アルサケス朝のギリシア化とイラン化について


※この記事は、Yahooの知恵袋の「初期パルティアの王の称号について質問」「当初はギリシア 文化の要素が強かったパルティアで、紀元1世紀頃からイランの伝統文化の復活が進んだとされていますが、それを象徴する、1世紀 以降のパルティアの遺跡・遺物をご存知の方」(こ ちら)の質問への回答として作成したものです。リンクが多すぎてエラーとなってしまったので、こちらに掲載したもの です。


1.語義・語源

アルサケス朝の貨幣にΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣ(ギリシアを愛する=親ギリシア)の文字が登場するのは、セレウコス紀元173年(前 140-139年の記銘を持つ、ミトリダテス1世(前171-138年)王のもので、セレウコス朝の東方の都であるセレウキアを 征服した年(考古学史料であるバビロン天文日誌によると、前141-140年)です。このことから、ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣは、セ レウキアのギリシア人を味方につけるための宣伝文がその発端だと考えられているそうです(173年の銘文のある貨幣は↓です)。
http://www.parthia.com/coins/pdc_35182.jpg
以後アルサケス朝では滅亡近くまでΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣが貨幣に刻まれていましたが、ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣの銘の入っている貨幣 の生産場所は殆どがセレウキアであることから(一部エクバタナやミトラダトケルタ、ニサで発行されたものもあります)基本的にギ リシア人を対象とした銘文だと考えられているそうです。

これ以前の貨幣の銘文も、ギリシア語が利用されていましたが、初期アルサケス朝の貨幣では、アケメネス朝の公用語であるアラム語 とギリシア語が併記されていると考えられているものあります(↓の裏側の左側の文字がアラム文字との説があるが、まだ解読されて おらず、否定説もあるそうです))。
http://www.parthia.com/coins/pdc_10907.jpg

ちなみに、貨幣に刻まれた王の肖像も、ミトリダテス王の前期と後期では、驚くほど違います。前期は、
http://www.parthia.com/coins/pdc_29430.jpg
のような、いかにもスキタイ(サカ)系民族のような耳覆いのついたとんがり帽子ですが、後期に発行された貨幣では、以下のように セレウコス朝王の貨幣の肖像に近い髪型と王冠となっています。
http://www.parthia.com/coins/pdc_21527.jpg
(セレウコス朝王貨幣の肖像は↓)
http://www.livius.org/se-sg/seleucids/seleucid_kings.html


つまり、アルサケス朝は、セレウコス朝旧領の征服に伴い、公用語を貨幣に用いたため、自動的にギリシア語単一の銘文となったわけ で、当初(セレウキア征服以前)は「親ギリシア」をアピールするためにギリシア語を用いたのではなかったものと考えられているわ けです。セレウキアを陥落させ、本格的にギリシア人を味方につける必要ができた為、「親ギリシア」の語句を新たにいれたと考えら れているそうです。


2.ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣのパルティア語文

銘文の「親ギリシア」はギリシア人を対象としたものなので、相当するパルティア語の銘文は発見されていません。しかし現在発見さ れているパルティア語の史料から復元することは可能だと思います。
(例えば、↓にパルティア語−英語辞書がありますから、これを丹念に調べれば、復元ができるかも知れません。これを調べている時 間が取れないので、これについては辞書を提示するだけとさせて下さい)
https://archive.org/details/DictionaryOfMMP
 しかし、「親ギリシア」の銘文の目的が、ギリシア人だけを対象としたものであったと推測されることから、「パルティア語の称 号」としては存在していなかった可能性もありそうです。

3.再イラン化の象徴

全体的に、象徴と言えるものは貨幣です。以下項目別に記載します。

3-1貨幣の文字
ヴォロガセス1世(在51−78年)の貨幣表面に、ヴォロガセスの頭文字のWLがパフラヴィー文字で表記されています。
http://www.parthia.com/coins/pdc_16798.jpg
ミトラダテス4世(在129-140年)の貨幣裏面にアラム文字が登場しているそうです。アルタバヌス5世(在216−224 年)の貨幣両面にパフラヴィー文字が登場しています。
http:/www.parthia.com/coins/pdc_5812.jpg


3-2.貨幣の図像1 神からの王権授受像
フラアテース4世(在前38-前2年)以降、女神が王権の象徴を王に渡す画像が裏面に登場し、以降の王でもこの画像は継続的に登 場します(↓)。
http://www.parthia.com/coins/filer_phrat44.jpg

こうした構図は215年のスーサ出土のアルタバヌス5世がスーサの太守フワサックに支配権を象徴する輪を渡している図(↓)や、
http://www.iranicaonline.org/uploads/files/Crown/v6f4a022_f9_300.jpg
サーサーン朝のナグシェ・ロスタムにある初代アルダシール王の磨崖浮彫(↓)
とも共通していて、イラン化の要素の一つと解釈されているそうです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Naqsh-e_Rustam#/media/File:Bas_relief_nagsh-e-rostam_couronnement.jpg

3−3.貨幣の図像2 王の肖像の王冠や髪型の表現の変化

ΦΙΛΕΛΛΗΝΟΣの項目で記載しましたように、ミトリダテス1世時代に、貨幣の王の肖像が急にセレウコス朝風になって以降、 時代が下るごとに段階的にイラン風になってゆきます。
しばらく↓のような髪型と王冠の時代が続いた後、
http://www.iranicaonline.org/uploads/files/Crown/v6f4a022_f3_300.jpg
↓のように、古代イラン風に髪型が段がついていきます。
http://www.iranicaonline.org/uploads/files/Crown/v6f4a022_f4_300.jpg
更に時代が下ると、
http://www.iranicaonline.org/uploads/files/Crown/v6f4a022_f5_300.jpg
のようにササン朝の王のような風貌になってゆきます。

また、かなり早い段階で(ミトリダテス二世(在123-91年))で、
http://www.iranicaonline.org/uploads/files/Crown/v6f4a022_f7_300.jpg
のような、耳覆のついたスキタイ風帽子が復活し、以降末期(↓はヴォロガセス4世(在147-197年)の例)までこの帽子は登 場し続けます。
http://www.parthia.com/coins/si_volo4.jpg
他に彫像も出土しています。
http://cdn4.vtourist.com/8/3761877-Green_Turquoise_Bust_of_Parthian_Blush.jpg
(↑リンク切れ。Green_Turquoise_Bust_of_Parthian_Blush.jpgで検索するといくつか 画像が出てくる)
https://gatesofnineveh.files.wordpress.com/2015/03/hatra2.jpg
学者では、肖像の衣服まで分析し、イラン化の特徴を分析している方もいます。

以上のように、アルサケス諸王の貨幣の変遷を見てゆくだけでも、ギリシア化とイラン化の様子が見て取れます。以下のサイトで王別 に詳しく閲覧できるので、利用してみてください(真ん中の「Go」の左側のボタンを押す)。
http://www.parthia.com/parthia_coins_parthia.htm

3-4.アヴェスターの編纂の伝承

 10世紀に成立したゾロアスター教の聖典のひとつ、『デーンカルド』の4章第3節−16節に、アルサケス朝のヴォロガセス王が 各地に散っているアヴェスターの写本や口承を保存させる指令を出した話が掲載されています。このヴォロガセス王は、1−5世のう ちの誰かは不明ですが、最初のヴォロガセスが貨幣にパフラヴィー文字を使った人であることから、現在は一般にはヴォロガセス1世 とされています。『デーンカルド』のヴォロガセスが何代目の 王であれ、この名称の王は1世紀から3世紀初頭にしかいないため、イラン化要素のひとつとされています。


3-5.その他ヴォロガセス1世に関する情報

英語版Wikipediaのヴォロガセスの項目(↓)では、彼の時代におこったイラン化事項が記載されています。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vologases_I_of_Parthia
その中で、上記2点(貨幣にパフラヴィー語を用いた件とアヴェスター保存の件)
以外では、以下3点があります。

1)ヴォロガセスが、セレウキア近郊に新しい町、ヴォロゲソケルタを建設(プリニウス博物誌6章122節)
2)いくつかのギリシア名の町をイラン風に改めた
3)貨幣に拝火壇が登場した

このうち1)は出典がはっきりしていますが2)は出典が記載されていないので不明です。これが事実とすればアルサケス朝のイラン 化時期について決定的になるのですが、少し探したところ見つかりませんでした。残念です。3)については、デベボイスの著書A POLITICAL HISTORY OF PARTHIA(こ ちら)のp196の出典であるとWikiの記事には書かれて、この書籍は著作権が切れていることからネットで閲覧で き(↓)、当該部分を参照する と、WrothのCatalogue of the Coins of Parthia (1903年)のXXIX ii f であることがわかります。これもネットで参照でき、
https://archive.org/details/cataloguecoinsp00wrotgoog
のpdfの282ページ目(書籍の188頁目)のPl XXIX 10 に「裏面に祭壇がある」との解説が付されたコインが出てきますが画像はありません。しかも銅貨のようで、コインの表に王の図、裏に祭壇がある、と記載され ていますが、文字の解説はないので、図像だけでヴォロガセスと判断していることになります。他の王という可能性もあるのではない でしょうか(特に地方王国の)。典拠としては若干弱いのではないかと思えます。

なお、アルサケス朝ではなく、アルサケス朝支配下の地方王国であるペルシャ王国のコインには、拝火檀が前2世紀から登場していま す。アルサケス時代のペルシャ王国のコインは↓をご覧ください。
http://grifterrec.rasmir.com/persis/persis.html
前1世紀まで拝火壇や祭壇が登場し、紀元後では、後のササン朝の貨幣に登場する星や三日月が登場しています。

3-6 文書

現在のクルド人居住地からアヴロマーン文書と呼ばれるアルサケス時代の契約文書が3通出土していて、これは数少ないパルティア時 代の同時代文書として有名なものです。日本でも東海大学の春田晴郎教授などが論考を書いています。この文書は前88/87年、前 22/21年、後52/53年で、前2者がギリシア語、後者がパルティア語で記載されているそうです。

一方スーサ出土の複数の碑文では、ギリシア語がパルティア時代末期まで利用されていることがわかり、更にシャープール一世(在 241-271年)の碑文でもギリシア語が利用されているなど、文書類もイラン文化復興の象徴と言い切れない部分があります。

3-7 彫像

時間が無くなってきてしまいましたので、お手数をおかけして恐縮ですが、図像のURLを貼る代わりに、"hatra parthian stature"でGoogle 画像検索を提案させてください。パルティア時代の「ギリシア的」彫刻の有名どころを見ることがで

きます。サーサーン朝時代に、こうした彫像がまったくゼロになってしまうわけではありませんが、サーサーン朝時代になると、ほぼ レリーフになり、立体感も減少します。

3-8 都市

ヴォロガセス1世がセレウキアにヴォロガソケルタを建設し、更にセレウキアからクテシフォンへの移住が促された、というプリニウ スの記載(『博物誌』6巻122節)がありますが、「促されただけで実際にどの程度移住がなされたのか」は不明です。現在ヴォロ ガソケルタの遺跡は未発見です。従来は、プリニウスの記載とセレウキアの衰退が表裏一体と考えられ、ヴォロガセス1世時代のイラ ン化の象徴のひとつであると考えられていたこともあったようですが (タキトゥス『年代記』第11巻9節に後36-42年頃の6年間、セレウキアが反乱を続けた、という記載があるため、セレウキ アを弱めるために、クテシフォンへの移住とヴォロガソケルタの建設を行い、王朝が意図的にセレウキアの弱体化を図った、と解釈さ れていたわけです。この解釈は貨幣の銘文にパフラヴィー文字を初めて記したヴォロガセス1世のイメージにもよく合っていまし た)、その後も末期までセレウキアの発行銘の貨幣が発行され続けていて、セレウキアの衰退に関する確たる証拠が無い状態です。

寧ろ、セレウキアの衰退は、ローマ軍による侵攻によるもので、イラン化ではない、との解釈もあります(この説はギボンが最初に唱 えた)。カッシウス・ディオ、ヒス トリア・アウグスタ、エウトロピオス、エウセビオスら、古代の歴史家(※エウセビオスの記載は未確認)のうち前3者は、トラヤヌ ス帝(在98-117年)や、マル クス帝(在160-181年)のローマ帝国による攻撃でセレウキアは占領されたとの記載があり、完全に破壊されたとの記載はな いものの、カッシウス・ディオ の76章9節↓にセウェルス帝(在193-211年)の パルティア遠征の様子が描かれ、「すでに放棄されていたセレウキアとバビロンを占領した」、とありますから、167年のローマの侵攻と197年の侵攻の間 に放棄されたと考えられます(バビロンの放棄は1世紀のことで、これはバビロン天文日誌の記録が途絶える、ということから1世紀 に放棄されたことが明確で す)。
http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Cassius_Dio/76*.html
しかし、それでも、ヴォロガセス6世は208/9年と227/8年にセレウキアで貨幣を発行しています(↓)。
http://www.parthia.com/vologases6.htm
「ローマ軍による破壊」はギリシア都市セレウキアが衰亡した証拠ではあっても、セレウキアがイラン化した指標にはなりません。

 セレウキア の決定的衰亡は、ササン朝初代アルダクシールが旧クテシフォン跡に建設したヴェーウ・アルダクシールの方にあるという推測も成り 立つちます(実際ササン朝に入るとヴェーウ・アルダクシール発行銘の貨幣が登場します)。一方、史料や貨幣に登場する「セレウ キア」が実際にクテシフォン周辺にあるどの都市を指したのかが不明で、実はササン朝時代のアラブ語やヘブライ語碑文史料やラテン 語史料ではコチェとかクークとか言われる都市がセレウキアを示すので、サーサーン朝時代になってもセレウキアは栄えていた、とい う解釈もあります。更に混乱することを承知で付け加えると、パルティアからササン朝の時代のいつの時か、ティグリス川の河川が移 動し、川がクテシフォンを二分してしまい、その西方部分をコチェとか新セレウキアと呼んだ、という説もあったりします。すると、 パルティア末期のヴォロガセス6世が発行したセレウキア銘の貨幣も、「新セレウキア」のものである可能性もあります。そこが新セ レウキアと呼ばれた理由は、衰微した旧セレウキアの住民が新セレウキアに移住したからだとも推測されます。

このように、従来の、1世紀の衰退説は、イラン化の流れに沿った解釈が可能でしたが、2世紀に軍事的に衰微したとする説と、近年 での新セレウキア移住説を考え合わせると、旧セレウキアの衰亡はイラン化とは無関係におこり、セレウキアのイラン化は、サーサー ン朝にはいり、「新セ レウキア」の地にヴェーウ・アルダクシールが建設されたことで達成されたのではないか、という見解も成り立ちます。セレウキアの 衰退はギリシア文化衰退の象徴ではあるものの、その「ギリシア文化」の衰退が「パルティア時代」なのか、「ササン朝に入っ てから」なのか、未だ若干議論の余地があるものと言えそうです。

3_9 まとめ

以上のように、主な象徴は貨幣の図像です。他にも遺跡や遺物があるのではないか、と思われるかも知れませんが、貨幣以外、象徴と 言える程のものは案外多くは無いのが実態なのかも知れません。


■リンク先以外の主な参考文献

The Age of the Partchians』(I. B. Tauris/2007年)所収「The Iranian Revival in the Parthian Period」Vesta Sarkhosh Curtis(The British Museum) and Sarah Stewart (The London Middle East Institute at SOAS)
『古波斯币』李鉄生 北京出版社(2006年)
『パフラヴィー 語: その文学と文法』 Zale Amuzgar, Ahmad Tafazzoli著、山内和也訳シルクロード研究/1997年
『古代イランの美術U』新潮社/1966年




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