アッバー ス朝へのササン朝の影響説を検討する



 東洋専制君主制と、西洋民主制は、よく対比される概念です。これら制度の細かい比較は別の機会に置いておくとして、わ かりやすい面の比較点を上げるとすると、例えば、君主と臣下が、親しく、気安く会えるかどうか、という点があるかと思います。ローマ帝国では、ディオクレ ティアヌス以降を後期ローマ帝国とし、その支配体制を、歴史学ではドミナトゥス制と定期しています。ディオクレティアヌスは、東洋的な制度を導入し、その ことが明示的に周囲のものに伝わったのは、彼が臣下より高い位置の玉座に腰掛け、臣下と距離を置いたことにありました。
 マホメットからはじまったイスラム帝国では、ウマイヤ朝カリフ時代(661-750年)までは、君主たるカリフと臣下の間は、気安く接することができる 関係にあったようです。つまり、この頃までは、イスラム帝国(カリフ国)は、西洋的であったと見ることができます。
 これに対して、臣下と玉座の間が10メートルもあり、しかもその間には幕があり、直接臣下が、王の姿を見ることができないような関係が、東洋的専制君主 制に一般的なありかたであり、古代の日本でも同じでした。こうした制度を導入したのが、アッバース朝でした。アッバース朝がササン朝的東洋的専制君主制に シフトした理由としてよく上げられるのが以下の点です。

・ 首都が地中海に近い、旧ローマ領のダマスクスから、ササン朝の旧領であり、元ササ ン朝首都に近いバグダッドに移されたこと
・ アッバース朝がウマイヤ朝を倒すにあたって、イラン人を母体とした革命運動を行ったこと
・ 初期アッバース朝の宰相として、イラン人のバルマク家が権力を握っていたこと
・ 国家を運営する官僚には、ササン朝以来の官僚制を支えた、イラン人が多用されたこと。(ウマイヤ朝ではギリシャ人、シリア人が行政官として多くを占め ていた)

 これらの理由からアッバース朝は、ササン朝の再生などとまで言 われたこともあったようです。ピータ・ブラウンの「古代末期の世界」(翻訳刀水書房)は1970年頃の著作ですが、こうしたササン朝の影響を重視する視点 に立っています。しかし、最近では、アッバース朝 に対するササン朝の影響は、従来言われている程大きくなかった、流れになってきているようです。ディミトリ・グダス「ギリシャ思想とアラビア文化」(勁草書房)では、そうした最近の動向の一つを知ることができます。ここでは、ウマイヤ朝から初期 アッバース朝時代の政策を、次のように指摘しています。

・ ウマイヤ朝初期は、行政官としてギリシャ語を話せる役人に頼っていた。このためギ リシャ語を話すギリシャ・シリア人、アラム人、ギリアラブ人などが、官吏として活躍した。このため、次第にギリシャ語圏(旧ローマ領)の人々がウマイヤ朝 支配に溶け込んでいった。この頃のギリシャ語を話す人々は、キリスト教徒であり、古代ギリシャの知的活動を敵視する人々だった。また、ウマイヤ朝時代に行 われた翻訳運動は、支配層のアラブ人が、旧ローマ領にあるギリシャ語文献を、単純に読みたい、という、個人的な動機、あるいは行政上の必要性から、単発的 に行われたものに過ぎなかった。

・ これに対して、イランはまだまだ不安定だったので、アッバース朝初期はイラン色を強めて、イランの融合を図った。初期の頃は、ウマイヤ朝下でのギリ シャ語文献の翻訳と同様、パフレヴィー語文献が、個人的・あるいは行政上の必要性からアラブ語に翻訳されていた。また、パフレヴイー語の文学・歴史資料を アラビア語に翻訳する傾向も見られるようになってきた。しかし、これらの翻訳とは別に、明確な政治的目標による翻訳が行われ始めた。それはアッバース朝に よるものと、アッバース朝に敵対するイラン人との双方で行われた。アッバース朝が行った政策的翻訳は、具体的には占星術に関するものだが、その理由として は次の2つが挙げられる。

 1.イラン人の日常生活にとって重要な要素を占める占星術関連の書をアラビア語に翻 訳し、イラン人をアッバース朝に取り込むことを目的としていた。イラン人は、アッバース革命の原動力となったが、イラン以外の領土を多く含むアッバース朝 としては、アッバース朝の側にイランを取り込む必要があったのである。もし、反対に、アッバース朝がイラン人に取り込まれていたとしたら、アッバース朝 は、イランとそれ以外の地域の分裂していたと思われる。マンスール(755-775年)は、そうした分裂を避けるために、占星術書物の翻訳政策を開始した わけである。

 2.アッバース朝の支配は、占星術的必然であり、アッバース朝はササン朝の正当な後継者であることを、占星術的に証明し、敵対勢力を無力化することを目 的とした。

 これに対して、イラン人が政治的に行った翻訳とは、ゾロアスター教関連書籍の、パフレヴィー語から、アラビア語への翻訳である。アラビア語がイラン人の 間に普及してきたこともあり、過去のイラン文献をアラビア語に翻訳する必要が出てきたわけである。この翻訳活動の中心地はメルブであるとされている。彼ら は実際に軍事的な叛乱も行っている。彼らを取り込むために、マンスールは、ササン朝の帝国イデオロギーをも取り込むことを 考えた。それは、ホスロー1世の時代に行われた翻訳運動と同じ種類のも、つまり、ホスロー治下に、「ササン朝は世界帝国であり、全ての書物を含むべきであ る」 というイデオロギーと同様に、「アッバース朝は世界を統治する。よって全ての書物の集まったイランの書物をアラビア語に翻訳する」 というものだった。こ のイデオロギーが、アッバース朝をして、ますます翻訳運動に傾注させることになってゆく。

・ マンスールの治世下で、翻訳作業が起動に乗り始めると、純粋なイラン人が作成したパフレヴィー語の占星術の翻訳はネタがつきてしまい、今度はギリシャ 語からパフレヴィー語に翻訳された占星術の本が翻訳された。占星術書が終わったあとは、その他のパフレヴィー語文献が、アラビア語に翻訳された。この翻訳 は国立図書館である「知恵の館」で行われたと考えられている。また余談になるが、バグダッドが円形であった理由は、パルティア以来の伝統的な都市建設に 戻ったわけではなく、ユークリッドと占星術の賜物だった。


 このように、マンスール時代までは、
イラン的要素の増大が顕著に見られ、ここまでの範囲では、従来の主張であるアッバース朝に 対するササン朝の影響を重視する見解と軌を一にしているといえます。ところが、次のマフディー(775-786年)の時代になると、ギリシャ語の論理学に 関する文献などが翻訳され始めることになります。何故でしょうか。ディミトリ・グダスは、この背景として次のように論じています。

・ アッバース朝の究極の目標は、全領土の統合と保全である。このため、ウマイヤ朝時 代のアラブ至上主義は捨て去り、全民族に対する平等主義を打ち出した。イラン的要素を取り入れたのは、あくまでイラン人をアッバース帝国に取り込むためで ある。
・ しかし一度色々な民族を取り込むと、内部派閥抗争(イスラムではそれが、宗派という形をとって現れてくるが)が発生する。軍事的な分裂を避けつつ、宗 派争いを収めるには、弁論術と論理学が必要となる。このようなことから、マフディー時代は、論理学に関するギリシャ語著作の翻訳が行われた。また、帝国内 の異教徒にもアラビア語が浸透した結果、異教簡宗教論争も発生し始めていた。

 宗教論争の行き着く先は、宇宙論や天文学の世界にも深く関わってきます。そこで、論理学に続いて、宇宙論や、天文学に関する書物が翻訳されることになりました。 ハールーン・アル・ラーシドの時代には、プトレマイオスの「アルマゲドン」やアリストテレスの「自然学」などが翻訳されることになりました。

 マームーン(813-833年)は、当初メルブ総督であり、ササン朝イデオロギーの中心地で、イラン人の支援を受けていました。このことも、アッバース 朝がササン朝色をもち続けた証拠であるように考えることができます。しかし、実際には、マームーンがバグダッドに帰還した時点をもって、彼は特別にイラン 人の支援を必要とはしなくなっていたようです。アリー・アル・リダー(シーア派=イラン派の棟梁)を、一時後継者としながら、結局暗殺してしまったことか らも、この傍証と言えるのではないでしょうか。既に帝国運営にとっては、イラン人は「内部」に取り込まれており、イラン人だけを相手にしていては、地方総 督以上にはなれない、ということから、彼はバグダッドへ帰還することにしたと考えられるのです。マームーン時代の政策は次のようなものであるとディミトリ・グダスは指摘しています。

・ 「神の代理人」という称号を利用しはじめた。これは、ササン朝ではなかった称号で ある(首都を「神の居場所」と呼ぶことはあった)。
・ 「異端審問」を開始した。このことは、教義の中央集権化を意味し、「イスラム帝国」の統合を目指したものであった。
・ 彼の政策は、アルダシールのアンダルズに 影響を受けており、ササン朝のアルダシールが感じていた、宗教の分散が、ゆくうくは政治の分散に結びつくという考えをもっていた。つまり、ゾロアスター教 とササン朝の宗教政策を、イスラム教とアッバース朝の関係に焼きなおしたのである。
・ 宗教的統合の一環として、ビザンツとの戦争を開始した。「ビザンツ人は堕落している。古代ギリシャ人の叡智と著作の保護者は、アッバース朝である」と いう理屈である。こうして、キリスト教によって追放された、古代ギリシャの著作が、「政策的」な意図をもって、アッバース朝下で全面的な翻訳が進むことと なった。

 以上ディミトリ・グダスに したがって、初期アッバース朝の政策を見てきましたが、アッバース朝の政策が以上のような経緯をたどってきたのだとすると、アッバース朝におけるササン朝 の影響とは、アッバース朝帝国支配のイデオロギーとして利用されたわけであり、もちろんササン朝は大きな影響を及ぼしているものの、アッバース朝はササン 朝そのものを目指したわけではない、ということがわかります。目的としていたことは世界帝国にまで拡大した帝国を統合し維持するために、たまたまササン朝 の政策を踏襲することになった、ということになるからです。
 
 そうして、アッバース朝の統合が、このような為政者達の恣意的な政策に依存する部分が大きく、中国のような、「たとえ分裂しても、最終的には統合される べき一つの帝国」とまでにはならなかったことが、その後のイスラム世界の分裂の大きな理由なのではないでしょうか。そう考えると、イスラム帝国が統合され ていたのは、分裂が常態だったウマイヤ朝の後、初期アッバース朝の100年程度ということになります。アッバース朝によって統合されたイスラム世界帝国 は、カリフ達が全知を尽くして構築したかりそめの楼閣であったようにも思えるのです。


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