2世期の外交関係について、最近ふと思ったことがあります。「後漢書」「三国 志」などでは、2世紀以降の西アジア以西の情勢についての記述が少なくなります。これは、クシャン朝の勃興により、パルティアと中国との関係が阻害された ためであることは間違いないでしょう。当時は、中国‐パルティア(イラン)、クシャン朝(とインド)‐ローマという組み合わせで、仲がよかったのではない かと思うのです。つまり、ローマはパルティアと仲が悪いが、セリカ(中国)の絹や、インドの香辛料などが欲しい。このため、南海貿易(エリュトラ海貿易) を通じて、直接クシャン朝やインドと交流を持っています。アウグストゥスの宮廷にインド王の使者がきた、という記述があるし、クシャン朝とローマについて は、更に、以下の事項から、関係の深さを感じるのです。
・ ローマ世界にパルティアの王の名前がろくに伝わっていない割には、クシャン朝のクジュラ・カドフィセスや、ヴィーマ・カドフィセスの名前がローマ世界 に伝わっている。
・ パルティア(はじめイランは)の通貨は銀本位制である。しかし、クシャン朝では、ローマのアウレリウス金貨を同じ含有量の金貨を発行している。これ は、アウレウス金貨を改鋳したのではないかと推測されている。
・ 出土したクシャン王の称号を記載した碑文に、「カイサル」と解釈することができる称号が発見されている。
・ 実際に絹はクシャン朝のインド洋の港を経てローマにもたらされるルートがあった。
また、この時代のローマが採用していたかどうかは、情報が無いのですが、遠交近攻策という観点からしても、パルティアの背後にあるクシャン朝とは、仲良く してきたいところでしょう。
これに対して、パルティアは前漢の時代から中国と直接使節のやりとりがあり、ある意味、かなりきちんとした国交がありました。クシャン朝はパルティアに とっては敵ですし、91年には直接後漢支配下の西域に侵攻し、班超によって撃退されていることもあり、クシャン朝と中国は、どちらかというと仲はよくな かったと思われます。クシャン朝が中国に使節を送って来た記録が残るのは、229年の破調(ヴァースデヴァ)のときのことであり、これは、ササン朝の攻撃 を受けて、ある意味中国へ救援を求める意味もあったのではないかと思われます。ササン朝にとっては、クシャン朝はもはや脅威でもないので、あえて中国に使 節を送ったりして、仲良くすることは考えなかったことでしょう。だからこそ、5世紀、エフタルの脅威に直面していたササン朝は、遠交近攻策を視野にいれ て、中国へ使節を送って来たのではないかと思うのです。
さてそこで疑問が出てきます。パルティアは、なぜクシャン朝を牽制するために中国に支援依頼の使節を送らなかったのでしょうか。また、クシャン朝最盛期 の王カニシュカの名が、何故ローマに知られていないのでしょうか。一つ思うことは、パルティアは、クシャン朝に抑圧されてはいたが、クシャン朝は西アジア には関心を示さなかったため、東方領土はうばわれはしたものの、滅亡という脅威には直面していなかったためではないでしょうか。また滅亡が近づいた時期の パルティアは、多くの国に分かれており、既に一つの統一国家として救援を請うような状態ではなくなっていたから、なのではないでしょうか。
また、カニシュカの名が西方に伝わっていないのは、2世紀にはローマの学芸は、1世紀と比べるとかなり衰退していることが原因なのかもしれません。プリ ニウスのような学者が2世紀にもいれば、カニシュカの名前も、その著作において伝わっていたかもしれません。(しかし、となると、プトレマイオスの著書に は掲載されていてもいいように思えますが。。。)