ここでは、イランの伝統的な地理認識に ついて記 載してみたいと思います。記載内容は、「エーラー ン・シャフルの州都のカタログ」(Touraj daryaee 2002)の緒言を参考にしています。
3世紀後半の宗教指導者であり、政府高官でもあったキ ルディー ルの碑文には、イランの領域として、ペルシス、パルティア、バビロニア、メセネ(イラク河口部)、アディアバネ(南アゼルバ イジャン地方)、アトロパテネ(南アゼルバイジャン地方)、イスファハーン、レイ(カスピ海東南)、ケルマーン、サガス ターン、グルガーン(カスピ東南)となっていて、主に現イランとイラク、パキスタンの一部となっています。アフガニスタンや トゥルクメニスタンなどの東方 が含まれていないことが特徴です。これにたしいて、シャープール一世など王の碑文では、イラン以外の地も言及されている点が 特徴となっています。アケメネ ス朝ダリウス1世のベヒストゥーン碑文と、シャープール一世の碑文を比較すると下記の通りです。
ダリウス
ペルシア、エラム、バビロニア、アッシリア、アラビ ア、エジプ ト、サルディス、イオニア、メディア、アルメニア、カッパドキア、パルティア、ドランギアナ、スキティア、サタギディ ア、アラコシア、マカ
シャープール
アディ アバネ(現イラク北部)、イベリア(グルジア)、ペ ルシス、パルタ ヴァ(パルティア)、スシアナ、メセネ(クウェート付近)、アスーレスターン(アッシリアの意味。メソポタミア地方)、アラ ビア、バラーサガーン(カスピ海西岸)、アルメニア、セガン(マケロニア)、アラン(現アゼルバイジャン)、アトゥ ルパータ カーン (アトロパテネ:現 イランのアゼルバイジャン地方)、カープ(コーカサス の 山々)、メルブ、アルバニアの門、パレシャフバール(エルブルス山脈)、メディア、グルガーン、ヘラート、アバル シャヒル(ホ ラサーン地方・ニシャプール周辺)、 カルマニア(ケルマーン)、サカスターン(シースターン)、ツグラーン(トゥーラーン)、マクラーン、パルダーン(現アフガ ニスタン東南カンダハール周辺)、ヒンド、ク シャンシャヒル、パシュカブール(現ペシャワール)、カシュ(カシュガル)、 スグド(ソグド)、チャーチの 山々(タシュケントだと思われる)、ウマーン (オマーン) 「エーラーン・シャフルの州都のカタログ」は、8世紀頃 に、中世 ペルシア語で書かれた短文のテキストです。恐らく、7世紀初頭、ホスロー2世時代の最大領域を反映していると思われます。イ エメンは575年にペルシアに 侵攻され、知事が置かれました。オマーンも領有されていました。メッカとメディナも、カワード1世の時代には、マズダク信仰 の強制に対する反発に、軍隊を 派遣して、カーバ神殿を破壊するなど、ペルシアの影響下にありました。北アフリカに相当する、イスラム時代にマグリブ地方と 呼ばれた地方は、「エー ラーン・シャフルの州都のカタログ」にはフリーガー(Friga)として登場していますが、これもホスロー2世時代のエジプ ト支配 時代の反映だと推測されます。この州都のカタログに反映するエーラーンの領域は、ひいてはフィルダウシーの「シャーナーメ」 の領域意識(アムダリアからミ スル(ナイル)まで)へと引き継がれていると考えられます。
なお、イランには伝統的な7つの世界という概念(7キシュワー ル/Kishwār*)が ありますが、時 代、著作によって異なっています。各々の比較は下記の通り。
vesta/州都のカタログ
Xwanirah
Arzah(東)
Fradadafs(南東)
Worujarst(北東)
Wodubarst(北西)
Sawah(西)
Widadafs(南西)
クサイルアムラの6皇帝図
ペルシア皇帝
中国皇帝(推)
突厥王(推)
ビザンツ
西ゴート王
エチオピア王
フィルダウシー イラン本国 中国 インド トルコ マーザンダラーン Xawarian
(西方の人々)エジプト ヴィースとラーミーン
イラン
シナ、マーチーン
インド
トルキスタン
スラブとギリシア
エジプト・シリア
アラビアとエチオピア
ハフトパイカル(7王妃物語) ペルシア王妃 中国王妃 インド王妃 ホラズム王妃 ルーム(ビザンツ)王妃 スラブ王妃 マグリブ王妃 ここからわかることは、もともとイラン本国内の概念で あった、7 つの領域が、フィルダウシーの時代には、イラン外の地域へと拡大している、ということです。これはつまり、イラン世界で一つ の完成された世界だったサー サーン朝までの時代と異なり、イスラーム期以降は、中国やインドなども含めた世界が、「世界」であるとの認識に拡大していっ たことを示していると考えるこ とができるかもしれません。
なお、地理書は、「エーラーン・シャフルの州都のカタログ」以外には「諸都市の記憶 (Ayadgar i Sahriha)が、カワード1世の為に記載されたと推測され、Abdih ud Sahigih i Sistan(シースターンの富と驚異)などの中 世ペルシア語のテキストが存在していた模様です。
ところで、7つの世界という地理認識とは別に、イランの 伝統的地 理概念は、西と東という軸でも認識されているようです。西とは、現在のイラク、ペルシス地方。東とは現在のアフガニスターン からパキスタン南部の辺りで す。世界はまず、この東西で認識され、更に、それぞれ南北に分かれていました。南西部とは、イラクとペルシス。北西部とは、 現在のイランのアゼルバイジャ ン地方からコーカサス、北東部とは、ホラサーン地方から、中央アジア、南東部とは、シースターンからインド方面です。この区 分のもとに、それぞれに地に移 動してきた民族の層が重なって、地理的概念も、絶えず変化していたものと思われます。
古くは、メディア人やパルティア人が北東部から、カスピ の東を移 動して北西部に移動し、ペルシア人が、カスピの西から南西部へ移動していて、東西南北区分では、北東と北西ですが、東西区分 では、「東」に位置づけされま す。この民族・言語構成も、イランの東西意識の深層に大きく影響していると考えられます。ゾロアスター教は、その経典記載の 自然環境や言語分析から、北西 アゼルバイジャンか、または南東部シースターンに関係付けられていおり、東西区分では「東」の存在です。ペルシアに大きな影 響を与えたバビロニアやエラム は「西」の存在です。神話の世界において、イラン国と対立し、抗争を続けたトゥーラーンは、東、または北東の存在となりま す。
ホスロー1世時代に、帝国4分割が行われたとされていま す。北 西、北東、南西、南東の4つの地域です。この4分割は、それぞれ軍事司令官が任命され、その元で働く兵士に至急された給料 は、それぞれの地域で生産されて いたことが、出土貨幣の状況から推測されるそうです。この貨幣は、カワード時代のものがあることから、帝国4分割は、カワー ドの時代末期520-528年 頃開始され、ホスロー1世の時代制度化されたものと推測されています。「エーラーン・シャフルの州都のカタログ」では、この ホスロー時代の4分割の枠組に 基づいて、各地を分類して記載しています。この4分割は、上記地理概念が下敷きにあるのではなく、それぞれの方面での軍事的 脅威に対処する為の分割だった ようです。北西方面は対ローマ、南西方面は、対アラブ、北東方面はエフタルと突厥、南東方面は、グプタ朝とエフタルに対応す るものであったと考えられま す。
このように見てきますと、イランの地理認識は、もともと 南西 (西)と北東(東)という2分化された、ゾロアスター教二元論にも関係する世界観から出発し、やがて4方面から7方面へと、 外の世界を包含しつつ拡大して いったということになるのではないかと思います。
*古代イランを七人の大 帝王の支配する七つの王国にわけるという地理思想は、7キシュワール(Kishwār)と呼ぶとのこと。簡単な解説がイブン・バットゥータ『大旅行記<4>(平凡社、家島彦一訳注)』 p106の註100に記載されている。