2017/Oct/21 created 
イラン国定社会科教科書小学校4年のパルティア・ササン朝の部分の翻訳


 イラン国定教科書のサイトがあります。小中学校と一部の高等科目の教科書がPDFで公開されて います(サイトTOPはこちら)。小学校4年の 社会科(こちら)から歴史 の記述が登場しています。

 ざっと見た限りでは、小学校1-3年次には歴史の記載はなく、小学校5年以降9年次(7-9が中学)ではイスラム到来以降の歴 史となっていて、イスラム以前の古代史が登場しているのは4年次のものだけでした。9年次では、宗教改革以降の欧米も少しだけ登 場しています。4年次社会科教科書の古代の配分は以下のようになっています。括弧内はページ番号です。

先史時代(31-33)
古代メソポタミアとイラン高原(34-44)
古代遺物(45-46)
イラン系民族のイラン高原への到来(47)
美術館の古代収蔵品めぐり(48-50)
アケメネス朝(51-55)
アレクサンドロス(56)
パルティア(57-58)
ササン朝(59-62)

 今回アレクサンドロス以降ササン朝の部分をGoogle 翻訳で英訳し、それを以下に邦訳てみました。なお、どうやら、教科書の記述は、先生と生徒、或いは家族が、イランの古代遺跡や博物館を訪問する旅行での会 話形式となっているようです。子供が興味を持てるように工夫されている、と考えることができますが、一方、自分達の祖先の歴史を 学ぶという意識ではなく、観光資源の学習となってしまっているようにも思えます。この結果が、一般的なイラン人のイランの古代認 識の震源のひとつなのではないかとの印象を受けました。また、会話の部分は登場人物の名前とその関係がよくわからないところが多 いのですが、重要ではないので意味が通りにくい部分もそのままに訳しました。括弧の補足は私の方でつけたものです。

-----------------------------------------------------------------------------------------
56頁

ペルセポリスへの旅2

 その夜、ダイナミックとトーマス、モーセンとアリレザーはホテルのラウンジに座って、彼らが撮影した写真をもちよっ た。アリレザーがいった、「皆に見せたいすごくよい写真がとれた!」と、写真を友人に見せ、「すごく古い歴史的業績(遺 跡)だけが可能なものなんだ!」とポヤにいった(この一文は意味不明)。世界にはいくつもの国がある。それらの遺跡を保 護することはよいことだ、と続けて、「旅行者は歴史的モニュメントを訪れる時にそれらを傷つけるようなことはせずに注意 深くするべきなんだ。たとえば、遺跡の上に文字を書くようなこととかね」

 トーマスも言った:なるほど、僕が学んだ限りでは、アケメネス朝の支配はマケドニアのアレクサンドロスによって失われ たのだ。
 ダイナミックが説明した:アケメネス人たちは200年以上イランを支配した。彼らは後に彼らの支配が内部的問題 や、諸王の間の永続的な争いにより弱体化した。この時アレクサンドロスはイランを攻撃したんだ。彼はマケドニアとギリシ アの王で、世界全体を襲撃しようとしていたのだ。
 
 ガイド(地図の説明)−アレクサンドロスの領土−オマーン海、アレクサンドロスの遠征路

57頁
 アレクサンドロス大王の時代に、ペルシア人はギリシア人たちと戦った。しかしその努力にも関わらず、その国は外国人の手に落ち た。アリオ・ブラザンは最後、息を引き取るまで勇気あるイラン人のひとりたった(このページにはアレクサンドロスの遠征地図が挿 入されている)。
 敵の軍隊は戦って最終的に殺した。アレクサンドロスーの後継者たちはその国と、セレウコス朝が組織した行政府を支配した。セレ ウコス朝はギリシア人の習慣をイランに広めようとした。
 モーセンはいった。なんて酷い!そして続けた:もちろん、外国人は最後には放逐された。
 アリーは尋ねた。どうやって?:イラン人は外国人の支配を受け入れず何年も戦った。パルティア人と呼ばれるアーリア人の一部の グループが支配を確立した。ミトラダテス二世の時代、イランは巨大な国となり、強大となった。その時代、ローマ帝国は周辺諸国を 率いていて、ローマ王はイランの支配を継承しようとした。このために、彼らとパルティアの間で多くの戦争が引き起こされた。しか しながら、パルティア王は多くの者に恥をさらしながら(この一節の訳は正確ではないかも知れない)、属州の支配権を(ローマ人 に)与えた。

問1.パルティア人はどこが重要ですか?
問2.スレナとアリオ・バルザンはどのような価値がありますか?
問3.もし私がペルセポリス観光の旅行者と一緒ならば、何を移動に使いますか?
(このページには、以下のパルティア王宮の絵が掲載されています)。



 なお、p55には以下のアケメネス朝王宮の絵も掲載されています。残念ながらササン朝王宮の絵は掲載されていませんでした。



58頁

 ローマ人は高い能力をもった戦術かと騎士と弓兵を持っていたが戦争に敗れた。
例えばスレナとの戦いのひとつでパルティア人将軍は、ローマの将軍クラススを破り、クラススは戦いで殺された。
 ダイナミックとトーマスは言った:テヘランにある古代博物館で我々は彫像を見ることができます(この部分では教科書以下の彫像 とパルティアとローマの戦争場面の絵が掲載されています(以下の彫像画像は私が訪問した時に撮影したもので、教科書のものではあ りません。画面ショットをとるのが面倒なので流用)。


 


真実は過ぎ去ってしまった。もちろんパルティア人もね?
ダイナミックは言った:そう。彫像は正装した男性です。そして少年たちは言った。もう寝る時間だ。明日朝ハマダーンへ戻るよ。 (以下の一節文意不明 Party at the Museum of Ancient male statue:古代博物館で男性の彫像を見てから、明日朝ハマダンへ戻る、という意味かも知れない)。古代都市ケルマンシャーを訪ねるために子供たちとダ イナミックとトーマスはハマダンに到着した。両親のアリーとモーセンは、彼女とともに子供たちを案内してくれたトーマスに礼を いった。ダイナミックは、朝テヘランに戻るといった。

 アミリは明日朝木曜日なのでより適している、みんなで週末にケルマンシャーに行こうといった(イランは金曜日が休日なので木曜 日は週末となる)。今あなたは遠くまで来ているのだから、ぜひケルマンシャーを見ておくとよい、と。ケルマンシャーからハマダー ンへは3時間ですから。この提案を全員が歓迎した。

***
 ケルマンシャーへの途上、アミリは客たちに説明した:西イランとケルマンシャー州のケルマンシャーはザグロス山中にある。ケル マンシャーは雨も多く、町に泉や川があり、眺望も美しい。イランの古代都市はアケメネス朝、パルティア、ササン朝時代のものがあ る。これらのすべての王がケルマンシャーを治めた。
(このページにはターク・イ・ブスタンの絵が掲載されている。以下の画像は私が訪問した時のものです。画面ショットをとるのが面 倒なので流用)。



60頁
 
 アミリは説明を続けた:最初に私たちは、ターク・エ・ボスタンに行き、午後ターク・エ・ボスタンの彫刻を訪問します。ター クェ・ボスタンでは、ふたつの重要なモニュメントがあり、美しく景色のよい場所に位置しています。このため、多くの旅行者が魅了 されます。 GnbshthとHey Gngarh(この二人の人物?は不明)の時代の浮彫とササン朝の時代の浮彫の位置は離れています。例えば、ササン朝の王であるホスロー・パルヴィース、 アルタクセルクセス二世、シャープール二世と三世の戴冠式の浮彫は離れた場所にあります。
 パルティア人のあとにササン人たちが権力の座につきました。パルティア人の政府が弱体化した時、支配者たちの間に混乱が引き起 こされました。政府を略奪し、それは益々激しくなりました。ササンの孫のアルダシールはこれらの王たちの一人でした。ホスロー・ パルヴィースはケルマンシャーのターク・エ・ボスタンでは、乗馬姿の浮彫りで描かれています。
(このページにはササン朝の領域地図とターケ・イ・ブスタンの写真が掲載されている)

61頁
パルティア王との戦争でアルタクセルクセス(アルダシールのこと)は勝利しました。彼は祖父名に由来するササン朝と呼ばれる国家 を創建した。ササン朝の建築とレンガは偉大な進歩をもたらしました。この時代には、芸術家たちは山々の巨大な石を堀り、勝利の記 念する重要な事件を刻んだ。シャープール一世はササン朝の強力な王のひとりであると呼ばれた。彼はローマ人に勝利することがで き、ローマ皇帝を捕虜とした。この勝利のあと、ローマ皇帝に、シャープールが降参するよう命じた場面をファールスの山の斜面に彫 らせた( the Hkaryは不明)。もうひとりの有名なササン朝の王ホスロー・アヌーシールワーンの時代に、王はイランにいくつもの大きな町を建設した。ホスロー・ア ヌーシールワーンは豪奢な宮殿も建設した。彼は属州のYshapvr(おそらくグンデ・シャープールのこと)にいくつかの大学を 建設するよう命じた。こうして、その都市には医療知識が集まり、イラン各地、および諸外国から医者がそこに集まってきた。
 アミリはいった:私が知る限りいくつかの古代寺院がこのケルマンシャー州に残っています。子供たちや古代の人々はゾロアスター 教徒を信仰していたのです。
(このページには、ナグシェ・ロスタムの、シャープール一世が、敗北し、ひざまずくローマ皇帝ヴァレリウスを脚で踏んでいる浮彫 りの写真が掲載されている)

62頁
ゾロアスター教徒は火の寺院を聖なるものとしていて、アフラ・マズダを崇拝しています。アヴェスターはゾロアスター教徒の聖典で す。ゾロアスター教の教義は、よい考え、よい言葉、よい行いの三点に立脚しています。

* * *
 ターク・エ・ブスタンの見学を終えたとき、アミリはサラに、家に戻り、祈り、昼食をとり、少し休憩するようにいった。彫像の時 代は遠く過ぎ去り、反対側の断崖のダリウスの勝利を示す浮彫に着いたとき、アリレザーは、ササン朝はどうして滅んだのか尋ねた。
 モーセンの母親が答えた。我らの偉大なる預言者ムハンマドが、ササン朝の王ホスロー・パルヴィーズに、イスラームに帰依するよ う手紙を書いたのですが、ホスロー・パルヴィーズは、それを拒んだのです。後期ササン朝において、人々は殆ど不幸な日々にあった の。なぜならローマ人がもたらした戦争にかける莫大な戦費調達のため、重税を払わなければならなかったから。彼らがもってきたよ い美点、教育や文芸などは否定されるようになったの。一方、やりすぎた諸王と人民は、それらに配慮することがなくなってしまっ た。軍隊は度重なる戦争で消耗してしまったの。イスラームは友愛と平等の教えを説いていたの。イスラーム教徒であるアラブ人がイ ランの領域と軍隊に侵攻してササン朝が敗れた時、イランにおける様々な宗教を信仰していた人々は次第にイスラームを取り入れて 言ったの。

問1. 母親が、ササン朝が失われイスラームがイランで始められた理由をどのようにのべていましたか?まとめなさい。
問2. 古代ペルシアの諸王朝(イスラームとササン朝、メディアとアケメネス朝、パルティア人とセレウコス朝)

63頁
 アリレザーの母親は観光について述べた:我々はケルマンシャーの地元料理が好きです。食事にしましょう、とアミリは提案した。 その後、スープとシチューを注文した。
 トーマスは言った:私はケルマンシャーをみる産業(観光産業だと思われる)が欲しいなあ。ではよい夕べを。皆さんはお店にいく こともできますよ。
 子供たちはいった:わたしたちは友達のためのお土産を買いたい。
 モーセンの母親は、ハマダーンから陶器やレーズンを積んだコンテナーがきていて、今日は市場があるわ。ケルマンシャーの伝統的 なパンやライス、(次の2語不明: kak、Dzhezere)、靴、敷物、皮製品、ベーキングシートなどがケルマンシャーの人気のあるお土産ね。

-----------------------------------------------------------------------------------------

以上です。

小学校4年生向けの内容なので簡単な内容ですが、それなりに興味深い点がいくつかあります。

1.パルティアがイランの正統王朝と記載されているわけではないものの、外国人とは区別され、アーリア人という書き方及び、「ミ トリダテス二世の時代イランは強大化した」でという表現え、イランの一部として受け取れるような微妙な(絶妙な)書き方がされ、 ミトリダテス二世の名前があがっている点。
2.アケメネス朝はペルセポリスがらみ、ササン朝はターケ・イ・ブスタン遺跡がらみで説明している点
3.どこでだったのか忘れましたが、「イランでは、ササン朝は「封建王朝=悪」みたいな論調で扱われている」 というような話を読んだことがあるのですが、そういうわけではなく、後期のササン朝についてローマとの戦争の戦費捻出のため重税 となった、とされていて、否定的に扱われているわけでもない点
4.そうはいってもやっぱり、遺跡保護重視の歴史学習という要素も濃厚

あと、アレクサンドロスに抵抗したアリオ・ブラザンって誰?という感じですが、彼についてはそのうち調べようと思います。
BACK