古代巴国

 

 

 

「中国古代第一伝世”巫”書 華陽国志 古巴、蜀、氐、羌、臾、濮、哀牢国記(重慶出版集団)掲載の地図を元に作成

  古代の四川省は、三星堆遺跡で有名だが、最近は金沙遺跡や成都商業街船棺遺跡が発見されるなど、西周から戦国期の蜀王国にも注目が集まっている(こちらに鶴間和幸氏の紹介記事が掲載されている)。しかし西周から戦国期の四川省では、蜀国よりも、巴国の方が強い勢力を持っていた可能性がありそう。右図は推定される、最盛期の巴国と、滅亡期の巴、秦、楚国の領域地図。最盛期は楚と秦の間にあって、大きな勢力を持っていた可能性がある。三国志という程ではないものの、春秋時代には、秦・楚とともに、漢中の東、陜西省と湖北省の境目あたりの漢江沿いにあった庸国を滅ぼしたりした。戦国末期には、秦・楚双方にとって、ともに後背地となることから、秦と楚の間で巴国の争奪が行われた。狡猾な秦・恵文王の時代に最終的に秦に滅ぼされ、秦は蜀と巴を楚国攻撃基地とした。巴を制することは、秦楚間の力関係に大きな影響を及ぼしたと考えられ、巴を制した秦は、統一へ弾みをつけた。

 春秋の会盟に参加していなかったことや、中原の勢力争いに参加していなかったことから春秋戦国期の中国諸国とみなされていない印象があるが、春秋戦国期を構成する一国としてもう少し注目されてもよいのではないだろうか。

 

 

 

 

巴という文字

 

 

  現在の漢語では、意味をもっていない文字であり、文字の起源について、下記の諸説がある。色々ありすぎて、定説は無い。

 

①川の流れをかたどっている説。

②植物説。苴の古音は巴と同じ。 四川盆地での俗称は芭茅。重慶一帯で盛んに生産されている。

(土貝)と巴は同音。声調が違うだけ。

③地形の呼称。巴国のある、谷と平野から構成される地形の呼称が起源。

④東部方言で石板を巴貫と呼ぶ。伝説の王廩が石穴で生まれたことによる。

⑤巴人の後裔土家族の自称。比滋または比滋卡と呼ぶ。この比がなまったもの。

⑥タイ系言語の魚が巴

⑦「説文解字」によると、巴とは虫のことで、象を食べた時の形。山海経にも、大蛇が象を食べた話が出てくる。

⑧蛇の形。三苗の神は蛇の体を持っていた。雲陽県で発見された銅矛は、片方に虎の頭があり、反対に蛇の飾りがある。巴人は蛇と虎の両方を崇拝していたのかも知れない。

 

 最後の説は、巴族が、「龍蛇をトーテムとした伏羲族と、三峡にいて白虎をトーテムとした廩君族とを統合して生じた部族」という説を生んでいるらしい(松岡正剛がそういうことを書いている)。

 

 

巴人の起源

 

 

 巴人の起源は、3説ある。これもどれとも決められない。しかし、巴人の末裔とされる土家(トゥチャ)族の言語はチベット・ビルマ系と考えられている。 今の四川盆地地方ではなく、伝説に出てくる地形から、湖北省と重慶市の境界付近にある巫山のあたりにいたと考えられている。蜀よりも、殆ど楚の故地に近いところである。

 

①羌族

②百濮の一支族

③苗族

  三苗 = 巴、蛮、濮の3つという説があるらしい。

 

「山海経」にもっとも早い巴人の記述がある。甲骨文には、「巴方」「巴甸」という文字が見えている。

 

 

 

巴人の始祖伝説

 

 

 始祖である廩君の伝説については、「晋書巻百二十 載記第二十 李特」、「後漢書・南蛮西南夷伝」などに掲載されており、概ね下記の内容となっている(こちら「雨後のたけのこ」サイトに、「晋書載記」掲載の「李特」の翻訳があります)。以下は、、「後漢書・南蛮西南夷伝」の翻訳。廩君蛮の象徴は白虎となっている。最初の集落は、巫山にあったと考えられている。

 

 

 樊氏、巴氏、瞫氏、相氏、 鄭氏がいて、务相は巴族の頭領だった。彼らは武落鍾離山の美麗地方の出で、武落鍾離山の山頂には、赤穴、黒穴の2つがあり、巴氏は黒穴からでて、他の4氏は赤穴から出た。当時巴人は君長はなく、鬼神を崇拝していた。部族が発展してくると、リーダー

が必要と感じられるようになり、大家往山崖上の石洞窟内*1に剣を投げ入れること、及び泥の船を作って航行できたものがリーダーになるということにした。务相がこれに成功し(他の4人は沈んだ)、廩君となった。この伝説から、武落鍾離山の近くには水がある、ということで、今の卾西清江あたりではないかと考えられている。廩君は死後白虎となったと言われている。

 

 以上の話からは、舟が彼らの生活の中で重要な存在であったことが窺われる。葬儀は船棺を土葬にした。整然乗物として使われた舟が死後そのまま棺として利用されたものと推測される。,現在、湖北から四川に至る長江沿いでは、崖の隙間に落とした船棺墓の遺構がが多数見られるが、これは、巴人とともに、後に僚人*2を構成した(犭襄)人の風習だと思われる。江西省にある越族の墓でも、崖に船棺を置いた墓が見られることから、船棺の風習は、南方諸民族に広く共通した習俗だったのかも知れない。そのような習俗のひとつとして、服を左前に着たり、椎髺(,錘形の髪型。この時代の、南西民族の青銅器遺物の人物像によく登場している)があり、巴人もこの習俗にあった。

 

*1 「晋書李特伝」では、「劍刺穴屋」、別の資料では「矛扎坑壁」となっている。こちらは、剣を刺した者が勝利している。

*2 巴人の後継とされる僚人は、多数の民族から構成されていて、漢代の板盾蛮もそのひとつ。板盾蛮は、元は巴人だったが、板と盾に特徴があり、そのように呼ばれるようになったらしい。板盾蛮は、虎を狩る特徴があり、この点で、巴人ではない可能性があるが、秦代、蜂起に失敗したおり、白虎夷と白虎復夷に分裂し、お互いに仇敵となって抗争したことから、白虎復夷は虎を崇拝しなくなった、という説があるとのこと。

 

 

 

璩 「華陽国志」巻1「巴志」冒頭に描かれた古代巴 参考訳

 

 

 周の武王が紂王を討伐した時、巴と蜀は支援に出兵した。「尚書」に記載があり、巴国の軍隊は勇猛で、殷商人が巴と蜀の人の歌舞とその勇気と気概に心服し、陣の前で鉾を下ろしたという。これが後世「武王紂王討伐、前歌後舞」と称されるようになった事件である。武王の殷平定後、巴地を同姓として分封し、子爵を授けた。古代において、僻遠の地の国家は大国でも君主の爵位は子を授けられた。ゆえに呉、楚と巴の諸子は皆子と称した。巴国の境界は、東は魚復(現重慶市秦節県)、西は(棘人)道(四川省宣賓)、北は漢中、南は黔、涪に接していた。

 周代中期、巴国は、周王を奉っていたけれども、秦、楚、鄧の国と同様、夷狄の国と見られた。春秋時代の魯の桓公9年(前703年)、巴子*1が韓服という名の使者を楚によこして、巴国と鄧国の友好関係を設立することを乞うた。楚は使者の道朔を派遣し、巴国の使者に鄧国への訪問に付き添わせた。鄧国は南の辺境国だと蔑視し、使者の隊伍を攻撃し財貨を奪った。巴子は軍隊を派遣し、鄧国を破った。この後、巴国の軍隊は、楚国の軍と連合して、申国を討った。楚子は、巴国の軍隊を掠略し、両国の関係は破裂した。魯の庄公18年(前676年)、巴国は楚に攻め入り、楚軍を破った。魯文公16年(前611年)、巴国と秦国、楚国は、共同して出兵し、庸国を滅ぼし、庸国の土地を分割した。魯哀公18年(前476年)、巴人は楚国を攻撃し、(憂阝)において、呉楚の連合軍に破られた。これは巴国の大きな打撃となった。これ以降、楚国は中原に向かって勢力を集中し発展し、中原諸侯国の会盟に参加するようになった。秦は主に周の西の辺境で活動をしていたが、守りを固めて強勢になっていた。巴国は中原からの距離が非常に遠く、会盟に参加する機会は非常に少なかった。

 

*1 子爵の意味だと解釈。

 

 戦国時、巴国は楚と通婚していて、7国の諸侯が王を称するのと同じく王を称していた。周朝末期、巴国内に内乱が発生した。名を曼子という将軍がいて、楚国に出兵を請うた。彼は楚王に答えて、事が成った暁には、楚国に3つの城を作って与えようと答えた。楚王は出兵し、巴国を助けた。巴国が平定され、楚の使者が城を要求してきたところ、曼子は言った、「楚国の神々の加護がありますように。この場の災いは平定されました。3つの城を楚国に差し上げると確かに申し上げましたが、私の首を楚王に捧げて謝罪をいたします。城は差し上げとられません」と答えて曼子は自死した。巴人は、彼の首を使者に持たせて国に復命させた。 楚王は事の次第を知り、嘆息して言った。「巴の曼子のような忠臣を得ることができるのなら、城などなんであろう!」楚王は、上卿の礼節をもって、曼子の首を埋葬し、巴国では曼子の体を埋葬した。ここでも上卿の礼節をもって。

 周の顕王(前368-321年)の時、楚国は衰退し、秦の恵文王(前337-311年)と巴、蜀国は通好していた。蜀王の弟苴侯は個人的に巴国と好を通じていた。巴、蜀両国代々戦争をしていた。周慎王5年(前316年)、蜀王は兵を派遣し、苴侯を攻撃し、苴侯は巴国へと逃走、巴国は秦国に救援を求めた。秦恵文王は張儀を派遣、司馬錯は苴侯を助ける為に巴国へ兵を率いて向かった。秦国は蜀国を攻撃するために出兵し、滅ぼし併合してしまった。張儀は巴国と苴侯の富を欲しいと思い、巴国をも滅ぼしてしまった。巴王は捕虜となり、秦国へとつれてゆかれた。秦は巴にあって、蜀の故地に巴郡、蜀郡、漢中郡を設置し、その地を31の県に分割した。張儀は新しく江州城(現重慶市)を建設した。司馬錯は巴郡の涪水から出撃し、楚国の商于の土地を征服し、黔中郡を設置した。

 

 

 

その他の史書から判明している古代巴国史

 

 

 前689年、巴と楚は開戦し、巴国は破れた。前632年、秦晋連合軍は、楚軍を破り、(城濮の戦い)巴国は秦に朝貢するようになった。その意図は、秦を使って楚を牽制するためである。しかし、楚と秦の修好は長くは続かなかった。前611年、庸国は、楚の大飢饉に乗じて長江、漢口の諸民族が連合して楚に反乱を起こした。連合軍は楚を破り、秦と巴国の援軍と楚の軍が一緒になり、庸国を滅ぼし、その旧領を三分割した。巴国は、庸国の巫山と巫渓一帯を得た。庸国は、商代から周初にかけて、この地域では勢力のある国で、現陝西省の安康から重慶市巫山あたりを中心としていた。

 

 楚の共王(前590-560年)の妃に、巴姫と呼ばれた人がいて、これは巴国との通婚の結果と見られている。景王(前544-520年)の頃、巴、楚、鄧、濮は南方の属国だと見られていた。(巴国が、楚、鄧の前に言及されている点は、ひょっとしたら、巴国が大国だと見られていた証拠かも知れない)

 

 前477年、巴国と楚国は開戦し、巴国は敗れた。前377年、巴国と蜀国の連合軍が清江に出兵し、楚国の滋地方(現湖北省松滋)を占領し、楚国の都城郢を指呼の間に臨んだ*1。しかし、兵站線が延びきっていた為、楚に敗北した。前361年楚は既に漢中、黔中を占領していて、巴人の勢力は、楚国に対して年々後退を続けた。前316年、秦国は、まず蜀を滅ぼし、後巴国を滅ぼし、巴の人を楚が巴に対して行っていたものと同様の民族自治政策を適用した。

 

 巴と楚の戦争理由は、塩に尽きる。巴蜀の塩は俗称「塩巴」と呼ばれ、塩は巴にとって経済上の生命線だった。巫山山脈は、海底から隆起したもので、雨水の浸食により、塩が露出しているとのこと。

 

 巴は、塩、銅、造船の為の木材、兵士を提供し、前308年、秦武王は司馬錯に命じて大船万艘、10万の軍、米600万斛を与えて出撃させた。楚の黔中郡を秦の黔中郡としたが、楚が奪回した。前280年、秦は再び楚を破り、再度黔中郡を占領。前277年、秦国は再度巫郡と江南を占領し、黔

中郡に編入した。前253年楚は陳に遷都し、三峡一帯は完全に秦の領土に帰服した。

 

 

*1 出典「史記」楚世家。ここでは蜀の出兵が記載されているが、松滋の場所からして、巴も一緒に出兵した可能性が高い。とされる。

 

 

その他の諸説(トンデモ?)

 

 

1) 古代巴人は、伺台族説。

2)蜀国史に登場する、魚鳧は、巴人説。古代巴人は、伺台族だとの前提をとると、古代の「巴」音と、「魚」音は、ともに「Ba1」という音になる。この前提で、三峡周辺の古い地名を追ってみると、巴人の移住の痕跡がわかる。

 魚復県(現重慶市秦節)->魚復浦(現重慶市秦節東南)->巴涪水(現鳥江)->巴符関(現四川省合江県)->魚鳧関(現四川省宣浜市)->魚涪津(現四川省南安)->魚鳧山(現彭山県)->魚鳧城(現温江県)

 

更に、鳧、復、涪、は同音で、古代の「巴」音と、「魚」音も同じ音だとすると、結局魚鳧、魚涪、魚符、巴復など皆同じ「魚鳧」を意味していることになる。

3)「蜀王本紀」に登場する、鳖霊は、「水経注」では、鳖令と書かれている。鳖は動物であり、古代巴人が崇拝した、鳥、亀、蛇、象、魚の一種でもある。鳖霊は、荊州から来たとされ、巴人である可能性が高い。

 

4) 巴人は、もともと巫山のあたりにいたが、一部は洞庭湖に移動し、尭の南征を受け四散し、方国(巴方)を形成した。当時巴は国名ではなく、民族名だった。商代、湖北省のあたりにいたが、武丁の中興時に徹底的な討伐を受け、南から楚、北から商に挟撃され、漢水沿いに逃げ、以降漁労を主、狩猟を副業とするようになり、自ら「弓魚族」と号するようになったとのこと。

 

参考

-「三峡历史文化与旅游(四川出版集団)」

-「巴人尋根」(重慶出版社・重慶出版集団

-「中国古代第一伝世”巫”書 華陽国志 古巴、蜀、氐、羌、臾、濮、哀牢国記(重慶出版集団)」

 

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