インド人口史-史料と推計

 

 この記事は、ペンシルバニア大学 のデュランドが1974年にまとめた「Historical Estimates of World Population: An Evaluation」(Pdf はこちら)という記事の中の、インド人口史に関する部分を抜き出して、数値の出典や、デュランドが記載していない19世紀以降の 数値を追記したものです。社会学者アンドレ-グンダー・フランクの書籍「リオリエント(1998年)」や、湯浅赳男「文明の人口史」(1999年)などで引用されているインド史上の人口推計値には、 いったいどのような根拠があるのかを調べてみたものです。

 

 (1)関連論文

 

 以下は、デュランド(1974) で紹介されている(デュランド(1977)は「湯浅赳男「文明の人口史」」から、Irfan Habib(1982)は「The Cambridge Economic History Of India Volume I: c. 1200-c.1750」から)、インド人口史の論文です。近年の研究までは確認できておりませんが、なんとなく、下記数十年前の論文に記載された値が既 定の値として一人歩きしているような印象があります。

 

W.H Moreland, .India at the Death of Akbar. London. 1920

Pran Nath, A study in the Economic condition of ancient India , Royal Asiatic Socity , London ,1929

Abbot Payson Usher,  "The history of population and settlement in Eurasia", Geographical Review 2、1930

Walter F. Willcox

  "Increase in the population of the earth and of the continents". In: National Bureau of Economic Research , International Migrations. VolumeII. Interpretations. New York. 1931

  Studies in American Demography (Appendix 2). Ithaca, N.Y. 1940

Kingsley Davis  The Population of India and Pakistan. Princeton. 1951

J.C.Russell, The Population of Hinen Tsang's India, Journal of the American Economic and Social History of the Orient , vol3 , 1960

Jatindra Mohan Datta, 1960

 "A re-examination of Moreland ' s estimate of population of India at the death of Akbar", Indian Population Bulletin 1(1): 1960.

  Population of India about 320 BC,Man in India vol.42,1962

  Population of India about 1360 AD,Man in India , vol.51 1971

John D. Durand

 "The modern expansion of world population", -Proceedings of the American Philosophical Society 111(3): 1967

 Historical Estimates of World Population: An Evolutionm Population and Development Review, vol3 , 1977

Colin Clark ,  Population Growth and Land Use. New York. 1968

Ajit Das Gupta 1969,1972

 "Study of the historical demography of India". In: D.V. Glass and Roger Revelle, editors, Population and Social Change. London.  1972

 Suranjan Sen Gupta, Alak Kumar Datta, and Musari Ghosh, 1969

 "1800 to 1968 A.D. Population of Asia--a reconstruct". In: International Union for Scientific Study of Population, International Population

Conference, London, 1969, Vol. IV,

Ifran Habib   "The Cambridge Economic History Of India Volume I: c. 1200-c.1750" 4章Population ,Cambridge University Press 1982

 

 

(2) インド史人口推計表

 

 インドの時代毎の人口 推計一覧は以下の通り(1800年以降は、こちらのサイトの 「Population of India」の記事から。デュランドの値は湯浅赳男「文明の人口史」p165から)

 

 

人口

論者

デュランド(1977)

320 B.C

1億8千100万

Datta (1962)

 

232 B.C

1億-1億4千万*1

Pran Nath (1929)

 

A.D.14年

 

 

7000万

A.D. 629-645

2200万-3700万

Russell (1969)

 

A.D. 1000年

 

 

7000万

A.D. 1200年

 

 

7500万

A.D. 1360

1億9000万

Datta (1971)

 

A.D.1500

 

 

7900万

A.D. 1600

1億

Moreland (1920)

 

A.D. 1600

1億5千万

Davis(1951)とGupta(1971)を合わせた修正値

 

A.D.1750

 

 

1億

1800年

1億2千万

 Playfair

 

 

2億700万

P.C.Mahalanobis と D. Bhattacharya

 

1834年

1億3千万

M’Culloch

 

1845年

1億3千万

M’Culloch

 

1855年

1億7500万

Statistical Abstract of UKPossessions

 

1867

1億9400万

Parliamentary Papers

 

 *1 デュランド(1974)や 湯浅赳男「文明の人口史」p165には「1億-1億400万」とあるが、1億-1億4千万の誤りだと思われる。こ ちらの資料(On the Choronology of Ancient India by Subhash C Kak , Indian Journal of History of Science 22(3) 1987  p5)や、 デュランド(1974)のp27ではPran Nathの推計値は、1億-1億4千万となっている。

 

 

 以下は、1871年以降、政府に より実施された人口調査(以降インドでは10年毎に人口調査が行われ、最近では2011年に実施された)。1971年以前の値について、「Population of India」の記事の値(左)と、近 代統計資料集マクミラン第二巻掲載の値に差があるが、理由は未調査。

 

年度

人口

近 代統計資料集マクミラン掲載値

1871年

238,830,958

203,415千人

1881年

 

256,155千人

1891年

286,912,000

279,559千人

1901年

238,396,327

238,872千人

1911年

252,093,390

303,013千人

1921年

251,321,213

305,693千人

1931年

278,977,238

328,119千人

1941年

318,660,580

314,805千人

 

 

388,998千人(パキスタン含 む)

1951年

361,088,090

356,879千人(パキスタン含 む)

1961年

439,234,771

425,512千人(パキスタン含 む)

1971年

548,159,652

同左(インドのみ)

1981年

683,329,097

 

1991年

846,302,688

同左(インドのみ)

2001年

1,028,737,436

 

2011年

1,210,193,422

 

 

 各論者の推計値と政府調査の値の うち、1600-1950年をグラフ化したもの(デュランド(1974)p26から引用)、デュランドは、17世紀以前は、いづれの論者も一 定の間(1億-1億5千万)に収まっており、7世紀から17世紀の間に人口は倍増したと見てよさそうだ、としている。

 

 

 

(3) 人口推計根拠と推計方法

 

 デュランド(1974)のインド 人口史のパート(p21)では、各時代毎の、人口推計算出根拠の記載があります(パキスタン・バングラデシュを含む広義のインド)。以下時代 別に紹介してゆきたいと思います(1600年の④-⑥は"The Cambridge Economic History Of India Volume I: c. 1200-c.1750" 4章Populationから)。 

 



1.マウリヤ朝時代

 

①ダッタ(Datta:1962 年)の1億8千万説

 ローマ時代のプリニウス「博物誌」第六巻22-4節に、「歩兵60万、騎兵3万、戦象9千」*1がいたとさ れ、それ以外に戦車兵、兵站兵もいたことから、ざっくり、恐らくこれを根拠にざっくり70万*3とし、以下の仮定を行なっている。

 -帝国の歳入の1/20が軍隊に支給され、3/20が帝国経費に充てられ、16/20が一般民衆へ活用された*2
 -各軍人は、彼自身の家族と彼の召使の家族を持つ。
 -一家族6名で、これは軍人も一般民衆も同じとする。
 -上記歳出割合から、16一般家族ごとに、1軍人家族がある、と仮定

 -当時の軍隊は、全て国家から棒 給を与えられていた(メガステネス他古代文献に複数の記載がある)
 
以上より、軍人世帯は140万人(70万に召使の家族が加算され、倍になる)、一般世帯は2240万世帯(軍人の16倍)、総世帯数2380 万 世帯*6名=1億4280万人となる。


  マウリヤ朝の版図外の、現インド・パキスタン、バングラデシュの領土にある部分については、調査時点(1961年)の旧マウリヤ朝版図とそれ 以外の地域 の、現在の人口比率を適用して、マウリヤ朝版図外人口を算出し、それを4000万人としている。結果、マウリヤ朝時代のインドの合計人口は1 億8千万人と なる。



※1  「実利論(岩波文庫下)」p16の収税に関する記載に、「穀物の三分の一、または四分の一の量を要求すべしである」とあり、メガステネス(断片一33節)にも「貸借料とは別に四分の一税を王に支払う」との記載があり、 これらが5/20=1/4に近い。収穫の1/4で養われる軍隊と帝国経費は、即ち人口の1/4である、とする考え方だと思われる。


※2


『プリニウス博物誌』(1986年版)の邦訳を確認したところ、邦訳(第一巻p261)では、マガタ国の人口は「6万の歩兵、三万の騎兵、九 千のゾウを維持し養っている」とあり、上記wikiに引用されている、60万とは一桁違います。そこで、英訳とラテン語原文を確認してみまし た。英 訳はこちらラ テン語原文はこちらにあります。以下当該部分(6巻22章(又は6巻68節)を引用します。


【ラテン語】regio eorum peditum DC, equitum XXX, elephantorum VIIII per omnes dies stipendiantur, unde coniectatio ingens opum est】

【英訳】thirty thousand horse, and nine thousand elephants, from which we may easily form a conjecture as to the vast extent of their resources.】


直訳すると、DCは600、XXXは30、VIIIIは9となるわけですが、これは、文章の後半部分の「彼らの資源は巨大な広さであると推測 される」とあるように、巨大であるならば、単位を千と見るべきであって、DCは600千(60万)、XXXは30千(3万)、VIIIIは9 千と考えるべきだと思われます。邦訳でも騎兵とゾウは、千の単位で訳されているので、「6万」の部分は誤植なのではないかと思われます。


更に、65節には、ガンリガリド・カリンガ族(カリンガ王国)に「6万の歩兵、一千人の騎兵、700のゾウ」がいたとされ、その都はペルタリ スと書かれています(この町はプトレマイオスには登場せず、変わりにカッリガ(Calliga)という町が7巻1-93節(座標 138°17°) にあり、67節には


【Modogalinga Beyond the Ganges are situate the Modubæ, the Molindæ, the Uberæ, with a magnificent city of the same name, the Modresi, the Preti, the Caloæ, the Sasuri, the Passalæ, the Colobæ, the Orumcolæ, the Abali, and the Thalutæ.】 の諸族の王は、歩兵5万、騎兵4千、象400頭を有し、アンドラ王は歩兵10万、騎兵2千、象千頭を有していたとあります(アンドラの語は プトレマイオスには登場していない)。Modresiは、マドラスの音に通じるため、当時マドラス付近を支配していた、パーンティヤ朝の王だ と推定されているとのことです。


 プリニウスはメガステネスの、既存今欠の資料に基づいていると思っていたのですが、紀元前後のアンドラ王国が記載されていることから、プリ ニウスの時代(紀元前後から1世紀)の情報を反映している可能性も高そうです。

 
※3 カリンガ王国、アンドラ王国、パーンディヤ朝の軍隊を合計すると、81万の歩兵、3万7千の騎兵、1100頭の象がインドにいたことに なり、ダッタ の70万を越える。恐らく、アンドラ王国10万+マガダ国60万を合算したのではないかと思われます。更に以下※5で記載するように、インダス川流域には 15万の歩兵を有するパーンディヤ朝(『エリュトラー海案内記』ではインド南端に比定されている)を含めて、合計33万の歩兵、5800の騎 兵、2970の象がいる、とあります。これらを合算すると、数 値の記載されているものだけでも、全インドには、124万の歩兵、52800の騎兵、4070の象がいることになります。ダッタ式の計算方法 だと、3億以上の人口となってしまいそうです。


※4 『プリニウス博物誌』に記載されたインダス川流域地帯の町と人口


 邦訳『プリニウス博物誌』(1986年版Vol1 p259)6-59に、以下の一文があります。

「(アレクサンドロス大王に)従っ た人々は、彼によって征服されたインドの地域には、いづれも人口2000を下らない町が、5000もあり、9つの国民がおり、全陸地の三分の 一を占めていて、そこの住民は無数である(中略)リーベル・パテルの時代からアレクサンドロス大王まで6,451年と三ヶ月の間に153人の 王が数えられる」


これが本当だとすると、古代インドの人口推計の材料として使えそうです。しかし、ラ テン語原文(こちらから)を確認したところ、


1.【Alexandri Magni comites in eo tractu Indiae, quem is subegerit, scripserunt V oppidorum fuisse, nullum Coo minus, gentium VIIII, Indiamque tertiam partem esse terrarum omnium, 】 となっていて、Google 翻訳をかけたところ、


2.【whom he has subdued, they wrote 5 towns to have been, there is no Cos or less, of the nations, 9, a third part of India to be the glory of all lands,】 となりました。ラテン語のCooが何故Cosと訳されるのか不明ですが、以下の英 語版でも(こちらから) Cosとされています。

3.【The followers of Alexander the Great have stated in their writings, that there were no less than five thousand cities in that portion of India which they vanquished by force of arms, not one of which was smaller than that of Cos;】

英語版3.では、「インドで、アレ ク サンドロスの軍隊が破壊したインドの町は5000以下ではなく、それらはCosよりも小さな町はなかった」となります。Google英訳②で は、アレクサンドロスに征服された町は5つの町であると著作者達は書き、それらはコスよりも小さいものは無かった」となります。アレクサンド ロスが征服したインドの町が5つだけ、ということはないので、これも単位を1000と見て、5000としたものだと思われます。英訳では、 Cosをエーゲ海のコス島と解釈しているようで、「コス島の規模の町以下のものはなかった」との意図のようですが、邦訳では、ooを無視して  Coo の冒頭のCだけを取り上げ、単位の千を補って2000としたものだと推測されます。仮に邦訳者の解釈通りだとする と、2000*5000=1000万人以上の人口規模が、インダス川流域を占めていることになり、ガンジス川流域は、同等か2倍とすると、 最大2000万、その他のインドで1000万と仮定すると、町人口総合計4000万というような、古代インドの人口の大枠を想定できすような 数字と なるのですが、ooを省略していいのか、CooをCosと解釈すべきなのか、Cosと解釈した場合、何人くらいの人口と見積もるべきなのか、 判断し難いものがあります。しかし一般には、ストラボン(
15-686)の記載にメロピス島のコス市と記載があり、これを採用しているようです。


当該部分の邦訳(飯尾都人訳『ギリシア・ローマ世界地誌』下巻p378(C685))
「しかし、著者以前の史家たちによるかぎり、ヒュダスペス。ヒュパニス両川の間にいた当の部族の数は九族、その市は五000に及び、しかもそ のなかのひとつとしてメロピス島のコス市よりも小さい市はなかった。そして、アレクサンドロスはこの地方をことごとく征服してポロスに譲っ た」


当 該部分の英訳

Those other writers, however, say that merely the tribes between the Hydaspes and the Hypanis were nine in number, and that they had five thousand cities, no one of which was smaller than the Meropian Cos, and that Alexander subdued the whole of this country and gave it over to Porus


 こうなると、コスの人口が問題となります。とはいえ、厳密にはコス市だけなのか、島全体の人口なのかさえ判断できず、500人でも五千人で もありえそうです。しかし、インダス川流域に町が5000があったという史料としては役立ちそうです。そこから類推すると、ガンジス川流域に 5000-10000の町があり、一つの町とその後背地の平均人口がわかれば、古代インドの凡その人口の推計が可能となりそうです。なお、プ トレマイオスには、 インドの町はガンジスの内側(ガンジスの西)で、275、ガンジスの外側(東南アジアまで含む)が74とされていて、人口規模の大きな都市し か、プトレマイオスには知られていなかったようです。仮に、ガンジスとインダスそれぞれ5000の町があるとして合計10000、1つの町と その後背地人口をローマ西部と同様1万とすると、1億人、ローマ平均値2万とすると2億人と、乱暴な計算の割には、ダッタの1億8千万に近く な ります。


※5  『プリニウス博物誌』に記 載されたインダス川流域の各国の軍隊の人数 

6-23節(1986版邦訳 p262-3)に以下の記載があります(一応英訳と照合しましたが、数値は一致していました)


1. 森林種族のメガラエ族の王は500のゾウと不定数の歩兵と騎兵を持っている
2.クシュセイ族、パラサンガエ族、アスマギ族の地区は野生の虎に荒らされ、彼らは3万の歩兵、300の象、800の騎兵を持っている 
3. オラタエ族の王は10頭の象しかもっていないが、大きな兵力を持っている
4.オドンバエオラエス族とアラバストラエ族の王は1600頭の象、15万の歩兵、5000の騎兵を持っている
5.カルマエ族の王は裕福ではなく、60頭の象、他の兵種の小さな軍隊を持っている
6.パンダエ族は代々女王に支配される国で、ヘラクレスの子孫であり、300以上の町を支配し、15万の歩兵と500の象を持つ(『エリュト ラー海案内記』によると、これはインド南端のパーンディヤ朝に比定される説もあるとのこと。上記※3では、 Modresi(モドレッサエ族)がパーンディヤ朝の王に比定されている)。

 


②ナース(Pran Nath:1929年)の1億から1億4千万説

 

 ナースは、アショカ王時代の人口 を1億から1億4千万としている。この根拠は見つけられなかったが、セレウコス朝の使節メガステネス(前 3世紀末マウリヤ朝滞在)の記録に40万の軍隊(出典サイト「バルバロイ!」のメガステネス断片27(ストラボンの第15巻第一章53節))と あるので、プリニウスに基づいた70万 を40万に変更し、ダッタの計算方法を適用すると、1億3400万となるわけで、メガステネスの記録あたりが、P.ナースの典拠元数字なのか も知れない。

.③ Ushtar(1930),デュランド(1977)の7000万人説

2.ハルシャ朝(7世紀前半)

 

 玄奘の記録では居住者が 75000人を越える都市の記載が無いことから(古代に繁栄していた都市でも7万5千を越えない)、ラッセル(1960)は、2200万 -3700万と推定。ただし、当時の都市・農村比率の史料は現在のところ見つかっていない(ラッセルの推計方法詳細についてはまだ資料未見で すが、恐らく、「大唐西域記」や義浄の「南海寄帰内法伝」などから都市の数を推計し、更にどこかに、大都市の最大人口が7万5千に満たないと 推計させる記載があり、それに当時の都市・農村比率を仮定して、総人口を推計したのではないかと思われます)。

 

3. トゥグルグ朝 1360年

 

 DattaはFiruz (1351-1388),時代の土地税の記録から1億9000万と推計。デュランドは、1世紀半後のモアランドの1億人説と比べ、Dattaの推計値は多 すぎだとコメントしている。そもそもトゥグルグ朝はインドの1/3しか支配していなかったので、あまり有意な数値ではない、とも指摘。

 

4.1600 年

 

①モアランド(1920年)の1億 人説

 

 モアランド(1920)はアクバ ル死去時の1600年時に1億人と推計。北部インドは7000万と推計した。「the A'in-i Akbar(アクバル会典:アクバル時代の大臣Abu'l-Fazl ibn Mubarakアブル・ファズルが1595-6年に著した行政立法書)」には、最小単位の徴税区画の情報が得られ、耕作地の領域の 課税記録と、小作人の割合、土地区画毎の必要労働者の割合などの情報があり、これを用いて北インドの人口を推計したとのこと。南インドについ ては、軍隊人口から3000万と算出(軍人と一般民衆は1:30の比を適用)。このモアランドの論文はネットにあがっていて(India at the Death of Akbar)、そのp9-22の「Number of People」の章で検討されています。数値の根拠は、1596年の旱魃以前に実施された、Multanから Monghyrまで(現ウッタ ラ・プラデシュ洲西部)の北部平原に関する統計に基づき、以下の仮定をしている。

 

-1600年の耕作地は1900年 の3/4(及びウッタラ・プラデシュ東部とビハールは1/5)と推定

-一人辺りの耕作地は、1600年 と1900年では同じ(=人口密度も1600年と1900年では同じ)

 

 これらからMultanか ら Monghyの平原の人口は3000万から4000万弱と推定し、その数値を元に(統計は研究が進んでおらず、モアランドが北 インドの一部について、所感を提案する、という程度とのこと(p20))、北部インドの他の地域の土地統計等諸情報(p20-21)を考慮し て、ベンガルとクジャラート以外の北インド全体の人口を検討すると、6000万を想定することができる(p22)、更にベンガルやクジャラー ト、デカンと南インドを含めると少なくとも1億くらいにはなるのではないか(まったくのえいやの数字)、と述べています。

  

②Willcox(ウィルコック ス:1931)の8000万人説

 

 モアランドの推定値は1650年 でも同じくらいだと推計したが、1933年にShirrasの推計を取り入れて1940年に8000万に変更した。

 

③Davis(1951)とDas Gupta(1972)の1億5千万人説

 

 Davis (1951)は、これまで含まれていなかったベンガル、クジャラート、アッサム地方を追加し、北インドを1億2500万とした。南インドについては、モア ランドの手法は、欧洲の経験に基づいたものだとして、モアランドの推計値は17世紀のインドに適用するには高すぎるのではないかとした。

 

 Das Gupta (1972)は、モアランドの北インドの値に3500万を追加した。その理由は、非農業人口が含まれていない、とのこと。

 

 デュランドは、Davisと Gupta双方の意見を合算すると、1600年頃のインドは1億5千万人ということになる、としている。

 

④Desai (年)の6490-8830万説(北インドのみ)

 アクバル会典の穀物価格、賃金、 収穫率を1961年のものと比較し、アクバル会典の生産性と消費率を検討した。その結果会典の徴収率と一人あたりの土地収入は異なっていると し、アクバル時代のムガル帝国の人口を6490-8830万とした。

 

⑤Shireen Moosvi(年)の1億4430万人説

 Desaiの検討した生産性は高 すぎるとした。ẓaṭbī州 の税制の一つだと思われる)とそれ以外の州を分けて考えるべきだとする。1 億840万人をムガル帝国、1億4430万人をインド全体と推計。

 

 

⑥ Irfan Habib(1982年)の1億4580万説

 

 モアランドの説を検討。モアラン ドは南インドの人口を軍隊の数から算出しているが、同じことを北インドにも適用してみるべきだった(アクバル会典から推定した値と異なるかも 知れない)。また、モアランドの、会典のārāīārāzī  とは土地定義のひとつらしい)の解釈は非耕作地、灌漑用の運河、貯水池なども含むとし、ウッタラ・プラデシュ西部、デリー、東ラジャスター ン、ハ リヤーナー、1600年の耕作地は1900年の4/5、アワドは1/2、その他パンジャプやビ ハール等各地ついて同様の推定を行い、全体として1600年のムガル帝国の耕作地は、1900年の60%とする。更に

 

-人口密度は1600年と1900 年で同じ

-土地の生産性は、新規開拓地は既 存開拓地より高い

 

とし、この二つの要素が相殺しあっ て、1901年国勢調査の値の60%の1億4200万と推計している。

 

更に、アクバル会典によれば、ザミ ンダーリー保持者は帝国全体で38万4558人、歩兵427万7057であり、少なくとも20万の帝国騎兵と歩兵がいたとし、ムガル帝国の人 口を1億4580万と推計している。

 

 なお、Habibは、都市と農村 の人口比率から総人口を推定する方法も検討している。「Tabaqat-i Akbari」の著者は、1593年において、ムガル帝国の都市は20の大都市と、3200の町、及びそれらがそれぞれ100から1000の周辺村を持っ ている、としている。アウラングゼーブ時代のデッカン以外の村落は40万1567。アクバル時代の都市・農村比率15%を適用すると、人口は 1億700万から1億1500万となる。「Tabaqat-i Akbari」から、1都市5000人とすると、(町が3200あるので)都市人口は1600から1700万となる。以下は、The Cambridge Economic History Of India Volume I: c. 1200-c.1750" 4章Population p171に掲載されているムガル帝国時代の大都市の人口推計表。

 

 

 

 

5.18 世紀前半

 

ダッタは1600年と1700年代 初頭の間で人口増加があったとし、 理由として耕地の増加、貿易拡大、塩の消費拡大をあげる。

Das Gupta (1972)も18世紀第一四半期の人口増を認める。一方1675-1800年の間は人口停滞にあったとする。

Davisは、1600-1750 年の間は停滞し、その後漸次増加し、やがて加速的に増加したとする。

 

 

6.18 世紀後半

 

1770-1771にはベンガルで 旱魃があり、英国の侵略があった。この時期は特に算出が難しいものの、Willcoxはこの間も人口増加はやまなかったとし、それを採用した Shirrasの見積りがあるとのこと。

 

7.1800 年

 


P.C.MahalanobisとD.Bhattacharyaは2億人説。
Morris D. Morrisは1億9730万人。これは、1871-1921年の間の人口増加率を1800年に遡及させて算出したもの。

 

 Irfan Habib(1982年)は、1600年に1億5千万、1800年に2億とすると、200年で33%、年率0.14%の増加率となり、19世紀の増加率 (1800年を2億とし、1901年の2億8500万と比較すると、42%、年率0.35%)を大幅に下回る(ので、1600年の1億5千万 は現実的な数字と言いたいようである)。


 

 

(4) 感想

 

 インド人口史算出方法について、 全体としてはあまり信用し難い印象を受けました。そこで考えてみました。例えば、マウリヤ朝の算出方法は、収穫の1/4を収税することから、 一般民衆は人口の75%を占めるという推計方法となっている可能性がありますが、同じ方法を、一応史料の残っている漢王朝に当てはめてみたら どうなるので しょうか。王莽時代は10分の1税なので、例えば軍隊100万として(漢朝は徴兵制ですが)、ざっくり一般民衆世帯数は10倍の1000万世 帯。一世帯6人とすると6000万となります。紀元2年の漢王朝の人口は5959万なので、大体近い値となります。案外マウリヤ朝の計算結果 も実態に近いのかも。マウリヤ朝について算出した数字が500万にしかならなかったり、5億とかになってしまうよりは、1億-1億8000万 という数字は、遥かに現実的な感じがすることは確かです。しかし、そうは言っても、インドは、推計上、前4世紀から18世紀くらいまで、 7000万から1億5千万の間で推移しており、この間の人口は停滞にあったのか、増減を繰り返したのか、今ひとつつかめません。19世紀につ いても、2億以下を指摘する論者も多く、インドの人口増加がムガル朝からなのか、19世紀英国支配時代以降なのか、19世紀末からなのか、断 定しがたい印象を受けます。

 

 今回ラッセルの7世紀の人口推計 方法、トゥグルグ朝の推計詳細、デュランドの1977年の推計詳細の資料をネット上に見つけることができなかったのは残念です。特にデュラン ドの紀元前後から1500年の推計値は、他の論者と比べると際立って低い値となっているので、是非推計方法を知りたいところです。

 


(5) 参考資料

 

-"Historical Estimates of World Population: An Evaluation" p21-27 John D. Durand 1974

- " .India at the Death of Akbar"  p9-22 W.H Moreland,1920

-"The Cambridge Economic History Of India Volume I: c. 1200-c.1750" p 163-171  Ifran Habib 1982

-”AIN I AKBARI” 、ABUL FAZL 'ALLAMI

以上4点は、ネット上で全文読めま す(”The Cambridge Economic History Of India”はDLは有料)。

 

-「文 明の人口史」湯浅赳男  1999年

-「Population Groth in India/Population of India」

-1871年インド人口 調査1891年イン ド人口調査インド人口学 

-「バルバロイ!」のメガステネス断片

-カ ウティリャ「実利論(岩波文庫 下)」p16

-Wiki チャンドラグプタの記事プリニウス「博物誌」第六巻22-4節の引用)


 

 

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