2010/May/29 created
2018/Jan/13 updated
サー サーン朝の末裔



    
 
現在の話ではない、限りない小ネタです。

イラン世界では、シーア派の指導者、イマームの血筋、10世紀のサーマン朝、ブワイフ朝の血筋には、サーサーン朝の血統が入ってい る、という政治的神話が再生され続けたという話。

第3代シーア派イマームであり、初代アリーの子フサインが、サーサーン朝最後の王ヤズダギルド3世の娘ジャハーン・シャーと結婚し、 4代目イマーム、アリー・ザイヌルアービディーンを生んだという伝説があるそうです(「
シーア派イスラーム 神話と歴史」)。 9世紀頃にはこの伝説は既に成立してたと考えられている。なお、ジャハーン・シャーは結婚後、シャハル・バーヌー(または)シャフル バーヌーイェ)と改名 しているとのこと。この伝説の現存確認できる初出はタバリーだとのことで、9世紀。しかもシャハル・バーヌーが逃亡し、失踪(または 昇天)したとされる場 所はイランなので、イランにおける一番早いサーサーン朝の末裔伝説といえます。
(2018/Jan追記:シャフルバーヌーについては清水和裕氏の論説があることを知りました。
2008年9月:ヤ ズデギルドの娘たち--シャフルバーヌー傳承の形成と初期イスラーム世界 東洋史研究/京都大学)


2番目は、10世紀、マー・ワラー・アンナフルから東イラ ンにかけて成立したサーマン朝(874-999年)で、サーサーン朝から一時的に王座を奪取した、レイ地方(現テヘラン)アルサ ケス系ミフラン家のバフ ラーム・チュービーン(在590-591)の子孫と称した(正確にはサーサーン朝ではなく、アルサケス朝ということになるのかも 知れませんが。。。。)


3 番目は、同じく10世紀、バグダード含めた西イランを支配したブワイフ家の2代目アドゥドゥッダウラが、サーサーン朝バフラーム 5世の末裔という系図を持 ち出してきた、という話。出典がなかなか見つからず(出典について、頑固猫さんからコメントをいただきました。コメント欄をご参 照ください)、辛うじて
こちらに系図の話が言及されている文書がありました)。 もちろん当時の宮廷ではまじめに信じたわけではなく、日本の戦国時代の下克上武将の系図作成と同じようなものだったようです が。。。ブワイフ朝はシーア派 だったのですが、まだこの時代には、フセインとシャハル・バーヌーの伝説は広まってはいなかったと言えそうですね。。。



4番目のサファ ヴィー朝では、サファヴィー教団始祖サフィーは、シーア派七代目イマーム、ムーサー・カーズィムの後裔としているとのことで、こ こで、シーア派の伝説がイ ランを支配する王朝(サファヴィー朝は出自はトルコ系)に、サーサーン朝に直接関連付けられることになりました。。

 これらの例を見てき ますと、イラン人によるサーサーン朝の子孫という意識は根強く残り、再生産され続けているように思えます。イラン・イラク戦争 が、一面スンナ派とシーア派 というばかりではなく、イラン国民にとってはアラブ対イランという意識もあったように、現在でもイランのナショナリズムにはサー サーン朝の影があるように 思えます。



5番目 バーワンド朝(bāwand)とルーヤーン朝(Rūyān)

 カスピ南岸東のマーザーンダラーン地方のバーワンド朝。最後の王ファフル・アッダウラが1349年、チャラーブ一族のアフラー スィーヤーブにより殺害されて滅亡。
 カスピ南岸中央部のルーヤーン朝はバーワンド朝の宗主権を認めてきた地方王朝で、両王朝ともにサーサーン朝の後裔を称したとの こと。ルーヤーン朝の方は最低でもティムール時代には存続していたようです。
 出典:史学雑誌 1999年 108編9号「カスピ海沿岸の二つのサイイド政権の成立」後藤裕加子

 なお、
新唐書221巻下には、8世紀の話として、タバリスターンからの使者について言及されています。
 陀拔斯單または陀拔薩憚と表記され、都は婆里城(娑里の転写誤りで、サリー説があるとのこと)、サーサーン朝の東大将だったと のこと。745年忽魯汗が唐に入朝し、帰信王に封ぜられた、とあります。更に749年遺子の自会蘿が入朝したとあります。
(前 嶋信次氏の卒業論文「カスピ海南岸の諸国と唐との通交」では、怛満((ダイラム)、岐蘭(ギーラーン)、阿没(アーモル)、勃達 (バダシ)なども史書にあ るとのことですが、どの史書かは未確認。中国古典検索システムででも確認すれば見つかるかも知れないので、そのうちトライするか も)

 ところで、
「必携 アラビアン・ナイト -物語の迷宮へ」と いう書籍には、中世のアラビア語において、「バヌー・サーサーン(サーサーンの子等)」という言葉は、下層階級の芸人・強請・た かり・乞食・泥棒の類の連 中を示す言葉だった、という記載があります(p181)。サーサーン朝との関連は不明ですが、いつまでも回顧の対象となるサー サーン朝の権威を踏みにじる ためにアラブにおいてサーサーン朝の子孫を貶める意図のある宣伝を行ったのかも知れません(当時の、バヌー・サーサーンの意味合 いについて、頑固猫さんか らコメントをいただきました。コメント欄をご参照ください。どうやら自称だったようです)。

 なお、20世紀前半のイラン人作家、サーデ ク・ヘダーヤトには、「最後の微笑」という短編があり、これには、803年に一族誅滅させられた有力家門、バルマク家が、反アラ ブの立場から反乱を計画す る話が出てきて、彼らの反アラブ感情は、非常に感情的に、アラブを砂漠の下等なもの、と見ているようです(
サーデグ・ヘダーヤト短編集所 収)。ヘダーヤトの時代は、帝国主義諸国に囲まれ、イラン近代化が急がれた時代ですから、よりアラブへの対抗意識・または、古代 イランを覆滅したアラブへ の嫌悪感が一部の知識人に顕われた時代なのかも知れませんが、イラン人全部とか限らないまでも、イランの一部には、イスラーム初 期から現在に至るまで、古 代イラン民族意識が残っているのではないかと思えるのです。

ところで、本日5月29日は、コンスタンティノープル陥落・征服の日です。トルコやギリシアなどでは催し物とかされていたりする のでしょうか。。。。。

 

追記:頑固猫さんから下記 情報をいただきました。

1.ア ドゥド・アッダウラがバフラームの子孫と称したとする記述の同時代史料は、ミスカワイフとサービーです。イブラーヒーム・ アッサービーが、アドゥドに拘禁されていた時期に書かれたブワイフ朝公式史書「ダイラム王朝にの出来事についての冠の書」に 系図が載 せられていたと記憶しています。イブラーヒームは先代イッズ・アッダウラの側近でしたから、本当に無理矢理書かされたので しょう。

 それとバヌー・サーサーンが芸人・乞食を意味すると言うのは本当ですが、サーサーン朝を卑下するためではなく、こうした下 層集団が自分達のアイデンティティー保つために自称したと言う解釈がされているようです。日本のテキヤが天皇の子孫と名乗る のと同じですね。

2.サーサーン朝の末裔を名乗った、あるいは信じ られている人物としてはイスラーム初期のユダヤ人指導者ブス ターニー・ベン・ハニナーイの子孫(ブスターニーは皇女イズドゥンダードと結婚したとされる)。あとバハーイ教の創始者バ ハー・アッラーもヤズデギルド3 世の子孫と名乗っていますね。勿論、史実ではないでしょうが。

 

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