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 言語論的転回 日本での受容

日本における言語論的転回の受容について、2018年頃の、読んだ書籍をまとめた記事がブロ グに分散しているため、以下のブログ記事をこの記事にまとめました。

(1) 『思想』2018年3月号関連
(2) 言語論的転回の受容<1>
(3) 言語論的転回の受容<2>
(4) 言語論的転回の受容<3>
(5) この四か月で読んだ本


(1)『思想』2018年3月号関連

2018年05月26日

というタイトルにしてみましたが、完読したものは少なく、一部に眼を通しただけのものも多いのですが、最近この分 野が盛り上っていて、類似の書籍が多数出版されているようなので、少しさわりのところだけ読んだものも含めて所感をまと めてみました。主にこの一ヶ月くらいに読んだ書籍です。まとめているうちに長文となってきたため、数回に分割します。



 完読した珍しい雑誌となりました。本誌は論説集であ り、カタログ本ではありませんが、各所で方法論書籍・或いは適用された方法論がキーとなる歴史書籍が論じられてい て、近年(ここ5年くらい)の歴史学方法論書籍のガイド本としてはまず最初にあげられるべき書籍では ないかと思います。方法論に熱心な論者に若干偏っているという印象もありますが、意外にバランスが取れている印象です。 日本のグローバル・ヒストリー推進派(現在ミネルヴァ世界史叢書を推進している方々)が論者として登場していないため、少しこれまでの、「グローバル・ヒストリー」という用語の先走りに 批判的な論説が多い感じはありますが、正統派グローバル・ヒストリーの枠組みの論説では、スヴェン・ベッカート「綿と資 本主義のグローバルな起源」が掲載されています。翻訳論説なので、日本におけるグローバル・ヒストリー状況を全般的に論 じたものではありませんが、一応有用です。しかし、論説相当の紙幅で日本のグローバル・ヒストリー推進派の意見も読むと すれば、『「世界史」の世界史』の18章がコンパク トにまとまっていてお奨めです。この書籍には大量の関連文献が 掲載されており、ここからも近年の方法論書籍をたどることができます。



 ここ2年ほどで、『グローバル時代の歴史学』 (2016/10/20/リン・ハント 著, 長谷川貴彦翻訳)や、 『現代歴史学への展望――言語論的転回を超えて』 (2016年)などを立て続けに出版されている長谷川貴彦氏も寄稿しています。とりあえず、私は研究者ではないため、こ れらの書籍は、今回の『思想』の長谷川氏の案内で当面は十分という感じです(そのうち読むかも知れませんが)。

 「文化論的転回」という枠組みを重視するのがリン・ハント氏や長谷川氏の立場のようですが、一世代前の論客で あった二宮宏之氏と遅塚忠躬氏・柴田三千雄氏(個人的に柴田氏は学生時代(80年代中盤)に読んだ限りではマルクス主義 的に感じていましたが、、、)の1992年の対談『歴史・文化・表象―アナール派と歴史人類学』 (岩波モダンクラシックス-ジャック・ルゴフ他著)末尾所収の「付論 鼎談「社会史」を考える」を読むと、現在の文化論的転回論者が「文化史」だと定義している内容を「社会史」の枠内で認識しており、わざわざ文化論的転回、 として社会史と文化史を差別化する意義はあるのかなあ、と思ってしまっています(その後、2010年出版の『人文学への接近 法-―西洋史を学ぶ』(2010年)を一部見返してみたところ、社会史が文化史に脱皮した流れが書かれてい ました。私の世代が社会史だといっていた範疇のことが、今では文化史と呼ぶようになったのだ、と理解しました。しかし文 化史への発展は、「転回」というより、「展開」だと思います)。文化史及び文化論的転回派は、英米史学方面の方々(岡本 充弘氏、長谷川貴彦氏(ともにイギリス史)と、彼らが紹介している人々(キース・ジェンキンズ(Keith Jenkins/英国人)、リン・ハント(フランス革命研究者だが米国人))という印象があります(いまのところ)。

 これに対して、最近のアナール派の状況を概括する書籍を出しているのがフランス経済史の小田中直樹氏の『歴史学の最前線-〈批判的転回〉後のアナール学派 とフランス歴史学』叢書ウニベルシタス(2017年)で、第一章でアナール派第三・四世代が概括されていて 有用です。私はまだ第一章しか読めていないのですが、題名から見る限り、小田中氏も「転回」用語に染まっている感じがし ます。


 岡本充弘氏の『開かれた歴史へ―脱構築のかなたにあるもの(2013 年)』は、題名からしてウンベルト・エーコの『開かれた作品』 と同義ではないか(将来における新しい分析視点の登場による史料を従来とは別の角度から解釈することや、史料そのものの 将来発明される科学分析等へと開かれている、或いは遠い将来の、現在とは大きく異なった価値観を持つ社会からの解釈、と いうような)と勝手に予想していて、以前から読もうと思っていたのですが、今回ようやくきっかけができたので読みまし た。予想と違って、史学方法論ではあっても、テクスト論の次元ではなく、もっと一般的な意味での、アカデミズム以外にも 開かれている(一般人とか映画とか)という、歴史学だけの話ではなく、世の中における「歴史」というもの自体の次元での 話でした。キース・ジェンキンズやヘイドン・ホワイトも論じられているため、言語論的転回以降の展開と議論を知るには有 用な書籍でしたが、前半は既知の議論が多いため読み飛ばしました(前半については、そのうちもう一度ちゃんと前半を読ん でから感想を書きたいと思います)。


 今回面白かったというより驚いたのは後半部分で、歴史学者の中に、歴史映画を、大衆への歴史イメージの受容とい う言説研究としてではなく、「映画は過去の追体験の手段であり、歴史の本質を描きうる、もう歴史として認めてしまおう」 という姿勢の人(ロバート・ローゼンストーン)がいる、と いうことでした。私は、メディア研究は、あくまで社会への受容の影響度を通じた表象や言説や、プロパガンダ研究の枠内で 捉えていたし、これまで大量に視聴してきた歴史映画は、私にとっては、その映画が対象としている時代の歴史学研究への入 り口でああったり、製作者の歴史認識を知ったり、製作者が用いた衣装や建築物や絵画史料を知る手段、たまには娯楽であっ たり、という認識であったため、ここまで先鋭的な歴史学者がいることに驚きました。しかし実際のところ、興味を掻き立て られる「入り口」だとしても、映画を見た後専門書を読んでも、「映画と(史料から導かれる)史実は違うのね」と思う箇所 はあっても、史料のない部分については、潜在的に映画の表象で埋められてしまう場合が多い、というのが現実です。これま でこの部分はあまり考えないようにしてきたのですが、ローゼンストーンを扱った章で、いまや歴史学者の一部でもこうした 議論を進めていることがわかり、今後の展開や、歴史学会全体への浸透などを追ってゆきたいと思った次第です。確かにこの 部分は直視してゆかなければならないと思いました。が、現段階では、歴史映画を認めてしまうと、一層プロパガンダ度の高 い映画同士の闘争となり、表象や言説・メディア研究が、1980年代以前のように、プロパガンダ研究に戻ってしまうよう で心配です。

 本書は、末尾に岡本氏がなぜ歴史方法論の研究にシフトしたか、の著者自身の歴史が掲載されていて、ここも面白く 読めました。


 この歴史映画の議論に関連する議論として、『歴史を社会に活 かす-楽しむ・学ぶ・伝える・観る』(歴史学研究会:東京大学出版会/2017年)という書籍も一部の章を 参照しました。執筆者の異なる23章の本論とコラム10本から構成されており、歴史映画や漫画、書籍出版や歴史名書の観 光等、主にメディアという観点から論じている書籍です。本書については、次々回くらいで所感を記載したいと思います。


 ローゼンストーンに関する記載は、私があまり考えないように避けていた部分を踏み越えるものでしたが、一方、や がてこうなるだろう、と考えていたことが著作化された書籍が、『これが歴史だ!: 21世紀の歴史学宣言 (刀水歴史全書) 』(2017/9/10)です。この本は、上記『思想』で紹介されていましたが、ビッグデータに対するアプローチについて『思想』では具体的な記載がな かったので、少し目を通してみました。ビッグデータの歴史学への活用については後半で論じられていています。つまり、本 書は、現在・これからのビッグデータと歴史学の関わりについて記載されています。少し目を通した範囲では予想していた内 容しか目につかなかったため、まだほとんど読んでいませんが、そのうち完読したいと思います(一応IT業界の者として ビッグデータについてコメントを入れますと、特に現在蓄積されつつあるビッグ・データによる歴史像の構成という時代に入 ると、「データの定義」が現場で実際にどのようになされているのか、それが現実の断面をどれほど捉えられているのか?と いう点に関心が集まるようになり、データの定義や集計方法が歴史学とこれまで以上に密接に関わってくるものと思います (データの集計過程で編集する部分でイデオロギーや政治が入るのは当然考えられますが、それ以前の、蓄積される個々の データの定義段階において、「データ定義で表現される現実」は(ある程度)どうにでもなる、という点について油断してい ると、ここにナラティブが忍び込む、ということです。排除することは難しいが、意識化しておく必要がある、という点、及 び、「データの定義」は「現実の認識」の問題である点は、史料・資料の認識とメタナラティブの関係の問題と同じだといえ ます。具体的な例を挙げるとすると、顧客や人事データにおける生物的な男女の区分は通常のデータ定義にありますが、そこ からもれる性の方々は、2018年の現段階においても、世の中のほとんどのデータベースでは定義されていない、とか。現 在あまり認知されておらず、将来一般的に意識化されるであろう、ある社会的現実は、現在データとして定義されていないた め、遡って集計することができない、等。もしかしたらこのあたりも、本書で議論されれているのかも知れません が、、、)。


 『第4次現代歴史学の成果と課題 新自由主義時代の 歴史学-歴史学研究会 2001年〜2015年(全三巻)』は、ほとんどざっと目次に目を通しただけなので すが、歴史学方法論を論じるという段階は既知のものとして、さまざまな角度からの各論が多数掲載されている書籍、という 印象を持ちました(各論に斬新さがあるかどうかは、読んでみないとわからないのですが、”2001年〜2015年”と、 タイトルにある通りの内容という印象を受けました)。各論の枠組みとしては、昨年読んだ『史料論-岩波講座-日本歴史-第21巻』+1998 年の『岩波講座-世界歴史〈1〉世界史へのアプローチ』 という感じです。あまり方法論書籍という感じはしませんでした。そのうち各論をちゃんと読むときがくるかも知れません が、当面は読みそうもありません。同じ歴史学研究会の方法論書籍としては、『歴史学における 方法的転回-現代歴史学の成果と課題1980‐2000年第一巻-歴史学研究会』も確認しましたが、タイト ルにある方法論的展開のイメージの直結するのは、安丸良夫氏の「表象の意味するもの」の章だけという感じがしました(安 丸氏と岸本美緒氏の章しか読んでいないため、あくまで”感じ”です)。この章の議論は、上記『開かれた歴史へ』などで展 開されている議論で展望できるため、当面はこれ以上は読まない感じです。


 上記歴史学研究会の二書と『歴史を射つ-言語論的転回・文化史・パブリックヒ ストリー・ナショナルヒストリー』を比べると、やはりまだまだ温度差を感じます。『「世界史」の世界史』の 総論の方が、恐らく「大きな歴史像」や「世界史像」を追求する意味と姿勢を論じているがゆえに、物語論や言語論的転回に 敏感になるのかな、と思った次第です。ミネルヴァ世界史叢書関連では、叢書に収録されるのかどうかは不明ですが、長井千 秋氏の「歴史学という営為をめぐる覚書 : 言語論的転回についての初歩的考察」という、雑誌「唐宋変革研究通訊 8号」に掲載された論説はぜひ読みたいのですが、大学図書館においていないようなので、なかなか読めてないのが残念です。言語論的転回や物語論は、歴史哲 学や欧米ではだいぶ浸透してきたとの印象がありますが、それ以外の地域ではまったく聞かないような印象があります(これ を書いた後、羽田正氏『新しい世界史へ』を再読し、認識を改めました)。研究者が皆『メタヒストリー』の第一章を読む、 というような必要性はまったくないと思うのですが、実証主義に埋没していると、歴史学以外の場での小説や歴史エッセイ、 他分野の学者が提示するビッグ・ヒストリーによる表象や言説の方が社会に定着して勢力を持ってしまう、ということは実際 おこっていますし、そこで歴史学者側が慌てて or 安易に文章や修辞で作家に対抗しようとしても、「それなら学者も所詮は作家と同じなんじゃないの」という具合に受け取られてしまうことが懸念されるため、 この辺の議論は、最低限どの地域の学者も触れておくことは必須ではないかと考えています。このあたりについては次々回で 再度扱いたいと思います。


 この話に関連したところでは、今回『思想』3月号で、岸本美緒氏が、「グローバル・ヒストリー論と「カリフォル ニア学派」」で、アンガス・マディソンの、主に日本のビジネス関連メディアでの流行とグローバル・ヒストリーの流行で注 目を浴びている近年の数量経済史を正面から論じたことは喜ばしいことだと思っています。この論説は、2013年出版の『中国経済史』にこそ入っているべき内容 だったと思うのですが、『中国経済史』では、「まともに取り扱う必要はない」という感じでスルーされていたのに不満が あったためです。桃木至朗氏が『「世界史」の世界史』第17章注26で、「こういう問題は放っておいても誰かが論じる。 より質の悪いものがはびこって火消しに苦労しないように、日頃から「よりよいグローバル・ヒストリー」を考えておけ、と いうのが筆者の立場である」と記載しているのと同じ範疇のことだと思うからです。

 『「世界史」の世界史』で言語論的転回が正面から扱われているのを読み、日本で言語論的転回やそれに類する構築 主義的議論が歴史学内に受容されてきたルートについて興味がでてきています。なんとなく印象ですが、

1)言語・記号論→言語論的転回(リチャード・ローティ(米)、ヘイドン・ホワイト(米)、ローレンス・ストーン (英))(米国)→ キース・ジェンキンズ(英)、リン・ハント(米)→ 岡本充弘、長谷川貴彦(イギリス史家)、小田 中直樹(イギリス労働者階級成立史研究に関する研究報告(『言語論的転回と歴史学』(pdf) (2000年) 
2)近代フランス研究: リン・ハント or 言語論的転回を受容した90年代アナール派 ?→? 遅塚忠躬(『フランス革命とヨーロッパ近代』1996年) → 遅塚忠躬『史学概論』
3)現象学(仏)→ 物語論:リクール、リオタール ?→? 二宮宏之(フランス史家)
4)現象学、科学哲学、パラダイム論、ダントー → 野家啓一(哲学)
5)文化社会学(ブルデュー)⇒アナール学派・新しい文化史(文化論的転回)⇒福井憲彦


という感じがしています(この経路図は暫定版です。不明な箇所の書籍等を確認して修正中です)。

 他にも(6)フーコー(哲学)、デリダ(文学)、文化人類学、ウンベルト・エーコ(記号論)等々のいろいろな経 路があるはずなのですが、今回あげている書籍の著者たちのメインルートは1−3)という感じです(キース・ジェンキンズ の本にはフーコーが少し言及されていましたが、メインは『メタヒストリー』という感じでした)。1980年代の日本の、 歴史学の外側で行われていたこの手の議論は、フランス現代思想や文化人類学だったので(主に(6)のルート)、当時学生 だった私には少し意外でした。結局のところ、当時の日本の歴史学にとっての方法論的外圧は、主にアナール派だったため、 その後はアナール派(と文化史)の受容のみが進み、90年代以降米国一人勝ちのグローバリゼーションの元では、思想の輸 入も米国→英語圏(英)という方向から移入された、ということなのかも知れません(※2018/Jun/8 その後、い ろいろ読み進め、米国の文芸評論におけるデリダとヘイドン・ホワイト(言語論的転回、物語論)、及び哲学のフーコー(言 説論)と文化人類学者のクリフォード・ギアーツ(表象研究)等の影響だということがわかりました。米国で本来文芸批評 だった言語論的転回と物語論が歴史学に受容されたのは、米国では、ヨーロッパの歴史学は、一次史料に当たることが難しい ため、歴史学著作を歴史研究の材料に用いることが多いことから、テキスト論が流行してしまった、ということのようです。 怪我の功名という感じです)。


 ミネルヴァ世界史叢書の編纂委員における言語論的転回の受容については、彼らの著作についての所感とともに、次 回記載したいと思います。(1)のルートは馴染みがなかったため、今回キース・ジェンキンズの『歴史を考えなおす』 を読んでみました。この本は、1991年に発表されたものが、2005年に岡本充弘氏により邦訳されたものです。これに ついては次々回にまわします。


(2)言語論的転回 日本での受容<1>

2018年06月2日

 今回は、主に、ミネルヴァ世界史叢書の編集委員に、言語論的転回がどのようにインプットされた か、について読んだ書籍が中心です。

ミネルヴァ世界史叢書の総論の巻である『「世 界史」の世界史』の最終章では、言語論的転回が正面から取り上げられています。この章は、 桃木氏が文章化、それを編集委員がレビューしたとのことなのですが、編集委員でも議論が完全に一致して いるわけではなく、「編集委員間ですら、共有されているのは素朴実証主義への批判と国民国家史観(一国 史観)を方法論を含めて超えようという一般論以上にはいくらも出ない」(p410)と記載されているた め、言語論的転回を盛り込んだのは誰なのか、気になったためです。ミネルヴァ世界史叢書の編集委員は、 秋田茂、永原陽子、羽田正、南塚信吾、三宅明正、桃木至朗の各氏です。全員を確認できたわけではないの ですが、いくつか有意な情報が得られました。

1.桃木至朗『わ かる歴史-面白い歴史-役に立つ歴史』(2009年)

 本書における桃木氏の問題意識の中心は、高校大学教育における世界史教育問題にあり、その震源 のひとつは、2006年に発覚した世界史未履修問題であるようです。世界史教育問題に関する書籍として の案内は次回に記載することにして、言語論的転回に関する部分では、文化人類学が背景にある、というこ とがわかりました。文献史料の少ない地域・時代の研究では、必然的に考古学や環境学・文化人類学など諸 科学との学際研究が発達せざるを得ず、歴史学者も前向きにこれら諸科学を導入するところがあります。桃 木氏は、中世ベトナム史研究者として、文献史料の壁につきあたり、文化人類学に詳しくなった、というこ となのかも知れません(文献史料の多い地域や時代が考古学・環境学・文化人類学等が不要なわけではな く、文献史料の少ない社会と統合的に論じるためにも必要であるものの、なくても研究が成り立つので、あ まり重要性を理解していただけない(ように見える)ところが悲しいところです)。

 『「世界史」の世界史』の総論の参考文献には、綾 部恒雄編『文化人類学15の理論』が掲載されているのですが、『わかる歴史』でも、「競争 主義の英米で鍛えられた文化人類学が日本でも系統的な入門書(5)を次々と生み出してきたこととは対照 的」(p42)、注釈(5)で「[綾部(編)一九八四][祖父江一九九〇]は学の発達過程と主要領域を かなり系統的に理解させる」(p43)と言及されていて、日本の歴史学界でも、このような書籍が必要 だ、と述べられています。これはまったくその通りだと思いますし、文化伝播主義や、文化進化論、新進化 主義、文化様式論、象徴論、機能主義人類学など、歴史学に類似の方法論が導入されていることから、ほぼ 似たような項目立てで歴史学の方法論史を描けるのではないかと思います。
 『文化人類学15の理論』は、ちょうど大学に入学したとき出版され、入門書として読んで以来、 文化人類学の入門書としてだけではなく、学問の方法論史の見本書籍としてずっと有用な書籍だと思ってき ました。この点は、非常に嬉しい思いがあると同時に、残念にも感じられました。私は、桃木氏の『歴 史世界としての東南アジア-世界史リブレット』での東南アジア史学史の描き方を非常に気に 入っていたのですが、このスタイルの震源は、『文化人類学15の理論』にあるのではないか、という気が したためです。こういう形の史学史を描けるひとがあちこちに出て欲しいと思っていましたし、このリブ レットを読んだとき、「出てきた。歴史学内に拡大している」と思ったわけですが、実際には、桃木氏も私 も、同じ『文化人類学15の理論』を読んだ、「歴史学をやっていて文化人類学を学ぶ変わり者」という非 常にローカルなセグメントにいるだけなのではないか?という印象を受けたわけです。もしそうだとした ら、歴史学内に広まっていない、ということが確認できてしまったことになり、この点で、残念だ、という ことなのです。

小田中直樹氏が、『岡本充弘他編『歴史を射つ』(御茶の⽔書房、2015)書評会』(小田中 直樹(2015 年10 月24 日、東洋大学)』のpdf(こ ちら)で以下のように述べています。


「「歴史研究としての世界史」にとじこもる歴史愛好者(歴史学コミュニティ)の内輪話として の史学史は、もう飽きた。でも、ぼくらは「
言説のとしての世界史」にコミットするリソースをもっているのだろうか?」(p4)

「史学史を「ランケ史学の物語り風の歴史叙述の政治史学」」(p3)

私は、「内輪話としての史学史」にはほとんど興味はないのですが、小田中氏の見解が日本の歴 史学界における史学史認識を指摘しえているのだとすれば、残念なことです。史学史は、学説構築・変 容史の研究として、正式に歴史学内部での研究としての位置づけが必要なの
ではないかと思います。最近比較的認められるようになってきているような印象がありますが、 読者受けする史学史は、「ランケ史学風物語」となってしまうように思えます。

 あと、私にはあまり興味のない政治史のご専門であるにも関わらず、古代ローマ研究者の南川 高志氏に注目する理由も、やはり『ロー マ皇帝とその時代―元首政期ローマ帝国政治史の研究』で、史学史がかなりしっかりと書 かれていたことにあるような気がします。言説としての史学史認識が高い南川氏であるから、「歴史研究者が提供できる望ましい歴史像とは、史料の精査に基づく だけでなく、歴史像それ自体の生成や変遷をも検証し、また現代との連関、時に緊張関係の中で構 築されたもの」(「思想の言葉 歴史像の構築のために--歴史学の研究者にできること」(『思 想』2011年10号(通番1050号))という文章が出てくるのではないかと 思った次第です。



 2013年頃に読んでいるのですが、その時は、「地球市民」というキーワードが大きく意識 され、著者自らp93で、著者の主張へのリアクションとして想定されている、「難しい、無理だろ う」(少なくともあと数百年は)という所感だったのですが、今回読み返してみたところ、言語論的転 回という用語は登場していないものの、21世紀に入ってからの著者の研究では、言語論的転回が根底 にあることが理解できました。著者は、1990年代からイスラーム世界の研究を行い、「イスラーム 世界」という言説とその構築性を研究したわけですが(『イ スラーム世界の創造』2005年)、その結果、以下の認識に達したそうです。

「私がイスラーム教や「イスラーム世界」というピースのデザインと色についてだけ説明する限 り、人々は話を理解する。そして「なるほど、そういうことだったのですね」と納得する。しかし、全 体の図柄の中に再びそのピースを置いた途端に、人々のイスラーム理解は元に戻ってしまうのだ。全体 のデザインが決まっているからである(『新しい世界史へ』p93-94)」

 著者は、「イスラーム世界」の内容(シニフィエ)、その虚構性について人々に説明する。 人々の中ではその瞬間は、内容(シニフィエ)と著者の説明(シニフィアン)が一致している。しか し、説明が終わると、記号(シニフィアン=イスラーム世界)は、全体の図柄(一般的世界史理解の中 のイスラーム世界=ソシュール言語学における、「意味内容は記号体系全体により決定されている」と いう認識に相当する)に回収されて意味(シニフィエ)が決定されることになるわけです。

 私がこれまで読んできた著者の著作では、ポストモダンな理論色はまったく感じられなかった のですが、この「イスラーム世界認識問題」という問題意識が根底にあって、「世界史像そのものを変 えなくてはだめ(言語学でいえば、「意味を決定する記号体系そのものを論じて脱構築しないとだめ」 ということに相当する)」というような意識で新しい世界史へアプローチしているわけですから、言説 問題の深刻さ、政治性・権力性は、非常に深いところに刻まれているように私には思えます。2013 年頃に読んだときには、脱構築論とかにはまったく縁のない実証主義歴史学者に思えた著者から「中心 はいらない(p123)」との、少々過激に思える宣言は唐突な印象を受け、この宣言の体系的・思想 的震源・必然性がわからなかったのですが、今回読んで納得できました。なぜサファヴィー朝研究者で あった筈の羽田氏が、世界史問題にコミットするようになったのか、ようやく理解できました。

3.『歴 史学の未来へ』(原題:歴史学は危機にあるのか?)ノーマン・ウィルソン(2011年)南 塚信吾、木村真監訳

 南塚氏の著作は読んだことがないのですが、氏が監訳した歴史学方法論紹介の本書は2014年に 読みました。本書はポストモダンの歴史学の概説書です。言語論的転回含め、ポストモダンなタームがてん こ盛りの書籍です。ハンガリー史研究者の著者がなぜ本書のような方法論書籍を、しかもマルクス主義を解 体するような方法論も多い書籍の監訳を勤めたのか不明ですが、どうやら桃木氏と同様、2006年の世界 史未履修問題が背景にあるようです(2007年に、『世 界史なんていらない?』という冊子を出版しています)。本書は、翻訳部分とは別に、末尾 に、南塚氏の補論が掲載されており、そこで「言語論的転回」の(基本的に米国における)受容がまとめら れています。あとがきによると、歴史学の欧米との学際交流が増している昨今、本書の内容にあるような方 法論を抑えておかないと、「さまざまな不都合を引き起こすことがある」(p266)と書かれていて、南 塚氏自身が、どこまで言語論的転回や言説研究の問題意識を体感しているかは不明です。(なお、この本 は、2014年に読んでいて、今回読み直したのは補論とあとがきだけです)。


 総じて、ミネルヴァ世界史叢書は、主にグローバル・ヒストリーの推進者たちが編集委員であり、 その総論に、まともに言語論的転回が扱われているのに、喜びとともに、一抹の疑念も感じ、特に中世ベト ナム史、サファヴィー朝史、ハンガリー史研究者だった各氏がどうして?という印象があったのですが、一 応私なりに理解できた気がします。この3者の中では、(私が言語論的転回という用語を読んだ覚えがな い)羽田氏に一番深く刻まれていている印象を受け、逆に直球の内容の訳書を出している南塚氏の方は、か なり距離感があるようなのが印象的でした。

 ミネルヴァ世界史叢書の編集委員の残りの三名については、まだ確認できていないので不明です が、秋田氏は、普通にグローバルヒストリーの方角から、永原陽子氏はポストコロニアニズムから、という 感じがします。そのうち著書を確認してみたいと思います(※秋田氏の2008年のグローバル・ヒスト リー推進論説(こ ちら)によると、言語論的転回や言説研究にはうんざりしているようです)。


4.ヘイドン・ホワイト『メタヒストリー』

『メタヒストリー』完読しました。既に古典の位置づけなので、最新議論は、ヘイドン・ホワイトの 近年の著作とか、岡本充弘氏の著作が昨年から今年にかけて何冊も出版されているため、特に今読む必要性 のある書籍というわけでもないのですが、取り合えず、序章とあとがきだけ、とりあえずクローチェとブル クハルトだけ、とりあえずランケとトクヴィルだけ、とりあえずミシュレとニーチェ、、、、、という具合 に段階的にいつのまにかだいたい読んでしまい、あとヘーゲルとマルクスだけだから完読してしまおう、と 結局半年がかりとなりましたが最後まで読んでしまいました。感想は以前(こ ちら)記載したので今回は省きます。


 前回記載した経路図に、ミネルヴァ世界史叢書の関係者を加えると、以下の感じです(暫定版その 2)。

1)記号論→言語論的転回(リチャード・ローティ、ヘイドン・ホワイト(米)、ローレンス・ス トーン(英)、ジョーン・スコット(米)、ステドマン・ジョーンズ → キース・ジェンキンズ(英)、 リン・ハント(米)→岡本充弘、長谷川貴彦(イギリス史家)、小田中直樹(イギリス労働者階級成立史研 究に関する研究報告(『言語論的転回と歴史学』(pdf) (2000年)  
2)近代フランス研究: リン・ハント or 言語論的転回を受容した90年代アナール派 ?→? 遅塚忠躬 (「言説分析と言語論的転回」(『現代史研究』42号1996年)→ 小田中直樹 (フランス経済史)、遅塚忠躬『史学概論』
3)現象学(仏)→物語論:リクール、リオタール ?→? 二宮宏之(フランス史家)
4)現象学、科学哲学、パラダイム論、ダントー → 野家啓一(哲学)
5)文化社会学(ブルデュー)⇒アナール学派・新しい文化史(文化論的転回)⇒福井憲彦

6)文化人類学 → 桃木至朗(*1)
7)独自の「イスラーム世界」という言説研究 →羽田正(本人はこの用語を使っていないようだ が、実質的なコミット度は高そう)
8)欧米の研究者との交流のための翻訳 ノーマン・ウィルソン → 南塚信吾(コミット度は低そ う)

*1『高校 ・ 大学歴史教員の養成に必要な授業を考える』(2011年 PDF) にて「「一次資料による実証」は「言語論的転回」などわざわざ持ち出さずとも、ユークリッド幾何学など と同じく一定の約束事の範囲内でのみ有効性をもつにすぎない(その外に出れば「世界システム論は実証で きない」などと言っても無意味だし、「歴史学は歴史小説より優れている」などとは言えない)。●それを 認めた上で、「高校生・大学生にわかる」歴史を学ぶ効用(複数!)の語り方、それも「講義の最初の時間 に簡単に語る」方法」と記載されています。また、著者のブログで遅塚忠 躬氏『史学概論』の読後所感でも言語論的転回にもふれられており(こ ちらこ ちら)、コミット度は高そうに見えます。


 今回の『思想』3月号の特集と『メタヒストリー』は、同じ分野の話なので、ほぼ同時期に日本で 両者が登場したのは意味のある関連に見えるのですが、『メタヒストリー』の邦訳時、日本の翻訳者と著者 の橋渡しをしたのが岡本氏ということなので(岡本 のブログ2018年3月)、この点は納得できるものがあります。

(3)言語論的転回 日本での受容<2> 

 今回は、言語論的転回の日本での受容です。

 私の学生時代(1980年代)は(私の周囲では)、このあたりの議論は、歴史 学側にぜんぜん受容されてはおらず、同じ西洋史専攻や史学科の同級生に、歴史方法論を 勉強している、というとマルクスか、ウェーバーか、ときかれ、どちらでもない、と答え ると、うさんくさそうにトインビー?生態史観?と口にされるような状態で、よくても哲 学だと誤解され、前提が遠すぎて話が通じない状況でした。言語論的転回及びそれに類す る構築主義的言説は、80年代当時の日本では、哲学、文化人類学、社会学、文学ではか なりの程度受け入れられてたものと思うのですが、歴史学ではそうではなく、最近でもど の程度の受容度なのか、いつ頃どのように歴史学内に浸透してきたのかが知りたいと思 い、調べています(このあたりの方法論が卒論のテーマのひとつでしたのです。卒業後の 30年間の動きを、今、学習しているところです)。

(1)キーとなる書籍

岩 波講座 哲学 歴史/物語の哲学』(2009年)所収の小田中直樹氏 「「言語論的転回」以後の歴史学」で日本の歴史学界での反応ぶりが簡単まとめられ ていました。それによると、キーとなる書籍には以下のものがあるようです。

『思想』1994年4月号 「歴史学とポス トモダン」特集 838号
遅塚忠躬(「言説分析と言語論的転回」 (『現代史研究』42号1996年)
『歴史学の〈危機〉』邦訳1997/10 ジェラール・ノワリエル、小田中直樹訳
小田中直樹(「イギリス労働者階級成立史研 究に関する研究報告」(『言語論的転回と歴史学』(pdf) (2000年)
『歴史叙述の現在―歴史学と人類学の対話』 2002/12 森明子編(一部に関連論説掲載)
中村政則「言語論的転回以後の歴史学」『歴 史学研究』779号、2003年
キース・ジェンキンズ『歴史を考えなおす』 (邦訳2005年)岡本充弘訳
『物語の哲学 増補版』(岩波現代文庫, 2005年)
岩波講座 『哲学<11>歴史/物語の歴 史』 2009年
遅塚忠躬 『史学概論』(2010年)
『思想』2010年8月号 「ヘイドン・ホワイト的問題と歴史学」1036号
『歴史を射つ: 言語論的転回・文化史・パブリックヒストリー・ナショナルヒストリー』2013年:岡本充弘編
『現代歴史学への展望――言語論的転回を超 えて』2016/5/25 長谷川貴彦
『メタヒストリー』邦訳2017年
『思想』2018年3月号「〈世界史〉をい かに語るか――グローバル時代の歴史像」

一瞥して、歴史学の雑誌ではほとんど論じら れておらず、一部の書籍も歴史学ではなく、歴史哲学に分類されているのではない か、と思えるラインナップです。これだけ見ていると、やはりまだまだ、という感じ がします。『思想』1994年4月号で論者6名のうち日本人は1名だったのと比較 すると、『思想』2018年3月号では、論者9人中6人まで日本人というのは大き な前進です(岸本氏はこの手の議論とはまったく関係ない人ですが、、、)。

 全体的な流れは前 回記載した経路図の通りです。
2013-14年に、『歴史と事実―ポストモダンの歴史学批判をこえて (学術選書)』(2012/11、大戸千之著)、『歴史学の未来へ』(ノーマン・ウィルソン著(2011年)南塚信吾・木村真監訳)を読み、『歴史を射つ』の第一部、遅塚『史学概論』の言語論的転回 の部分を読みました。その時の印象では、あまり受容されている、という感じはしま せんでした。言語論的転回という用語で表象されている内容は、おおまかにいくつか にわけられます。(あくまで私の捉え方です)ざっとあげると、以下のような分類で しょうか。

 言説・構築性/物語性・認識論・研究体制 (言説の再生産とその限界)

 乱暴な言葉でまとめますと、大戸氏と遅塚 氏は、カーの『歴史とは何か?』における構築論・解釈論からいくらも出ていない印 象がありましたし、ポストモダンの歴史学を扱った『歴史学の未来へ』は、訳者あと がきに、英米学界との交流目的に翻訳した、とあるように、どこか他人事というよう な印象を受けました。『歴史を射つ』は、私の感覚では、まだ社会学の本で、実証主 義歴史学の本ではないし、多く論じられているのは、物語論という印象がありました (物語論には偏見を持っていたので、最近野家啓一氏の著作を読んで、考えが変わり ました。これは、日本語でnarrative と story が 「物語」という同一の単語として認識されることに起因する、言説問題そのもの、ということがわかりました)。2016年にでた長谷川貴彦 氏『現代歴史学への展望――言語論的転回を超えて』は、本屋でざっとめくっただけ なのですが、英米動向が中心で、文化人類学や社会学の香りがしなかったため*1、 読まずに終わってしまいました(私 は学生時代、文化人類学と社会学、記号論経由でこの分野の議論にゆきあたったた め、英米の言語論的転回というと、ヴィトゲンシュタインやデリダ、ヘイドン・ホワ イトや物語論のような、文学・哲学分野のものだとの印象を持っていたためです。 『メタヒストリー』も、古典を記念に購入した、という意識でした。気になってい た、岡本充弘氏『開かれた歴史へ』も、題名から受けた印象は、ウンベルト・エーコ の『開かれた作品』的な、史料(テクスト)の解釈論、という漠然とした認識でし た)。

*1この認識は、最近改まりました。米国の「新しい文化史」には、クリフォー ド・ギアーツ、ヴィクター・ターナー、メアリー・ダグラス、といった、英米の文化人類 学者やフーコーの影響が大きいことを知りました。

 そういうわけで、今年に入り、実証主義歴 史学者の方々が、ミネルヴァ世界史叢書の『「世界史」の世界史』の総論で言語論的 転回や物語論を正面から扱っていることに非常に驚いたわけです。そこで、岡本充弘 氏や長谷川貴彦氏の著作を読むべきか、読むとしたらどれから読むべきか、と思って いたところ、『思想』3月号で特集が組まれ、それを参考に読む順番が決まり、4月 後半から順番に消化しているところです(かなり脱線していたりしますが)。最新の 議論を知りたい、という点ももちろんありますが、当面の焦点は、学生時代、異次元 扱いされた議論が、いったいどういう具合に、ミネルヴァ世界史叢書や『思想』3月 号の方々に受容されるにいたったのか、という点と、歴史学界一般への受容具合で す。


(2)具体的な展開

 『思想』1994年の巻頭の短いエッセイ で、英文学者の冨山太佳夫氏が、日本の歴史学界に喧嘩を売ったことがはじまりのよ うです(これは凄い。しかしこのくらい書かないと動かなかったのかも知れませ ん)。それに遅塚氏が反論(1996年)し、小田中氏も1997年には、言語論的 転回を批判するノワリエル(仏)の著作を翻訳しています。それとは別のルートで書 かれた野家啓一氏の物語論に、やはり遅塚氏が反論(2010年)し、それに野家氏 が再反論(2016年)する、という状況です。

 小田中(2009)によると、日本の 戦後人文学では新カント派が勢力を持っていたため、新カント派と密接な関係に あったウェーバーの受容に寄与した、との仮説を提出しています。言語論的転回 は、新カント派の認識論のレベルと同一視され、特段日本の歴史学会は反応を示 す必要を認めなかった、ということのようです。ウェーバーの概念装置も言説化 しているため、社会的現実を表象する概念のもつ構築性が問われないわけではな い、と思うのですが、言語論的転回を言語や概念・用語の認識の問題だけに収斂 させてしまえば、そういうことになってしまうのかも知れません。小田中氏によ ると、英米の言語論的転回派は、その後「思想史」や「研究史」に分化していっ たそうですが、私が史学史や世界観の歴史に興味を持つのも、そういう文脈に回 収されるのかな、と思った次第です。なお、小田中氏は、歴史学における受容 は、「かなりの程度、歴史学界に受容され、吸収され、消化された。これら以外 の点については、棄却され、あるいは黙殺された」(p138)と記載し、全体 として「言語論的転回の流行という現象は終わり、過去のものとなった」 (p123)と記載しています。

 「言語論的転回」は、換喩化(『メタ ヒストリー』が売れたおかげで、このマイナーな用語が使いやすくなった気がし ます)して、物語論や構築主義一般を表象する用語になってしまっているような 感じがありますが(私もそういう使い方をする時があります)、狭義の「言語論 的転回」の歴史学への受容は、もう終了した、というのが小田中氏の見立てのよ うです。すると、次は、広義の「言語論的転回」に含まれる物語論と対決する (受容するのか撃破するのか、一部だけ取り入れるのか不明ですが)ために、 『メタヒストリー』の邦訳が売れたのかも?、という気がしなくもありません。

(3)残る課題

 しかし、ミネルヴァ世界史叢書の総論 で言語論的転回に言及した方が、桃木氏や羽田氏だったとすると、「終わった」 などとはいえないのではないかと思います。
 率直に書きますと、中心にいる人は、 言説問題に鈍感です。社会の主流であり、常識的認識(だと考えられている)を 持つがゆえに、ある用語や概念がもつ権力性や政治性・恣意性に鈍感であり、逆 にマージナルな人ほど、中心にいる人にとってのなにげない用語がもつ政治性・ 権力性に敏感となり、その構築性が問題となるわけです。言語論的転回は、言語 論に限ればどこの国でも論じることが可能ですが、構築性や言説問題となると、 言論統制のある国の歴史学界では論じること自体が難しいところがあります。こ の点でも、言論の自由な国にいる、非欧米日地域を対象とするベトナム史やイス ラーム史研究者が、このあたりに敏感になるひとつの必然性がある、ともいえる のではないかという気がします(『「世界史」の世界史」の総論では、「歴史 像」の構築性関して言語論的転回が言及されているのであって、少し角度が違い ます。しかし、言語論的転回に敏感になる震源はここらへんにあるのかも知れな い、という話です)。

先ほどあげた分類、

 言説・構築性/物語性・認識論・研究 体制(言説の再生産)

のうち、言説・構築性の問題について は、日本の歴史学界でも受容されたような印象があります。しかし、物語論と認 識論については、相互の議論にいまだ食い違いがあり、今後も議論が深まるべき 分野ではないかと思います。
 論点のひとつには、歴史学は科学か? という議論があるように見えます。数学でさえ、いまだに プラトニズム的実在 論・形式主義・数学は文学である・経験論 に分かれて認識・議論されていたり するので、叙述という行為に注目すると歴史学は文学である、という議論が出て きてしまうわけですが、記号の記述という側面に注目すれば、数学と歴史叙述は あまり変わりません。高等数学は、物理学と結びついて科学と化しているわけで すが、歴史学も、考古学や環境学、20世紀後半からは数量史での数学など、諸 「科学」と結びついていて、かなり地続きです。

  研究体制(言説の再生産)につい ては、アカデミズム批判の材料を待っているような人々に政治利 用されることを避けるためかも知れませんが、学者はあまり触れたくない部分なのか も知れません。しかし確かに、史料が少ない地域ならともかく、近世以降の膨大な文 書史料・書籍がある時代については、膨大な史料を編纂した先行研究の活用による歴 史像や言説の継承問題は現実に存在するわけですし、だからこそキース・ジェンキン ズ氏のような脱構築論者だけではなく、桃木至朗氏も『わかる歴史・面白い歴史・役 に立つ歴史』はじめ著作で発表し、大学や高校における世界史教育の変革活動を具体 的に提言・実践しておられるのではないかと思います。研究史についても、小田中氏 が、岡本充弘他編『歴史を射つ』(御茶の⽔書房、2015)書評会』(小田中直樹 (2015 年10 月24 日、東洋大学)』のpdf(こ ちら)で以下のように述べている通り、この認識がどれくらい一般化し ているかどうかはともかく、明確に認識されています。

「「歴史研究としての世界史」にとじこもる歴史愛好者(歴史学コミュニ ティ)の内輪話としての史学史は、もう飽きた。でも、ぼくらは「
言説のとしての世界史」にコミットするリソースをもっているのだろう か?」(p4)

 認識論・物語論・研究体制については、まだまだ進行中で、特に認識論・研 究体制は、永遠に進行するような種類の話なのだとは思いますが、全体的には、言語 論的転回に類する議論は、少なくとも一部の研究者たちには受容されているようなの は、理解できました。しかしまだまだ道半ば、という感じがなくもありません(しか し、ミネルヴァ世界史叢書の編集委員の方の著者やpdfやブログやツイッターなど を見る限り、彼らの活動は、言語論的転回とそれに類する視点を吸収している気がし ます)。

(4)まとめ

 冒頭で掲げた書籍はまだ全部読めておりませんし、今後全部読むかどうかは 不明ですが、このあたりの議論については、少し現在の議論に追いついてきた気がし ます。今の時点で『歴史を射つ』第一部をもう一度読めば、いろいろ発見があるかも 知れません(既に図書かで第一部だけ二度読んでいるのですが、その時は、相変わら ず文学・哲学畑・社会学の話という印象でコピーをとる必要も感じなかった)。その うち長谷川氏やハント氏の著作も読むかも知れません。
 ミネルヴァ世界史叢書の位置づけの理解もより深まりました。歴史学の最前 線では、とっくに文理融合の時代に入っているものと思うのですが、体制として確立 していなかったり、一般社会の理解が進まない部分もあるかも知れません。今後の発 展を願う次第です。


追記:『薔薇の名前』
 ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は、普遍論争と重要な関係があ り、その普遍論争は、現代でも生きている、ということはWikipediaの 『薔薇の名前』などに記載されていて知れ渡っていると思いますが、『薔薇の名 前』は言語論的転回の本である、という話を書いている人は、検索すると日本語 では227件しか出てこないので(そのページに両方の用語が登場しているだけ で、関連づけて書いていないものも多いため、実数はもっと少ない)、このあた りももう少し広まって欲しいと思う次第です(関 係を指摘している記事の例)。この本は言語論的転回だけの本では なく、歴史小説であり、推理小説であり、普遍論争(現代でも今なお終わってい ない。そもそも唯名論そのものが言語論的転回に連なる話)の書籍でもあり、更 にひっくりかえしてメタミステリーでもあり、迷宮小説でもある、という多様な 側面を持つところが、本書の凄いところだと思います(ミステリーの後期クイー ン的問題は、まさに言語論的転回の一種だと思うのですが、この関連について書 いている記事は検索しても出てこないのが残念です)。


(4)言語論的転回  日本での受容<3>

今回、

遅塚忠躬「言説分析と言語論的転回」『現代史研究42号』 1996年12月
岸本美緒「現代歴史学と「伝統社会」形成論」『歴史学研究』増 刊号 2000年度大会報告 2000年10月
中村正則「言語論的転回以後の歴史学」『歴史学研究』779号  2003年9月

を読みました。2013年に荻野美穂「歴史学における構築主 義」(上野千鶴子編『構築主義とは何か』2001年、所収)、今年小 田中直樹「言語論的転回と歴史学」『史学雑誌』109編9号  2000年9月、二宮宏之「歴史の作法」『歴史を問う<4>歴史はい かに書かれるか』を読んだので、これでだいたい1995-2005年 当時の日本の歴史学の言語論的転回に関する主要論説はカバーできたの ではないかと思います(個人的にはこれら6つの論説のうち、最後に登 場したアドバンテージがあるとはいえ、二宮氏の論説が一番よくまと まっているように思えます)。

今回読んだ三氏は、いかにも実証主義歴史学者という面々なの で、「新カント派と何が違う」と、せせら嗤うような受けで来るかと、 恐る恐る読んでみたのですが、普通に検討していて拍子抜けでした(た だし、新カント派(三木清の『歴史哲学』に代表される)にもともと あった、という直接的主張or間接的主張は、三氏とも出てくる)。し かも前向きな雰囲気です。むしろ、岸本氏は、若い頃新カント派的な議 論に接していたが、その懐疑的批判的姿勢が、より普遍的な客観的科学 へ向かってドグマ化してしまった、この点がポストモダンにより批判さ れているのだろう、と述べています。

「当時歴史学に志す普通の学生でも、「存在被拘束性」への認識 や素朴客観主義への懐疑を、一応の常識として身につけていたように思 われる」

しかしその一方、

「批判を通じて、人々の認識に、より普遍的・客観的な確実な基 礎づけを与えようとする努力がなされていた」が、「その普遍性・客観 性指向こそが新たなドグマを絶えず生み出して行ったという側面、そこ が現在問題になっているのだろう」(p13)

と端的に指摘しています。前回ご言及した太田秀通『史学概論』 なんかは、まさにこの指摘の特徴がよく出ている書籍です。中村政則氏 も論説冒頭で

「「歴史とは解釈である」という主張は、私の学生時代には必ず しも自明のことではなく、マルクス主義歴史学と実証主義歴史学が強 かった1960年代の歴史家は、史料は客観的な事実をあらわし、自分 たちは史料を媒介にしてthe historyを書いているのだと思い込んでいたのではなかろうか」(p29)としています。

これらを批判したはずの新しい思想や歴史学の潮流が、

「実際問題として、民族にせよジェンダーにせよ、押しつけ られた本質論的な枠組みを解体して被抑圧者の側に立とうとするポ ストモダン風の問題関心が、当の被抑圧者側において生き生きと存 在している本質論的志向に直面する、という逆説的な事態」(岸本 p14)

となってしまった現状に対して、なおもそれらの本質主義を も解体した果てには、普遍的妥当性(科学)との結びつきを失い、 立場の違いは、神々のたたかい(小田中、二宮)=政治的立場の違 いだけとなってしまう場合の懸念を岸本氏も、率直に表明していま す。

「普遍論的妥当性の足場を断念した政治一元主義が、研究会 での議論や専門的雑誌のなかで表明されるならばともかく、現実問 題として出てきたときは、我々はそれに耐えられるのであろうか」 (p14)

しかし、結局のところ、林健太郎氏が「一般常識」という用語を 用いたように、岸本氏も、「自然的態度」という用語にたどり着いてし まうところは残念です。ただしこの論考は、結局ゆきつく先は政治的立 場に還元される部分がある点を率直に記載しているところと、本質論か ら逃れる姿勢の提案には好感が持てます。

「「自然的態度」による「理解」にはエスノセントリズムや権力 関係、主観性が避けられず入ってくるかも知れないが、枠相互がぶつか りあうことの発見的な意義に期待したい(p15)」「固定観念が崩れ て相対化してゆく」(p19)

端的にいえば、最近古代ギリシア史の橋場弦教授がWeb雑誌の インタビューで回答していた内容(こ ちら)、

「歴史も一種の旅だと思えば同じことなんですね。過去にタイム スリップして、自己を相対化することが歴史学の目的だと思うんです」

に近い姿勢という印象を受けます。

中村氏と遅塚氏は、歴史学の客観性について述べていますが、こ の部分は詰めが甘い気がします。中村氏は、客観性について、小田中直 樹氏のコミュニケーション論に興味を持っているようですが、「間主観 的現実=客観」とは、認知的不協和やプロパガンダ、物理的な情報の改 竄や隠蔽などの情報謀略戦(ウィキアリティ含む)等に弱いという弱点 があります。遅塚氏は、歴史学が客観的科学とつながりを保つことでこ の弱点を回避する、という方向性のようですが、この場合の科学とは、 「科学的思考」に基づく学問、というほどの意味で、歴史学は、物理学 や化学などの科学とは異なることは自明だとは思うのですが、このあた りの議論が甘い気がします(そろそろ遅塚氏の『史学概論』を読む時期 となってきたような気がしますが、以前一部を読んだ時の記憶による と、1996年のこの論説からあまり変わっていないような印象がある ので、とりあえず急ぐことはないと思っています(何より分厚い本は後 回し)。今月は、イヴァン・ジャブロンカ『歴史は現代文学である―社 会科学のためのマニフェスト―』を読む予定です。最後のキケロ主義の ところだけ立ち読みして終わろうと思っていたのですが、図書館で少し 参照したところ、ヘイドン・ホワイトなどが論じられており面白そうで す)。

総じて、言語論的転回で表 象される内容(言説・構築性/物語性・認識論・研究体制(言説の 再生産とその限界))のうち、認識論については、もともと受容さ れていたが、戦後の一時期錯覚していた時期があった、という認識 が示され、言説・構築性についても認識されていることはわかりま した。しかし、具体的に一見客観的だと思われている歴史学用語や 認識の具体的な言説に対する分析・構築原理などの検討まではあま り踏み込まれていないように思えます。つまり、最近ヘイドン・ホ ワイトの著作が立て続けに邦訳され(物語性)、羽田氏が制度や言 語の問題に切り込んでいることの歴史学方法論上の現在的意味は、 ここにあるのだろう、と推測しています。ようやく、最近の状況に 追いついてこれた気がします。

それでもまだ議論に不足を 感じるキーワードをばらばらとあげてみました。

制度、客体主義、ウィキアリティ・陰謀論、情報リテラシー学と しての歴史学、レトロニム、歴史と感情

1)制度の話は羽田氏が取り組んでいる事例のようなものです。 あれが全てではありませんが、事例として説明はし易い状況です。心配 なのは、上述の認知的不協和云々のあたりで記載したように、歴史学と いうよりは、一般社会の方に関わる問題です。歴史学の研究そのものと はあまり関係がないため、歴史学者からはわりと放置されているような 印象がありますが、民主国家では、ウィキアリティのようなものが影響 力を持ち、世論で広く”客観的事実”が構成されてしまった場合、そ の”客観性”により歴史学への投資が制御される、という戦略がとられ る可能性があります。ネット上では、たまに、「ウィキペディアはいい 加減」と切捨ててこと足れりとしている学者の方を一部散見しますが、 現状認識が甘すぎるように思えます。

2)「客体主義」は、人文学的には言語論的転回により、ほぼク リアできているもの(だと思いたいの)ですが、世間一般ではまだまだ 残っています。二宮宏之氏は「歴史の作法」にて、これを「天から降っ てくる歴史」(p11)「客体主義」(p10)と形容しています。

「歴史というものは他から与えられる知識であり、暗記しておく べき細かい事実の集成だといった、きわめて受動的な受けとめ方をして いる」(同p11)

一般的に「日本史」「世界史」の教科書とか書籍は、知識がかか れていて、知識を学ぶものであって、知識がどのように構築されている のか、という仕組みを学ぶわけではないため、逆に陰謀論とか、「教科 書は嘘ばかり」「真実の歴史」というような触れ込みの書籍にコロリと いってしまう人がでてきてしまうように思えます。高校レベルの教科書 でも、知識がどのように構築されているか、その調査方法やその歴史を もっと教える必要があるのではないかと思います。中公新書『応仁の 乱』で有名になった呉座勇一氏がインタビュー(こ ちら)で以下のように答えています(以下の「この本」と は『陰謀の日本中世史』のこと)

 「この本を通して、歴史学の手法をぜひ知ってほしいです。真 実にたどりつくまでのプロセス、つまりどう考えて、調べて、研究を進 めれば歴史的事実をある程度確定させられるのかという手法を学ぶとい うことです」
 
 「この技術は現代にもつながります。歴史上の史料は、偽書なども紛 れていて実に玉石混交です。そういったものを慎重に見定め、真実にた どりつこうとする歴史学の手法は、現代の情報社会を生きるうえでのス キルにも近いと私は思います」

歴史学は、情報リテラシーを強く必要とする学問だと、より強く 一般に普及させる必要があるように思えます。客体主義の色調の強い国 民は、ある意味素直に提供された歴史像を刷り込み易い(洗脳し易 い)、ということでもあり、この点、戦前の皇国史観や、戦後のマルク ス主義、ウェーバー等の流行の根底は同根であるように思えます(この あたりの東アジア史的分析は、佐藤正幸『歴史認識の時空』が参考にな りました)。

個人的には、概説書はともかく、歴史学著作や論説の読者とし て、物語好きな人よりも、推理小説好きな人「も」ターゲットにしては どうかと考えています。物語が好きな人は、結局歴史小説や、歴史っぽ い異世界ファンタジーという範囲から出てこないのではないか、という 印象があり、一方、証拠を集め、論理的に実証してゆく歴史学の論証過 程は、物語ではなく、むしろ推理小説の構造だと思うからです。推理小 説も近代歴史学も同じ時期に成立した論理的科学的思考(これもナラ ティブのひとつですが)の産物である以上、読者層も重複する可能性は 高いように思えます(「大きな物語」はこの範疇には入りませんが)。 この議論は、ウンベルト・エーコが『三人の記号―デュパン,ホーム ズ,パース』(1990年)でアブダクションを用いて解説しているこ とと同じです。日本は、ミステリー好きな人が多いのだから、歴史本の 一定の読者市場層として見込めると思います。とはいえ、ミステリー界 にも、実際は論理的な謎解きよりも、雰囲気だけ楽しむのが好きなの だ、という層も多く、歴史論同様、ミステリーにも物語論的側面は大き くありますが。。。(このあたりを可視化した作品として、映画『名探 偵登場』、東野圭吾短編集『名探偵の掟』、『薔薇の名前』等その他メ タミステリーがあります)。

3)レトロニム

最近までこの言葉を知りませんでした。言語論的転回は相対主義 を生む、という議論がありますが、通常構築主義者が主張する相対性 は、メカニズム的にはレトロニムのようなものではないかと最近思うよ うになりました。相対主義と本質主義の二分論の間を上手く表現する用 語や概念がないか、このあたりを調べてみたいと思っています(記号論 での有徴号/無徴号とほぼ同じ内容です)。

4)歴史と感情

岩波書店『思想』の8月号の特集は「感情の歴史学」でした。こ れは、過去における感情のあり方の研究で、ここで書きたいことは少し 違います。多くの人が素朴な歴史観を持っていて、それは、日本であれ ば、江戸時代やそれ以前の 講談や軍記物、偉人伝(これらは明治以降お義務教育なども通じて国民 に広まった)、或いは明治以降の歴史小説や映画・TV、一般的歴史読 み物などの影響で構成されているものです。それに対して、歴史学者が 「史実はこうだ」とか、「歴史学は科学的だから」と押し付けるような 言い方をすると、感情を害して、なかなか受け入れられないことがある (反発されて明らかに学問的に成り立たない歴史観に追い込んでしまっ たり、歴史は物語(ストーリー)である、という極論にいってしま う)、という現実の問題があります。こうした現象について、歴史学 は、権威的に切り捨てるのではなく、市井の歴史観の生成や実態、大き な物語が希求される人間の性質等を研究し、更に歴史観と感情の関係も 研究し、その成果を一般社会に広くフィードバックしてゆく必要がある ように思えます。”史実”とは何であるか、「史料とロジック」を説明 し、「わかっている部分は実はここだけで、まだ未解明の分野はここと ここと」というように、謙虚で地道な努力を続けてゆく必要があるのだ と思う次第です。

追記:最近忙しかったため、油断していて21日公開予定の記事 が未完成のまま公開されてしまいました。仕方がないので一部追記(上 記2)−4)のあたり)して完成することにしました。21日予定の記 事がなくなってしまったので、21日はこういう時のためにとっておい た小ネタ記事の予定です。

(5)この四か月で 読んだ本・pdf一覧

ここ4ヶ月ほどで読んだ歴史学方法論関連書籍には、以下のもの があります。

(1)完読したもの

『思想』1994年4 月号 「歴史学とポストモダン」特集 838号
『思想』2010年8 月号 「ヘイドン・ホワイト的問題と歴史学」1036号
『思想』2018年3 月号「〈世界史〉をいかに語るか――グローバル時代の歴史 像」

ゲオルグ・イッガース 『20世紀の歴史学』晃洋書房、1996年

ジョン・ギャディス 『歴史の風景』大月書店、2004年
野家啓一『物語の哲学  増補版』(岩波現代文庫, 2005年)
岩波講座 『哲学 <11>歴史/物語の歴史』 2009年
野家啓一『歴史を哲学 するー七日間の集中講義』 2016年

キース・ジェンキンズ 『歴史を考えなおす』(邦訳2005年)岡本充弘訳
リチャード・エヴァン ス『歴史学の擁護』邦訳2002年
ヘイドン・ホワイト 『メタヒストリー』邦訳2017年

桃木至朗『わかる歴史-面白い歴史-役に立つ歴史』大阪大学出版会 (2009年)
『わかる・身につく歴 史学の学び方-大学生の学びをつくる-』(大学の歴史教育を 考える会/2016年)

岡本充弘『過去と歴 史: 「国家」と「近代」を遠く離れて』2018年、御茶の水書房
羽田正『グローバル化 と世界史』2018年東京大学出版会

(2)PDF

小田中直樹(「イギリ ス労働者階級成立史研究に関する研究報告」(『言語論的転回 と歴史学』(pdf) (2000年)
小田中直樹『岡本充弘 他編『歴史を射つ』(御茶の⽔書房、2015)書評会』(小 田中直樹(2015 年10 月24 日、東洋大学)』(PDF
渡辺和行『歴 史学の危機と『アナール』:21世紀の社会史に 向けて」(2007年3月)
矢野久「ド イツ社会史再訪−歴史学のパラダイム転換?−」 『三田学会雑誌』109巻1号(2016年4月)
北原敦「イタリアにお ける近現代史研究の過去と現在(1)」(PDF
立教大学共同研究 公 開シンポジウム「高校世界史教科書の記述を考える」(PDF
立教大学共同研究「世 界史教科書を巡る近年の情勢」(PDF)

(3)だいたい読んだもの

岡本充弘『開 かれた歴史へー脱構築のかなたにあるもの』 2013年、御茶の水書房
ゲオルグ・イッガース『ヨーロッパ歴史学の新潮流』晃洋書房、1986年
岩波講座 社会科学の方法IX『歴史への問い/歴史からの 問い』(二宮宏之「歴史的思考の現在」)

(4)一部を読んだもの

リン・ハント編『新しい文化の歴史学』1989年(リン・ ハント序章等)
『歴史を問う<4>歴史はいかに書かれるか』 2004年、岩波書店 (二宮宏之「歴史の作法」)
佐藤正幸『歴史認識の時空』知泉書館、2004年
『歴史を社会に活かす-楽しむ・学ぶ・伝える・観る』(歴 史学研究会:東京大学出版会/2017年)
『歴史学における方法的転回-現代歴史学の成果と課題 1980‐2000年第一巻-歴史学研究会』安丸良夫「表象の意 味するもの」等
小田中直樹編『歴史学の最前線-〈批判的転回〉後のアナー ル学派とフランス歴史学』叢書ウニベルシタス(2017年)
『これが歴史だ-21 世紀の歴史学宣言』ジョーグルディ著、2017年
『歴史・文化・表象― アナール派と歴史人類学』(岩波モダンクラシックス、 1992年)所収「付論 鼎談「社会史」を考える」
小川幸司『世界史との 対話―70時間の歴史批評』第一巻の著者解説
(他にもありますが重 要性は低いため省略)

(5)再読

E・H・カー『歴史とは何か』岩波書店、1962年
羽田正『新しい世界史へ― 地球市民のための構想』岩波書店2011年
小田中直樹『歴史学ってなんだ』2004年 PHP新書

『メタヒストリー』は 4月中旬に読了したというだけで、ほとんど半年がかりで読ん だものなので、厳密にはこの四ヶ月間に読んだ本とはいえませ んが、それ以外でも、結構な数になりました。このうち1/3 くらいはGWに読んだもので、残りはだいたい7日に一冊分の ペースで読んだ計算です。分厚い本は『メタヒストリー』くら いで、あとは薄い本が多いのですが、これ以外にも、読むべき か、買うべきか判断するために一部に目を通した書籍は結構な 量がありましたから、私としてはかなり密度の濃い期間でし た。それもこれも震源は、『「世界史」の世界史』です。当該 書籍のアマゾンレビューでも書きましたが、当該書籍で、実証 主義歴史学側にいる(と私が思っている)編集委員の論説にお いて、「言説・表象・メディア研究 (メタナラティヴ研究含む)が正面から扱われ、大きな歴 史像の権力性・政治性が率直に述べられている」ことを 知ったことにあります。それだけなら、『岩波講座世界歴 史<1>世界史へのアプローチ』の感想に書 いた時のように(こ ちら)、所感の記事を1本書いて終わるよう な話なのですが、このあたりの議論は卒論のテーマと重な る部分が多く、昨冬から今年の春頃は、丁度30年前に卒 論を書いていた頃のことをよく思い出していたこともあっ てか、どのようにこのあたりの議論(言語論的転回や物語 論・構築性等)が歴史学内部に受容されてきたのかを知り たくなったわけです。以前、2013年頃(『歴史を射 つ』が出た時)にも少し調べたことがあったのですが(当 時読んだのは『歴史を射つ』、遅塚忠躬『史学概論』それ ぞれの一部、『歴史と事実―ポストモダンの歴史学批判を こえて』『歴史学の未来へ』『構築主義とは何か』な ど)、あまり歴史学内部、特に正統派実証主義歴史学には 受容されている感じがしなかったため(当時の所感はやっ ぱりね、という印象)、『「世界史」の世界史』の総論を 読み余計に驚き、しかしあまり過度の期待は禁物だと、驚 き訝しがりつつ、調べてきたという状況です。

 近年出版された著作(例え ば長谷川貴彦『 現代歴史学への展望――言語論的転回を超えて』など)を読めば、もっと簡単に経過が把握できたかも知れませんが、長谷川氏や岡本氏は橋*1を渡ってしまっ た、現在では理論畑の人or社会学側の歴史研究(これは 『歴史を射つ』に対する私の個人的な印象)、という印象 があり、私の関心は、「実証主義歴史学にどの程度受容さ れているのか?」というところがポイントでしたので、今 回このあたりを知りたくて、2013年当時とは比較にな らないほど本腰を入れて調べることになり、ずいぶん時間 が掛かってしまいました。

*1 二宮宏之「歴史の作 法」p8「認識論としての次元での議論をほとんど無視 し、個別具体のなかに沈潜していれば歴史学はそれで十分 なのだという立場に与することもなく、この両者を架橋す ることが、この巻のねらいといってよい」との文言を踏ま えています。

 1980年代の日本の西洋 史学は、アナール派を取り入れゆくことが近々の目標であ り、それは当時においても時間の問題だと思えましたし (残念なことに私の在学中は学部まで落ちてきてはいませ んでしたが)、実際に、2000年代に入った頃には東洋 史や西アジア史でも大上段に宣言することなく、ほぼ自明 という感じでアナール派的歴史学の方法を取り入れた研究 成果が見られるようになってきたことは書店や図書館で本 を眺めていても了解できたことでした。書籍や論文で、言 語論的転回や構築性を潜在的に意識していると思われる業 績も、やはり2000年代以降出てきているような印象が ありましたので、特に実証史学の方法論書籍で取り上げら れなくても、まあいいかな、と個人的に思っていたのです が、それでも2016年に、世界史シリーズの第一巻とし て歴史学方法論を扱った『岩波講座世界歴 史<1>世界史へのアプローチ』(1998 年)を読み、アナール派や世界システム論が前提で記載さ れているのにも関わらず、本来言語論的転回や構築性が論 じられていておかしくない鶴間氏と樺山氏の章で言及され ていないのを見つけた時には、がっかりしたものでした。

というように、このあたりの 議論は、『メタヒストリー』や『思想』3月号で特集が組 まれたから、というのはきっかけのひとつに過ぎず、寧ろ 卒論を書いていた30年前を回顧していたこととシンクロ したという個人的な理由でこの数ヶ月間読んできたわけで すが、ようやくこの30年間の経緯がある程度理解でき、 現在の状況に追いつけてきた感じがしています。

ということで、ようやく最近 出版された書籍の紹介に至ることができました。最近読ん だ、最近出版された方法論関連書籍には以下のものがあり ます。これらについては、アマゾンのレビューに書いた通 りなので、ご興味のある方はリンク先をご参照ください。


岡本充弘『過去と 歴史: 「国家」と「近代」を遠く離れて』2018年、御茶の水書房(レ ビューはこちら
羽田正『グローバ ル化と世界史』2018年東京大学出版会(レ ビューはこちら

羽田氏はポストモダンの議論とは無縁な方ですが、制度 としての歴史学をテーマとしている部分は、まさに構築主義的 な議論そのものです。

最近出版された方 法論関連書籍というと、他に『歴 史学の最前線-〈批判的転回〉後のアナール学派とフ ランス歴史学』叢書・ウニベルシタス-小田 中直樹訳、英米については『グ ローバル時代の歴史学』リン・ハント著、『現代歴史学への展望――言語論的転回を超えて』 長谷川貴彦著、や、『思想」3月号でも紹介されていた『これが歴史だ-21世紀の歴史学宣言』刀水 歴史全書-ジョー-グルディ著、『歴 史学者と読む高校世界史-教科書記述の舞台裏』 長谷川修一著、『歴 史の見方・考え方-大学で学ぶ「考える歴史」』 神戸大学文学部史学講座著 等々、読みたい書籍はまだまだた くさんあるのですが、ざっと内容を確認したところ、今の ところ私にとっては優先順位は高そうにないため、少し勢 いを落として、少し古い成田龍一氏の書籍や『歴史叙述の 現在』、岸本美緒氏が言語論的転回について発言している 論説等の著作などとともにゆるゆる読んでいきたいと思い ます(あとどこかで遅塚忠躬『史学概論』 (その後完読)と『歴史を射つ』(現在1/2程度) を完読したいと思っています)

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