2002年 created
2019/Jun/09 updated

サー サーン朝における歴史の改竄



 
  ササン朝における歴史の改竄は以下のように行われた。

1.アルダシールによるパルティア史の切断
 
 建国期、歴史はゾロアスター没後1000年で終わ る、 という伝説があったらしい。 そうしてゾロアスターの没年は紀元前560年と考えられていたから このササン朝建国時点で既 に786年経ってしまってい る。するとササン朝の余命は214年程度しかなくなることになってしまう。 これでは困るということで、パルティアの歴史を 200年削って ササン朝はあ と414年続くとした。 ところが驚いたことに 実際にササン朝は 建国後 416年目の642年にネハー ヴァンドでアラブ人に敗北し、実 質的に滅亡した。 この改竄を見破ったのはアラブ人の歴史家マスゥーディーである。

2.偽系図

 元々アルサケス朝も偽系図を作っていた。 アルサケス 朝は ア ケメネス朝のアルタクセルクセスの子孫だと称した。アルサケス朝は東北イランを本拠としていたので、南西イラン のアケメネス朝との結びつきを証明 することでイラン全土の支配権を主張しようとしたわけである。 ササン朝も同じことを行った。 ササン朝は南西の出身なので  北東イランの支配権を主張し たい。そこで前王朝のアルサケスではなく、伝説の王朝 カウィ王朝に求めた。ダレイオスの父親であるウィシュタスパはバクト リアの総督であったとの説があ り、このウィシュタスパとカウィ王朝のウィシュタスパが混同していたため、アケメネス朝との血縁関係を引く系図を偽作したこ とで ササン朝がカウィ王朝に 連なる正統王朝となりった。これに対して アルサケス朝時代とは イランの合法的王朝では無いと見なされるに至った。 ササ ン朝の宣伝もあって アルサケ ス朝は 異邦人の侵略者と見なされ、その後のアルサケス時代の評価に決定的な影響を与えることになってしまった。 ササン朝 に偽系図は少なくとも4世紀に は存在していた。

3.「王書」

 古代イランでは王の年代記である「王書」は フィルダ ウシーに よるものではなく、古来から代々書き継がれていたようである。ギリシャ人医者でアケメネス朝の宮廷に滞在した クテシアスは  「バシリカイ・ディプ テライ」と呼ばれる王の年代記について言及している。  また4世紀には「フワダーイ・ナーマグ(王書)」という ササン朝の散文年代記 が作成されたが、この王書が後世の古代イラン歴史観を決定する内容を持っていた。
 「フワダーイ・ナーマグ」によれば

最初の王朝は ピシュダティー朝 で神代に属する。
2番目の王朝は カウィ王朝 で アケメネス朝はこのカ ウィ王朝に吸収 されてしまっている。カウィ王朝はアレクサンダーの侵入によって終わり、その後小君主の乱立期があり(これらの小君主にはア ルサケス朝の名を持つものもい た)、最後にシーラーズとイスファハーン王アルタバーン大王がパーパクをイスタフルの総督に任命した結果、サ サン朝の歴史へと展開してゆく のである。
 

4.史観の定着

 これらの改竄はぺーローズ(459-84)の時代に強 く宣伝さ れはじめた。理由はエフタル進入による国難の時代を迎え、イラン東北部の住民の支持を取り付ける為である。ペーローズは王に なる前、シースタンの総督で あったため、特に東方領土の防衛の切実さを体感していた。ペーローズ以後 王家は カウィ王朝の王名を名乗るようになる。カ ワード、ザマースパ、ホス ロー。。。。 
 しかし直ぐにこの歴史認識がイラン人の間に定着したわけ ではないらし い。ササン朝末期に至っても、アルサケス家の後裔を誇り、ササン家に対抗する名門家系が存在していたとのことである。
 少なくともゾロアスター教がまだイラン人の主たる宗教で あった8世紀 くらいまでは、古来の歴史認識が続いていたかも知れない。決定的になったのは、イラン人の間でイスラム教がゾロアスター教を 上回り、日常における利用文字 としてアラビア語が主流を占め、アラビア語文献から古代の歴史を学ぶことになった時だとされている。

  957年、ホラサーンのイラン人貴族が「フワダーイ・ナーマグ」 をパ フラヴィー語からアラビア文字へ転記する事業を行った。このテキストがフィルダウシー「王書」の底本となり フィルダウシー 「王書」が書かれた。
 フィルダウシーの「王書」は 最早イスラム化し、アラブ 文字しか読め ず、パフレヴィー文字が読めなくなっていた大方のイラン人に 過去の偉大な歴史をアピールし、民族意識の高揚に多大な寄与を なした反面、 アルサケス朝の 存在は矮小化され、あまつさえアルサケス時代にはゾロアスター教は行われておらず、ただファールス地方のみで 細々と維持されていた、という  ササン朝の正統観が 固定化し広く行き渡ることになった。
 これはひょっとしたら現代イラン人も 特に歴史に興味の 無い人だと  このようなイメージをもっているのではないだろうか と思えてしまうのである。 


2019/Jun /09追記

矢野道雄『占星術の文化交流史』(2004年)に よれば、1000年間という期間は、バビロニア時代からヘレニズム期のギリシア文化との混交を経てササン朝に伝わった占星術 によるものとのこと。イブン・ハルドゥーン『歴史序説』三章52節(邦訳岩波文庫第二巻)には、この手の王朝 の寿命を計算する事例が多数登場していて、ハルドゥウーンの著述にはササン朝やパルティアは含まれてはいないものの、パルティアの 治世を短縮した思考回路を見て取ることができて有用です。


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