知れません。しかし、違っていてもせいぜい数名から10数名程度の範囲だと思われ るので、全体の傾向としてはだいたい合っているものと思います。

 

  3300人といっても、政治家や伝説の預言者(アリストテレスの母も入っている)なども含んでいるため、全員が著作家として登場している わけではなく、一方で、アリストテレスのように一人で16もの著書が言及されている人もいるので、人数と書数は比例しているとは限りませ んが、「フィフリスト」には数千冊の書籍が(題名だけのものも含めて)紹介されていると考えてよさそうです(誰か数えたことがある人がい るものと思いますが。残念ながら大変は労力となるので、掲載著作数については当面数えるつもりはありません。既知の、数えたことのある人 の資料を探す方が早そうです)。

 

  ギリシア人の文学者は、表外の註に氏名を記載できてしまうぐらい数人でした。一方、インド人が予想以上に入っているのに驚きました。イン ド人全員が天文学、医学、数学者となっています。シリア人はギリシア人に含めました。

  ギリシア人は約80%が学者、インド人は全員学者となっています。アラブ人については、膨大すぎるので職業割合は数えていないため不明で すが、詩人・文人も多く含まれているものと思います。また、ギリシア人は、古代ギリシア最盛期・ヘレニズムの人だけではなく、ローマ時代 やイスラーム期と同時期のビザンツ時代の人物も含みます。更に、「XX」の父や子、教師、弟子とのみ言及されているだけで、職業が書いて ない人物などがある場合は、「XX」に相当する職業の人の分類に含めました(アリストテレスの親子についてのみ別途調べ、父親が医者だと わかったので、当初哲学者としていた分類を医者に変更した。より詳しく調査すれば、このような異同はいくつも発見されると思われるが、今 回の記事は、全体の傾向がつかめればよいので、アリストテレスの父と子以外は調査していない)。その他個別の項目に関する注釈は表の下に 記載しています。

 

 

頭文字

ア ラブ人*1

そ の他*2

インド人

ギリシア人(170人)

 

 

 

 

天文学者

数学者

物理学者

化学者

医者

哲学者

その他*3

A

667

6

2*4

4

7

1

3

15

5*5

B-D

329

10*6

3*7

1

1

3

2

2

4

6*8

E-H

436

7*9

1*10

1

4

0

12

3

8*11

I-M

627

8*12

3*13

0

1

0

2

0

2

N-Z

967

1

3*14

3

6

12

8

12

21

18*15

合計

3026

32

12

7

15

24

11

31

43

39

 

*1 アラブ人に はペルシア人を含む(伝説のペルシア王、英雄、パルティア、サーサーン朝王、ゾロアスター教徒で総勢でも(厳密にカウントしていないが)20 名以下の筈である。ペルシア人と記載しているのは、アラブ名に改名していないペルシア人、基本的にはサーサーン朝以前の王や、イスラーム時代 のゾロアスター教徒である。アル・ムカッファなど、アラビア名を持つイスラーム期のペルシア人はアラブ人としてカウントしている。基本的に、 アラブ人かどうかの判断は名前が、人名索引の名前がアラブ系がどうかでカウントした。なお、サーサーン朝以前のペルシア人には学者は一人も登 場していなかった。なお、アラブ人にも、イスラーム期以前の時代の伝説・実在の人物も多く含まれている。

 

*2 旧約聖書の登場人物(アダム 含む)など

*3 政治家、預言者、宗教者など

*4 イニシャルAについては途中 までインド人は意識してカウントしていなかったので、ひょっとしたら12人以上いるかも知れない。

*5 Artemidorus (夢判断の書)が入っていた。彼は占星術者として認識されていたのだと思う。

*6 エジプト古王国のケオプス王 が入っている。

*7 インド人のうち1人歯医者

*8 コンスタンティヌス、クレオ パトラ、ドミティアヌスなどが入っている。

*9 イエス、天使のガブリエル、 ユリアヌスを含む

*10 天文学者

*11 Epaphrodiusと いう解放奴隷、ローマ皇帝ガルス、ローマ人ゲルマニクス、ホメロス、ヘルメス神、Horacreというローマ詩人含む含む

*12 中国人JīKīやマニなど を含む

*13 天文学、医学、数学各1名  

*14 天文学者1、医者 (susruta,vagnhata)2名

*15 ペトロニウス(但し、「有 名なローマ人」とだけの記載)、アリストテレスの母、Philocles(悲劇作家)、抒情詩人のSimonides、人相占い師 (physignomy)Philemon含む

 

 

  この表の結果からすると、ギリシア人は、哲学者(43人)、医学(薬学含む)31人、数理系46名、化学者11名、その他39名となって いて、ギリシアからアラブへ翻訳されたのは哲学・医学・数学と大別する、従来の考え方と同じ結果となっており、文学、建築、農学、詩、歴 史は、アラブ経由ではなく、ビザンツか、西欧の旧ローマ帝国領土内から直接ルネサンス期の西欧に伝わったということが言えそうで す*16(末尾註)。ルネサンスとは、科学だけではなく、人文諸学も含まれていることから、ルネサンスによる西欧の飛躍へのアラブの貢献 は、この時点で限られたものとなっていると考えてもよさそうです(小説・民話に関しては、一部は千一夜物語や、シンドバッド系枠物語に 入っているものもあるので、アラブ経由のものがまったくないわけでは無い)。

 

 

フォティオスの「図書総覧」、ビザンツ大辞典Sudaの項目と、フィフリストの比較

 

 

  9世紀ビザンツの文人フォ ティオスの「図 書総覧(Wikiの解説)」という、世俗書の作品目録があります。「フォティオスの「図書総覧」にある世俗作品目録とアラビ ア語訳された著作との間にほとんど重なるものがない(ガレノス、ディオスコリデス、アナトリオスの一部だけが重なっている)」(ディ ミトリ・グタス「ギリシア思想とアラビア文化」p208)との記載があり、本当にそうなのか、調べてみました。ただし、全部 を調べる時間も意味も無いので、アラブに翻訳された哲学・医学・数理学者と、翻訳されなかった歴史家・文人を何名か抽出し、フォティオ ス、スーダ、フィフリストそれぞれの掲載具合を比較して傾向を見てみました(スーダとは、10世紀頃に成立した、ビザンツの百科事典で、 3万項目を収めているとされているもの)。

 

  フォティオス図書総覧とスーダは、インターネット上のオンラインで見ることができるため、表内にリンクを張っておきました。リンク先には 279冊が掲載されていますが、井上浩一著「ビザンツとスラブ」(中央公論社)p98では368冊が掲載されている、とされています。 (また、井上氏は「図書総覧」を「文庫」と表記しています)。◎は、その人物の項目があり、比較的詳細な解説のあるもの。○は、その人物 の項目はあるが、あまり詳しい記載とは言えないもの。△は、その人物の項目は無いが、他の項目で言及されており、存在は認識されていたと 考えられえるもの。×はまったく言及の無いもの。

 

 

 

フォティオス「図書総覧の書 籍一覧

スーダ

フィフリスト

 解説

アリストテレス

×

フィフリストに16作品の著作リストと注釈者の業績、著作別に注釈 書が記されている。Sudaにもアリストテレスの項目があり、著書も他の各項目で登場し、登場回数も多いが、著書については 個別に項目が立っているわけではない。アリストテレスに関してはフィフリストは圧倒的に詳しい。アヴェロエスを通じて、西欧 でアリストテレスが「再発見」された、という見解のイメージに近い。

プラトン

 ×

フィフリストでは25作品に言及しているが、題名だけの列挙となっ ていて、「テマオイス」のみ詳述がある。調査漏れかも知れないがSudaにはプラトンの項目なく、他の項目に名前が登場して いる。15世紀のビザンツ文人プレトンが、プラントを復興させた、という状況が理解できる扱いである。

ガレノス

フィフリストにガレノスの項目があり、1作j品について言及されて いる。意外にも、フォティオスにも詳しい説明がある。

ユークリッド

 ×

 ×

 ◎

フィフリストに 作品と注釈についての解説がある。作品 は題名だけの列挙。

アルキメデス

 ×

 

 ○

Sudaにはアルキメデスの項では、「Of Tralles. Philosopher. [He wrote] a commentary on Homer; and Mechanics」とだけ書かれており、数学者のアルキメデスのことかどうか不明(Mechanicsは該当しそうだが、ホメロスの注釈者というのはど うなのだろうか。ただ、「Tralles」とはアルキメデス縁の地のようなので彼である可能性はある)。Sudaの他の箇所に は、あきらかに数学者アルキメデスに言及している記事は多数ある。フィフリストには項目が立っていて、著作名とテーマが10程列 挙され、半頁程解説があるが、著作に関する説明は無し。

プトレマイオス

 ×

 

 ◎

フィフリストに著作「アルマゲスト」の著者としての紹介とアルマゲ ストとその他多くの著作名が挙げられている。アルマゲストは中身の紹介ではなく、誰が翻訳・注釈したか、という解説のみ。

ヘロドトス

×

Sudaには「キュロス王から記述を開始した歴史を書いた」程度し か記載が無い。フォティオスはかなりしっかりした紹介。

トゥキディデス

 ×

×

Sudaの記載はヘロドトスよりはまし。「He wrote about the war between the Peloponnesians and the Athenians」.と主題が明確に書いてある。

アリストファネス

 ×

 △

 ×

 Sudaでは、アリストファネスの項目は無いものの、 随所に、彼の著作からの引用が登場している。頻繁に登場している作品は、「騎士」、「雲」、 「Thesmophoriazusae」、「Acharnians」、「Wasps」、 「Ecclesiazusae」、 「The Birds」、 「Heroes」、「Plutus」、「Peace」、「Wealth」である。

クセノフォン

 ×

×

Sudaには著作名が3冊紹介してある。Sudaにしては結構まと もな扱い。

プルターク

 ○

フィフリストには、項目が立っていて、「モラリア」の説明もある。 フォティオスにも掲載されているようだが、当該リンク先には名前だけで、内容が記載されていない。本表に登場する人物の中で は唯一3書全部に項目が立っている人物。

ヘロディアヌス

×

×

どうでもよさそうなヘロディアヌスがフォティオスに掲載されている ことに驚く。ギリシア語だからか。

カッシウス・ディオ

×

×

ディオがあるのであれば、リヴィウスなどがあってもいいの に。。。。これも、ディオがギリシア語で書いているからだろうか。

プロコピオス

×

さすがにビザンツ文人だからか、ちゃんと掲載されていた。

キケロ

 ×

×

Sudaには、「The orator. There is material on him under the letter phi, in connection with Fulvia the wife of Antony. See under Fulvia.」とだけ記載されている。ホームページの注釈欄に「あのキケロ」、と記載されている。

ルキアノス

 

×

ギリシア人だからかSudaに記載されているが、内容は間違いだら け。

ベリサリオス

 ×

×

せっかく説明があるのに、彼の行った征服活動に関する記載は無し。

 

 

 

 

 

 

 

  Sudaは人をおちょくってるのか、というような内容が多い。ベリサリオスとかキケロとか、まじめに編集しているのか、と思ってしまうく らいな内容。クセノフォンは相当ましな方。プラトンは探し方が足りないのか(Sudaのオンラインシステムを使いこなせていないというこ となのかも知れませんが)、見つかりませんでした。

 

 以上の表の内容を見る限り、ディミトリ・グタスが述べているように、「フォティオスの「図書総覧」にある世俗作品目 録とアラビア語訳された著作との間にほとんど重なるものがない(ガレノス、ディオスコリデス、アナトリオスの一部だけが重なっている)」 (「ギリシア思想とアラビア文化」p208)の指摘は、妥当であるように思えます。西洋中世においては、人文系のギリシア語作品は、ビザ ンツに残り、哲学と数理系は、アラブに移動してしまっていた状況は明白であるようです。

 

な お、9世紀末から10世紀初頭にカッパドキア地方カイサリアの大主教であったアレタスの所持した写本群*17が伝来しているとのこと(「ビ ザンツ文明」ベルナール・フリューザン 白水社p142)で、世俗文化書籍では、ユークリッド、プラトン、アリストテレス、 ルキアノス、アエリウス・アリスティディス、ホメロス、ヘシオドス、ピンダロス、アリストファネス、プルタルコス、ディオン・クリュソス トモス、エピクテトス、マルクス・アウレリウスなどを所蔵していたとのことです。これを見ても、古代ギリシア人文系書籍はビザンツに保持 されていた証座となりそうです。

 

  では、アラブに移動した哲学と数理系古典ギリシア著作は、どのくらいの割合が移動してしまったのでしょうか?全ての著作を、西欧は、アラ ブから輸入したのでしょうか?このことの参考として、フィフリストに掲載されているアリストテレスとプラトンの著作と、Wikiに掲載さ れている、彼らの全著作とされているものを比較してみました(アリストテレスの著作の邦訳題名はこちらから引用しました)。

  ■と□の作品が、フィフリストに掲載されている作品です。それ以外の*の作品は、ビザンツか伝わったか、西欧自身に残されていたもの(例 えばボエティウスのラテン語訳など)だと考えられます。

 

 

    ■(1a) Categories (or Categoriae) (範疇論)

    ■(16a) De Interpretatione ("On Interpretation") (命題論)

    ■ (24a) Prior Analytics (or Analytica Priora)  (分析論前書)

    ■(71a) Posterior Analytics (or Analytica Posteriora)  Apodeiktikos  (分析論後書)

    ■ (100a) Topics (or Topica) (弁証論)

    ■(164a) Sophistical Refutations (or De Sophisticis Elenchis)  (詭弁論駁論)

    ■(184a) Physics (or Physica)    ( Physica Auscultatio / Natual Hearing )(自然学) 

    ■(268a) On the Heavens (or De Caelo) (天体論)

    ■(314a) On Generation and Corruption (or De Generatione et Corruptione) (生成消滅論)

    ■(338a) Meteorology (or Meteorologica)  (気象論)

    * (391a) On the Universe** (or De Mundo)  (宇宙論)

    ■ (402a) On the Soul (or De Anima)     (霊魂論)

    * The Parva Naturalia ("Little Physical Treatises"):  (自然学小論集)

          ■ (436a) Sense and Sensibilia (or De Sensu et Sensibilibus)

          o (449b) On Memory (or De Memoria et Reminiscentia)

          o (453b) On Sleep (or De Somno et Vigilia)

          o (458a) On Dreams (or De Insomniis)

          o (462b) On Divination in Sleep (or De Divinatione per Somnum)

          o (464b) On Length and Shortness of Life (or De Longitudine et Brevitate Vitae)

          o (467b) On Youth, Old Age, Life and Death, and Respiration (or De Juventute et Senectute, De Vita et Morte, De Respiratione)

    * (481a) On Breath** (or De Spiritu)   (気息について)

    □(486a) History of Animals (or Historia Animalium) (動物誌)    *□の3書は、フィフリストでは、「Book of Animals」として一冊とされている

    □(639a) Parts of Animals (or De Partibus Animalium) (動物部分論)

    * (698a) Movement of Animals (or De Motu Animalium) (動物運動論)

    * (704a) Progression of Animals (or De Incessu Animalium) (動物進行論)

    □(715a) Generation of Animals (or De Generatione Animalium) (動物発生論)

    * (791a) On Colors** (or De Coloribus)

    * (800a) On Things Heard** (or De audibilibus)

    * (805a) Physiognomonics** (or Physiognomonica)

    * (815a) On Plants** (or De Plantis)

    * (830a) On Marvellous Things Heard** (or De mirabilibus auscultationibus)

    * (847a) Mechanics** (or Mechanica)

    * (859a) Problems* (or Problemata)     (問題集)

    * (968a) On Indivisible Lines** (or De Lineis Insecabilibus)

    * (973a) The Situations and Names of Winds** (or Ventorum Situs)

    * (974a) On Melissus, Xenophanes, and Gorgias**

    ■(980a) Metaphysics (or Metaphysica)      (形而上学)

    * (1094a) Nicomachean Ethics (or Ethica Nicomachea)  (ニコマコス倫理学)

    * (1181a) Magna Moralia* ("Great Ethics")   (徳と悪徳について)

    * (1214a) Eudemian Ethics (or Ethica Eudemia) (エウデモス倫理学)

    * (1249a) On Virtues and Vices** (or De Virtutibus et Vitiis Libellus)

    * (1252a) Politics (or Politica)   (政治学)

    * (1343a) Economics* (or Oeconomica)   (経済学)

    ■(1354a) Rhetoric (or Ars Rhetorica)   (弁論術)

    * (1420a) Rhetoric to Alexander** (or Rhetorica ad Alexandrum) (アレクサンドロスに贈る弁論術)

    ■(1447a) Poetics (or Ars Poetica)  (詩学)

      Atheniensium Repspublica(アテナイ人の国制)(この項目のみWikiにない)

 

47 作品中18作となっています。これを見る限り、主要な作品はアラビア語に翻訳されてはいても、全部では無さそうです。では、もうひとつ、 プラトンの作品を比較してみます。こちらも、作品一覧は、英語版Wikiから持ってきたもの です。■が、フィフリスト記載のものです。

 

 

    * I. ■Euthyphro, (The) Apology (of Socrates), ■Crito,■Phaedo

    * II. ■Cratylus, ■Theaetetus, ■Sophist, Statesman

    * III.■Parmenides, Philebus, (The) Symposium,■Phaedrus

    * IV. First Alcibiades (1), Second Alcibiades (2), ■Hipparchus (2), (The) (Rival) Lovers (2)

    * V. ■Theages (2), ■Charmides, ■Laches, Lysis

    * VI. ■Euthydemus,■ Protagoras, ■Gorgias, ■Meno

    * VII. (Greater) ■Hippias (major) (1), (Lesser) Hippias (minor), ■Ion, ■Menexenus

    * VIII. ■Clitophon (1), (The)■Republic,■Timaeus, Critias

    * IX. ■Minos (2), (The) ■Laws, Epinomis (2), Epistles (1).

   (Erastae という作品のみ、フィフリストに見えていて、Wikiには記載がありません)

 

36 作品中24作品となっています。なお、「哲 学の歴史〈第3巻〉神との対話―中世 信仰と知の調和 (中川純男編) 」(中央公論新社 )p103では、プラトンの著作は、「国家」(Republic)以外のアラビア語版は現存していないので、イブン・アン=ナディームは、著者名は列挙し ているものの、プラトンの著作は、実際にはアラビア語には翻訳されなかっただろう、と断定しています。

 

  以上の内容から受ける印象は、一部の分野の著作がアラビア語に翻訳され、それが西欧に輸入された、という単純なものではなく、同じ分野の 作品でも、ビザンツや西欧にとどまり続けたものがある、ということです。なんだか当たり前のような結論ですが、アリストテレスに関しての アラブの貢献は、保存というより、西欧・ビザンツが保存していた著作の価値を再発見させる、ということだった、ということになるのではな いかと思います。

 

 

  ところで、ビザンツ側では、9世紀に、「マケドニア朝ルネサンス」なるものが登場したとされています。これは、イスラームやブルガリアに 防戦一方だった7,8世紀を潜り抜け、ビザンツの国力が充実したため、自発的に芽生えた運動とされているようですが、本当にそうなので しょうか?

 

  この点について、英 語版Wikiのフォティオスの「図書総覧」の項目によると、フォティオスの「図書総覧」(:Bibliotheca)は、彼が845年にサマーラのアッバース朝の宮廷へ使者として派 遣された時に編纂された、という議論があるようです。つまり、アッバース朝のギリシア古典翻訳運動に刺激を受けて編纂した、という可能性 がある、と記載されています。マケドニア・ルネサンスの開始のひとつは、アラブからの影響だった可能性がある、ということです。が、一 方、ミシェル・カプラン「黄金のビザンティン帝国」p108」では、ビザンツ人の古典文書渉猟熱は、イコノクラスムスへの支持・反論の典 拠探しの為に開始された、とあります。

 

  更にビザンツでは、文体についても、 9世紀に入って、大文字アンシャル体(Uncial)から小文字minuscule scriptへの変化が起こっていますが、これも、アラビア翻訳運動が起動剤となった可能性がありそうです。ディミトル・グタスの「ギシリア思想とアラビ ア文化」p203では、minuscule scriptの文献が急増する9世紀後半以前に、各々当該書籍のアラビア語翻訳が行われており、これはすなわち、アラビア語翻訳の需要が、速く書き写し、 見やすく書く為の文体の変動を促した、と指摘しています。小文字の出現も、アラビア翻訳運動が刺激となって行われた可能性がある(厳密に はグタス氏は「相互作用」という言葉を使っていますが)、という議論です。

 

  12、13世紀の西欧が、アラブとビザンツからの刺激によって知的興隆を遂げたように、9世紀のビザンツも、アラブからの刺激によって文 化興隆が発生したと考えた方が自然なのでは無いかと思えます(イコノクラスムスの影響もあったのかも知れませんが)。

 

  グタス氏は同掲書p207で、もうひとつ、ビザンツで古典復興の契機となった事情を指摘しています。初期アッバース朝時代は、シリア・エ ジプトなど、旧ギリシア文化圏がそのまま支配下に入った為、そこに既にあった書籍を翻訳した、という可能性が考えられますが、ひとおおり の翻訳が終わってしまうと、アラブが、写本をビザンツ側に求める、という現象が発生してもおかしくはありません。アッバース朝下での写本 や筆写・翻訳の高額な報酬に、ビザンツ各地の僧院・個人蔵の図書、修道院などの書庫をあさる文献ハンターが出現してもおかしくはない、と いう話です。現在でも、アフガニスタンなどでは、現地の農民などが掘り出した出土遺物を高額で欧米の博物館やコレクターに売却するビジネ スモデルがあることを考えると、アラブの翻訳活動全盛期にも、これと同じようなことが起こっていてもおかしくはないと考えられます。つま り、ビザンツで文芸復興が発生したから、アラブに古典文献が輸出されたのではなく、アラブ側での需要にこたえる形で、アラブが購入してく れるから、写本を集めたのであって、それまでビザンツが、意図して文化的に保存していたわけではなく、各地各所にたまたま保存されてい た。というのが現状だったのではないか。アラブで大枚をはたいて購入してくれることがわかり、業者が収集に努め、その価値が見直されるよ うになった。という可能性があるわけです。 ビザンツで古代以来引き続き学問がずっと繁栄していたのであれば、それがそのまま十字軍とと もに西欧に伝わった筈で、アラブの貢献はたいしたことにはならないことになるわけですが、この点について、グタスは、逆で、アラブがビザ ンツを刺激して、マケドニア・ルネサンスを引き起こし、ビザンツから直接西欧に渡る古典を準備したとの示唆をし、今後の弁証法的議論が必 要だ、としています。

 

 

  このように見てくると、西欧ルネサンスの起源はアラブかビザンツか、という単純な議論にはならず、アラブとビザンツの相互作用のうちに、 醸成されていった、との印象が出てきます。西欧やビザンツに保存されていた残骸にアラブが知識としての体系を与えた、という考え方もでき そうです。更に、1453年のビザンツ帝国滅亡により、西欧に古典文献がもたらされた、という議論*18についても、実は、14、15世 紀のパラエオロゴス朝ルネサンスと呼ばれる時代自体が、西欧のラテン語文献(寓話、哲学、神学、古代ローマ文学)を、ギリシア語に翻訳し た活動であることから*19、ビザンツ帝国滅亡が、ビザンツから西欧への一方的な古典文献の流出ではなかった、という印象さえ出てきま す。パラエオロゴス時代に西欧とビザンツの文化交流が発生した上で、ビザンツ滅亡時にギリシア古典が更に西欧に流出した、ということだと 言えそうで、「12世紀ルネサンス」という言葉は、「12世紀以降のルネサンス」という綴りの方が正確なのではないかと思うようになりま した。

 

 

  フィフリストを参考に、どのようなギリシア語文献が、どの程度アラブに伝わったのか、ビザンツ側にどの程度残されたのか、を見てきました が、結論としては、翻訳されたのは一部の分野であり、しかしその翻訳活動が、ビザンツ側を刺激し、また両者の保存文献に重複しているとこ ろもあれば、重複していないところもあったことから、西欧のルネサンスへは、アラブもビザンツも双方、(等しいかどうかはともかく)影響 を及ぼした、と言えそうです。また、ラテン語著作は、殆どアラブにもビザンツにも伝わっておらず、西欧の修道院などに保存されていたよう であることもわかりました。結局なあんだー、という話なのですが、最盛期アラブの書籍状況や、ビザンツの古典保持状況などを知ることがで き、有益な作業でした。また、最近、紀伊國屋書店から出ている「中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ 」リチャード・E. ルーベンスタイン」という書籍について知った(まだ読んでいない)のですが、アリストテレスの凄さと影響力について改めて興味が出てきました。とともに、 アリストテレスを保存した中世アラブも只者ではない、と思うのでした(2010年3月)。


 

 2015年12月5日 追記
 ビザンツが後ウマイヤ朝に直接文化的影響を持った、とする論説を見つけました。
 『ギリシア文化の西欧伝播とビザンツニ後ウマイヤ朝関係』(pdf)  竹部昌隆 県立長崎シーボルト大学国際情報学部紀要 7, 297-307, 2006-12-20

 

 

*16 「12世紀ルネッサンス」 講談社学術文庫(伊東俊太郎著)では、アラビア語に翻訳されたギリシアの科学書一覧と、12世紀にラテン語に翻訳されたアラビア・ギリシアの 学術書一覧が掲載されている。

 

*17 カエサレア大主教アレタス は、アリストテレス学派の文献の大半、プラントン学派、新プラトン学派の文献全てを所有していたとされ、他にも歴史と地理に関心を抱き、写本 の校訂作業を行ったとのこと(ミ シェル・カプラン「黄金のビザンティン帝国」(創元社)p108。

 

*18 「ビザンツ文明」ベルナール・フリューザン(白水社p144)によると、パラエオロゴス朝時代中に、イタリアへのギリシア古典移動が発 生していたとのことで、いくつか例を挙げている。

 ・ 1360年 レオンツィオ・ピラトがボッカチオに招かれ、フィレンツェで学術集会を開催、ホメロス含む作品数点をラテン語訳した。

 ・」 397年 マヌエル・クリュソロワスがフィレンツェでギリシア語教育を開始

 ・ イタリア人フランチェスコ・フィレルフェがコンスタンティノープルでギリシア語を習得し、40巻のギリシア書籍を持ち帰った。

 ・ 1423年 ジョヴァンニ・アウリスパは238巻のギリシア書籍をイタリアにもたらした。

 ・ トレビゾンド生まれのベッサリオンはミストラでプレトンの弟子となり、500巻の写本を集め、ヴェネツィアに寄贈した。

 

*19  H.G. ベック 「ビザンツ世界の思考構造」の第4章「パライオロゴス時代の文学の諸特徴」によると、下記の著作がラテン語からギリシア 語に訳されたとのこと。

 ・「シルヴェステル1世事跡 録」、「グレゴリウス大教皇問答集」、宗教会議議事録、教皇書簡など

 ・アウグスティヌス「三位一体に ついて」、「真の宗教について」、ボエティウス「哲学の慰め」

 ・カトー「対句」、キケロ「スキ ピオの夢」、オウィディウス「変容」、「恋愛術」「恋の歌」「恋の治療」

 ・トマス・アクィナス「異教徒反 駁大全」、「神学大全」、「アンティオキア教会合唱指揮者に対するギリシア人の誤謬について」、「存在と本質について」、「アリストテレス 「霊魂について」注解」その他。

 ・マクロビウス「サトゥルナリ ア」、フィロストラトス「ヘロイカ」(元々はギリシア語からラテン語に訳された作品)、

 ・アンセルムス「神は何故人間に おなりになったか」

 ・ブノワ・ド・サント・モール 「トロヤ戦争」

 

参考資料

 

 - The Fihrist ibn Al-Nadimīm

  - Suda Online

  - フォティオ ス「図書総覧」

 -ディ ミトリ・グタス「ギリシア思想とアラビア文化 -初期アッバース朝の翻訳運動」 勁草書房

 - 哲 学の歴史〈第3巻〉神との対話―中世 信仰と知の調和 (中川純男編) 」(中央公論新社 )

 - アリストテレス著作別 邦訳一覧

 - H.G. ベック 「ビザンツ世界の思考構造」 岩波書店

 - ビ ザンツ文明」ベ ルナール・フリューザン(白水社)

  - 「12 世紀ルネッサンス」講談社学術文庫(伊東俊太郎著)

  

 

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