伝 説のアルタクセルクセース



 
   一般に有名なア ケメネス朝の王というと、ペルシャ帝国の創始者アであるキュロス、その息子でエジプトを征服したカンビセス、ペルシャ戦争で有名なダ レイオスとクセルクセス王、最後にアレクサンダーに敗れて帝国崩壊を導いたダレイオス3世というところではないでしょうか? しかし イランの歴史上では、どうもクセルクセスやカンビセスよりもアルタクセルクセース1世(在位前465-424年)の方が歴史に印象を 残したようです。 それは何故かといいますと、理由は2つあります。

1.ひとつは 彼の名前が後生パルティアとササン朝の建国者に利用されたこと。
2.2つめには 後生の伝説となってしまったアケメネス朝の歴史にアルタクセルクセスが登場してい ること。また聖書に掲載されている伝説にも登場していることです。

つまり、伝説の人となったという点で、歴史に印象を残している、と言えるのです。それでは これ らはについて少し詳しくみてゆきたいと思います。

1.パルティアとササン朝の建国者

パルティアの建国者はアルサケス、ササン朝の建国者やアルダシールです。彼らが何故アルタクセル クセースに結びつくのでしょうか? 理由はf二つあります。アルダシールの場合は、単に音韻の変化が起きたためです。古代ペルシャ語原音アルタクシャサがアルタクセルクセ−ス に訛ったのです。 

アルタクシャサ−>アルタクシャー−>アルダクシー−>アルダクシール という具 合です。 

アルタクセルクセース1世(在465-424年)とアルタクセ ルクセース二世(前404-359年)は、アルサケスという個人名を持っていたとされています。前者の場合 は、バビロン天文日誌 Aršak/Arsaces(バビロニア語で Aršu)(Encyclopaedia IranicaのARSACIDSの記事)として登場していて、後者については、2世紀のギリシア人作家プルタルコ スが、『プルターク英雄伝(岩波文庫13巻)』「アルタクセルクセース」p64で、即位前の名前が「アルカシース」であったと記 載しています。二代続いた王の正式名と(恐らくは)個人名が同じということに は、何か意味がありそうです。

2王朝の建国者の名前が同じ人物の名前に由来しているとは驚きましたが、何故 ダレイオスでは無 いのでしょうか? ダレイオスは伝説では登場していないのでしょうか? そんなことはありません。 ダレイオスも伝説に登場して います。 ならば何故ダレイオスを差し置いてアルタクセルクセースの名前が使われたのでしょうか?  残念ですが この答えはま だ私には分かっていないのです。 いつかわかり次第ここに記載したいと思います。(因みにアケメネス朝の王は、ダレイオス1世以 降は ダレイオスとアルタクセルクセスしか使われなくなっています。この事実からダレイオスとアルタクセルクセスの2人しか伝説 に登場しなくなってしまったと言えるのかもしれませんが。。。それにしてもキュロスを忘却するのかなぁ?)

 因みにカイヤニー朝の後日但ですが、 
 
 フマーイはバフマンとの子を川に流し捨て、バフマン死後帝位に登り32年統治した。一方息子の ダーラーブ(ダレイオス1世。但し2世との説もある)は拾われて勇者になり、ローマとの戦争の勝利に貢献した。その結果女帝の目 にとまり、女帝の息子であることが判明し、帝位につくのである。そのダーラーブ(またはダーラー1世)はローマ王の娘と結婚する が、気に入らず送り返してします。その娘は既にみごもっており、生まれた子供がアレクサンダー。つまりアレクサンダーはダレイオ スの息子ということになる。よってアレクサンダーが破ったペルシャ王ダーラー2世とアレクサンダーは異母兄弟ということになるの でした。
 

2.伝説に登場するアルタクセルクセース

アルタクセルクセースの登場する伝説で有名なものは2つあります。一つは古代ペルシャの伝説で フィルダウシーの王書はじめイラン人にはポピュラーな神話伝説。もうひとつはイスラエル人に伝わった伝説で旧約聖書「エステル 記」に登場するものです。

【イラン人の神話伝説のアルタクセルクセ−ス】

古代イランの最初の王朝をピシュダーティー朝といい、その継ぎの王朝をカイヤニー王朝と言いま す。そのカイヤニー王朝は3つに別れていて、第3カイヤニー王朝に登場する王バフマンがアルタクセルクセース或いはキュロス2世 (または両者併せた存在)だとされています。 バフマン王にはフマーイという娘でありかつ王妃がおり、彼女はシャハラザードとい う別名があり、これはユダヤ人だった母親から受け継いだ名前だったので彼女はユダヤ人だったと解釈できるのです。 史上これに該 当する ユダヤ人妃を持つ王はアルタクセルクセスとされており、ここからバフマンはアルタクセルクセスとも解釈できるのです。ま たギリシャ‐シリア資料でもバフマンはアルタクセルクセースのことだとされています。 しかしこれも資料の混同という疑問があ り、イスラエル人はバフマンはキュロスのこととしています。これはキュロスがユダヤ人を解放し、エルサレムの寺院を修復し、一時 ユダヤ教を採用した、ということによるとのことです。

【エステル記のアルタクセルクセース】

 エステル記に登場するアルタクセルクセースはアハシュエロス王という名前で登場し、彼のユダヤ 人妃がエステルです。
アハシュエロス王はスサに都し、インドからエチオピアまで127州を収める王でした。 ある日王妃 ワシテの不敬に怒り、彼女を追放し、後釜の妃を全土から兆発しました。そのうちの一人がユダヤ人エステルです。エステルは王の目 にとまり寵愛をうけるようになりました。一方エステルの叔父であるモルデカイが王の暗殺をたくらむ侍従を告発したものの、政府の 有力者であるハマンに挨拶をしなかったことから ハマンはユダヤ人全滅の命令を全土に布告します。しかし、王がモルデカイの告発 を思い出し、モルデカイの処刑を止めさせ、かわりにハマンを処刑させました。 更にユダヤ人絶滅の布告に対してユダヤ人を襲うも のを全て返り討ちにするという布告が出され、ユダヤ人は襲撃者を殺しました。こうしてユダヤ人はペルシャ帝国内で自由を手に入 れ、モルデカイは宰相となり、ユダヤ人の一部はエルサレムへ移住し寺院を再建しました。
 

どこまでが史実かですが、エステル記は前3世紀頃にかかれたらしいのですが、すでにペルシャの伝 説となっていた内容を下敷きにしたもので、アルタクセルクセースの史実を追ったものかどうかは 判断できません。伝説が先にあ り、それがアルタクセルクセースに仮託されたのかも知れませんし、実際にこのような事件が彼の時代にあったのかもしれません。

いづれにせよ、アルタクセルクセースは これらの伝説に 登場するくらい、古代において何かインパクトのある存在ざったのかもしれません。 


BACK