20世紀前半の大きな特徴のひとつは、1919年にシカゴ大学東洋研究所(The Oriental Institute of the University of Chicagoが設立さ れ、米国が遺跡発掘に参入したことです。シカゴ大学が1930年代にペルセポリスの発掘を行なったことで、古代イラン研究 は、アケメネス朝とそれ以前の時代に大きくシフトしてゆきました。 (1)考古学(西欧諸国による発掘地) 1924年 フィルザバード(サ)(独仏) 1925年 カルクー(サ)(独) 1925年 クー・イ・フワージャ(サ)(独) ヘルツフェルド 1926年 カラ・エ・ドゥフタル(サ) 1927-32,36-37年 セレウキア(サ)(米) ミシガン大 1928年 パサルガダエ(ア)(米) 1928-29年 クテシフォン(サ)(独) 1929年 サラ・メシュド(サ)(独) 1931-33年 テペ・ヒッサル(サ)(米) 1931-33年 ナリシャン(サ)(米) 1931-39年 ペルセポリス(ア)(米) シュミット(1897–1964年) 1931-32年 テペ・ギヤン(ア)(仏) 1931年 トゥラン・テペ(ア)(米) 1931-32年 テペ・ヒッサル(ア)(米) シュミット 前5000-前1900年 1932-34年 カスル・イ・アブ・ナスル(サ)(米) 1932年 タル・イ・バクーン(ア)(米) 前4000年 1932-34年 カスル・イ・アブ・ナスル(ア)(米) 1932-33年 タル・イ・イブリス(ア)(英) 1933-34年 タング・イ・カラム(サ)(英) 1933年 ダラブギルド(サ)(英) 1933-39年 ナクシュ・イ・ルスタム(サ)(米) 1933-34年 サルヴィスタン(サ)(英) 1933年 フィルザバード(サ)(英) 1933年 シャー・テペ・ブズルグ(ア)(スウェーデン) 1933年 テペ・ジャムシディ(ア)(仏) 1933年 テペ・バド・ホラ(ア)(仏) 1933-37年 テペ・シアルク(ア)(仏) 前6000-3000年 ギリシュマン(1895-1979年) 1934-36年 ニシャプール(サ)(米) 1934-36年 チャシュメ・アリ(ア)(米) 1934-38年 ソルク・ドゥム(ア)(米) 1935年 イスタフル(ア)(米) 1935年イスタフル(サ)(米) 1935-41年 ビシャプール(サ)(仏) ギリシュマン 1935-36年 シャミ(サ)(英) 1935-36年 タング・イ・サルウァク(サ)(英) 1935-39年 ナクシュ・イ・ルスタム(ア)(米) 1936年 ナド・イ・アリ(ア)(仏) 1936年 チョガ・ザンビル(ア)(仏) 1936年 ハッサンルー(ア)(英) 1939年 カズウィン(サ) 1940- ペルセポリス(ア)(イラン) 1942年 ヌーラバド(サ)(独仏) 20年代はドイツ中心 世界恐慌以後ドイツがナチス政権になってゆくとドイツは後退し、米英仏の発掘が主流となりました。 発掘箇所を時代別に分類すると、 アケメネス朝とそれ以前 20 パルティア・サーサーン朝 21 と、この時期から重心がパルティア・サーサーン朝から、アケメネス朝とそれ以前の時代へと移っていった様子が見て取れます (1913年以前はアケメネス朝及びそれ以前10、パルティア・サーサーン朝14、両時代に跨るもの1)。 二次大戦後から1950年までの発掘では、アケメネス朝とそれ以前の遺跡が上回り、50年代以降はアケメネス朝とそれ以前の 遺跡発掘数が圧倒的になってゆ きます(13遺跡中アケメネス朝とそれ以前が8、パルティア・サーサーン朝3(うち一箇所は予備調査なので実質2、両時代に 跨るもの1)。 1946年 スーサ (ア/サ)(仏) 1948年 バルド・イ・ニャンデ(サ)(仏) 1948年 マスジッド・イ・スレイマン (ア)(仏) 1948年 タル・イ・ガジル (ア)(米) 1948年 ジョイ・テペ (ア)(英) 1948-9年 ベヒストゥーン(ア)(米) 1949年 タング・イ・パブダ(ア)(仏) 1949年 パサルガダエ(ア)(伊) 1949-51年 ガル・イ・カマルバンド(ア)(米) 1950年 フルヴィン(ア)(伊) 1950年 エイワン・エ・ケルハ(サ)(仏) 1950年 グンデ・シャープール(サ)(米) シカゴ大学による予備調査(本格的な発掘は未だ行なわれていない) (2)航空調査の登場 シカゴ大学東洋学研究所は、航空調査という新しい分野も切り開きました。これは、航空機を利用して、漑用の運河や水路、遺跡 の発見や輪郭・平面プランなど を調査する手法です。これは後に、ランドサットなど衛星から撮影した写真を用いる調査・研究へと展開してゆくことになりまし た。 最初の航空調査はシカゴ大学のペルセポリス発掘を行なった エリク・シュミット(1897–1964年/米) が、1935-37年イ ランのルリスタンの山岳地帯を航空機を利用して調査しました。当初の目的は、パルティア初期の都ヘカトンピュロスの発見に あったのですが、ヘカトンピュロ スは発見できなかったものの、Surkh Dum-i-Luri の神域で前1000年紀の遺物を発見するなど成果を上げたとのことです。 航空調査を利用した研究のひとつとして、シカゴ大学のRobert McCormick Adams(1926-)の南イラクの研 究が挙げられます。アダムスは、ランドサットや航空調査の資料を用いた古代メソポタミ文明からイル汗国時代に到る南イラクの 土地利用状況の研究を行ないました。 (3)ロシアとソ連の中央アジア考古学 ロシアによる中央アジア考古学研究は、ロシアによる中央アジア併合とともに、将校達の趣味として開始されたそうです (1875-1895年の間)。トランスカスピアン州の知事だったアレクサンドル・ヴィサニオロヴィッチ・コマロフ将軍(Комаров, Александр Виссарионович/ 1830―1904年)は、配下の兵士に命じて1883–89年にメルブを発掘し、1900年に収集した遺物やコインに関する出版を行ないました。続いて 帝国考古学委員会のアレクセイ・ジュコフスキー(ZHUKOVSKIĬ, Valentin Alekseevich/1858-1918 年)が1890年に最初メルブの学術的な調査を行ない、1894年に結果を出版しました。彼自身は考古学を学んだわけではな く、彼自身も自分を考古学者だ とは考えていなかったものの、その調査報告は絶賛され、その見解は後のM.E. Masson(後出)にも継承されました(ジュコフスキーはロシアにおけるペルシア語とその方言・ペルシアの民話・文学研究の先駆者だった)。 東洋学者ニコライ・ヴェセロフスキー(Nikolai Ivanovich Veselovskii,1848-1913 年)はサマルカンドのアフラシアブの丘の発掘に着手し、 数百の墳墓を発掘して中央アジア考古学の先鞭を付け、考古学愛好家協会(1894-1916年)やサマルカンド博物館(1896年設立)等の組織的な活動 が行われました。1896年にサマルカンド博物館の初代館長となったワシーリィー・ヴャトキン(Вяткин, Василий Лаврентьевич、 1869-1932年/ウルグ・ベク天文台の発掘で有名)はタシュケント出身の考古学者で、ロシア東洋学の父とされるワシーリー・バルトリド(1869-1930年)とともにアフラシアブの発掘 を続けました。1903年には 米国人学者ラファエル・パンペリー(Raphael Pumpelly/1837–1923年)が先史時代に遡るアナウ(現トゥルクメニスタン:先史時代)遺跡の発掘(発掘の経緯詳細につい てはこちらに詳細を行いました(発掘結果についてはこちらに)。パンペリーはメルブの発掘にも参加しているとのことです。 ロシア革命とソ連成立直後は社会的混乱と政府の余力が無かったこともあり、発掘調査は殆ど行なわれず、僅かに1926年にウ ズベキスタンのテルメズや 1928年にキルギスの考古学調査が開始された程度に留まりました。しかし、ソ連邦の政治体制が安定し始め、1932年に現 タジキスタンのムグ山でソグド 語文書(ムグ文書)が、同年テルメズ近郊のアイルタムで1,2世紀頃のレリーフが発見されると、あいついで学術調査団が結成 されることになりました。国が 組織した調査団として ゼラフシャン調査団(1934年) 団長A.J.ヤクポフスキー(Jakubowski) ムグ山文書調査 テルメズ総合考古学調査団(1936-38年) 団長M.E.マッソン セミレチエ考古学調査団(1936-41年) 団長A.N.ベルンシュタム(Bernschtam) ホレズム考古学調査団(1937-戦後まで継続)団長S.P.トルストフ(Tolstow) 大フェルガナ考古学調査団 団長M.E.マッソン ゼラフシャン下流域調査団 団長V.A.シシュキン などが挙げられます。しかしながら第二次世界大戦に入るとまたも発掘は中断され、戦後の再開を待たねばなりませんでした。 戦後には以下の調査団が編成されました。 ブハラ考古学調査団(ゼラフシャン下流域調査団を継承) 天山・アライ調査団(1944-49年) セミレチエ調査団を継承) パミール調査団(1946-55年) パミール・フェルガナ調査団(1950-52年) キルギス総合考古学・民族学調査団(1946-55年) 団長G.F.デベツ 南トゥルキスタン考古学調査団 団長M.E.マッソン(Mikhail Evgenievich Masson,1897–1986 年) タジク考古学調査団(団長A.J.ヤクポフスキー->M.M.ディヤコノフ->A.M.ベレニツキー) 更に、この他に各共和国毎の調査団もありました。発掘後、これら調査団の報告書は続々と出版されました。 「タジク考古学調査団報告」(1947年−) 「古代ペンジケントの絵画」(1954年) 「セミレチエ考古学調査団報告」(1950年) 「中央天山およびパミール・アライの歴史考古学概記」(1952年) 「南トルクメニスタン総合考古学調査団報告」(1949−58年) 「南トルクメニスタン考古学総合調査団資料」(1949−51年) 「キルギス考古学・民俗学調査団報告」(1956−61年) 「ホレズム考古学・民俗学調査団報告」(1952-67年) 「ダルヴェルジン・テペ」(1978年) 「ダルヴェルジン・テペの遺宝」(1978年) 同時に、調査に参加したメンバー(主に団長)による個別の著作も刊行されました。 S.P.トルストフ 「古代ホレズム」(1948年) 「古代ホレズム文明の跡を求めて」(1948年)、「オクサスとヤクサルテスの古代デルタ」(1962年)、 Y.A.ザドネプロフスキー「フェルガナの古代農耕文化」(1962年) V.M.マッソン「マルギアナの古代農耕文化」(1959年)、「中央アジアと古代オリエント」(1964年)、「アフガニ スタン史」(1965年) 以下に主要な遺跡の発掘年を年代順に並べてみました。 メルブ(1883–89年、1890、1894年) アフラシアブ(サマルカンド)(19世紀末−) アナウ(1903年) ラファエル・パンフェリー パジリク古墳群(1929年) M.P.グリャズノフとS.I.ルデンコ アイルタム(1932年発見) テルメズ(1936-38年) M.E.マッソン トプラク・カラ(1945-50年) S.P.トルストフ ペンジケント(1946-) ヴァラフシャ(varaxsha/1937-39年) V.A.シシュキン ニサ(1946-) M.E.マッソン ダルヴェルジン・テペ(1960-61) A.プガチェンコワ ハルチャヤン(1961年)A.プガチェンコワ、トゥルグノフ ソ連の中央アジア考古学の古代イラン関連の成果としては ・古代バクトリア・マルギアナ文明の発見 − ゾロアスター教の起源との関連の可能性 ・古代ホラズム − ホラズム領域の都市化・要塞化の進展はアケメネス朝時代であると考えられ、ホラズム諸都市の成立とアケ メネス朝の支配との関連や、都城設計へのゾロアスター教との関連などの可能性 ・パルティア − ニサの遺跡の発掘による初期のパルティア文化の解明 ・月氏・サカ・クシャン − 墳墓や都城の考察 ・古代末期ソグド文化の解明 などが挙げられるようです。 (4)アフガニスタンの考古学 アフガニスタン考古学は、フランスによる独占発掘期間を境に三期に分けられます。 @ 探検期 19世紀に入り、主に秘宝入手を目的とした欧州人旅行者による探検が行なわれ、数々の遺物が持ち出されました。この時期は主 にカーブルとジャラーラバード で発掘が行なわれました。ジャララバードはカブールとペシャワールの中間地点の街道上にあり、当時この方面に進出しようとし ていた英国にとって交通の要衝 でした。1833年ドイツ人医師ホーニヒベルゲルがジャラーラバードで古物・古銭を収集し、東インド会社のベンガル軍に所属 していた英国人チャールズ・ マッソン(Charles Masson/1800–1853 年/マッソンは偽名で本名はJames Lewis)は、1827年インド北部のパンジャブ地方を探検し、東インド会社の資金援助を得てジャラーラバード・カブール・ベグラムで発掘を行ないまし た。彼は仏塔の側面に穴をあけて舎利容器などの遺物を取り出すなど、遺跡の一部を破壊してしまったものの、毀損以前の仏塔・ 出土品のスケッチや発掘状況の 記録を残していることから、現在でも考古学上の業績と考えられているそうです。マッソンが東インド会社に渡した膨大な遺物 は、その一部が大英博物館に納め られ、現在でも確認できるものの、大半は収蔵家の手に渡り、散逸してしまっているとのことです。マッソンは、インダス文明の ハラッパーの遺跡を最初に訪れ たヨーロッパ人とされているそうです。 A フランス独占期間 1922年にフランスがアフガニスタン政府と30年間の発掘独占契約を結ぶことから始まりました。この時期は、玄奘の旅し たルートと、幻のバクトリア王国の探索が主なテーマでした。 バルフ(1923-34年)、カクラク(1930年代/仏教遺跡)、ハッダ(仏教遺跡/1926-28年)、ベグラム (1937-41年)、スルフ・コ タール、フォンドギスタン(1937年/仏教遺跡)、バーミヤン(1922,23-24,30,33年)などの主要な遺跡の 調査を行なわれました。 初期の調査隊を率いたアルフレッド・フーシェ(Alfred A. Foucher/、1865-1952年)は、ガンダーラ美術へのギリシアの影響を最初に説いた東洋学者で、古典文献と貨幣以外に物証の無かったバクトリ ア王国の遺物の発掘を目指していました。彼は玄奘の往路の旅程をインドから遡るルートでジャララバード・ハッダ・カーブル・ ベグラム(古代のカピシ)・ バーミヤン・バルフと辿り、その後のフランス隊による発掘地の枠組みを整えました。玄奘のルートを調査・発掘するということ は、即ちこの地域の仏教時代の 遺跡を調査することに他ならず、フランス隊はこの時代・地域の研究については成果を挙げましたが、逆にそれ以外の時代・地域 については調査が行なわれずに 残ることになりました。フーシェを継いで隊長となった考古学者ジョゼフ・アッカン(Joseph Hackin/1866-1941 年)は、1923年から30年代の発掘を指揮し、ベグラムからの多数のローマガラス器やギリシアの神々の彫像など多くの出土 品を得ましたが、この頃は遺物 の出土に重点が置かれており、1941年にギリシュマンがベグラムに於いて層位学的研究法を導入しました。1945年から D.シュルンベルジェが団長とな り、スルフ・コタールやアイ・ハーヌムの発掘を行ないました。 B 1953年−70年代 1953年以降、伊・独・米・英・日・ソ・インド・アフガニスタンが相次いで調査に参加することになりました。各国は、調 査時代・地域を以下のように分担しました。 先史時代(仏・米・英・ソ) −バクトリア(ソ連)、カンダハール・シャーレコナ(1972/英) −米国ペンシルヴァニア大学K.S.クーン、プリンストン大学のルイス・デュプレー ヘレニズム時代(仏・ソ) -スルフ・コタール(1957年/仏/D.シュルンベルジェ)、アイ・ハーヌム(1963/仏)、ティリヤ・テペ (1977-9/ソ連) 仏教時代(仏・英・ソ・アフガン・伊・インド・日) −バーミヤン修復(インド考古学局) ヒンドゥー教時代(日・仏) イスラム時代(英・仏・伊・独) −ガズニー(1957/伊)、シースタン・ニムローズ(1955/独) この時期は、古代におけるアフガニスタン南部と、メソポタミア・中央アジア・インドとの関連が立証され、貨幣以外の物証の 無かったバクトリア王国の遺跡が発見されました。具体的には、 ・ムンディガク遺跡の発掘 フランス人K.M.カザルが、1951−58年先史時代の遺跡を発掘し、彩文土器が前4000年紀末から2000年紀の間 のスーサなどイランの遺跡や、 ナマーズガ・テペなど南トゥルクメニスタン、パキスタンのバルチスタン土器文化と密接な関連性があることを立証しました。 ・バクトリア王国の遺跡 1963年アイ・ハヌームが発掘され、銀貨だけで知られていたバクトリア王国の存在が実証されました。 ・ガンダーラ美術の起源論争 ジョセフ・アッカンが著した1954年に著した『ベグラム−古代のカピサ−における新規調査1939-1940』は、ベグラ ムで発見された古代ローマの遺 物の存在を広く知らしめ、ガンダーラ美術の起源は、バクトリア(ヘレニズム)由来のものか、古代ローマとの通商(エリュト ラー海貿易)を通じてインド経由 のものか、についての論争が行なわれることになりました。 このように、イランの発掘史は150年程度の歴史があるのと比べ、アフガニスタンの発掘は、カレンダー上では100年に満 たず、実質は60年程度しかありません。まだまだ多くの未来への遺産が埋もれているものと思われます。 □参考資料 『埋もれたシルクロード』岩波新書 V.マッソン、1970年 『黄金の番人』 泰流社 L.I.アルバウム, B.ブレンチェス、1983年 『季刊文化遺産 文化の回廊アフガニスタン』,島根県並河万里写真財団 ,2003年 『世界の博物館 19 シルクロード博物館』,1979年,講談社 「夢幻のご とき発見相次ぐ−アフガニスタン発掘物語」 モタメディ遥子、 『大月氏』 小谷仲男、東方書店、1999年 「アフガニスタン考古学の歩み」(前田耕作、西アジア考古学』6号(こ ちら) 余禄:チェコの会社がクテシフォン遺跡を修理する話。記事に よると、ほぼ40年間放置されてきて、最近はアルカイーダが拠点として利用されてきたとのこと。観光地として整備し直すとい う話のようです。修理するのは 嬉しい話ですが、創作部分の方が増えてしまったりするのは避けて欲しいところです。クテシフォンに隣接していたセレウキア遺 跡の、イタリア・トリノ大学の発掘レポートも見つけました。 |