【1】 アケメネス朝碑文の解読と古代遺跡の発掘
19世紀に入ると、中世パフレヴィー碑文の解読が進み、世紀後半にはサーサーン朝の研究が大きく進展するこ とになります。一方、この時期は、中世パフラヴィー語以前の古代ペルシア語碑文が解読され、その後のアケメネス朝や、更にそれ以 前のエラム時代への研究を 拓いた時期でもありました。 古代ペルシア語の解読は、ペルセポリスの碑文の三言語碑文(前回中世パフレヴィー語の解読でサシが利用した パルティア・中世パフレヴィー語・ギリシア語の三言語碑文とは別のもの)の解読から始まりました。ペルセポリス碑文を写し取った オランダ人旅行家コルネリ ウス・ド・ブロイン(Cornelis de Bruijn/1652 – 1726/7)やフランス人商人シャルダンの書籍やニーブールの書籍(1778年/前回の 記事参照) で写しが出版されており、当初は、三種類に分類される碑文の文字が、同一の文字・言語かどうかさえ定かでは無かった為、ニーブー ル三種類の文字のうち、最 も文字の種類が少ないものを第一類(42文字)、次に文字種の多いものを第二類(113文字)、最も文字種の多いものを第三類 (500文字以上)と名付け ました(碑文の書かれた位置の順番では無いことに注意。邦語では第一類や第一種などと、「類」「種」の文字が利用されているが、 どちらも同じ意味)。です から、この時点では、三種類の文字が異なる言語であることは判明しておらず、ペルセポリス碑文を「三言語碑文」と呼ぶのは不正確 であって、正しくは、三種 類文字碑文と呼ぶべき段階にありました。 最初に解読に取り組んだドイツのロストック大学のテュクセン(1734-1815 年)が、三類は、異なった言語であることを指摘し、第一類をパルティア語として解読を試みたもののうまくいきませんでした。彼 は、ペルセポリス遺跡はパル ティア時代の遺跡だと考えていて、更に、三種類の文字を同一の文字(パルティア文字)だと考えていた為です。デュペロンが公刊し たアヴェスター文字資料を 用いて、学者達は三類文字との比較を行なったものの、結果は進まなかったとのことです。 コペンハーゲン大学のフリードリッヒ・ミュンター(Friedrich Münter/1761–1830 年)は、1800年研究成果を刊行し、三類の文字を別々の文字体系で、同一の内容が記載されていると推測し、第一類の文字はアル ファベット、第二類の文字 は音節文字、第三類の文字は表音文字と推測し、更にペルセポリス遺跡を、聖書やヘロドトスに登場する時代のペルシア遺跡だと考え ました。彼は、中世パフラ ヴィー語を解読したサシが用いた、「XX、大王、王の王」という古代イラン碑文の典型文の適用を思い付きながらも、彼はペルシア 語の知識を有していなかっ た為、最終的にこの仮説を破棄してしまったとのことです。この考えを推し進めたのが、ドイツ人言語学者グローテフェント(1775–1853 年)です。彼は先行学者の成果を取り入れ、第一類は古代ペルシア語だと推定し、「XX、大王、王の王」という形式を当てはめ、未 解読の単語も数語あったも のの、第一類をほぼ解読し、ラテン語の論文「ペルセポリス碑文の解読報告を述べた楔形文字資料」を1802年にゲッティンゲンの 王立協会に提出しました。 しかし彼が専門の東洋学者ではなかったからか(彼の専門は古典文献学)、論文の内容は否定され、最初の論文含めて1802-03 年にかけて4度論文を王立 協会に送付したものの、学会での発表請求は退けられてしまいました。友人の、同じくゲッティンゲンの歴史学者ハーレン(Arnold Hermann Ludwig Heeren/1760-1842 年)の1815年の著作にグローテフェントの論文を掲載したものの、グローテフェントの説は広まらなかったとのことです。ゲッ ティンゲン王立協会が論文を掲載したのは1893年になってからのことでした。1823年になり、フランス人サン・マルタン(1791-1832年)が、ケリュス伯(1692 -1765年)と いうフランスの古美術収集家が1762年公刊した古代エジプトの壷(”ケリュスの壷”と呼ばれる)の図の銘文に、シャンポリオン が解読したエジプト文字と 三種類の楔形文字が書かれ、エジプト文字で「クセルクセース・大王」に相当する第一類は、グローフェデントが解読した文字と同一 であることを指摘してグ ローテフェントの文字解読の正しさが漸く証明されることになりました。とはいえ、グローテフェントはその後も引き続き第三類文字 の解読研究を続けました が、三種類の文字全てをペルシア語系言語だと考えていた為、はかばかしい成果を挙げられずに終わりました。 こうしてアヴェスター語(当時はゼンド語と呼ばれた)と文字の形は違うものの、第一類の文字が解読された結果、言語的に第一類 の言語とゼンド語が近いことがデンマークの学者学者ラスムス・ラスク(1787-1832年)などにより指摘され、1836年にサト ラップの名前がダレイオス碑文に含まれていることを発見したフランス人ビュルヌフ(Eugène Burnouf/1801‐52年)やノルウェー人クリスチャン・ラッセン(Christian Lassen/ 当時ボン大学/1800-76年)達が、第一類の楔形文字の解読をほぼ終わらせました。とはいえ、この時点では、第一類のアル ファベットが解読され、それ が古代ペルシア語であるとされただけで、解読された碑文も、ニーブールが収集した4行から7,8行程度の碑文のものだったので、 より本格的な長文の解読の 貢献は、ローリンソンによるベヒストゥーン碑文の転写と解読に譲ることになったのでした。 イギリス陸軍士官ヘンリー・ローリンソン(1810–95 年)は楔形文字解読史ではもっとも著名で、彼が1835年に、3種類の楔形文字で書かれたベヒストゥーン碑文を写し取り、 1843年から1851年にかけ て、378行に及ぶ古代ペルシア語楔形文字の解読結果を英国「王立アジア学会誌」に発表しました。ローリンソンの古代ペルシア語 への貢献は概ねここでお終 いで、これ以降の彼は、当時未知の言語だった第三類の言語を解読することで「アッシリア学」の確立に向かうのでした。 当時文字種500をを越すと見られていた第三類の解読は、フランス人ポール・エミール・ボッタ(Paul Emile Botta)/1802-70 年)が1843年に発掘したコルサバードのサルゴン王宮から出土した楔形文字を利用して、ボッタやスウェーデン人レーヴェンステ ルン(Isidor Lowenstern)が、音節文字、同音複数文字、であることや表意文字が含まれること、第三類がセム系言語であることを推定し(レーヴェンシュテル ン、1845年「アッシリア文字解読試論」)、アイルランド人ヒンクス(Edward Hincks/1792–1866 年)は1846から1852年に発表した諸論文で、単音節文字・複音節文字と表意文字の併用説を展開し、続いて1851年にロー リンソンが第三類の200 文字以上の音価を決定する論文を発表、ヒンクスは1855年に252文字の音価を決定するなど、段階的に進みました。最終的に は、一つの文字に対する複数 の音価と複数の意味を対応させた当時の書記の教科書と考えられる「字音表」(シラバリー)という遺物がニムルードから発見され、 第三類の文字の解読は終了 しました。 文字の解読の一方、言語が何語であるのかの研究も行なわれ、メディア・ペルシア語やセム語などの諸説が出たものの、第三類の 史料が増加するにつれ、アラビア語・ヘブライ語・アラム語に共通の語彙が多く、これに第三類の語彙も共通することなどから、ほど なくセム語であることが判 明したそうです。しかし一方で、表意文字と音節文字の混在は、その文字がその言語にとって外来のものであった可能性が指摘され、 その外来民族はスキティア とかエジプトなどの諸説が出たものの、この言語自体はローリンソンによって1855年にアッカド語と名付けられ、楔形文字の発明 者はスメル人であるという 方向に議論が展開してゆきました。 ベヒストゥーン碑文の解読は、その取り掛かりは古代ペルシア語だったものの、その後第三類の解読は、 当時平行して進んでいたイラクの遺跡から発掘された大量の楔形文字の書かれた粘土板の出土とともに、古代メソポタミア文明の研究 へと向かっていってしま い、楔形文字の古代ペルシア(後にアケメネス朝と名付けられる)の発掘と研究は、全体的には後回しとなっていってしまいました。 ペルセポリスから城砦文書 と呼ばれる大量の文書が発見されるのは20世紀になってからとなりました。 もっとも、第二類の文字の解読は、古代ペルシア以前の先イラン文明であるエラム文明研究への道を開拓しました。第二類は、デン マーク人ヴェスターガールド(1815-78年/Niels Ludvig Westergaard)が1844年に18文字の音 価を決定し、主要な王名を解読し、1846年にヒンクスが9つの音価を決定しました。欧州学会の情報を中東で勤務するローリンソ ンに逐次報告するなどローリンソンと親交があった英国人エドウィン・ノリス(Edwin Norris /1795–1872年)は、ローリンソンが第一類解読後第三類の解読へ向かった為、ローリンソンが1849年に一時英国に帰国した際、第二類の資料を譲 られることになりました。ノリスはその成果を用いて第二類と比較研究を行い、1851年に発表、1855年に成果を学会誌に掲載 し、102文字のうち、約 70近い文字の音価を解明し、第二類文字研究の基礎を確立しました。更にこれらの学者やその他の学者の地道な貢献により、 1879年にオッペールが「メ ディア国民と言語」を発表して文字の解読は終了しました(エドウィン・ノリスは元々中世のコーンウォール語文献の翻訳者だった が、アッシリア文化の研究も 行なっていた)。 第二類文字の音価と意味が判明しても、言語系統がわからないと文法は確定することは難しく、しばらくの間は、第二類文 字の言語は、メディア語・スキティア語・エラム語・サカ語・スーサ語・アマルダ語・アンザン語など様々な説が唱えられました。 1884年から86年にかけ てフランス隊によって行なわれたスサの発掘で多くの第二類に近い文字の記載された遺物が発見されたことから、第二類の言語は、エ ラム人の言語であるとほぼ 断定されることになりました。後継言語を持たない言語であったため、その記載内容は第一類や第三類との比較から翻訳されたもの の、言語については系統不明 の「エラム語」という新しい言語として分類されるようになりました。 A 古代遺跡の発掘 19世紀には、楔形文字の解読と平行してアケメネス朝・パルティア・サーサーン朝期の遺跡も調査・発掘されていきました。以下第 一次世界大戦以前の発掘国 と年代です。年表中の(ア)はアケメネス朝及びそれ以前の遺跡、(サ)はパルティア・サーサーン朝の遺跡を示しています。 1811-12年 ナクシュ・イ・ラジャブ(ア)(英) 1811-18年 ナクシュ・イ・ロスタム(サ)(英) 1840-41年 カスレ・イ・シーリーン(サ)(仏) 1840-41年 サル・イ・ポル(サ)(仏) 1840-41年 タング・イ・サルウァク(サ)(仏) 1851-53年 スサ(ア)(英) ロストゥフが、旧約聖書のシューシャンであることを明らかにした。 1851年 サルヴィスタン(サ)(仏) 1877年 バルム・イ・ディラク(サ)(独) 1878年 ペルセポリス(ア)(独) 1880年 ヌーラバド(サ)(英) 1884-86年 スサ(ア)(仏) 1896年 カスレ・イ・シーリーン(サ)(仏) 1896年 サル・イ・ポル(サ)(仏) 1896年 タク・イ・ブスタン(サ)(仏) 1897-1979年 スサ(ア/サ)(仏) 1901年ハンムラピ法典発見。 1900年 ジルフト(サ)(米) 1902-3年 テペ・ムアシン(ア)(仏) 1905年 アナウ(ア)(米) 1905年 パサルガダエ(ア)(米) 1909年 レイ(ア)(仏) 1910-20年 カスル・イ・シーリーン(サ)(独) 1910-20年 (サ)(独) 1910年 タク・イ・ボスタン(サ)(独) 1913年 ハマダン(ア)(仏) 1913年 ブシール(ア)(仏) 19世紀はフランスによる発掘が圧倒的に多く、アケメネス朝とそれ以前の遺跡よりも、パルティア・サーサーン朝の遺跡の方が多い 状況となっています。20 世紀に入ってからアケメネス朝とそれ以前の遺跡の発掘数がパルティア・サーサーン朝の発掘数を逆転し、更に米国、ドイツの割合が 増加していることがわかり ます。 しかしながら、古代イランの歴史にとっては文献史料よりも大きく役立った調査は初期のペルセポリス碑文とベヒストゥーン碑文く ら いで、残りは殆ど美術・工芸品や建築物に関する史料となっています。スーサからは有名なハンムラピ王碑文が出土していますが、こ ちらはバビロニアからの略 奪品であり、メソポタミア史の方への貢献となりました。 【2】 サーサーン学の誕生と古代イラン通史の完成
@ サーサーン学の誕生 遺跡からはあまり文献史料が得られなかったものの、19世紀後半の古代イランの文献学では、ドイツ人テオドール・ネルデケ(Theodor Nöldeke/1836–1930)が大きく貢献しました。ハルブルグに生まれゲッティンゲン・ウィーン・ライデンとベルリンで学び、1859年、 「コーラン史」でFrench Académie des Inscriptions et Belles-Lettres(フランス学士院碑文・美文アカデミー)の賞を受賞、翌年「コーラン史」をドイツ語で書き、増補版をゲッティンゲンで出版し ています。1861年にはこの町の大学で教え、3年後に臨時教授に就任、1868年にキールで正教授となり、1872年にストラ スブルグで東洋諸語の主任 教授となり、1906年まで勤めました。 ネルデケは当初アラビア語を主体としたイスラーム研究者でしたが、その研究はイラン研究を含ん でいた為、彼はイラン国民叙事詩研究の権威となり、イラン学の当時における第一人者となりました。アル・タバリーのサーサーン朝 の記載を利用したサーサー ン朝の歴史の研究は、ネルデケをシャーナーメの研究と「アルダシールの行伝(Kārnāmag ī Ardašīr)」などのパフラヴィー語文献の研究へと導きました。彼の主要な業績は、アル・タバリーの歴史のサーサーン朝の部 分の研究(1879年) と、シャーナーメに代表されるイラン国民叙事詩研究(1896年)で、今日でも重要な研究とされています。 ネルデケはまず、1878年にミュンヘン写本(第二回 目の記事参照)を用いた「アルダシールの行伝」を、パールシーの伝承は利用せず、中世ペルシア語テキストから直接ド イツ語に翻訳し、その内容について言語学的分析やテキスト成立時期と変遷、歴史地理等の研究も行ないました。そこでは、既にヴェ スターガールド(Niels Ludvig Westergaard /1815-1878 年) によって指摘されていた、中世ペルシア語に、訓読されるアラム語が混在している文章語であることを証明し、中世ペルシア語は、アラム語との混交言語ではな く、近世ペルシア語の祖語であるペルシア語であることを証明し、パールシーの伝承に頼らずに直接中世ペルシア語文献を研究する道 を開きました。 ネルデケはゲッティンゲンやウィーン、オランダのライデン大学やベルリンで研究し、ライデン大学時代の友人であるMICHAIL JAN DE GOEJE(ミ ヒャエル・ヤン・フーイェ/1836-1909年)が1858年企画したタバリーの歴史の校訂本編集の、イスラーム以前の部分に 関して協力することになり ました。当時完本は存在していなかったものの、1871年までにイスタンブールのキョプリュリュ図書館で8巻本が発見されたこと で完本復元の可能性が高ま り、ヤン・フーイェは欧州の東洋学者を集めた校訂本編集プロジェクトを立ち上げ、22年がかりで10000頁を超える完本を完成 させました。ネルデケは 813-1072頁の部分を1881-82年にかけて校訂し、校訂本プロジェクトとは別に自身の研究としてドイツ語への訳注を行 ないました。タバリーは、 今日でもサーサーン朝の歴史の基本史料として、特にサーサーン朝建国期の史料として重要とされており、ネルデケはサーサーン朝研 究に大きな貢献をなしまし た。 更に、タバリーの歴史やシャーナーメを分析し、中世ペルシア語書「Xwadāy-nāmag(王の書)」の起源、近世ペルシア 語と アラビア語でのペルシア史と「王の書」の関係や、宗教者視点と貴族視点という分析軸で古代イランの伝承を集成しただけではなく、 伝承の起源にはアレクサン ドロス・ロマンスも反映していると論じました。アレクサンドロス・ロマンスに関しては、1890年に「Beiträge zur Geschichte des Alexanderromans」という論文を記載しています。 こうした研究を通じて言語や文献学から歴史研究へとシフトし、 タバリーの註解を軸に、アラビア語と中世ペルリア語だけではなく、ラテン語・ギリシア語・シリア語・ヘブライ語・アルメニア語等 の文献史料との比較や、貨 幣や碑文なども用いて、人名や地名の特定や発音の復元、サーサーン朝の年代・社会組織・行政組織・歴史地理などへと幅広く展開し ていきました。アヴェス ターやシャーナーメに記載された伝説的な歴史も研究し、シャーナーメの研究は後の諸学者のイラン叙事詩研究の基礎となり、インド 文学(パンチャタントラや カリーラとディムナ)がイラン経由で中東に広まった件も研究しています。 サーサーン朝だけを研究していたわけでは無いものの、サーサー ン学、及びサーサーン朝と初期イスラーム時代に形成された伝統的なイランの歴史観形成過程の研究の創始者とされ、サーサーン学の 父と言われることもあるよ うです。なお、ネルデケは、セム諸語系統樹の最初の作成者のひとりでもあるそうです。 このように、サーサーン朝については、遺 跡からは画期的な文献史料が出土しなかったものの、文献研究は大いに進み、現在に到る研究の枠組みはネルデケによって形成されま した。この時期、サーサー ン朝より前の古代イラン史については、1847年に楔形文字が解読され、ペルセポリス碑文やベヒストゥーン碑文、その後発見され たスーサ碑文などが解読さ れる進展があったものの、その他のアケメネス朝碑文は同じような内容ばかりで学者が当初予想した程の華々しい情報は得られなかっ たと言えます。 タバリーの歴史の翻訳は、10世紀のバルアミーによるペルシア語のダイジェスト版のフランス語訳が1867–1874年に出版 され、英訳は1985-2007年にかけて、索引含む全40冊が刊行されました(詳細はこちら)。シャーナーメの全訳(英訳)は、1905–1925年 Arthur WarnerとEdmond Warnerにより行なわれ、現在ではオンライン・アーカイブで公開されています)。 A 古代イラン通史書籍の出版 この時期の一般歴史書籍としてジョージ・ローリンソン(George Rawlinson/1812–1902 年)という英国の歴史家が、「The Seven Great Monarchies of the Ancient Eastern World(1862–75年)」という5冊に及ぶ書籍を出しています。7大国とは、カルデア・アッシリア・バビロニア・メディア・ペルシア・パルティ ア・サーサーン朝のことで、後半が古代イラン史の通史となっています。この書籍には「アケメネス朝」という用語は使われておら ず、アケメネス朝に相当する 用語は「ペルシア」となっていて、「アケメネス朝」という用語の登場は1889年のこととされています(出典)。 この書籍の前半部分は、1862-67年と1873年の第三版とでは巻構成が異なっています。この書籍におけるカルデアとは現在 で言うバビロニア史(シュ メール滅亡後くらいからアッシリア勃興迄)で、バビロニアとは新バビロニア(前625-539年)、ペルシアとはアケメネス朝を 指しています。アケネメス 朝に関する用語は三種類、5箇所登場しています。 Achæmenes(2箇所) 一つは個人名、一つはサトラップと王朝最初の王の名前。 Achæmenian(1箇所) アケメネス家の特徴との文脈での形容詞。 Achæmedidæ(2箇所) 有力六大部族の一つである、アケメネス部族・王族アケメネス族。 このように、ローリンソンの著作では、アケメネスという用語は、未だ”アケネメス朝”という意味では用いられておらず、王朝を 示す用語は”ペルシア”となっています。 第二版以前の巻構成と第三版以降の巻構成は以下の通り。 1862-67年版/四巻本 第一巻 カルデア編 アッシリア編 第1-6章 第二巻 全576頁 アッシリア編 第7−9章 p1-544 (+出版社の出版物の広告32頁) 第三巻 全531頁 メディア編 p1-237 appendix p238-240 バビロニア編 p241-523 appendix p524-531 第四巻 全634頁 ペルシア編 p1-570, 索引 p571-602 (+出版社の出版物の広告32頁) 1873年第三版/三巻本 第一巻 全590頁 カルデア編 1-179頁 アッシリア編 第1-7章 180-590頁 第二巻 全580頁 アッシリア編 第8-9章 1-250頁 メディア編 251-434頁 バビロニア編 第1-5章 435-580頁 第三巻 全560頁 バビロニア編 第6-8章 1-83頁 ペルシア編 84-560頁 この三巻本は、2000年代以降も各社から復刊されていてAmazonで安く購入することが可能となっています。 第四巻は1873年、第五巻は1875年に出版されました。 第四巻 全458頁 パルティア 第五巻 全691頁 サーサーン朝 カルデア・アッシリア・バビロニアの枠組みは、古代ヘレニズム時代のギリシア語著作家ベロッソスの「バビロニアカ」の逸文から算 出された年代をベースに、 19世紀中盤に楔形文字の解読とアッシリア・バビロニア遺跡の発掘で明らかとなった内容が記載されています。アッシリアについて は研究が開始されたばかり の時期なので、シュメール時代はまだ言及されていないようです。ペルシア(アケメネス朝)はヘロドトスとクセノフォン、アッリア ノスなど、古代ギリシア著 作家、パルティアは、ポンペイウス・トログス、プルタルコス、タキトゥス、カッシウス・ディオ、ルキアノスら、サーサーン朝は古 代アルメニア史家モヴセ ス・ホレナツィ、ゾシムス、アガシアス、ユリアヌス、ゾラナス、リバニオス、テオファネス、アンミアヌス・マルケリヌス、ソクラ テス、プロコピオス、コス マス、タバリーなど、古代ギリシア・ラテン語・初期ビザンツ史家を史料としており、古代の著作家の記述をベースとした通史は、 ローリンソンにおいて完成さ れていました。現在の日本の古代イラン歴史概説書で記載されている通史とこれら王朝のイメージは、概ねローリンソンの著作によっ て形成されたとも言うこと が出来そうです。 ローリンソンがサーサーン朝史で利用している史料の中でも目を引くのは、サーサーン朝初期の部分でアルメニア史家モヴセス・ホ レナツィ(Moses Khorenatsi/410 頃-490年頃)、後期サーサーン朝に関してはタバリーを引用している点です。ローリンソンがサーサーン史を出版した1875年 時点では、ネルデケのタバ リー独語訳はまだ出版されておらず、以下の、10世紀に作成されたタバリーのペルシア語の抄訳版のフランス語訳の1,2巻を参照 した可能性がありそうで す。 A Persian digest of this work, made in 963 by the Samanid scholar al-Bal'ami, translated into French by Hermann Zotenberg (vols. i.-iv., Paris, 1867–1874). なお、ローリンソンの上記七巻全部が、こちらのサイトに 掲載されています。少し見たところでは、図版と本文は全部掲載されているようです。書籍版では各頁の文章の引用元の出典史料が、 頁毎に訳注として掲載され ているのですが、ネット版では注釈は省略されています。パルティアやサーサーン朝の通史の各部ごとの出典史料を確認するには、 ネット版は注釈が無いので役 に立ちません。この点、復刊されている書籍(本記事末尾に記載)は細かく出典注が掲載されているので、有用かと思います。 B アルメニア史文献 アルメニア人言語学者Kerovbe Patkanian(1833–1889 年)は、1866年「Essai d'une historie de la denastie des Sassandes d'après les renseignements fournis per les historiens arménienens"でアルメニア語史料を用い、これは後の時代に利用されるようになりました。 続いてドイツ人マルクヴァルト(Joseph Marquart/1864-1930年)は、1901年、古代末 期のアルメニア史家モヴセス・ホレナツィの「Eranshahr」の翻訳を出版しました。モヴセス・ホレナツィのアルメニアの歴史は、 ジョージ・ローリンソンの書籍でもサーサーン朝初期の史料として利用されています。一方、20世紀にパルティア史本を著したニー ルソン・デベボイス(次回 紹介)は、パルティア史におけるアルメニア史料はあまり重視しない考え方のようですが、20世紀後半ではアナーヒート・ペリカニ アン(Anahit Perikhanian/サーサーン時代末期の法律書 The Book of A Thousand Judgementsの英訳 者)などがアルメニア史料を用いた研究を発表しているようです。 ■参考資料 「古代イランの美術〈第1〉 (1966年) (人類の美術)」新潮社 「古代文字の解読」高津 春繁 , 関根 正雄 岩波書店 (1964/10/28) ジョージ・ローリンソンの各著作のネット掲載及び1862-75年版・1976年 版 -現在アマゾンで入手可能な復刊版 著作権が切れていることから、ここ数年だけでも多くの出版社から異なった巻数・頁数で出版されています。価格も10ドル程度か ら数十ドルとまちまちなの で、どれを選んでよいかわからない状況です。以下は、巻構成・頁数が1873-75年に出版されたものとほぼ同じものについてリ ンクを貼りました。 Vol1 カルデア・アッシリア Vol2 アッシリア・メディア・バビロニア Vol3 バビロニア・ペルシア Vol4 パルティア Vol5 サーサーン朝 記事に登場している各人のWikiやEncycropaedia Iranicaの記事など ■参考資料 「古代イランの美術〈第1〉 (1966年) (人類の美術)」新潮社 「古代文字の解読」高津 春繁 , 関根 正雄 岩波書店 (1964/10/28) 「楔形文字入門」 杉勇、講談社学術文庫,2006年 記事に登場している各人のWikiやEncycropaedia iranicaの記事など |