サ サン朝の人物画



 
梁 職貢 図

Liang Chih-kung-t‘u


 550年頃の中国南朝梁で描かれたとされる、梁職貢図を、宋代に複写した図が、北京の国立博物館に残されています。 ウィキペディアに解説と 図が掲載されています。解説によると、 この種の一連の図は、9世紀以降に木版に複写され、アルバムに加えられて、官僚に配布されたとのことです。最初に図が書かれたの は、南朝梁の元帝 (Yuan)(
蕭繹 xiāo yì)の時代 (552-555)とされていて、11世紀に複製されたとのこと。当初は、25名が記載されていたが、宋代のうちに、以下の12 名以外の部分は失われたと のことです。1752年に清のXie Suiによって職貢図( Portraits of Periodical Offering)と して編集され、イングランド にももたらされまし た。以下の図は、ウィキペディアに掲載されている図を引用しました。


ウィ キペディア掲載のフルサイズ画像はこちらを参照してください

 ササン朝(波斯国)の使者の図と本分は以下の(右から2人目)です。文字の判別が困難な個所は□とし、近いと推定される文字に ついては[ ]で囲みました。

波斯国使

波斯[遣]波斯□王□後也王子[?]□之子孫以王□□為氏[因]為□□
□通安西域諸国志□□越西南海中安息国□□越南波羅
□国波羅□国□有波羅□□城周囲三十二里高□□□築土□
城門皆有楼観城内屋宇□□開城□有寺□百西□童[有土山]
湧泉下流向南山中有□□□□□持時下[地]南□西去土人□之有□□
雲花出龍駒馬別有□[鹹]泌主珊瑚馬蹄□□真珠□□等□土人不基
[珠]交易用□銀□壇以金帛□□牛馬等以四[疋]馬為□□□□□皿
[迎]婦□□把□何度当方五千□□西万里□婆羅門国南万里□
□婆羅門国北万里□況□□□□□□□□□□[馬]□□表[献]□牙


 ササン朝(波斯国)の使者の画像部分の みを拡大したものが以下の図です。カラフルな赤い長衣、腰に巻いた帯(ゾロアスター教徒の腰帯であるクスティだと思われる)があ り、一応ササン朝時代のイ ラン人の風俗と考えていいように思えます。



 


クサイ ル・アムラの6皇帝図

 
 710年代、ウマイヤ朝ワリード1世時代 (674-715/在705 -715)頃に建設されたとされる、現代名、クサイル・アムラ(クサイル小城)遺構に、ササン朝皇帝を描いたとされる壁 画が残されています。現ヨルダンの 首都アンマンの東80Km程の地点にあり、観光資源の一つとされているようです。このクサイル・アムラは、規模は大きく なく、100m四方に収まる程度の 規模です。イスラム建築写真集に、平面プランとともに掲載されていることがあります(TASCHEN の「イスラ ム」など)。内部は、公衆浴場や謁見室からなり、カリフの離宮といった趣で、壁画に溢れていま す。このクサ イル・アムラの研究所が、カリフォルニ ア大学出版から、出版されています。タイトルは、Qusayr ‘Amra」で、リンク先の書籍紹介のサイトには、カラー画像が多く掲載さ れていますが、肝心の書籍 は、表紙以外には、カラー画像が掲載されておらず、本文内にも写真が少ないなど、画像を期待した購入者にとっては、少し がっかりする内容となっています。 様々な壁画が描かれていますが、この中に、6皇帝図と呼ばれる図があります。

Court art of Sogdian Samarqand in the 7th century AD

という、サマルカンドのソグド壁画を扱ったサイトです が、なぜか、「Symbolism of the four cardinal points (page II)」と いうページに、クサイル・アムラの6皇帝図を扱ったページがあります。以下の画像はそこからの引用です(簡単な解説が、 前嶋信次「イスラム世界」(河出書 房新社)P176-180にもあります)。


Above: Mural from Qusayr 'Amra (copy); the scene in question covers the left half. [ Image after Strzygowski, J.: Asiens bildende Kunst in Stichproben, ihr Wesen und ihre Entwicklung - Augsburg 1930, ill. 580 ].

中央の人物には、「キスラ」と記載されてい て、ササン朝最後の皇帝ヤズ ダギルド3世と仮定されています。左端の人物が「カイサル」、左から2番目はロドリーコス(711年にウマイヤ 朝によって滅ぼされた西ゴート王)、左から 四番目の王は、ナジャーシー(アビシニア王の王号ネグス)と記載されています。5番目と6番目の人物について は、中国皇帝と突厥王との推測がなされていま す。711年に滅ぼされた西ゴート王が描かれていることから、711〜715年の間に、この壁画は記載された可 能が強いとされています。以下の左側の画像 は、ササン朝皇帝の画像部分を拡大した部分。右側は、書籍Qusayr ‘Amra」のサイトに掲載されている画像です。両者を比べれてみ ると、随分異なっています。近年剥落 が激しいとのことですが、それにしても少し違いすぎるような気もします。



Qusayr 'Amra: Art and the Umayyad Elite,
published by the University of California Press in 2004.(c)

 
ソグド の法廷図

 

 サマルカンドにある、7世紀〜8世紀のソグド諸国が 独立勢力として、 イスラム、突厥、唐といった勢力の間で独立的な位置を占めていた時代の遺構に、ソグドの法廷図という、648年頃に描か れたとされる壁画があります。数m 四方の部屋の各側面に壁画が描かれており、

Court art of Sogdian Samarqand in the 7th century AD

というサイトに、非常に詳しい解説が記載されていま す。この壁画は、ソ 連のアルバウムという学者によって全体が複写されており、複写図は、オリジナルの壁画よりも、鮮やかな色彩で描かれてい ます。そのうちの、ペルシア装束の 使節(イラン人かどうかは不明)の部分を以下に引用します。イランの紋章というべき、怪鳥シームルグがやグリフォンが描 かれており、ササン朝末期の上流層 の装束とほぼ同じであると推測されています。


Markus Mode © 2002


その他

こちらのサイトこ こに、以下の唐代の壁画に描かれたペルシア人と思われる画を見つけました。
具体的にどの場所なのかがわからないのが残念です。


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