シャープール2世 ドュ アクターフ 



 
    そしてシャープール・ドュ・アクターフが生まれた。彼はホルミズド2世の息子であり、ホルミズドはナルセス の 子、ナルセスはバフラーム2世の子であり、バフラーム2世はバフラーム1世の子、バフラーム1世の子はシャープール1世の子であ り彼はアルダシールの子である。彼は父ホルミズドの遺言のおかげで即位することになった。人々は彼の誕生を祝い、彼らはこの知らせを遠方まで広め、彼らは手紙を書き、郵便と郵便組 織を利用した急使が知らせをもっとも辺境と離れた地位へと伝 えた。大臣と補佐官達は彼の父の統治時代に彼らが保持していた役所の機能を保持していた。彼らは彼らについての知らせがひろまるま で彼らの地位に残っていた。そうしてそこの人々が王を持たず、ペルシャ人が単に子供を待っている、がどうなるのか知らない という知らせが ペルシャの辺境に広まった。トルコ人とローマ人がペルシャ人の地を虎視眈々と見ることになった。

 今ア ラブの土地がパールス*13にもっとも近い土地だった。これらのアラブ人 は、彼らの(住む土地が)荒れて おり生活も荒廃していた為に、彼らに日々の糧と土地を彼らにも たらすのもを全土を上げて求めていた。 よっ て彼らの膨大な集団がアブドュル・カイス*3、ア ル・バ フライン(現アラビア半島のペルシア湾岸沿いの地方)、アル・カー ジマーの 土地の領域から海を渡った。彼らがアブルワーンの町に対する軍営を設置する海岸へと。そこではその内陸地方としてアルダシー ル・クラー*13(ゴール、又はジュール)があり、そこはパールスの海岸地 方にあたっていた。彼らは地方の人々の家畜の群れ、耕地、生活手段を略奪し、彼らの領土にき な損害を与えた。

 彼ら(アラブの侵略者)はしばらくこれらの行動に従事 し続け、ペルシャ人の誰も反撃できないままでいた。何故なら彼らは子供の頭に王冠をいただいており、人々は彼(王)に対する 恐れと敬いが不足していたからであった。これはシャープールが成長し行動を起こすまで続いた。彼が成長したとき、彼がきちん と理解していて、諸事の運営のうち明白だった最初のこととは、伝えられているところでは、ある夜 クテシフォンの王宮で彼が 眠りから早朝に 怒った人々によって起こされたということだった。彼はそれが何であるかを尋ね、ティグリス川の上に架けられ ている橋の上を行きつ戻りつする人々が一緒であり混雑するという苦情である、ということを言われた。だから彼はもう1本 橋を作るように指示し、1本の橋は一つの方向に横切る様に人々に使われるように、他の1本は反対方向に渡る人々に利用される ように。このように2本の橋を使う人々はもはや一緒に混雑することは無く なった。人々がこの問題を解決した彼の知性の鋭さを 理解したとき、彼の年に関わらず、彼らはこれを喜んだのだった。そうしてこれに関して指揮されたものを満たすことを急かし た。伝えられているところでは2番目の橋は既にあった橋の近くにその日の日 没前に建てられた。この方法で、人々は橋を渡ると き彼らの生命を危険にさらすことから解放されたのだった。子供は成長しその日のだけで権威を得たのだった。他の者が長くかか るのにたいして。

 補佐官と大臣はシャープールが多様な国事の前に横たわ るようにし始めた。彼らが彼に持ってきたもの中には辺境と敵に直面している軍の場所、及びそれらの大部分は残念な内容に縮小 してしまったという報告が到着する、ということだった。 補佐官と大臣はこ の状況を彼に押しつけたが、シャープールは彼らに言った、「これについて過度に心配するな、なぜなら対処方法は単純なもの だ」 そして彼はこれらの軍団全体に送るための手紙を(書く様)指示した。 それは、彼(王)が彼ら(兵士達)がおかれている州の領域で彼らがどんな状況に置かれているかを、彼らが兄弟と世帯から離れ離れにされていることについてを知 るために。彼の家族のもとに戻りたいものは誰でも自由にそれを 全面的な許可のもとに行え、彼の地位で残 りをまっとうすることで 奉仕の残りを完全にまっとうしたいと望むものは誰でも好きなように判断されるようになった。彼は戻 りたいものは彼らの故郷で家族と遺書に残れるように指示した-彼らが再び必 要とされる時まで。

 大臣がこれら全ての言葉を聞いたとき、彼らはそれらを 許可し、言った 「この若者が国事と軍団の管理について長い経験を持っていたとしても 彼の判断と彼の雄弁な演説の響きは今 我々が聞いた事より偉大だとは思えない!」 
 そして彼の州と辺境の地についての制度は変革され、彼の軍団に心を与え、敵には屈辱を与えた。最後に彼は16歳になった時、 武器を持ち運び、騎馬をするようになり、彼の肉体は壮健となった。彼は彼の軍団と近衛兵の司令官を召集し、彼らに指令を与え た。彼は神がどんなに彼と彼の先祖をとおして彼らに物惜しみしないできたか、これらの最後は彼らのよき指揮を通じて達成され ること、どう彼らが彼らの敵を壊滅させるか、彼が幼い頃に経過した期間、ど うこれら全ての達成が混乱のもとに失敗したのかについて言及した。彼はこの国の中心地域を安全に守ることで 彼らの地位を回 復する仕事を始つつあると言った。そしてその後、彼は彼の敵の一つに対して行う計画を 作り、彼らに戦争をしかけ、1000人の戦士の軍だけとを彼とともに連れて 行った。集められた人々は立ち上がり、彼を褒め称え、礼を言い、しかし彼が彼の宮殿に残るべきだ、そうして彼が計画した遠征 へ、彼の軍団と司令官達を送り出すべきだといった。

 彼は彼が都に残るべきだという彼らの提案を拒否し、彼 らは彼が言った軍団の数を増やす様にと言った。しかしこれも彼は拒否した。反対に彼は彼の軍団中もっとも英雄的でもっとも強 い兵士の中から1000人の騎士を選抜した。彼は彼らを指揮して進軍し、彼の計画を達成し、彼らが遭遇したアラブ人の誰であれ逃れさせず、 戦利品を略奪する ために進軍した。彼は彼らを前進させ、パールスを彼らの牧場のように扱ったアラブ人を叩き、 彼らを虐殺し、捕虜とし、敗走させた。そして彼は軍団の先頭に立って海を横切り、アル・カットに達した。彼はアル・バフランの地を通って進軍し、そこの人々を殺しながら、いかなる種類の支払いでも彼自身 を売り渡さず、略奪をやめはしなかった。彼は彼の行軍路に戻り、ヒジャ ル*1に達した。そこはタミーム族*4、バクワリバリ*5、アブドゥル・アル・カイス族のベドウィンがいた。彼は彼らの間に 虐殺を広め、嵐の土砂降りのように彼らに大量の流血を流させた。逃げ出すことができたものは山 に洞窟はなく、海には島が無く、彼らが彼らを安全にすることが出来る場所が無いことを知ったのだった。

  この後 彼はアブドュル・アル・カイスの地へと転 じ、砂漠に逃げたもの以外の全ての人々を破壊した。彼はアル・ヤマーマを通過した。そこで彼は前回同様の全体的な虐殺を行っ た。彼は地方のアラブの泉をふさぐことなしに、井戸を埋めることなしには通過しなかった。彼はメヂナ(メディナ)の隣に進軍し、彼が そこでみつけたアラブ人を殺し、捕虜とした。そうして彼はバクルとタグフリグの地へ転進した。そこはペルシャの地(パールス)の辺境とシリアのローマ人の 要塞(manazir)の間にあった。彼はアラブ人をそこで見つけ、捕獲し、彼らの水で満たした。彼はタグフリグ族の一団をダーリーンとアル・シャマーヒズとアル・カットに移住させ、アブドュル・カイ スの一団とヒジャールのバヌー・タミームの幾 つか一団をキルマーンにいたバクルバワリの一団(バクル・アバーンと呼ばれた)とバヌー・ハンザラからきた者を アフワズ州の ラーミーヤに移住させた。

 彼はサワードに町を作るように指示し、そこを彼はブン ズルジュ・サーブール*6と呼び、それはウクバラー、そして他の町はファイルズ(ペーローズ)・シャーブールと呼ばれ、それ はアス・アンバール*7と呼ばれた。かれはアフワズ州に二つの都市を建てた。一つはイーラーン・クラー・サーブール(シャー プール)と呼ばれ、その意味は ”シャープールと彼の土地”*12、それはシリア語でアル・カーク*8と呼ばれ、他の一つは アル・スース*8と呼ばれた。彼が要塞のそばに建てた一つの都市がある。その要塞は預言者ダニエルの遺体を保持している石棺 をその中にもっていた。その都市は神が彼について祈り、彼に平和を与えるものだった。彼はローマの地へと遠征をおこない、そ こで多くの捕虜を得、彼らをイーラーン・クラー・サーブールに植民させた。その地はアラブ人が名前を短くしてアル・スースと 呼ぶところである。彼はクニー・サーブールと彼が呼ぶバージャルマーに都市の建設を命じた。そこは彼が行政地区(クラー)を おき、またホラサーンの地にも都市の建設を命じた。そこは彼はニシャプールとず け、同様に行政区とした。

 シャープールはコンスタンティヌス、ローマ人の王と休 戦協定を結んだ。その王はコンスタンティノープルを建設し、キリスト教徒となった最初のローマの王だった。コンスタンティノ スは死に、彼の王国は3人の息子に分割された。その息子達が死んだので、ローマ人は彼らの王としてコンスタンティヌスの一族 の出でユリアヌスという名のものを王として任命した。彼はローマ人がキリスト教化する前に信仰していたローマ人の宗教に執着 していた。彼はこれを隠てきた。そして王になる前はキリスト教に従ってい た。しかし彼が実際に権力の座についた時、彼はかれの古代のローマ人の宗教への信仰を表明し、以前の地位にそれを回復し、の再生を命じたのだった。彼は教会と僧侶はは引き倒されるべきだとし命じ、キリス ト教の学者は殺されるべきだと命じた。彼はローマ人とハザール人*2、アラブ人の使節団を編成した。アラブ人はローマ人の王 国内にいたもの達である。この使節団はシャープールと彼の軍隊に戦争をしかけるために編成されたのだった。

 アラブ人はシャープールがアラブ人を殺したことにたい する復讐の機会としてこの機会を捉えた。17万人のアラブ人戦士がユリアヌスの軍に参加した。後者はユーサーヌースと呼ばれ るローマ人の貴族の一人の指揮下に彼らを送った。ユーザーヌースは彼らを彼の前衛の役割に置いた。
ユリアーヌースはペルシャの地に達するまで進軍した。 シャープールがユリアヌス軍、ローマ、アラブ、ハザールの軍の大きさの報告を 得た時、彼は警戒し、軍隊の規模や戦いの気概、与えられる損害の効果などの情報を彼に持っ て戻る間諜達を送りこんだ。しかしこれらの間 諜達がもってもどったユリアヌスと彼の軍についての報告はそれぞれ多様だっ た。シャープールは彼自身変装し、何人かのが信頼する勇気ある男たちの一 群とともに彼らに敵対する軍隊を見る為にでかけていった。彼がユリアヌス軍の、ユリアヌスの前衛隊の指揮官近くに近づいたと き、彼はユリアヌスの軍へ彼を伴ってきたものから少数の一団を差し向けた。 彼らが情報を探し出し、権威ある報告を持ち かえるために。しかしながらローマ人は彼らに気付いた。彼らを襲い、ユーサーヌースのもとへと彼らを連れて行った。らの誰も彼らがユリアヌスの軍へやってきた目的を告白しなかったが、一人だけ例外 がいた。彼はユーサーヌースに全てを話し、正確にシャープールのいる場所を話し、ユーサーヌースに彼を軍の分遺隊とともに送 り返すように尋ねた。そうすれば彼はシャープールにそれらを連れて戻すことができたかもしれない。しかしユーサーヌースがこ の話を聞いたとき、彼はシャープールのもとへは彼自身の身近な友人を送った。彼はシャープールに、ユーサーヌースがシャ プールの居場所について知っているということを告げ、彼に警告を与えた。シャープールは素早く走り、彼自身の軍に戻った。ユリアヌス軍中のアラブの軍隊は シャープール攻撃の許可を得たいといってきたが、彼は彼らの要求に同意した。彼らはシャープールへと進軍し、彼らと戦い、彼 の軍を敗走させ、虐殺した。シャプールは彼の軍の残ったもの達と逃亡しユリアヌスはシャープールのクテシフォンにある王座を 持ち去り、シャープールのそこにあった富と宝物を略奪した。

 シャープールはその時点で遠くの地域にいる彼の軍隊の 各隊に手紙を送り、彼がユリアヌスの手とアラブ人の派遣軍に悩まされていることを伝え、彼はそこの全軍の司令官に彼の元へ彼 らの指揮下に直接軍を率いて急いで戻るように命じた。非常に素早く、全ての地区から軍隊が彼のまわりに集まった。彼は再び進 軍し、ユリアヌスに攻撃をしかけ、クテシフォンの町を奪回した。ユリアヌスは彼の軍隊とともにビフ・アルダシールの町とその 近郊で陣を張った。使節が彼とシャープールの間でいきつもどりつした。ある日 しかしユリアヌスは彼の小部屋に座らせられて おり、鋭い矢が見えない方向からきて彼の心臓を撃ち抜き、彼を殺した。

 彼の軍の中心部は混乱に投げ出された、彼らは恐れるよ うになった。彼に起こったことによって。彼らはペルシャの地から脱出することにかんし絶望に陥った。彼らは意見召集会議を開 いた。王も指導者も不在のままに。そしてユーサーヌースに彼が支配の仕事を 引き継いでくれるかどうか尋ねた。彼らはその座 に彼を担ぎ上げた。彼はこれを拒んだが、彼らがかれに圧力をかけ、彼は彼らに 彼はキリスト教徒であり、彼は宗教的に彼に反する人々を支配しないと言っ た。しかしローマ人は彼に彼らはまさにキリスト教であり、彼らはユリアヌスへの恐れでこれを隠し ていたのだと言った。だから彼は彼らの要求をうけ、彼らは彼を王とし、公式に彼らのキリスト教信仰を表明したのだった。

 シャープールはユリアヌスの死を知り、伝言をローマ人 の司令官に送ってきて言った、

「神は諸君を我々の力のもとへと連れてきた。神は我々を 諸君より優勢にした。我々に対する諸君の暴力に対する報復と我々の土地を諸君らが踏みつけにしたことに対する報復という点 で。我々は諸君に対して剣を振りまわすことなしに また諸君にを突き刺すことなしに 諸君が空腹から理解することを期待す る。しかし指導者をよこしてほしい。もし諸君が諸君自身の(新しい)指導者を任命したのであれば。」

 ユーサーヌースはシャープールのもとへ行くことに同意 した。の陣営の司令官の誰もの この判断に同意していなくても。とにかく彼はここでも彼独自の見解を主張し、彼の兵営 から貴族の戦士の80名の護衛とともにシャプールのもとに王冠をつけて赴いた。シャープールはが来たとの報を受け取ると彼に会いに出向いた。そしてお互いに平伏した。そして シャープールはユーサーヌースを抱きしめ、彼が以前にしたこと(彼を兵営に戻させたこと)の感謝を述べた。彼はその日シャー プールと祝宴をはり、気楽にして過ごした。シャープールはローマ軍の司令 官達とリーダー達に伝令をよこし、彼らにその情報を伝えた。もし彼らがユーサーヌース以外のだれかを権力の座につけたのであ れば、彼らのペルシャ人の土地での破滅は確実だっただろう。そして彼らのユーサーヌース王としての任命は暴力から彼らを救っ たのだった。ユーサーヌースの権威は彼の行動を通して強固になった。

 シャープールは続けて、「ローマ人は我々の土地に進軍 してきて多くの人々を殺した。彼らは椰子やサワードの他の木を切るように切られて、その農業的繁栄は壊滅した。だから諸君が 破壊し廃墟としたものの全ての価値を我々に支払うか、我々にニシビスの町とその周辺地域の全損害を償うためのなにかを我々に しなくてはならない。」 ニシビスは以前ペルシャ王国の一部だった。しかしロマ人がそれを征服していた。ユーサーヌースと指 導的司令官達はシャープールの要求に同意し、償いとしてニシビスを返却したニシビスの人々はこれを聞いてそこからローマ帝国 の多くの市へと移住した。彼ら自身の宗教(キリスト教)に反す王の権力下では彼らの安全が脅かされたからである。このニュー スがシャープールのもとに達したとき、彼は12千人のよき血統の人々の息子たちをイスタフル、イスファハーン、彼の州と彼の国の その他の地域からニシビスへと送り、そこに移住させた。ユーサーヌースは彼の軍隊とともにローマ領に戻り、彼は短い期間統治 して死去した。

 彼の死で直ぐにシャープールはアラブ人を殺すことに非 常な熱意を持つにいたった。彼らの指導者肩甲骨を引き裂き、このために彼らは彼をドュ・アル・アクターフ肩の男」と呼ぶようになった。 歴史家達は シャープールがアラブ人の虐殺を行った後、彼らが入ってきた領土から追放した。それはパールス近郊、アル・バフ ラヤン、アル・ヤマーマなどであり、彼はシリアへ行ってローマ帝国の辺境へと進んだ。彼は彼の従者に 彼はローマ人の領土 に入るつもりであると説明した。彼らの秘密と彼らの軍の数や町についての情報を収集するために。従って彼はローマ領に入り、 重要な期間そこについて歩きまわった。皇帝が宴会を開くという情報が彼に伝わった。カエサルは全ての人々にこの祝宴に集まる 様に命じた。シャープールは乞食のように変装した。その集まりに出席するために。そこで彼は皇帝を見て、彼の姿を現し親しん だ。そして彼が宴会でどう振舞うかを見た。しかし彼の正体はばれてしまった。彼は逮捕され、カエサルは彼に牛の皮でくるまれ るように命じた。

 カエサルは今彼の軍隊とペルシャ人の土地へと旅してき ていた。その状況にシャープールも連れてきていた。彼はひどい虐殺を行い、多くの町と村を破壊し、椰子と他の木を切り、それ をグンデ・シャープール*9の町にくるまで続けた。その地方の人々はそこに彼ら自身を閉じ込たが、カエサルは投石器を設置 し、町の一部を破壊した。このような現状である一方、ローマ人のシャープールを監視するために信頼されている護衛はある夜だ らけていた。彼の近辺にアフワーズから来た囚人がいた。彼は彼を覆う皮の纏いものの近くの皮膚にオイルを注ぐ様に彼らに指示 し、彼らはこれをやり、牛の皮は柔らかくなり、彼は戒めから抜け出した。彼は市の門へ近づくまでに静かに進んだ。彼は市の護衛に彼が誰であるかを告げた。彼が人々の間に来た時、彼らは彼をみて非常に喜ん だ。彼らの声が神への祈願と歓喜に湧き上がり、カエサルの軍隊が声の音で眼を覚ますほどの範囲へ響いた。

 シャープールは市内の人々と一緒になり、彼らに武器と 装備を与え、その夜朝に向けて、ローマ人に対して進軍した。彼はローマ人を殺し、カエサルを捕虜として、彼の宝物と女性達を 略奪した。そして彼はカエサルを鉄の足を架し、彼に彼が破壊した全ての繁 栄を回復するように要求した。シャープールはカエサルに、ローマからマダーインとグンデ・シャープールに土地をもってくるよ うに要求したという。そうすれば彼が破壊したものを回復できるかもしれない と。彼が切り刻んだ椰子とその他の木の場所にオ リーブを植えるようにと。そして彼はカエサルのかかとを切り、それらを縫い付けローマ人のもとへと驢馬にのせて送り返した。 このような言葉とともに。

「これは諸君が我々になした罪に対する罰である」 この 為にローマ人はかかとにとサンダルの為の)靴紐を使うのを止めた。そして足全体をとめる靴の各部を縫い合わせた。

 シャプールは彼の王国にしばらくまり、ローマに対して遠征を率いた。彼は多くの人を殺し、捕虜とした。彼は残りの 人々を彼がアス・スース近郊に建てた町-イーラーンシャヒル・シャープール と呼ばれたに 移住させた。そして彼はアラブ人との間に平和を求め、タグリブ*10、アブドュル・カイス、ケルマーンのバクルバリ、タワワ ジとアフワズのいくらかの部族を移住させた。彼はニシャプールの町を作り、シンドとシージスタンにその他の町を作った。彼は インドから連れてきた物理学者もっており、彼にアル・スース近郊にアル・カルフ*11を建設させた。この男が死んだとき、 スースの人々は彼の医者としての技能を継承し、このためこの地域の人々はペ ルシャ人の中でも最も医学の実践知識の熟練者である。シャープールは彼の兄 へ王権を遺贈した。シャープールの統治は72年 だった。
 
 
*1 ヒジャル今 のクウェートのペルシャ湾西岸あたり。
*2 この時代にハザール人がいたはずが無いので、これは タバリーの時代錯誤。
*3  現バーレーンの西の海岸線地域のあたりから内陸(リヤド)地方
*4  タミーム族 現クウェートの南西部。今はまったくの砂漠。
*5 バクワリバリ 現クウェートの南。 アブデゥル・カ イス(*3)の北のあたり。
*6 ブンズルジュ(ブーズングール)・サーブール 現バ グダードの北50km付近。
*7 アス・アンバールバ グダード真西ユーフラテス川 沿い。
*8 地図で見るとスースは現スーサ付近。名前も似ている が、スーサは既に存在している町の筈なので、既に崩壊さ れていたスーサの町を再建したという可能性もある。ダニエル廟は現スーサの町に存 在している(観光ガイドにも掲載されている)ア ルカークはスースの北30km付近。
*9 グンデ・シャープール(現シューシュタルの町に比されている)。スー サ-東南約30km
*10 タグリブ 現イラクのナジャフ砂漠のあたり ヒー ラより西の内陸部。
*11 恐らく*8のアル・カークのこと。
*12 または”イランのシャープールの富”または”イランの光栄あるシャープール”こ の町はスーサの再建という説も。
*13 中世ペルシア語パールスは、近 世ペルシア語のファールス、ギリシア語のペルシア。概ね現在のイランのファールス州に該 当するパールス地方のうち、首都行政地区をアルダシール地区(ク ラーは地区を意味する)と称した。


  - 「アルタバリーの歴史」第5巻 「パーパクの子アルダシー ル後の王権の所有者達」の章p50からp66(通番836頁から845頁「シャープル2世」の節)より -
 

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