パルティア時代の文学



 古代世界の頂点をなす漢とローマと比べて、古代イラン社会に関する資料が少ないが、とりわけ 当時記載された著作物が極めて少ないと言える。古代中国やローマでは、紀元前の段階で神話、歴史書、哲学的著作が多数登場し、農業書、医学書、法律書、料 理書等の実用書も出現し、詩文、散文、戯曲の段階を経て古代世界が終わるまでに小説類の登場にまでこぎつけた。古代ローマや中国 では現存しないまでも、書 籍目録に伝わる著作を含め、多数の著作物が存在し、書籍が市場で取引され、本屋まで存在していたことが判明している。
 
 一般に著作物に関して西アジアが上記のような古代中国やローマの段階に到達したのは、アッバース朝の時代になってからとされ る。アッバース朝時代には 学芸が発達し、多数の実用書、学問書から、法律書、哲学書、歴史書、小説まで幅広く著作活動が行われ、史上輝かしい足跡を残して いる。
 
 こうした古代中国やローマ、アッバース朝時代と比べると、パルティア・ササン朝の時代には一体どのような著作物があったのかさ え容易にわからず、著作物に関しては、まったくの空白時代としか見えないのである。

 それでは本当にパルティア・ササン朝時代は空白の時代だったのだろうか?著作物は無かったとしても、文学そのものが存在しない 時代だったのだろうか?

 直接的な遺物が残っていない為、状況証拠に頼り、多分に推測により補うことになるとしても、パルティア・ササン時代にも文学は 行われており、ある程度の 姿を描いてみることは可能である。そこで以下では、いくつかの材料をもとに、この時代の文学状況を描いてみたいと思う。

 パルティア・ササン時代とは、一言で言えばセレウコス朝時代に浸透したギリシャ的影響の強い世界から、古代アッシリア・西アジ ア世界への回帰という点に 特徴づけられる。当時の文学はこの流れと無縁では無い筈で、パルティア時代には、その領域内ではギリシャ語、アラム語、パフヴィー語が利用されていた が、パフヴィー 語の著作は恐らくほとんどまったく存在していなかったと考えられる。パフヴィー 語の著作が現れ始めるのはササン朝時代になってからのことである。パルティア時代にはギリシャ語、アラム語で著作が行われ、それ はすなわち、ギリシャ文学や、アラム文学がパルティアに 移入されていたと考えられ るのである。更にはサンスクリット語がパルティア圏内で利用されていた形跡は無いものの、インドから文学が移入された形跡もあるのである。
 
 ギリシャ文学がパルティア領内で行われていた形跡についての有名な記述は、プルタルコスが残した、ローマのクラッサスが前53 年にカルラエの戦いでパル ティアに敗北した時、彼の頭蓋骨が、パルティア王子の結婚式にて上演中のエウリピデスの「バッカイ」の舞台へと投げ込まれた、と いうものである。当時の (紀元前の前期)パルティアはギリシャ語を公用語とし、ギリシャ語で貨幣を鋳造し、王の称号はギリシャ語の「バシレウス・バシレ オン(諸王の王)」を使っていた。パルティア領内に多くのギリシャ人自治都市があり、英国支配下の近代インドに近いような状況 だったと言える。

 次いでアラム文学。西アジアはシュメール・バビロニア時代からの長い文学の歴史を持っている。それらは知恵の文学・教訓文学な どといわれ、邦訳されてい るものは少ないものの、中国やギリシャ・ローマに遥かに先行して豊富な物語文学の伝統を持っているのである。(邦訳としては
筑 摩世界文学大系「古代オリエント集」がある)。 こうした教訓文学の一部がアラム語を経てパルティア時代に引き継がれていたことは間違いない。なぜなら、教 訓文学のひとつである前 8世紀のアッシリアにて成立した「アヒカル物語」が6世紀のホスロー時代に宰相ブズルジュミフルの物語として再生し、パフ ヴィー語文学に大きく影響しているからである。

 インド文学の影響については、これはより間接的な推測となるが、イスラム時代の著作者が「アルサケス時代の文学」として記録し ているリストに仏陀の伝記 があること、後世成立する「千一夜物語」や「シンドバードの書」などペルシャで成立したとされる物語の形式「枠物語」形式の起源 がインドにあること、ホス ロー1世時代にサンスクリット語から翻訳されたインド文学が存在していること(「カリーラとディムナ」など)、などから推測され るのである。

 このようにパルティア時代は、後世アッバース朝時代が、ギリシャ・ローマ、インド、アラビア、ペルシャ、ユダヤなどの文学を総 合した一大文明であったこ とと同様な時代状況にあったと推測できるのである。アッバース朝時代に比べれば規模と深さにおいてはかなわないまでも、ある程度 周囲の文明圏がミックスし た雰囲気にあり、パルティア文学はこうした中で成立したものと推測されるのである。

 それではその中で成立したパルティア文学にはどのようなものがあったのだろうか?
 まず最初にあげられるのは「千一夜物語」の粗笨となった「ハ ザール・アフサーナ」が ある。これはパフラヴィー語でも「千物語」を意味し、内容は今に伝わ らないが、パルティア時代に成立した可能性がある。10世紀にバグダードで書店を経営していたアン・ナディームが、書籍辞典、 「キターブ・フィフリスト」 にておとぎ話書籍の成立をアルサケス朝時代とし、最初の本を「ハザール・アフサーナ」としていることが第1の理由として挙げられ る(「フィフリスト」では「ハザール・ダスターン(千の物語」との題名とのこと)。更に後の「千一夜物 語」がギリシャ、インドの説話を多く含む国際的な内容であり、9世紀初頭には現在の形に近い「千一夜物語」の断片が発見されてお り、こうした文明混交の物 語がイスラム帝国成立後すぐに成立したとは考えられず、寧ろそうした国際的な物語の粗笨があったものと推測されるのである。後期 パルティア時代とホスロー 1世時代以前のササン朝が比較的イラン国粋的な時代雰囲気をもっていたことを考えると、「ハザール・アフサーナ」の成立は、前期 パルティア時代か、ホスロー1世時代のいづれかのことと考えられるのである。そうして、ホスロー時代の文学活動は比較的知られて いることから、前期パルティア時代に成立したもの との可能性が考えられるのである。しかしながら、イスラム期の学者が描くパルティア時代像は、かなり末期パルティアの、王朝が分 裂した時代像のものであ り、彼らの言う「アルサケス時代」とは後期パルティア時代のことを示している可能性もあるのである。更に加えるならば、イスラム 期、アラビア語に翻訳され た「ハザール・アフサーナ」はパフヴィー語本で あった。前期パルティア時代がまだギリシャ的要素、ペルシャ的要素の混交が進む 以前の、「共存」の段階に あったものであり、前期パルティア時代に成立した場合、ギリシャ語やアラム語で 記載された可能性が強いことを考慮すると、これらの諸要素が融合し、パフヴィー 語が著作に用いられはじめた後期パルティア時代が、その成立年代としてよりふさわしいと言えるかも知れない。

 ただし、「ハザール・アフサーナ」の内容は現在に伝わる「千一夜物語」とはかなり異なっていたと思われる。現在に伝わる「千一 夜物語」はアッバース朝時 代の風俗・雰囲気をもち、明らかに成立はアッバース朝時代だと考えられるのである。「ハザール・アフサーナ」について推測できる ことはインドから伝わった 枠物語の形式をもち、古代ペルシャ、アラム、ギリシャ文学の説話を持っていた、という点までである。その枠物語がシャハリアール 王とシェーラザード妃のよ うな物語であったかどうかとことも、当時の断片でも発見されないことには、今は知るすべもないのである。

 「ハザール・アフサーナ」に続いてあげられる書物として「シ ンドバードの書」が ある。これは「7賢人物語」「シュンティパスの書」「ドロパテスの書」など様様に名前を変え後期中世ヨーロッパでの一大文学潮流と なった物語である。枠物語で ある点は「千一夜物語」と同様であり、その内容がギリシャ・インド・ペルシャの説話を含む点も
「千一夜物語」と同様である。10世紀イスファハーンのハムザ・イス ファハーニーの「年代記」 の、アルサケス朝を扱った部分に「シンドバードの書」が記載されている。また内容が国際的な点も「千一夜物語」と同様パルティア時代の成立を推測させる。しかし、「シ ンドバードの書」の起源を研究したB.E.ベリー「シンド バードの書の起源」(未知谷社から邦訳あり)によると、この書の枠物語の起源は2世紀にギリシャ語で書かれた「セクンドゥスの生 涯にあり、「シンドバードの書」の成立はホスロー1世頃であろうと推定されている。しかしこれも現在に伝わるような形での成立が ホスロー代にあったとして も、「シンドバードの 書」の粗笨はパルティア時代に遡る可能性はある(「フィフリスト」ではアルサケス朝かインド説両説の起源論争に言及している)。9 世紀に、ムーサー・イブン・イーサー・アル・ケスラウィー(アラビア人だが、ペルシア人とみなされていた可能性がある)が、パフヴィー 語からアラビア語に翻訳したと考えられている。B.E.ペリー はシマスの書の少し後、8世紀後半の成立説をとっている)。


 続いてこれもハムザ・イスイファハーニーが挙げている書物に「シマスの書」がある(「ムジュマルッ・タワーリフ」でも言及されており、この2者はアルサケス朝の著作としてい る。一方「フィフリスト」は、ギリシア語からアラビア語に翻訳されたとしているが、そのギリシア著作の成立がアルサケス朝で あることを否定するものではない)。これも枠物語である。邦訳は無いが大筋については前傾B. E.ベリー「シンドバードの書の起源」に記載(p48)がある。アン・ナディームはギリシャ語からの翻訳としているが、内容的には「アヒカル物語」の影響 や「旧約聖書」からの引用があり、中東起源の成立と推定されている。「シマスの書」は、「千一夜」の中の「インドのジャリ アッド王と宰相シマス」「インドの王ジュライアードと大臣シャンマースの物語」などとの題名で 訳されている書籍と同じ書物である可能性があるとのこと(ただし、B.E.ペリーは8世紀半ば以降の説を とっている)。


 次にハムザ・イスファハーニーの伝える書として「バ ルシーナスの書」がある。 これはローマ皇 帝ユリアヌスの後継皇帝ヨヴィアヌスを扱った物語という可能性があるとのことである。そうなるとアルサケス朝時代の著作では なくササン朝時代の著作となってしまう(502-532年説があるとのこと)が、イスラム期の史書にヨヴィアヌスを「バルサーヌス」 と呼んでいることからこう推測されているが、内容は現在には伝わっていない。

 最後にハムザ・イスファハーニの伝える書物である「マリクの書」(または「マラスの書」)これについても内容は伝わってい ない。普通に考えればマリクは王の意味なので「王の書」ということにな るかと思う。

 ほかに、「バルーハル」「ジョシパスの書」(「ヨシ パスの書」)「ルフラースフ」「ユーズファースフ」 「マルール」「カリーラとディムナ」などがパルティ ア朝時代の著作物としてイスラム期の著作者により伝えられている。
なお、これらの著作は、ギリシア語かシリア語、アラム語で書かれていた可能性高 く、パフヴィー語であった可能性は無いとのこと。サーサーン朝時代にパフヴィー語で記載された書物は主にアヴェスター等宗教書関連のものだった為。


「バルーハル」は「バルラームとヨサアフ」(ダマスカスの聖ヨハンネス作とされている)という題名の書物と同一とされ、仏陀 の誕生伝説に基づいているとされる。著者はキリスト教徒と推測され、仏教説話をキリスト教的観念で利用してギリシア語で記述 したものとされているが、ギリシア語版の定本となったグルジア版(11世紀 初)が発見され、これ以前の物語にはキリスト教の色彩は無かったとのこと。マニ教徒がこの書物を広めたという言及もあるらしい。「フィフリスト」では、イ ンド起源とされている。ホスロー一世時代のパフヴィーの訳され、7世紀に シリア語版、11世紀にグルジア語版、その後ギリシア語版ができたとされている。「バルラームとヨサアフ」は、人文書院「黄 金伝説」174号に「聖バルラームと聖ヨサパト」の題名で邦訳があるとのこと。また、ネット上にも邦訳が出ていま す


「ジョシポスの書」はギリシャ語の「哲学者クサントスとその召使アイソーポスの生涯」(シリア語とアラビア語では、「ジョシ ポスとクサントスの書」)のことだった可能性がある。この書はシリア語に訳されて「イソップの生涯」という題名がついていた ことから推定されている。「ルフラースフ」はペルシャ王の叙事詩伝説を扱ったものらしい。 「ユースファースフ」「マルール」 は題名のみ伝わっていて、「カリーラとディムナ」はホスロー1世時代にサンスクリットから翻訳されたことが確実なので、これについては伝えた者の誤りだと 考えられる。


 以上のパルティア時代の著作についてのリソースは以下のものである。

・ムハンマド・アル・ナディーム「キターブ・アル・フィフリスト」10世紀
・ハムザ・イスファハーニー「年代記」964年
・作者不詳「ニハーヤトゥ・ル・イラブ」
作者不詳「ムジュマルッ・タ ワーリフ」1126年成立。1123年までの歴史。ササン朝についてタバリーは簡略すぎると批判しているらしい。


 さて、以上の記述は、ほとんどがパルティア時代後期に成立したとされる書物ではあるが、ペルシャオリジナルのものは少ない。冒 頭で言及しているように、 前期パルティア時代はパフレヴィー語の文学書物はまだ存在しなかったと思われ、ギリシャ語、アラム語書籍が存在していた。上述の 書籍が成立した当初の言語 がパフヴィー語だったとは言い切れず、最初はギリ シャ語、アラム語で成立し、後期パルティア時代かササン朝に入ってからパフヴィー 語に翻訳されたのかも知れない。それではペルシャオリジナルの文学状況はどうだったのであろうか。
 パルティア時代は宮廷詩の時代でもあったとされる。パルティア時代は、西欧中世に似たような時代状況だったようでもあるのであ る。貨幣を発行していた王 はあるいは数名が並立していたこともあるが、
通常一人であり、記録に乏しいことから貨幣を発行していた王が最高主権者であり、王国を統合していたと 考えかちであるが、前期パルティア時代はともかく、後期は中世西欧 - 特に10‐12世紀頃のフランスなどと似たような状況に あったのではないかと推測 されるのである。当時のフランスが、国王はいるものの、中小領主に事実上国土が分裂しており、各地の宮廷において、宮廷詩人が活 躍していたように、パルティア各地に割拠する大小領主の宮廷では宮廷詩が流行していた。11世紀にグルガーニがパフヴィー語から翻訳したと推測される「ヴィースとラーミーン」はそうした舞台がパルティ ア時代であり、パルティア時 代に成立した宮廷詩である可能性がある。この本は邦訳も出ている。

 「シマスの書」や「シンドバードの書」では大臣達や王子が論争を行うモチーフがある。イスラム期の学者によれば、これはアルサ ケス朝の領主達がお互いに 論争をけしかけ、相手を罠にかけようとした、という時代状況があった、と説明されている。実際にそのような論争があったかどうか は明らかではないが、書物の成立した時代は分裂の時代であり、イスラム期の学者とすれば、物語の内容からして、そうした時代状況 はそうした書物の成立にふさわしい状況だったと認識されていた可能性は高い。イスラム期の学者が、書物にふさわしい時代状況だか ら、アルサケス朝時代を成立時期として恣意的に考えてしまったのか、もともと アルサケス朝時代という典拠があり、論争を行うという内容は時代状況からしごく納得できる為、論争がそうした書物成立の理由だったと考えただけなのか、実 際のところは不明ではあるものの、アルサケス朝時代に書物が成立した可能性は、これまでの記述、時代背景をかんがみれば、高いと いえると思われる。ハムザ・イスファハーニーによると、そのようにして成立した書籍は70以上あり、うち20以上がよく読まれて いたとのこと(「シ ンドバードの書の起源p18)。

 

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