BACKこれらの家はパルティア、ササン朝時代を通じ、王家についで名門であり続けた家系です。時には王を凌ぐ実力を備えることも あり、王位についたものさえいたとのこと。このような特別な名門は王家以外に7家あったとされるが、そのうち特に歴史によく登場する3家についてまとめて みました。彼らは出自がアルサケス家にあるとしていたようで、ササン朝時代にも「パフレヴィー」と名乗っていたとのこと。スーレーン家 スー レーン家はシースターンを根拠地とし、パルティア王ミトラダテス2世(前123‐91)の時代のアルサケス王家の一族が開祖となったとされる。アルサケス 時代、国王戴冠の役割を持っていた。 スーレーン家の人間でもっとも有名なのは、
前53年カルラエの戦いでクラサス率いるローマ軍を殲滅した将 軍スレナ
インド−パルティア王国を築いたゴンドルファーネスとその子孫
636年カーディシーヤの戦いの司令官となりアラブ軍と戦ったロスタ ムの3名である。特にゴンドルファーネスは紀元26年にはインドに 侵入し クシャン朝登場前夜の この地域を統合し ほとんど独立した王朝としての勢威を示した。
ササン朝滅亡後、一族は中国唐に亡命したようで、中国の史書に872 年か4年のこととして、スーレーン家の王女の死を伝えている。スレーン家については独自のサイトがある(The House of Suren-Pahlav)が、このサイトは少し我 田引水的にスーレーン家の人物と歴史上の人物を結びつけるように思えるが参考になる。
カーレーン家
カーレーン家はミトラダテス2世のゴタルゼス2世への抗争を支 援したとされる。カーレーン家の根拠地はササン朝時代にはニハーヴァンドだったとされる。 一説にはアルダシールの侵攻で一族はほとんど全滅の憂き目にあ い、ただ一人行き残った者がアルメニアに逃亡し、カマサラカン家というアルメニアの貴族となったという伝えがあるが、別の説ではカーレーン家も他の名門同 様 漸次アルダシールに服属するようになったとのことである。
カーレーン家出身者で有名なのは、ササン朝のペーローズからカワード の時代に実権を握った将軍ザルミフル(スークラ)がいる。ミフラーン家
590年に叛乱を起こし短期間帝位についたバフラーム・チョー ベーンが挙げられる。 また、ミフラン家はイベリア(東グルジア)王家にもなっている。
スペンディ アード家
スペンディアード家の根拠地は恐らくパールス地方のフィルザ バード近郊であると思われる。ここにミフラーン家が建設した橋の遺構が残っているらしい。有名なのは ササン朝時代、ヤズダギルド1世からバフラーム5世 を経てヤズダギルド2世時代に至るまで40年前後宰相の職にあったミフル・ナルセスであろうと思われる。彼はササン朝の中央集権体制化を大きく前進させた 最初の大宰相であると考えられる。