漢籍に現れたイランの使者



   漢籍に現れたイランの使者というとパルティア時代の安息王の使者、ササン朝末期、ヤズドギルド3世が唐に送った救援の使者が有名だと思います。が、それ以 外にもちょくちょく使者のやりとりがあったことを最近漢籍を見ていて知りました。どんな使者があったのかを以下に列挙してみたいと思います。

・前漢代 「漢書」にある、漢と安息国の間で使者やりとりがあった、という記述
・後漢代 「後漢書」章帝章和元年(75年)安息王から使者来朝。永元13年(101年)安息王満屈厦使者
     を送る。
・北魏代 「魏書」 神亀中(518/9年頃)、居和多(カワード)からの使者。
・北周代 「周書」 廃帝2年(553年) 波斯王。王名は記載されていないが、使者あり。
     「北史」 恭帝2年(555年) 波斯 王から再度使者あり。
     「周書」 天和2年(567年) 安息王から使者あり。
・隋代  「隋書」 使者が来たわけではないが、庫薩和王が君臨しているとこ記載あり。
     「北史」 隋の使者李イク(日/立)がササン朝へ至る。
・唐代  「新唐書」 貞観12年(637年)ヤズダギルドの使者来朝。アラブ軍に対する救援を請う。
           745、47、56年、タバリスターン王の使者来朝。758年波斯と大食が広州を侵す。771年波斯の使者来朝。

クシャン朝が勢力をもってから、518年の約400年間は使者の往来が無かったことになります。クシャン朝がササン朝の支配下にあった233年から400 年頃までは中国が統一されていた西晋や前秦の時代が使者をやりとりするチャンスだったと思われますが、実現しなかったようです。
 

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