深圳市への客家移住史と居住地分布

 

清代新安県時代の客家分布

紹介

 清代新安県(現在の深圳と香港と、恵州南西部を合わせた地域)の客家居住地は、左図の白い部分です。オレンジ部分は、新安県内の、現地住民の多い地域です。このように、香港の大部分と深圳市の西半分の住民の大半が客家人となっています。このような極端な人口比率となった理由は、清代、1661年から1668年まで施行された、法律、遷海令にあります。当時明朝の遺臣、台湾の鄭成功が沿岸部分で清朝に抵抗していた為、康熙帝は、海岸から30里から50里の地域の住民に、内地への立ち退きを指示しました。これが、遷海令です。徹底的に実施した為、沿岸部はほぼ無人地帯となりました。その後、法律が解除された後に移住してきた人々に客家が多かった為、このような極端な分布となってしまったようである。その客家は、もともとは北方の住民で、南方の住民とは言葉も違う。言語的には客家語に分類されている。客家5大家族(除廖、文、鄧、彭、侯)氏。文氏の祖は文天祥とされる。この頃、新安県の60%が客家といわれる。このときの移住者は、広東省潮州、梅県、福建、江西省などが多い。福建・江西・広東省の境目に客家が多く居住しており、この頃の移住者は、この 地域か、または新安県と隣接している地域からの移住が多い。

 北方からの移住は5回ないし6度にわけて行われたという説がある。下記はその移住図。

宋代、金の進出による移住

第1次:河南省から、安徽省、江西省北部に移動(右側の薄い線)
第2次:安徽省、河南省南部から、江西省および広東省北部へ移動(左側の濃い赤線)

第3次(宋代):江西南部から広東省北部(梅州、福建、江西の省境付近)へ移動

第4次(元代):広東省東、および福健省との省境から広東省北部(韶関、興寧)、西部へ


第5次:(元代)広州付近から、広東省西、広西省、四川省へ。

第6次:清代 南洋、台湾など。

 

 深圳市の客家居住地(濃い緑色部分)。客家の圍屋の分布図。全ての圍屋の名称が記載されています。ブラウザ上で、Ctrl+「+」で拡大すれば、文字を拡大させることができ、全ての圍屋の名称を読むことができます。これをもとに、現地を訪れてみるのもよいかと思います。

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