ササン朝時代から流布された古代イランの歴史にはセレウコス朝もアケメネス朝も登場しない。 長い年月の間に すっかり民間伝承の類まで王朝の歴史像の影響を受け、かなり史実と異なった伝説となっていってしまったのである。 ではまったく史実の投影・残滓がその中に無いかというと そうでもなく、 なんらかの形で史実の残滓は認められるのである。 しかしそこにあるのは史実の反映ではあっても、最早史実そのものではない。
パルティアによるイラン解放は 政治的なだけではなく、 文化的側面も含めて 比較的長い年月のもとに実現されたものであり、 しかも当初は彼らが追放したセレウコス朝と同様ヘレニズム王朝として登場した。 パルティアがイラン化してゆくのはその後長い年月を経てのことである。
フェリードゥーンによるイラン解放は こうしたパルティアによるイラン復興の歴史とアラブ人に対する抵抗などの史実が織り交ざって 形成された伝説の一つだと 考えることが出来るのである。また、アケメネス朝やギリシャ人による征服の史実がまったく残っていないかというと そんなわけではなく、 アケメネス朝の アルタクセルクセス王は 伝説に登場するバハマン帝がそれといわれているし、 アレクサンダーは そのまま「イスカンダール」として イランの王 として登場するのである。
それにしても もし ギリシャ・ローマや中国の歴史書の記録が無かったら一体どうなっていたのだろうか?
偉大なアケメネス朝の歴史はすっかり忘れ去られ、 僅かに遺跡や発掘された当時の僅かな記録から推し量れる 「幻の帝国」として 歴史の彼方に霧散してしまっていたかも知れない。とともに、我々日本の「古事記」「日本書紀」もどこまで史実を残しているのか、という論争は イランの状況を考える時、やはり考古学や、他国の記録による物証などを決定的に必要とする、ということになるのではないだろうか。
ところで アケメネス朝の壮大な遺跡 ペルセポリスは 今では 「ジャムシードの王座」 といわれ ザッハークに倒されたジャムシード王の宮殿址と呼ばれている。ギリシャ人の記録が無かったら、本当に「幻の帝国の遺跡」となってしまっていたかも知れない。