女帝アーザルミードゥフト(アーザルミードゥクト)



 
  そして王権を継いだのはアーザルミードゥフト、ホスローアノーシールワンの息子、ホルズミドの息子である ホスロー2世パルヴィーズの娘である。彼女はペルシャ女性中もっとも美しい女性のひとりであり彼女が王位についた時に宣言して曰 く、「我々は勝利者である父ホスローの如く為すつもりである。もし叛乱を起こすならばその者は血で購うであろう」と言ったと伝えられている。
 時に ペルシャでもっとも有力者といえるのはファールークホルムズド、ホラサーンの総督(スハーフパッド)の息子だった。 彼は彼と結婚するよ うにとの使者を(アーザルミードゥフトに)よこした。彼女は返書を出した。

  「女王との結婚は許されてはいない。貴殿が提案して いることは 貴殿の情欲を私でもって満たすことにあることはよくわかっています。ならば夜、私のもとに来なさい」

 アーザルミードゥフトは護衛官に 彼らが一緒に会うと 約束した夜に待機し、彼を殺すように命じた。 
 護衛官は命じられた通りに実行し、死体は宮殿前の広場に 投げ捨てられた。
 翌朝彼らは屠られたホルムズドを見つけた。彼女は死体を 彼女から見えないところへもって行くよう命じた。一般には重要な事由の為に殺されたのだと理解された。 
 ファールークホ ルミズドの息子であるロスタム、彼は後にヤズデギルドがアラブと戦う為に派遣する男だが、ホラーサーンで父の代理として行動 していた。彼が父の死の報を得た時、軍隊を率いてやってきてマダーインに陣をはり、女王の目を潰した。そして殺した。

 他の著述家によれば毒殺されたともいう。 彼女の在位 は半年だった。

(ホスロー3世)

  
 王位はパーパクの息子アルダシールの末裔である、アフワズ に住むホスローへともたらされた。 彼はミフル・ユススナスの息子だった。国家の有力者達が彼を王位へと就けた。王冠を着け、王 座についた。しかし彼も即位後数日にして殺された。 
 
 (クララザットホスロー)

 アーザルミグドゥフト後に王位についた人物はホスローパルヴィーズの子孫クララザットホ スローだといわれている。彼はヒジャラ(石の要塞)と呼ばれているニシビス近郊の要塞で見出されたと言われている。彼が首都 に到着した時は、反対派の蜂起に会う数日前に過ぎなかった。

(ファイルーズ2世)

  ミルフルユ スハナスの息子ホスロー3世がアーザルミグドゥフトの後の王位に就いたと 言った著述家達はミルフル・ユスナハスの息子ホスローが殺された時、ペルシャ国の有力者達は王位につけるべく王家の血筋の者 を探したと言った。母方の家系の者でさえ、王家の血筋を引いている者を探 した。彼らはマイサーン在住のユスナハスディーと呼ばれたミルフルユスナハスの息子であるフィールーズと呼ばれている人物へ辿り付いた。彼はホスロー・アノーシールワーンの息子のヤズダンダールの娘シャハールブクゥトの息子だった。彼らは本人 の意思に反して彼を王位に就けた。
 彼は大きな頭を持っており、戴冠された時、叫んだ。

 「何てきつい王冠なんだ」

 国の有力者達は統治の開始にあたり、きついの狭いのの 言動に悪い兆しを見た。その為即位後数日にして彼を殺した。何人かの人々は彼がこの手の言葉を発した瞬間に殺された、と主張 した。

(ファールークハザード・ホスロー)

 これを最後と言う著述家達は国家の有力者達の間のある人物ザー ディーと呼ばれる人物彼は召使の長の職務をもっていた−がニシビス近郊の ヒジャラ(石の要塞)と呼ばれる王国西部にある宮殿へと向かった人物に言及 している。彼はシールーヤが全てのホスローの息子達を殺した時、その砦 へと脱出したホスローの息子を連れ戻した。
 それはファールークハザード・ホスローと呼ばれていて、 クテシフォンの都へと連れ戻した。
  人々は彼に少しだけ服従し、後蜂起した。幾つかの資料では彼らが彼を殺したとしている。彼は半年王座にいた。

(ヤズダギルド3世)

 何人かの著述家達はシャギルヤールが兄弟を殺した時イスタフルの人々がホスローの息子のシャヒルヤールの息子ヤズダギルドをった場所であるイスタフルで得た と言っている。 
  マダーインの人々がファールークハザードホスローに対して叛乱を起こしているとの知らせイスタフルの有力者が聞いたとき、 彼らはヤズダギルドを”アルダシールの火の寺院” と呼ばれる火の寺院につれて行ってそこで戴冠し、王として平伏した。彼はしかしただの少年だった。そして彼らは彼をマダーインに連れて行って1年間王座に いたファールークハザード・ホスローを殺した。この方法で彼の王座への道は開けた。彼の先祖と比較すると彼の力は想像の幻影 であり、夢の中の幻想だった。
  国の有力者と大臣は彼の王の権威を育成した。彼が若い 故である。
  彼の大臣のもっとも印象深く厳しい者は召使の長だっ た。ペルシャ王国の力は弱くなり、敵はあらゆる方角からヤズダギルドの土地へと攻撃をしかけ、荒し回った。
 彼が王座について2年 後または4年後、アラブの攻撃が始まった。彼の人生は殺されるまで28年間 だった。

 多くの多様な歴史報告がヤズダギルドと彼の息子達に関 して報告されている。それらについては もし神が望むならいずれ私がお話しよう。ムスリムのペルシャの征服も含めて。 そう してヤズダギルドと彼の息子達の最終的な運命についても。


  -「アルタバリーの歴史」第5巻「最後のサーサーン人達の王達」 の章 通番1065から1067頁より  -

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