トゥーランドットと古代ペルシア



 
  プッチーニの歌劇トゥーランドットと イラン歴史に登場するトゥーラーンとは関係があるのだろうか? 単に字面が似 ているだけなのだろうか?と思っていたら、やっぱり影響があったみたいですね。 そう思ってみればドットは娘という意味のドゥクトなのだと思い至りまし た。 だからトゥーランドットとはトゥーランの娘、の意味。 12世紀セルジューク時代のイラン人詩人ニザーミーの詩物語に「7王妃 物語(原題ハフト=パイカル(「7つの肖像画」の意)」(翻訳東洋文庫)という作品があります。これ 5世紀のササン朝の王者バフラーム5世の7 人の妃が 王に7つの物語を語る という枠物語ですが、この物語の一つで スラブ人王妃が語る物語に 王女が挑戦者の若い青年に難問を出し、それに答えら れれば結婚、答えられなければ死、というモチーフがあります。 日本でもかぐや姫にも一部登場しているモチーフですよね。 プッチーニの話は 昔見た時の 記憶では(調べればいいのですが)、 以下のような話だったように思います。

 明朝の皇女トゥーランドットは氷のような冷血な王女。 謎をか けては説けない青年を虐殺し続けている。 そこへ チムール朝治下から だったか チムールに敗北した国の 王子だったか 青年が訪れ、謎を説き めでた く結婚、というもの。 ただ不思議なのは、 ニザーミーの作品では王女はスラブの王女であり、 トゥーランドットという名前でもない。 ただ中国風の絵画 の名手とされている。 謎に挑戦する青年は特にどこの民族との記載はない。 これに対しプッチーニの歌劇は 中国の皇女がトゥーランドットという名前に なっていて 「(イランから見たトルコまたは中国)の娘」 という名前を持っている。 挑戦者の青年はイラン系トルコ系モンゴル系のどれかという感じであ り 明かにイランで作成されたように見せる物語となっている。 実際はどこの地域が この物語の起源なのでしょうね。

 最近トゥーランシャーという名前のスルタンが13世紀頃のイス ラム圏に何人か登場していることも知りました。 ルーム=セルジューク朝時代にイランの神話時代の王の名前を持つスルタンが登場していることが疑問でした が、この12、13世紀という時代は 10世紀頃のイラン神話のアラブ語への翻訳を受けて、イラン神話が広くイスラム世界に拡大した時代だったのではない でしょうか?

 謎かけ姫の物語については詳しくは 以下のURLをご覧くださ い。 2000年10月発行「日本独文学会中国四国支部ドイツ文学論集」第33号 謎王女物語 の系譜。 ここではより詳しく、ニザーミーの作品以外にも幾つかの作品を対象にな謎かけ姫物語の変遷を議論していて非常に参考になります。

*1 トゥーラーンドゥクトは、ボーラーンドゥクトがなまったものである、という意見をあるサイトで見つけました。これは、一応アラビア語 とペルシア語の音韻論をもとにしていて、アラビア語では、ペルシア語のブーラーンが、濁音が抜けて、トゥーラーンとなる、という可能性が根拠のようです。

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