BACK「Heartland of Cities: Surveys of Ancient Settlement and Land Use on the Central Floodplain of the Euphrates」 という、 Robet.McCormick.Adams(1926〜)によって、 1981年に著された著作があります。これは、南部イラクの考古学遺跡と出土物を詳細に分析し、シュメール時代から、イル汗国時代の イスラム期までの居住 状況を分析した論述です。もともと1957年に シュメールとアッカドとバビロニアの調査を行った時に、ついでに、それ以降の時代の分析を行ったもので、その結果、不足している部分 について、追加調査を 行いったもの、とのことなので、本書の主眼は、古代メソポタミアにあるのですが、パルティア・サーサーン朝時代の南部イラク地方の景 観ついて貴重な情報を もたらしてくれています。当該著 作の175から214ページが、セレウコス・パルティア、及びサーサーン朝の記述にあてられており、ここでは、その要旨を紹介してみ たいと思います。な お、本著作は、Amazonで中古が購入できます。
調査対象と方法論
調査対象は、イスラーム時代、サワード(黒い土地)と呼ばれた、イラク南部南部、メソポタミアの地であるため、この部分の調査結果 を、北部に適用するこ と が出来ない点、注意が必要です。調査方法は、1615あまりの、遺跡・遺物が出土しているサイトの分布や出土物の利用を中心に、米国 の衛生ランドサットか らの衛生画像の分析、航空写真の分析、堤防の痕跡、史書資料を併用して分析しています。対象の1600あまりのサイトのうち、449 のサイトで、この時代 の遺物が出土 しているようです。サイトナンバーがふられている1615あまりのサイトのうち449のみ調査対象としたのか、449のサイトだけ で、この時代の遺物が出 土しているのか、については、その記述を読んでいないので不明なのです。著書の最初の方に記載されているのかも知れま せん。1615という数字も、登場しているサイトナンバーの最後の数字が1615というだけなので、総数は、その前後に留まるのだろ う、と推測しているだ けなので、ひょっとしたら、もっと沢山あるのかも知れません。この辺りは、そのうち確認したいと思います。
対象範囲を地図で示すと、下記の部分、イラン高原から流れて、バグダッドとクテシフォン付近でティグリス河に流れ込むディヤラ川から 以南、クテジフォン以 南のティグリス・ユーフラテス河に挟まれた平原地帯を対象としています。
上図は、1994年版エンサイクロペディア・ブリタニカ の地図を利用しています。赤 丸はそれぞれ上から、クテジフォン、ジブリヤット、ジズルの3つの都市で、ジブリヤットとジズルは、サーサーン朝時代のメソポタ ミアにおける中心都市だっ たとのことです。バビロンなどは、セレウキアの建設後、次第に住民が移住してゆき、ヘレニズム時代以降急速に衰退していった、と いうことのようです。
サイトの分析は、出土遺物の種類から、ど の時代の遺構なのか、どの程 度の規模の集落だったのか、特殊な施設の有無(例えば製鉄所など)などを分析しています。ボウル状の器、瓶、水差し、洗面 器、取っ手、容器(古代のよくあ る、土瓶のような土器)、彩色された衣服、装飾品、陶器、石器、青銅器、更にそれらを部品レベル、用途レベルで分類し、どの サイトで、何が出土されている のか、の一覧表を作成して分析しています。出土された遺物を分析するとで、集落の規模の把握にも利用できる、ということのよ うです。
結論
先に結論を書いてしまいますと、パルティ ア・サーサーン朝時代のイラク南部は、主として、下記青丸の辺りに、都市や集落が集中し、繁栄していたようです。中心は2つあ り、ひとつは、ディヤラ河の 東南、もう一つはティグリス、ユーフラテスに囲まれた地域です。後者はジブリ ヤット、ジズルの、2 つの中心地があり、張り巡らされた運河(下図水色線)を利用した灌漑を利用した農業地が広がっていました。運河の線は、おおまか な構造線であり、実際に は、メインの運河が、この線にあたりに引かれ、更に無数の運河が、この運河と平行して、あるいはこの運河から分岐して、全体とし ては毛細血管 (20〜1000hr程度の区画を区切る感じで)のように格子状に張り巡らされていました。メソポタミア西南部は、湿地化が進 み、イスラム 期に入ると放棄され、イル汗国の時代は、下図赤丸の地域は、殆ど放棄されるに至ったと推測されます。時代が下るにつれて、メソポ タミアは、歴史上あまり触 れられる土地ではなくなりますが、そもそも地域自体が、放棄され、人があまり集まらない土地となっていったことが理由のようで す。 また、この地域は、シュメール時代は最も人口密度の高い中心地でしたが、ササン朝時代は、どこの中心都市からも離れた、周辺地域 だった、ということにも注 意を払う必要があります。
もっ とも有名な運河は、、今ShattAl- Nilと呼ばれていおりジブリヤット(Zibliyat)とジズル(Jidr)とニップール(Naippur)に供給されていたそう です。これと平行して 南の方に流れていた運河は、3世紀末ナルセスによって作られた可能性があるとのこと。赤丸枠の地帯は、具体的な場所としては、現在の Shatt Al-Hilla、 Hindiya支流にあるShinaFiya町のあたりからで、ササン朝末期から、居住が放棄されたようで、そ の原因が、ササン朝時 代の政治的混乱から、灌漑を維持できずに放棄されたのか、湿地化が進んで放棄されたのか、このあたりの理由については、明確に判明は していないようです。 更に、ティグリス河から引かれ、ディヤラ川を横切って南下している運河は、Katul al-Kisrawi-Nahrawan と言われ、ホスロー1世後、初期イスラムの間のどこかで作られたと推測されるが、はっき りしていないそうです。それ以外のディヤラ川から引かれた運河は、ホスロー1世前に成立していたようです。
詳細
時代別の0.1hrから、200hrのサイズの集落数は下記の通り。単純に、時代が下るにつれて、集落の数が増加していることがわか ります。人口も増大し ていると推測されます。下図は、ティグリス・ユーフラテス下流域の集落をサイズ別にまとめた表。サーサーン朝をピークとして、中期イ スラム時代には、中期 バビロニア時代よりも、 衰退していることがわかります。
*新 バビロニアとアケメネス朝は、区別できないサイトが多い。おおむね新バビロニアが、182サイト、アケメネス朝が221サイトと推定 しているとのこと (疑問なところや痕跡は抜く)。
時代
大都市 中都市 都市 集落 合計
200hr以上 40-200hr 10-40hr 10hr以下
中バビロニア 0 1 5 128 134 新バビロニア+ アケメネス 0 5 23 227 255 パルティア 2
4
49
360
415
ササン 1
11
68
517
597
初期イスラム 0
4
29
325
358
中期イスラム 0
0
5
69
74
広さの目安 200Hrは、 1km x 2Km 40hrは650m 四方 10hrは300m 四方 4hrは200m四 方
1hは、100m四方
0.1hrは30m四方
続いて、下図は、ディヤラ河流域の集落をサイズ別にまとめた表。パルティア・ササン朝時代に急速に開拓され、ティグリス・ユーフラテ ス河流域の半分の数の 集落が成立するにまで至っていることがわかります。
時代
大都市 中都市 都市 集落 合計
200hr以上 40-200hr 10-40hr 10hr以下
中バビロニア 0
0
0
34
34
新バビロニア+ アケメネス 0
0
0
81
81
パルティア 0
8
18
179
205
ササン 2
12
37
243
294
広さの目安
200Hr2は、 1km x 2Km 40hrは650m 四方 10hrは300m 四方 4hrは200m四 方
1hは、100m四方
0.1hrは30m四方
次は、集落面積の総合計と、都市が占める割合。図中の総面積が「100hr以上の都市の総面積が1100」という意味は、100hr 級の都市が、 10個分ある、ということを意味しています。
時代
テジグリス・ユーフラテス河下流(hr)
ディヤラ河下流(hr)
200hr以上の都市の総面積(hr) 100hr以上の都市の総面積(hr) 10hr以上の都市化率(ティグリス・ユーフラテス)
10hr以上の都市化率(ディヤラ) 後期初期王朝時代 1659 -
200
1100
90%
-
アッカド 1416 -
0
900 -
-
ウル第3 2725 602 400
1100
75%
35%
古バビロニア 1791 -
200
700 -
-
カッシート 1308 -
-
400
43%
-
中バビロニア 616
-
-
100
35.7%
-
新バビロニア+ アケメネス 1769
134
51%
7%
パルティア 3201
1857
55%
69%
ササン 3792(4389) 3489 230
360
58%
75%
なお、集落の平均規模は、 中期バビロニア時代で4.6hr、新バビロニア・アケメネス時代、平均6.88hr、パルティア時代7.71hrとなっていて、大都 市が増えたとともに、 個々の集落規模も拡大している可能性があることがわかります。
上記の表から主に次の事がわかります。
1.初期王朝時代が一番都市化率が高い。居住地は、ほぼ都市国家だけに限定されていたことがわかる。その後、ほぼ低下を続け、アケメ ネス朝からササン朝時 代までの1000年間は、50%強で安定している。灌漑農業が発達し、都市以外の農村が増えたことを意味すると思われる。
2.古バビロニア、カッシート朝、中期バビロニア時代に、メソポタミアは明らかに衰退している。カッシート時代の500年を暗黒時代 と呼ぶのも、故なしと しない。因みにこの時代は、繁栄の中心は、エジプト、ヒッタイト、アッシリアなどに移っている。
3.パルティア・サーサーン朝時代は、ウル第3王朝以来のメソポタミアの盛時だったことがわかる。更に、メソポタミアと同じくらい、 ディアラ川流域も繁栄 していた。ただし、都市化率はディヤラ川流域の方が高い。セレウコス・パルティア時代のティグリス・ユーフラテス流域は、中バビロニ アに比べ6都市が55 都市と9倍になり、集落の数で、全体で3倍、耕地面積で5倍となっている(しかも、この地域は、シュメール時代は中心地だったもの の、サーサーン朝時代 は、周辺地域に過ぎない、という点を理解する必要がある)。
更に、Adamsは下記分析を展開しています。
1.ギリシア人都市の規模は、アジアより大きいため、パルティア時代に大都市に分類される規模の大都市が急増しているのは、この為で ある。例えば、アケメ ネス朝時代は、28都市のうち6(21%)しか、パルティア時代に続いていないが、266の集落のうち90は、パルティア時代に続い ている(34%)。こ の理由は、ヘレニズム時代に新しい都市が建設された為、都市の継続率が低い数値になっている。
ところが、パルティア時代の都市がサーサーン朝時代にどの程度継続しているかというと、パルティア時代の都市は、55都市のうち20 都市(36%)しか、 ササン時代に続いていない。集落は、360のうち68しか続いていない(19%)。この理由は、中央集権化を進めるために、サーサー ン朝の王が直轄地を増 やすために、都市を多数建設したことが背景にある。封建諸侯の経済は間接的だった。アルダシールは、王の都市を作ることで、直轄経済 を握った。
2.ササン朝の発展は6世紀中までで、その後、この地域のイスラム期に至る落ち込みは、地域的な話で、他の地域は繁栄している。イス ラム期に入って、バス ラ、 クーファ、ワジットなど新都市へ人々は移住した可能性があるが、史料は、軍人や捕虜などにしか言及していない為、推測に留まる。
3.パルティアは、政策的に、南進し、南イラクを開拓した。その背景として、中国・インド交易ルート確保があり、ヴォロガセス時代以 降、南進政策が行われ たと思われる。この為、ウル第3王朝以来の南イラクの繁栄が戻ってきた。
4.運河は、ウル時代は、北から南へと平行して走っていた。これが、 アケメネス時代は、格子状に張り巡らされるようになった。更に、 パルティア時代運河は北にシフトした。バビロンの住民もセレウキアに移住し、メソポタミア最南部は段々放棄されていった。
更に、Adamsは、土地の生産力や、果樹園の規模と水の量、生息動物などの史料を引いて様々な分析を試みているものの、当時の風物 が分かる程度で、計量 的な情報はあまりでてきません。史料として、タルムードの分析にも及び、サーサーン朝時代にバビロニアに居住していたユダヤ人の生活 (Nahr Al Nars運河近く、ニップールの南あたりにいたらしい)に登場する、食物について言及し、当時どのようなものが入手可能だった か、という話が展開し ていますが、麦の種類など、あまり興味を引くものは多くありません。わずかに、調理と灯火用あぶらにはゴマ油がオリーブオイルより一 般的、とか、リネンが 重要な商業生産物で、麻布も広まっていた、という情報が目に付く程度です。 その他、実地調査の産物として、玄武岩のマイルストーン が街道沿いに置かれて いたとか、ウルク近くにガラス工場があり、溶鉱炉、ガラスの残滓などが発見されている、とか、炭素化したカルシウムの原料としてカタ ツムリが用いられた り、植物が炭素化ナトリウ ムの原料として用いられた、という記述が列挙されています。
サーサーン朝時代の集落の平均サイズ
*230hr の都市は、Jdir、100hrを越える年は2(180hr)つだけで、あとは80-50hr程度となっている。
サイズ
サイズ目安
サイト数
総面積(hr)
平均面積(hr)
200hr以上
1km x 2Km 1
200
200
40.1〜200hr
40hrは650m 四方 11
1100
100
20.1〜40hr
200hrは 450m四方 22
660
30
10.1〜20hr
10hrは300m 四方 46
690
15
4.1〜10hr
4hrは200m四 方 141
987
7
0.1〜4hr
1hは、100m四 方
0.1hrは30m四方
376
752
2
合計
597
4389
7.35
Adamsは、税収にも言及しています。後期 アラブの史料に、カワード時代、サワードの収入は、2億1400万ディルハムあったとのことです。これとムアーウィア時代の数値を用 いて、年々税収が増加 したと仮定して、ホスロー2世の18年は、サワードの税収は2億4千万、ホスロー末期には、3億4千万ディルハムと推測しています。 サーサーン朝時代には、Jalibという農産物の税収区画単位があり、 なつめやしの課税額は1hrあたり45ディルハムなので、これを用いて試算すると、400万Jalibとなるとのことである。する と、1Jalib= 1.33hrとなります(400万Jalib=2.4億ディルハム。1hr45ディルハムなので、2.4億ディルハムは、533万 hr相当(100km x 500km相当)。税収は、 1年に3回、都市や農村ごとに徴収されたとのことなので、533万hrの1/3の177万hrが実際の作付け面積だとすると、サワー ドの広さは、大体 100km x 177km となり、実際のサワードの面積に近い値となります。タバリーの記録によれば、18年目のホスロー2世の税収総額は、6億ディルハムな ので、サワードだけ で、1/3の収入があった計算になります。
Adamsは、最後にササン朝滅亡の原因にも言及しています。高度な中央集権は、地域自給率を下げ、政治的ぐらつきは、全体を一気に 崩壊させる可能性を 持った、という主張と展開しています。ホスロー1世による固定課税は、短期的にはともかく長期的にはマ イナス効果となった、的確に管理されている場合には問題ないが、騒乱や不作が続くと起こると、税負担が高まるから、という理由です。 イスラーム到来以前 に、サーサーン朝は衰退していたとしています。ササン朝の衰退は、技術の伴わない古代において、高度な集権化を行った場合に典型的に 視られるパターンある として、サーサーン朝滅亡の要因を列挙しています。
1.灌漑増は人口増をもたらし、家畜の食料不足をもたらし、人間の食料の留保も少なくなった。
2.周辺地区で生産性が落ちる。
3.灌漑施設のメンテナンスなどが、国家の管理構造に極度に依存するようになり、政治的混乱が、効果を下げる。
4.3,4世紀と6〜8世紀の伝染病、特に541-44 ユスティニアヌスのペストが20〜25%人口を減少させ、国の管理業務に打 撃を与えた。
古代における 高度な中央集 権が、管理技術の未熟さから、政治的混乱に至ると、水利施設を制御できなくなり、社会全体の崩壊に至る、という観点は、ウィット フォーゲルの水利社会論と 関係があるのでしょう。どちらが影響を与えたのかはわかりませんが。因みにウィットフォーゲルは、19世紀の人だと思っていた ら、1896〜1988年の 人で、20世紀の人だったのですね。
全体としては、Adamsの分析から、パルティア、サーサーン朝時代が、発展の時代であり、また、この地方は、細かく張り巡らさ れた灌漑農業が行われ、都 市国家中心のシュメール時代とは異なっていたこと、ディヤラ川流域が発展していたなど、この時代のイメージを描くことに役立つ情 報を多く得ることが出来る 著作となっていると思います。