早すぎた帝国、パルミュラ
シリアにある隊商国家パルミュラやハトラ、ペトラなどの住民の多くは、アラブ系だったのだそうです。もっとも、アラブ系住民の度合いは異なっていて、両
年の墓碑名のアラブ名の割合を見る限り、パルミュラよりハトラの方が、アラブ人住民の割合は強いそうです。また、ハトラでは、セレウコス暦463年(西暦
153年)にアラム語で書かれた窃盗罪に対する懲罰に関する碑文に、「ハトラ人とアラブ人とハトラに住む全ての者」というような言い回しが使われていると
のことです。また、ユーフラテス川の南に、ササン朝に隣接するアラブ人国家ラハム王国があり、その西には、東ローマ帝国に隣接するアラブ人国家、ガッサー
ン国がありました。両方とも一時期キリスト教に改宗したりしています。また、アラビア半島の南、現在のイエメンには、ヒムヤル王国という国があり、ユダヤ
教を採用していたそうです。アラビア半島全体を統一する勢力は、イスラムの登場まで登場しませんでしたが、アラブ人国家は誕生しており、しかも、シリアや
北部イラクに進出していたことがわかります。つまり、イスラムの登場以前に、アラブ人は、既にシリア、イラクに浸透しており、イスラム進出の下地は十分に
整っていた、と考えることはできないでしょうか。
ヒムヤル王国は、523年にキリスト教徒の虐殺を行い、このため、東ローマがアクスム王国に命じて、525年、ヒムヤル王国を滅ぼす事件が起っていま
す。これにたいして、575年には、今度はササン朝ペルシャが軍隊を派遣し、アビシニアの総督を追放し、イエメンを領有しました。
それより遡ること数百年前、ローマは既にイエメンにある都市に軍隊を駐屯させ、エリュトラ海を通じたインドとの貿易ルートを保持しようとしていましたし、
ササン朝のアルダクシールやシャープール2世はアラビア半島(のペルシャ湾側)に遠征を行っていました。前述のガッサーン王国は、ローマの属国であり、ラ
ハム王国(ヒーラ王国ともいう。ヒーラが都だったから。ラハムは王朝名)はササン朝の属国でした。このように、アラビア半島は、直接ローマとペルシャに支
配されたわけではありませんでしたが、半島全体が、実はローマとペルシャの強い影響下に置かれていたのでした。
もし、パルミュラが、単に有力で野心的な隊商国家としてだけではなく、アラブ民族主義を掲げ、アラブを統合することができていたら、どうなっていたで
しょうか。ひょっとしたら、アラビア半島、シリア、イラクを征服し、ローマ、ペルシャに対抗する大帝国を築くことができたかもしれません。しかし、機はま
だ熟していなかったのか、あるいはパルミュラにそこまでの力がなかったのか、ローマ、ペルシャの2大大国が強力すぎたのか、パルミュラはあえなく滅びてし
まいました。
シリアよ、さらば
636年、ヤルムーク河畔の戦いで、ローマ軍は、イスラム軍に大敗します。アンティオキアにいた、ヘラクレイオス帝は、退却します。小アジアのタウルス
山脈を越えるときに、彼が口にした有名な言葉が、「シリアよ、さらば」。
ところで、この20年程前にも、ローマ帝国は、ササン朝ペルシャの侵攻にあい、エジプト、シリア、小アジアを失い、コンスタンティノープルの対岸のカル
ケドンにまで侵攻されます。この時は、永久にシリアを失う、というような発言はしていません。それなのに、何故、このときは、「シリアよさらば」などと
言ったのでしょうか?
ひょっとしたら、彼は、「シリアがアラブに侵攻されたら終わり」という認識をもっていたのではないでしょうか。そこがアラブの土地だとの意識が
あったから、「アラブ人の土地が、アラブ人の支配下に入る」という意識があったから、「シリアよ、さらば」との発言をしたのではないでしょうか。ササン朝
の侵攻については、もともとササン朝の土地でも、ローマの土地でもないところを、取り合いをしていただけなので、一度占領されても、再び戻ってくる、とい
う認識があったのかもしれませんが、アラブ人が侵攻してきたとなると、永久にそこが失われるのだと、深く認識できていたのではないでしょうか。
もう一つ、思うことには、ササン朝時代の都市には、あまり商業の香りを感じない、という点があります。これはアッバース朝時代と比べて、特にそうした感
覚があります。隊商の担い手は、既にササン朝の時代、イラン人ではなく、アラブ人が「隊商都市」を作って、主な担い手となっていたのではないでしょうか。
イスラムの都市文化は、ササン朝やローマから受けついだのではなく、もともと、シリアやイラクの隊商都市をになっていた、アラブの伝統だったのではないで
しょうか?
イスラム以前、アラビア系住民は、ハトラ、パルミュラ、ペトラ、など、シリアやイラク地方に既に進出していた。イスラム以前に、ローマ、ペルシャ、アラ
ブの、もともと3大勢力になりつつあった。パルミュラは早すぎた。早すぎた帝国、パルミュラ。そうして、パルミュラが滅んで約300年後に誕生したムハン
マドによって、アラブ勢力は、壮大な開花を見せた、ということなのではないでしょうか。
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