の上林苑とペルシャの パラディス



  ササン朝ペルシャの滅亡後、逸民達は本国を逃れ、遠く中国唐ま で移住し ました。これと同じ現象が アケメネス朝の滅亡時にも起こったりし てはいないのでしょうか。 そこで思ったのですが、以下の事項に ペルシャの、中国への影響が見られる可能性があるのではないでしょう か。

 

-秦始皇帝 兵馬俑の彫像に対する セレウコス朝やバクトリア
 を通じてのヘレニズムの影響

-宰相・監察・軍事 という統治機構の類似点
-官僚制度
- 駅伝制度

 
 これらは どこからかの影響というよりは統治機構に付随的に発生する 税制などと同様 より社会学・人類学的レベルで論議されるべき内 容かとも思ってい ました。

しかし、以下のような狩猟場の例を最近合わせて考えるようになりました。

 前漢代 上林苑という狩猟値が長安城近郊にあったと思います。首都の近くの 皇帝専用の狩猟場ということで古代ペルシャ(パル ティア、サ サン朝)の皇帝や貴族の狩猟場パラディスと類似しているのではないでしょうか。 またさらには 前漢か、後漢か忘れてしまいました が、「外戚7大家族」と いう言い方があるのを何かで読みました(すみません。出典は忘れてしまいました)。 古代ペルシャでは、メディア、アケメネス朝、パ ルティア、ササン朝を 通じて
7大家族という貴族が 特権的な地位にいました。 (といいつつメディアの場合は6大家族だったような記憶もあります)

 このような類似点は探せばもっとあるのではないでしょうか? 類似点が多くなれば、社会学レベルでの話だけでは説明がつかず、や はり文化 的影響というものも考慮すべきことになるのではないでしょうか?

 ササン朝滅亡時に多数の人々が中国へ移住してきたことを思うと、アレクサンダーの遠征とその後のセレウコス朝支配時代に、はやり アケメネ ス朝の移民が中国にあったのではないかと思うのです。そうして特に 西域に面していた秦に影響を与えたのではないでしょうか?
よく、シナの語源は Qin(秦)だという話が言われますが、これも、秦が帝国になってから 西方に広まったのではなく、もっと BC4、3世紀のうちに  西方に広まっていたのではないかと思うのです。漢代に大宛では 中国人のことを秦人と称していたことも 傍証となるように思えます (『史記』巻一百二十三 大宛列傳 第六十三)。

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