千一夜物語に登場するサーサーン朝首都イスバーニール



  Wikiに、サーサーン朝首都isbanir(イスバニール、またはアスバニール、アスバーナブル、アスファーヌール)がアラビアンナイトに登場してい る、という記事を見つけたので、早速当該部分を見てみました。イスバニールとは、サーサーン朝の首都、マダーインを構成する都市のひとつです。マダーイン は、クテシフォン、ヴェーウ・アルダシール、ヴォロゲソケルタ、ルーミーヤ、ダスダキルトなど、複数の都市から構成されている、メガロポリスでした。最近これらの地図が、日本版とドイツ語版のWikiに掲載されています。地図中の「アスバニール」が、アラビアンナイトに登場しているイスバニールです(しかし、この地図は、実際の地形とは若干異なっています(特にセレウキアの場所)。こちらに、GoogleEarthの画像を引用しており、確認することができます)。

 当該部分は、平凡社東洋文庫「アラビアンナイト」13巻所収の「クンダミル王の子アジーブとガリーブ」(第135話・625夜から680夜)に出ています(
ネット上にはバートン版の英語版テキストが公開されています。当該部分はこちらです。平凡社版と異なり、アジーブとガリーブの話は138話となっています)。

 さて、私が「クンダミル王の子アジーブとガリーブ」に期待したのは、サーサーン朝当時の街の雰囲気がわかる描写だったのですが、全然そんな ところはありませんでした。ちゃんと数えたわけではないのですが、10回くらいイスバーニールが舞台として登場しているのですが、街の描写どころか、王宮 の描写すらなく、単に「イスバーニールに行く」「イスバーニールにて王と会った」程度の文章しか無く、ここは大きく期待はずれでした。


 一方収穫もありました。幾つか列挙しますと、

1. まず、「クンダミル王の子アジーブとガリーブ」の話は、サーサーン朝末期、サーサーン朝の辺境地帯が次々とイスラームに改宗し、最後にペルシアも改宗す る、という、史実の影が見て取れること。主人公ガリーブは、イスラーム改宗の尖兵として各地を征服、あるいは巡撫して回っている。

2.皇 帝サーブール(シャープール)が登場していること。最後の皇帝はヤズダギルドなので、ここは史実とは合いませんが、ヤズダギルド即位の数年前に、短期間 シャープール3世が王位にあった時期があり、更に、シャープール1世、2世は、サーサーン朝でも有名な王である為、その記憶が反映している可能性があるか も知れない。

3.サーブールは、「ペルシア人、ダイラム人、トルコ人」となっており、邦訳で「皇帝」、「世界の王者」という用語が使われ ているのはペルシア皇帝だけであり(実際に「皇帝」の用語が登場しているのは、13巻p377で、サーブールの孫、ムラード・シャーに対して「ペルシア皇 帝」との用語が使われており、p198、p232では、「世界の王者」という形容が使われている)、その他登場する地域の支配者は王となっている。この 点、イスラーム以前のペルシア国が「世界を統治していた」との理念が一応反映していそう。

4.ペルシア皇帝の支配領域は、「ペルシア人、 ダイラム人、トルコ人」となっていて、イスバニールは、イラクにあるにも関わらず、イラク王は別にいる(タイトルに出てくるクンダミル王がイラク王)こと になっている。この点は、イラクはあくまでセム系人の居住地であり続け、ペルシア人は、基本的にイラン高原に居住している、という事実を反映しているのか も。更には、「ペルシア人、ダイラム人、トルコ人」の王という形容から、ダイラム人がアッバース朝の権力を握り、イラン高原に勢力を持った10世紀のブラ イフ朝や、9世紀に東方で勢力を持ったペルシア人のサーマーン朝、更に、9世紀後半からトルコ人がアッバース朝政府内で勢力を持ったことなど、9世紀から 10世紀の史実を反映しているのかも。ということは、この話が書かれたのは、10世紀頃という可能性もあるのかも。
 更に、カリーブの敵、アジー ブが逃亡する先は、オマーン->イエメン->インド(カシミール)の順となっていて、シリアとその以西のエジプトやマグリブ(リビアからモ ロッコまでのアフリカ北岸)は一切登場していないことからも、サーサーン朝時代の領域意識(イーラーン・ザミーン)が反映しているのかも知れません(ホス ロー時代は、イエメンを直轄支配しており、基本的にアラビア半島全体がサーサーン朝の勢力圏にあった。またエフタルを滅ぼしたことから、カシミールあたり も勢力圏に入っていた可能性がある)。或いは、11世紀前半に、ガズニー朝が北インドに侵攻した史実の反映かもしれません。

5.サーブー ルの娘、ファフル・タージとガーリブの息子であるムラード・シャーがイスラームに改宗し、ペルシア皇帝となって話が終わる。つまり、ペルシア皇帝の血統は 滅亡したのではなく、ファフル・タージを介してイスラームの支配者となっているわけで、このあたりは、シーア派の伝説である、シーア派の祖アリーの息子の フセインが、ヤズダギルドの娘ジャハーン・シャー(結婚後、シャフルバーヌーイェと改名)と結婚したという言い伝えに似ている。

6.イスバニールは、「イスバーニール・マダーイン」とも語られている(マダーインは、複数の町から構成されていたサーサーン朝の首都一帯を示す言葉)。

7. 主人公ガーリブが征伐する部族や王国、都市の多くは、火をあがめていて、明らかに拝火教である。物語の冒頭でサーブールの娘ファフル・タージが誘拐される ときも、火の館へ訪問しており、王女自身が「私の父や、父の王国、ならびにトルコやダイラムの人びと、ならびにマギ教徒らは、偉大なる統治者(神*1)を 差し置いて、火を崇拝しているのです。私どもの国には、火の僧院と呼ばれる館があって、祭りのたびにマギ教徒の娘たちや火の崇拝者らが集ま」っている、と 話している。

*1 アラーのこと

 というように、史実に色々思いをはせらされる箇所も多々あり、結構楽しめました。「ク ンダミル王の子アジーブとガリーブ」の話は200頁に及び、13巻の半分以上を占めている為、まあ購入した価値はあったものと思っています。とはいえ、全 体としては、魔法や魔人、魔剣が登場する、西欧中世のヒロイックファンタジーのような内容で、この点、竜が登場したりする「アルダシールの行伝」と同じ種 類の話といえます。

 他にサーサーン朝時代や、街の様子が反映していそうは話は無いものかと、少し調べてみたのですが(といっても、Kisraと、、madain、isbanirで検索しただけ)

・389話 「キスラー・アヌーシールワーン王と農家の娘との話
・391話 「ホスロー王とシーリーンと漁師との話」
・別巻 「カリフ ハールン・アルラーシドとキスラー王の娘」

という話があることがわかりました。389と391話は、2,3ページの短いもので、平凡社版に掲載されているので読みましたが、別巻 「カリフ ハールン・アルラーシドとキスラー王の娘」の方は、英語版しか無さそうなので、こちらはそのうちということになりそうです。

また、これはサーサーン朝の王ではありませんが、第5話に、「シンドバード」というペルシアの「王の中の王」の話が出てきますが、まったくの御伽噺に近く、ペルシア王でもインド王でもどうでもいいようなお話でした。

  それにしても、アラビアンナイトは、版によって、大きく内容が異なっていることが、今回色々調べていて良くわかりました(私が無知だっただけですけど)。 アラビアンナイトが一冊の書物ではなく、「叢書」と言われる所以が良く理解できました(岩波文庫は、マドリュス版と言われているもの、東洋文庫のものは、「カル カッタ二版」と言われているものです。これらについての解説は、
筑波大学の青山悦子氏の文章(こちら)に良くまとまっていて有用なので、リンクしておきます)
 
  というわけで、「アラビアンナイト」の中に見られるサーサーン朝の残滓、というテーマの探求は、これでひとまず区切りをついた感じがしています。

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