ホルミズド4世は、トルコ人妃の息子である。ある史料は、彼について、父親以 上に公正であるとし、他の史料は、残酷で暴君的だとしている。ササン朝帝国下のキリスト教徒は概して好意的である。ビザンツ帝ティベ リウスは代替わりを好機ととらえ、戦争を起こした。ホルミズドは、ビザンツに征服 されていたアルメニアのいくつかの要塞とダラの町の交換条件を出 されても、ダラの降伏を許さなかった。マウリキウスは579年末、ササン帝国北西部に被害を与 え、581年には、メソポタミアのコンスタンティア近郊でペルシア軍を破った。582年、ティベリウスの死去により、マウリキ ウスは首都へと帰還した。彼のペルシア戦線での後任司令官は2度の戦闘で破れ、新皇帝となったマウリキウスは、後任者を更迭し、義理の兄であるフィリッピ ウスに代えた。589年まで、メソポタミアで一進一退の攻防が続いた。一方南イラクではアラブが蜂起し、東方では突厥がビザンツに唆 されて侵入した。これを撃 退したのは、レイのミ フラン家のバフラーム・チョービーンであり、イスラム時代史料ではバルフを征服し、オクソスを越えて、西突厥王か、突厥に属していたエフタルの首長か、突 厥の家臣とされる有力者を殺したとされる。この後、チョービーンは、コーカサスへと転戦し、ハザールに勝利したと思われる。次いで彼 は、対ビザンツ軍司令 官となり、グルジアで作戦を行い、アラクセス河畔でビザンツ軍を破った。ここにいたって、バフラームの人気はホルミズドの嫉妬心を生み、解任しようとした が、返ってバフラームの蜂起を招いた。蜂起については、ビザンツ史家テオフィラクトゥス・シモカッタに詳しい。鎮圧に送られたイラク の軍隊も呼応し、両軍 がクテシフォンへと殺到した。ホルミズドは防戦しようとしたが、貴族は彼を見捨てた。宗教指導者も、ホルミズドの他宗教への寛容に反感を持っていたため、 四面楚歌に陥った。ホルミズドは貴族を捕らえようとしたが、クテシフォンで、ホルミズドの義理の兄弟であるビンドーエとビスタームの 蜂起が起こり、ホルミ ズドは捕らえられて盲目にされ、息子のホスロー2世が即位した。590年2月のことであり、ほどなくホルミズドは死去した。
ホスローは即位後、クテシフォン近郊にいたチョービーンと戦うため、ハルワー ンに侵攻 したが、戦火を交えるにはいたらず、ホスローは、チョービーンと戦うことを望んでないことに気づき、クテシフォンへと退却し、更にビザンツへと亡命した。 ビンドーエは甥(ホスロー2世のこと)と一緒に逃亡に加わっていたが、チョービーンの放った追跡者に捕獲された。590年、ホスローは、キルケシウムにて ビザンツ知事に迎えら れ、マウリキウスへ手紙を送ってバフラームに対する援助を求めた。同時期にバフラームもコンスタンティノープルに使者を送り、そこでは、ビザンツ側はニシ ビスと、ティ グリスまでのメソポタミアの割譲を提示し、一方ホスローは、ダラとマルティロポリス(マイフェルカット)、アルメニアの一部を提示し た。首都で議論のの ち、皇帝はホスロー援助を決め、ペルシア人捕虜を釈放し、ホスローのもとに送った。ビザンツ軍も支援準備をした。
バフラーム・チョービーンは、ササン王家の血統ではなかったため、王座の主張は困難だったが、彼はアルサケス家の末裔でもあった。 彼は辺境でホスローの活動をとめることはできないとわかっていたので、ザデスプラス と言う将軍をニシビスに派遣したが、ニシビスは既にホスローの元に復しており、派遣軍は破ら れ、司令官は殺された。この後ホスロー軍は6,7ヶ月間、ビザンツ軍の意思決定のために足止めとなり、叔父のビスターム をアルメニアに送ってレ ジスタンスを組織させ た。もう一人の叔父、ビンドーエはバフラームの元を脱出した。591年春、ホスローはビザンツ将軍ナルセスとともに進軍を開始した。
ダラは573年以来ペルシア人のもとにあったが、ビザンツ軍に降伏した。一方アルメニアから進軍した軍隊とともに、南と北からバフ ラームを挟撃する予定だった。バフラーム軍はメソポタミアで破れ、クテシフォンは攻囲された。ビザンツとアルメニア同盟軍はバフラー ムに対して決定的な勝利を収め、バフラームは 突厥に逃亡し、ホスローの教唆で暗殺されるまでそこで過ごした。
ホスロー2世は、支援者に褒賞を与え、反対者を処刑した。前者のうちには、叔父とともに従ったアルメニア人バグラツゥニ 家の当主サンバットが いた。ホスローはビンドーエを溺死させ、ビスタームは逃亡 し、エルブルス山内で反乱を起こした。ビスタームは高原地帯で10年にわたって持 ちこたえた。これに は、バフラーム・チョービーンの支援があったとされる。彼はレイに都し、貨幣を鋳造し、ホスローにとってかわる姿勢を見せていた。最終的に東方の、エフタ ルかトルコ人の首長の一人に殺された。601年までに、イランは再統一された。
591年秋の取り決めで約束された地域は割譲され、2国間に平和が訪れた。ビザンツの属国だったシリアのアラブ人の ガッサーン王国がペルシ アの領土を侵したが、マウリキウスに派遣されたビザンツ東方軍の法務官か司令官のゲオルギは、それはアラブ人自身の行動であることを説明し、ホスローを安 心させ た。このように、両国間で強い友好が続いたことから、何人かのアルメニア人 史家は、ホスローの妻シーリーンがキリスト教徒だったこともあり、ホスローは キリスト教徒に改宗したと信じている。彼はマウリキウスの娘マリアも妻としていたが、あまり好いてはいなかった。彼はキリスト教徒で はなかったが、キリス ト教徒に共感し、寺院に寄進をした。この後、ホスローは、ビストームの反乱への対応や、国内に残るバフラーム派への対応に追われてい たものと考えられる。
ネストリウス派キリスト教であるアラブ人王国のラハム国王ヌーマーン3世は、ホスローと敵対していた。これはホスロー支配の初期か らのことで、一説には ホスローのビザンツ逃亡を支援するための手紙をヌーマンが断ったからだともされているが、602年にヌーマーンは囚われ、牢獄で死去 した。王国は廃止され、アラブ人タイイ族の首長がペルシア人知事の支配下に、首長についた。大きなアラブ人部族であるバクル族が他のアラブ族と同盟して イラクに侵入し、 デュ・カールにてペルシア人と会戦した。ペルシア人は敗北し、アラブ人が統合されていることを示した。緩衝国ラハム王国の廃止は、ペ ルシアの砂漠の防衛線 がいかに弱いかを露呈することとなってしまった。後のイスラムの拡張が示唆されたこの戦いは604年に起こったものとされる。
602年バルカンで蜂起した反乱は、フォカスに率いられ、マウリキウスは人々に見捨てられ、逃亡し、5歳になる息子とともに捕らえ られ、処刑された。蜂起の理由は、単性派の弾圧と、カルケドン信条を承認していなかったことにあるとされている。マウリキウスの長 男、テオドシウスはペル シアに逃亡したとの噂が広まった。603年春に、フォーカスの即位を伝える使者が王宮に着いたとき、彼は牢に投げ込まれ、ホスローは宣戦を布告した。
エデッサ市は新帝を承認しなかったため、フォーカスは軍を派遣し、604年、ホスローは進軍し、エデッサでビザンツ軍を破り、市は ホスローを迎え入れ た。ここでホスローは、テオドシウスとして仕立てた傀儡を建てた。9ヶ月後、ダラは陥落し、ホスローによりマルズバーンがアルメニア のドゥビンに派遣さ れ、一方の軍隊はカッパドキアへと展開した。南方軍も勝利を収め、国境の町、アミダとレザイナが606年に陥落し、ユーフラテス河が 渡河され、シリアの町は占領された。コンスタンティノープルでは、フォカス追放の陰謀がたくらまれたが、いづれも発覚し扇動者は処刑 された。青組緑組の闘争はいよいよ混迷を深めた。とかくするうち、アフリカの反乱 は、609年にエジプトを征し、610年には首都に至ってフォカスを処刑した。
610年、ササン軍はユーフラテスを渡り、キルケシウムや他の町を占領、ヘラクレイオスは使者を送ったが、ササン軍の進軍は止まら なかった。アルメニア からのササン軍は、カエサレア・マザカ(カッパドキアの首都)を占領したが、611年、ヘラクレイオスに派遣された軍隊により町から 追い出された。613 年、ヘラクレイオスは、老将軍フィリッピカスをアルメニアに送り、彼自身は南方へ転戦した。しかし、ササン軍はアンティオキア近郊にて大勝利を収め、ダマ スクスを占領、キリキアの門までビザンツ軍を追撃し、タルススを占領した。フィリッピカスはアルメニアか ら退去した。
続く年、将軍シャフルバラーズは短い攻囲のあと、エルサレムを占領、十字架がクテシフォンへ送られた。615年には、シャーヒーン 指揮下の北方方面軍が アナトリアを通って都の対岸にあるカルケドンに達した。一方、バルカンとギリシアではスラブとアヴァールが侵入していた。617年、 アヴァール王は、コンスタンティノープルに達した。都は、東西で包囲されることとなった。
619年、ペルシア軍はエジプトに侵入、アレキサンドリアを落とし、司教と知事はキプロスへと逃亡した。ヘラクレイオスは北アフリ カへ退去しようとしたが、市民の説得で思いとどまった。ホスローは、テマ制を始めて、帝国を改造し、傭兵に代わり自国軍が編成され、 スラブ人はアナトリアで自装農民となった。教会は金銀を寄付した。ビザンツ軍は、制 海権を持ち、海軍力と優れた乗組員、ギシリアの火などの技術力に優位性を持っていた。622年春、ヘラクレイオスは一軍とともに黒海 に乗り出し、アルメニアに遠征、ペルシア人は、ヘラクレイオスを追ったが、破られた。
アヴァールは、ヘラクレイオスからの貢納により、平和を維持せざるを得ない状況だったが、ホスロー2世との平和締結は 失敗した。623年春、ヘラクレイオスはアルメニアに侵攻した。シャーヒーンとシャフルバラースが派遣されたが、ヘラクレイオスは、 アゼルバイジャンの 火の寺院であるガンザク(シーズ)とササン人の聖域を占領し て略奪した。北部の冬の軍営へと退却した。続く年には、ヘラクレイオスはペルシアの数箇所で分遣隊を破ったものの決 定的ではなかった。しかし、アナトリアで権威を回復した。ホスローは、コンスタンィノープルを攻撃することだけが、戦争を終わらせる 唯一の方法だと説得され、アヴァールと共同作戦をとるための交渉に入った。シャフルバラーズとシャーヒーンは、アヴァールとその同盟 者であるブルガールとスラブやその他の部族 と共同作戦をとるはずだった。ビザンツの海軍力は、この共同作戦の効力をそぐことができ、両軍を破ることができた。
一方ヘラクレイオスは、都には戻らず、かわりにコーカサスで軍を編成し、ハザールと同盟を結んだ。627年秋、同盟軍は南方のペル シ アへと進軍し、アゼルバイジャンで破壊を広めた。強い抵抗に会うこともなく、ヘラクレイオスは、メソポタミア平原へと山々を越えることができた。ハザール は撤収してしまった が、ヘラクレイオスは古代ニネベの廃墟近くに軍営をはった。そこで12月に、彼を追撃してきたペルシア軍を破り、直後、ホスローは、 カルケドンから、シャ フルバラーズとその指揮下の軍を召還するよう命令した。しかしヘラクレイオスはホスローの宮殿のあるダスタギルドに至り、ホスローを 待ったが、ホスローはクテシフォンへと逃れた。ヘラクレイオスはダスタギルドを占領して略奪し、そこで莫大な財宝を押収した。その後 ヘラクレイオスは冬の 軍営地へと元の道を戻 り、退却した。
ホスローは、彼の敗北のスケープゴートを探し、シャフルバラーズを処刑することに決めた。これを実行する前に反乱が起こった。ホス ローは捕らえられ、 628年2月末に殺された。ホスローの息子、シーローエは、カワード2世として即位した。彼は、反乱に参加し、彼の父の処刑に同意した。彼はヘラクレイオ スとの間に直ちに平和を結んでエジプト、パレスチナ、シリア、小アジア、西メソポタミアから、戦争前の国境までの撤収を約束した。す べての捕虜は帰還させられ、真実の十字架と他の遺物は元に戻され、敵対行為に終止符が打たれた。
シャフルバラーズは、危険な状況にあった軍隊を指揮したことから、満足せず、1年未満の支配の後、恐らくペストでカワード2世が死 去してのち、まだ赤子 の彼の息子アルダシール3世が継いだが、シャフルバラーズは王位に就こうと決心し、629年6月にヘラクレイオスの支援のもと、ク テシフォンへと進撃 し、アルダシールの軍を破って彼と主な支持者を殺した。シャフルバラーズは王位についたものの、殺されるまで2ヶ月もかからなかっ た。帝国東方で別の僭称者が現れた。彼はホスロー2世の甥で、ホスロー3世として、クテシフォンに到着する前に殺された。ホスロー2 世の息子で生きている者がいなくなったので、 貴族は、娘のボーラーンを王位につけた。イスラム史 料によれば、彼女は重税を緩和し、帝国の統一と再建を試みたとされる。しかし、彼 女は1年に満たないうちに死去した。数ヶ月の間に何人もの支配者が入れ替わった。ボーラーンの娘である アーザルメードゥクト、ペーローズ2世、ホルミズド5世、ホスロー4世などがいるが、名前が定かでない者も多い。最終的にヤズダギル ド3世が632年に即位した。彼はシャーヒーンの息子でり、ホスロー2世の孫にあたる。ササン王家の殆ど最後の生き残りだった。ヤズ ダギルドは、スタクル (イスタフル)の火の寺院に隠れて暮らしていた。貨幣から見ると、631年から637年の間、 ホスロー3世、ホルミズド5世、ペーローズ2世、ホスロー4世は、異なった地域を支配していたと思われる。ホスロー5世は、アーザルミードゥクトに殺され たとされる将軍ファールーク(farrox)ホルミズドに比定される。彼はフーゼスタンとペルシスでコインを発行し、ホスロー3世は 同時期にケルマーンで王権を持った。
ホスロー2世は、統治の初期はキリスト教に寛容で、キリスト教はササン帝国中に広まっていたが、ネストリウス派と単性派の対立は、数度の衝突をもたらし た。ネストリウス派が支配的だったにも関わらず、ホスローは単性派に好意を持っていた。それは、王宮の医者であるガブ リエルとの親交に因んでい た。また、王妃のシーリーンが単性派だったことにも因る。しかし、治世末期には、キリスト教を弾圧していた。
アラブの征服時代に、ホラサーンでクテシフォンから独立したマルズバーン(辺境総 督)がおり、東方やカスピ海沿岸で は、事実上の独立政権が多数見られている。ホスロー1世時代スハーフパッド(軍司令官)により分割された帝国は、土地貴族の封建国家と化していて、貴族は 中央の権威を尊 重する気がなくなっおり、 敵に統合してあたるという意思も欠けていた。
ヤズダギ
ルドV世
(在位632-651年)
この時代の宰相であり、中央軍最高指揮官は、ルスタムといった。ササン朝軍隊を 率いて、 636年アラブと戦ったが、ヒーラ近くのカディシーヤにて破られ、殺され た。翌年クテシフォンが占領され、ヤズダギルドは高原へ逃 亡、クティシフォンの財宝 はイスラームのカリフ、ウマルの元に送られ、ホスローの王冠はメッカのカーバ神殿に飾られることとなった。642年アラブ軍は高原へ侵攻し、ニハーヴァン ドでササン朝帝国軍に引導を渡した。ヤズダギルドは更に逃亡し、638年には中国唐に使者を送ったものの、援助は得られなかった。メ ルブにて、マルズバー ン(辺境伯)であるマーホーエは、招かれざる客を取り除こうと思い、ヤズダギルドを虜にしようとしたが、ヤズダギルドは更に逃げ、粉引 き小屋で殺された。 651年のことだった。
ササン軍は、ホスロー1世の改革以後、メルブやデルベンド、ヒーラなど、東や北、南の国境にしか駐在していなかったた め、一度国境を破られる と、簡単に国内を蹂躙される結果を招いてしまったが、一方、イラン高原を征服したアラブ軍からすると、無理に北と東の国境軍と戦う理 由はなく、メルブにア ラブ軍が現れたのは665年、デルベンドは655年のことだった。
ヤズダギルドの息子ペーローズ(卑路斯)は、唐に救援を 求め、また、王の中の王を名乗り、現アフガニスタンのバダフシャンであるトハリスタン(トハラ人の国。前139年トハラ人が居住)でソグディアナ人とエフ タル諸侯の支援を得ようとした。唐にも救援を要請したが、唐の高宗は、遠方という理由から、返礼の使者は出したものの、資金も人員も 送らなかった。変わりに疾陵城を波斯都督府とし、ペー ローズは都督に任命さ れた。ペーローズはトハリスタンの軍の支援は得られたようである。咸亨年間の661年、ペーローズは自ら唐にいたった。彼は右武衛將 軍に任命され、支配者 としての認知と、支援を約束されたものの、具体的には何も得られなかった。儀鳳三年に令吏部の侍郎である裴行儉が、兵を送ろうとした ものの、あまりに遠 く、安西碎葉まで行ったが、戻ってきてしまった。卑路斯は単独で故国に戻ろうとしたが、国に入れず、20余年をトハラで過ごした。こ の間数千人の家来を率 いていたものの、その後、家来一族離散してしまった。景龍二年(677年)、唐に亡 命し、 左威衛將軍となり、長安にゾロア スターの火の寺院を建設し、ほどなく病の為没した。この時もまだ家臣は 残っていたとされ る。その子ナルセス(泥涅)は、トハリスタンとソグ ディアナで、アラブに対抗する為に、財産を取り戻 そうとしたが、失敗した。中国の史書によれば、その後勃善活 (ホルミズド)と名乗る、707年に没したペルシア王がおり、8世紀にも、728年頃にホスローという王族がなおもいたとされてい る。872か874年のこととして、スーレー ン家の姫の死が記録されている。なお、ヤズダギルド3世の子、ペーローズ(卑路斯)の 碑文と像が、唐の高宗の廟の前に並んでいる石像に残っている、との話がある。そこに刻まれているのは、 「Pērōz , King of Persia , Grand General of the Right Courageous Guard and Commander-in-chef of Persia(右驍衛大将軍兼波斯都督波斯王卑路斯)と刻まれているとのこと(高宗の 乾陵前の石人は、六十一蕃臣像というらしく、こちらのサイトに61名の名前が掲載されています)。このサイトによると、61名のうちには、もうひとりペルシア人が記載されており、「波斯大首領南昧」とある)。
- Cambridge History of Iran Vol3(1) Iran under the sasaniansの章から -
- 参考資料-「新唐書」「旧唐書」、The Sasanian Era (The Idea of Iran)
2013/Mar/24 updated 誤字・脱字・文意不明箇所の修正