21/Nov/2017 created, 12/Jul/2018 last updated

歴史叙述における異化叙述と同化叙述



   異化叙述と同化叙述という用語は、(多分)私の造語です(検索しても出てこない為。もしかしたら既にどこかで使われている用語かも知れない)。翻訳にお ける異化翻訳と同化翻訳(又は異化的翻訳と同化的翻訳)から造語したものです。

 同化翻訳とは、異文化である外国文学を翻訳する場合、翻訳者が、翻訳先(自国語)言語の文化の人に理解できるよう、文章や単語 の順序や文意を補う翻訳手法です。意訳も含まれます。自由訳とも呼ばれます。

 異化翻訳とは、翻訳先言語の人の理解力に合わせず、平たく言えば逐語訳することです。

(1)異化翻訳と同化翻訳

 一般駅な読書経験に照らせば、ある外国文学作品を読むのに、非常に時間がかかり、読書エネルギーを要した次に、日本の流行作品 を読めば、あっという間に読めてしまった、という経験は誰しもあるところかと思います。これは当該の日本の作品が、同時代の日本 人には説明不要な部分(コンテキスト)を書き込まず、あるいは書き込んでいたとしても、そうした部分は、斜め読みしてもわかるよ うな日常的な描写であるため、ほとんどスルーする勢いで読み飛ばすことができるからです。

 逆に、そうした描写が、なじみのない外国文化のものであったりすると、きっちり読まなくてはならず、場合によっては読んでもす ぐにイメージがわかず、ちょっとイライラするような感じになる、心理描写にしても、通常の日本人が知らない、当該国にとっての常 識や社会背景などが登場した場合、登場人物がどうしてそう判断したのか、話の展開がつかみづらい、ということが起こることがあり ます。
 そうした細かいストレスが一冊読み終える頃には沢山積み重なり、外国文学の読書には日本の流行文学の読書に比べて読書エネル ギーが必要となってくる、ということかと思われます。

 古代や中世のような時間の離れている著作を読む場合は、日本(の古代や中世)であっても、似たようなことが起こりえます。自明 である社会常識(コンテキスト)が異なっている点が多いからです。ましてや外国の古代や中世の著作を読む場合は、二重に(外国で ある、古代/中世である)コンテキストが異なることになります(日本古代の作品で代表的は事例は、源氏物語です。谷崎訳が異化翻 訳、瀬戸内訳や林訳が同化翻訳、田辺訳が双方の要素を含めた中間訳ということになるかと思います)。

 このように、古代/中世/近世といった時代の著作物の現代語訳には、異化翻訳と同化翻訳と同じ問題があります。しかし、今回話 題にしたいのは、歴史文献における異化翻訳と同化翻訳ではなく、現代における歴史叙述における同化/異化の問題です。

 同化翻訳とは、翻訳対象のコンテキストを、翻訳先(この場合現代日本人)のコンテキストに馴染むように補完するものです。極端 に言えば、名前と地名を全て日本語に置き換えれば、日本の小説と見分けがつかなくなるような翻訳、そうした翻訳が同化翻訳であ る、と考えてもよいかと思います。従って、同化翻訳された著作を読んで、「この国の人は日本人と似ている」という印象を持ってし まった場合は、誤りである可能性があります。もし日本人と似ているのなら、同化翻訳は必要なく、異化翻訳のままでも、「似てい る」という感想になる筈だからです。異化翻訳でも「似ている」という印象を持てれば、実際に似ている可能性がある、ということに なるのではないかと思います。

 同様に、歴史著作の現代語訳においても、それが同化翻訳されている場合、「現代日本人と似ている」と安易に断定することはでき ません。現代日本人と似ているのならば、異化翻訳のままでよい筈だからです。


(2)歴史叙述における異化叙述と同化叙述

 歴史叙述についても同様の問題が発生します。その前に、歴史叙述における異化叙述と同化叙述(または異化的叙述と同化的叙述/ 異質化叙述と同質化叙述)に関して、具体例を挙げて説明したいと思います。

 少し前に読んだ歴史小説に、12世紀のアルビジョワ十字軍を扱った佐藤賢一『オクシタニア』 があります。オクシタニアとは、現在の南仏のオク語圏のことで、オク語と北仏のオイル語との違いを表現するために、著者は、当時 のオク語を関西弁、オイル語を現代日本語の標準語で表現しています。当時のオク語とオイル語の相違について、オク語とオイル語そ のものの解説を一切せずに、なんとなく読者の日本人に、オク語とオイル語の違いをイメージしてもらう、という手法です。アイデア として悪くない方法です。残念ながら、途中から私にはこれが異世界ファンタジー小説に感じられてしまいましたが、同化叙述のひと つのあり方だと思います。基本的に歴史小説というものは、同化叙述ということになるのではないかと思います(例外もあります。後 述)。

 二つ目の事例は、塩野七生著『ローマ人の物語』第12巻『迷走する帝国』での皇帝アウレリアヌスの書簡(と称するもの)の紹介 部分です。これは、4世紀末に成立したとされる(諸説あり)歴史書・通称『ヒストリア・アウグスタ』(邦題『ローマ皇帝群像』) に掲載されていて、この書簡は『ヒストリア・アウグスタ』の創作だとの説がある部分ですが、4世紀頃の著作であり、当時のローマ 人の見解のひとつであることには違いはありません。

 ここで塩野氏は、アウレリアヌス書簡の前半はほぼその通り引用しているのですが、後半は、半分以上塩野氏が創作した文章となっ ています。その後半部分を具体的に引用しますと、

『ローマ皇帝群像』(邦訳4巻p49-50)では
「自分の馬や荷駄獣を大事にさせよ。誰も家畜の飼料を売り払わないようにさせよ。皆に百人隊長所属のラバを共同で世話させよ。お 互いが主人(又は兵士)であるかのように接するようにさせよ。誰も奴隷のように従わせてはならない。医師は無料でかからせよ。占 い師には何も与えさせるな。宿泊先では、貞潔に振る舞い、争いを起こした者は鞭打て」 となっています。これに対して

『ローマ人の物語』(12巻p268)では
「「馬の手入れを、最優先事項と考えること。また、手入れを怠ってならないのは、騎乗用の馬だけではない。輸送用車の馬や牛で も、同様であるのを忘れてはならない。しばしば、世話をしている馬や牛の飼料を外部に闇で流す不届き者が問題になるが、そのよう なことが露見しようものなら厳罰が待っていることを忘れてはならない。そして、家畜とて人間同様に、自分一人のものではなく、自 分の属す部隊全体のものと思って、手入れも世話も成されなくてはならない」
 そして、全将兵を集めた席では、次のように言った。
「軍隊では、将官と一般の兵士の間では、双方の言葉や振舞いにちがいが生まれるのは当然である。だがそれは、軍隊内部での規律を 維持する必要からであって、個々の将兵の人格にまで及ぶことではまったくない。いかなる将官といえども、指揮下の兵士を奴隷のよ うに扱ってはならず、いかなる兵卒といえども、将官に召使のように仕える義務はない。将官も兵士も、軍隊という組織の一員である ことでは変わりはないからである。
 誰もが、その占める地位に関係なく、軍団の医師団による治療を平等に受ける権利を持つ。金品を贈ることでより良い治療が受けら れるというような状態は、絶対に許されてはならない」
 そして、最後にこう言った。
「どの神を信じようと占いに頼ろうと、それは個人の自由である。だが、軍団の行動が、この種のことに左右されるようなことはあっ てはならない。民間人に対しては、常に親切に礼儀をもって対さなくてはならない。外出の際に争いごとでも起こそうものなら、その 者には撲殺の刑が待っていることを、ここで明らかにしておく」」

馬の世話、軍隊での規律、医療、信仰の4つの要素からなっています。最初の馬の世話の段は、『ローマ皇帝群像(以下群像)で58 文字、『ローマ人の物語(以下物語)では211文字程度と、約3.6倍となっています。しかし内容的には同化翻訳の範囲内です。

一方、軍隊の規律の段は、『群像』では「お互いが主人(又は兵士)であるかのように接するようにさせよ。誰も奴隷のように従わせ てはならない」の52文字ですが、『物語』では194文字で、約4倍、増量的には前段の馬の世話の部分と 同じで、同化翻訳となっていますが、「個々の将兵の人格」を尊重する文言は塩野氏の創作だと考えられます(塩野氏は、出典を一切 記載していないため、他の文献からの流用である可能性もないとは言い切れません)。

三段目の医療の部分は、『群像』では「医師は無料でかからせよ。」で11文字、「物語」では84文字で約7倍、ほとんど創作と なっています。

四段目の信仰の部分は、『群像』では「占い師には何も与えさせるな」で13文字、『物語』では147文字で10倍以上となってい て、これはほぼ全部が創作となっています(英語版『ヒストリア・アウグスタ』の当該部分(こ ちら)でも「ローマ皇帝群像と同じ訳となっています)。(合計『群像』160文字、『物語』636文字、3.975 倍)

問題は、軍隊、医療、信仰の3段は、文章を補完する同化翻訳を越えて、本来の文章に無かった文言が追加され、その中に、「個々の 将兵の人格」「治療を平等に受ける権利」「それは個人の自由である」など、近代的な概念が多数登場している点です。これは同化翻 訳の領域を越えた、原文の文化そのものを読者側の文化に同質化させる、「同化叙述」と呼ぶべきものだといえます。

 勿論、古代ローマでも自由、権利、義務、平等、人格という用語とその用語が意味する概念はありましたし、ルネサンス以降古代ギ リシア・ローマ文化復興の過程で古代の文化が近代的概念で読みかえられて近代西欧文化が成り立ち、明治以降の日本は近代西欧の大 きな影響を受けているため、塩野氏の当該文章を読み、それが現代の日本での概念と似ているから、「古代ローマ人は現代日本人と似 ている」と感じられる部分はありえます。しかしながら、学問上では古代ローマにおける自由、権利、義務、平等、人格等の概念は、 それぞれ研究対象となっているような種類のもので、各々大きな議論があり、近代概念とずれている部分も明らかになっています。研 究書であれば、異化翻訳して注釈付きで解説するすべき概念を、原著に存在していない箇所に注釈もなしに挿入している『物語』の当 該部分は、同化叙述といえるものと思うわけです。

 このように、異化翻訳、同化翻訳と同様に、異なる文化の歴史について叙述する場合、読者の文化に合わせて記述する同化叙述、逆 にそれを行なわない異化叙述、というものが行なわれているのが、現在の歴史叙述ではないかと思います。

なお、当該アウレリアヌス書簡では、塩野氏が引用していない文が2つあるので、以下記載します。指輪や腕輪の前段、「売春宿で浪 費しないようにせよ」、最終行に「宿泊先では貞節に振る舞い、争いを起こした者は鞭打て」です(ただし、後者は、『物語』の書簡 末尾「民間人・・・撲殺の刑・・・」の行に相当しているのかも知れません)。


(3)同化叙述の書籍を読む場合の注意点

 基本的に歴史小説、歴史概説書、一般的な歴史書は、程度の差はあれ、同化叙述のスタイルをとらざると得ない、といえるのではな いかと思います。概説書や一般書を読む目的は、多くの場合、手っ取り早く概要を理解することです。読みやすく書くことは優先度の 高い要件です。

 一方、膨大な解説と注釈を必要とする異化叙述は、具体的には研究論文・研究書です。こういう意味で、歴史小説との認識が示され ることの多い『ローマ人の物語』は、私個人としては、歴史書に分類しています(歴史一般書であり歴史専門書ではない)。ただし、 かなり強度の同化叙述の書であることは間違いないと考えています。重要なことは、『ローマ人の物語』は歴史書か歴史小説か、とい う分類よりも、異化叙述か同化叙述か、という観点の方が重要だと考える次第です。

 極論すれば、同化叙述の歴史書は、対象の時代・地域を異文化として捉える視点よりも、概要を理解することを優先させているもの であり、記述先の社会から、現代日本と同じような印象を受けた場合は、まず同化叙述を疑ってみることが必要なのではないかと思い ます。仮に異化叙述の書を読んでみても、やはり「似ている」というような印象を受けた時こそ、そこに人類文化における普遍性とい うものに思いをはせることができる。こういうことかと思います。

 同化叙述の歴史書や歴史小説だけを読むのを好む歴史趣味の方もいると思います。この場合必要なことは、読んでいるものが、同化 叙述かどうかを意識することだと思います。同化叙述の書籍しか読まない方は、異文化理解にはあまり役立っていない可能性があり、 「日本人のために日本人向けにカスタマイズされた、日本人の間でしか通用しない(かも知れない)歴史書である」或いは、「現代人 のための現代人向けにカスタマイズされた、現代人の間でしか通用しない(将来ではコンテキストが理解されなくなる)歴史書であ る」ということは念頭においておく必要があるかと思います。

平たく言えば、同化叙述とは、コンテキストを読者の現代文化に置き換えてしまうこと、異化叙述とは、コンテキストを出来うる限り 研究対象の時代のものを復元するような叙述であり、歴史学の役割のひとつは、研究対象の時代のコンテキスト明らかにすることにあ る、ということです。こういう観点では、同化叙述書籍だけを読んでいると、当時のコンテキストがわからないままとなってしまう、 ということになるのではないかと思います。


(4)歴史は全て現代史である=同化叙述なのか?

 歴史は全て現代史である、という有名な言葉があります。これには二つの意味があります。ひとつめは、研究者がいかに異化叙述に 勤めたところで、結局は自分の生きている文化圏や時代の価値観、思考言語に影響されるため、限界がある、という認識レベルでの意 味です。商売や職人、金貸し、税というような用語や概念は古代にも多くの地域であったでしょうが、経済・銀行・金融という用語は 近代のものです。しかしこれらを近代に成立した用語全てを抜きにして歴史叙述をすることは困難です。

 ふたつめの意味は、その過去のある地域・時代を研究テーマとする動機や解析装置そのものが、現代社会の要請・概念である、とい うものです。18世紀に基本的人権概念や法治国家概念が西欧で成立するとともに、法律史が勃興し、19世紀に国家間経済競争が激 化すると経済史、20世紀に社会学が成立すると社会史が成立する、という具合に、現代に成立した学問ジャンルが遡及して歴史学に 適用されてゆく傾向があります。つまり、その時代の要請により歴史学の新ジャンルが成立してゆくため、全ての歴史は現代史であ る、とも見なせることになります。この場合、例えば、「社会史」という枠組みだけ過去に適用する場合と(漠然と「社会」という単 位で過去の社会を描く)、コンテキストの復元のための道具として社会学の方法論を利用する場合(アナール派など)と、社会学理論 を当てはめてしまう場合(マックス・ウェーバーなど)などに分けられ、コンテキスト復元の手法は様々に分類されます。

 歴史研究の場では、叙述以前に、研究手法や概念自体の中に”同化”が入り込む隙があります。これは、よく物語論として議論され ている部分です(硬い表現を用いれば、異化叙述(コンテキスト復元の手法)とは、客観的科学的である近代思考に構造化されてい る、などと表現される)。研究者は、同化を極力自覚化し、同化と異化の境目を明確に自覚化する必要があります。たとえ限界がある としても。一般的な概説書を書くときは同化叙述を採用することはあっても、研究自体では極力同化を相対化して研究対象の時代のコ ンテキストのを復元することこそが、歴史研究者の要件のひとつであり研究目標のひとつなのではないでしょうか。

 ひらたく言えば、現代文学の場合は、翻訳対象言語のネイティブの人にコンテキストを解説してもらい、自文化に安易に置き換えす ぎる同化翻訳をしないよう、或いは異化翻訳では翻訳によって意味や趣旨が変わってしまわないよう、相手文化の人にチェックしても らうことが可能ですが、近代以前の歴史研究の場合、研究対象のネイティブの人が存命していないため、コンテキストの絶対的な確認 がとれません。手法は近代思考により構造化されているため、歴史は全て現代史である、とならざるを得ません。しかし、歴史は全て 現代史である、ということは、歴史学の方法論と過去概念認識の限界点において議論される話であって、最初からコンテキスト復元の 努力を放棄していい、とか、現代のコンテキストに置き換えてしまっていい、という話ではまったくありません。寧ろコンテキスト復 元の証人が存命していないからこそ、研究者は、過去のコンテキストに近づくべく研究を続ける使命があり、コンテキストの復元が歴 史学の共通の目的のひとつであるのだと思います。
 
 コンテキストと歴史学の関係は犯罪捜査と「真実」の関係に似ているかも知れません。犯罪捜査において、各種科学捜査、心理学 (精神分析・プロファイリング)など、様々な近代的な新たな手法を束ねて捜査をし、より真実であると思われる事件の全貌を追求す るように、歴史学者も社会学・人類学・心理学・経済学・統計学・建築学・地質学・気候学など様々な手法を束ねてコンテキスト復元 を目指すのが現代歴史学です。一方最新の科学手法を束ねた犯罪捜査をやっても、犯罪者や関係者がついている嘘や思い込みなど、内 面を完全に見抜くことは決してできないかも知れません。「自白されたこと」や裁判の結果が「事実」とされるからです。だからと いって捜査をやめるわけにはいきませんし、新たな科学捜査手法を取り入れつつ、「より真実」に迫る犯罪捜査方法の追及は今後も続 きます。これと同様に、歴史学も新たな手法を追求しつつ過去のコンテキストに迫ること(異化叙述を追及すること)が必要です。
 

(5)非同化叙述≠異化叙述

 これまでの記述では、歴史小説≒同化叙述、という印象となってしまったかも知れません。しかし、日本の小説でも、異国情緒を強 調した外国を舞台とした小説というものがあります。中には、エキゾチシズムを求めるがあまり、実際には存在しない、ステレオタイ プな描写を売りとする小説もあります。歴史小説では『サランボー』などが有名です。ボルヘスの短編群にもこの手のものが多いよう な気がします。歴史映画ではパゾリーニの『王女メディア』でしょうか。
 同化叙述の歴史書や歴史小説をそのまま当該社会の本質だと信じてしまうことは問題ですが、実際には存在しないか、あるいはかな り偏ったステレオタイプやエキゾチシズムを追及しただけの歴史小説を当該社会の本質だと信じてしまうことも問題です。異化叙述と はあくまで、当該社会のコンテキストに沿った歴史叙述という意味であって、存在しないコンテキストは対象外だからです(厳密にい えば、現在現存していないが、過去において存在していたであろうコンテキストを対象とする、という意味です)。ただし、非同化叙 述は、「同化叙述」というものを認識させる力があるところが有用ではないかと思います。



 私が個人的に異化叙述の歴史小説だと考えてよいと思っている作品をあげるとすると、古代や中世の小説以外では、現時点で思いつ くところではユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』ぐらいです。かつて学生時代に、異化叙述だと考えていた作品は、その後再読・ 再視聴し、今ではその多くが非同化叙述である、と思えるようになってきています。


(6)歴史映画の問題

 歴史小説では、異化叙述の作品を見つけることができるかも知れませんが、異化叙述のスタイルをとっている歴史映画はほぼ存在し ないといっていいのではないかと思います(歴史映画の場合、同化映像・異化映像、という用語が妥当かも知れません)。当時の言語 をそのまま用いたメル・ギブソン『パッション』は異化叙述を目指した作品かも知れませんが、同監督の『アポカリプト』は非同化映 像ではあっても、エキゾチシズムの印象が強く、パソリーニ『王女メディア』と同類である気がします。オリバー・ストーン『アレキ サンダー』やBBC製作『ROME』にはリアリズムを感じましたが、あれが同化映像でないとは言い切れません。映像の場合には、 異化的なものを求める場合には、やはりドキュメンタリーということになるのではないかと思います。


(7)まとめ

 翻訳に異化翻訳(異質化翻訳)・同化翻訳(同質化翻訳)という方法論があるように、歴史叙述でも、異化叙述・同化叙述という概 念・定義が成り立つのではないかと思います。対象となる社会のコンテキストを現代に置き換えてしまうものが同化叙述であり、その 社会のコンテキストの復元が歴史学の役割のひとつである。ただし、歴史学著作ではあっても、一般読者を想定した著作の場合は、わ かりやすさを目指すために、ある程度同化叙述を取り入れざるを得ない。一方小説・映画では、芸術性や娯楽性備えた非同化叙述とい う作品が一部で成り立つが、基本的には同化叙述作品が殆どである、ということのように思えます。 

(8)あとがき

 以前から、『ローマ人の物語』を歴史小説に分類するのには若干違和感を感じていました。しかし歴史書にしては、現代日本への同 化の度合いが強すぎるのも気になっていました。個人的には、著者ご本人が歴史エッセイといっておられますし、塩野氏は日本におけ る歴史エッセイというジャンルを広く認知させた、という意味でも、歴史エッセイが妥当だと思うのですが、多くの場合、歴史書か歴 史小説か、の区分でしか論じられていないのにも違和感を感じていました。最近小説『オクシタニア』を読み、同化叙述/異化叙述と いう用語が私の中で腹に落ち、この区分がもっともすっきりするようになりました。『ローマ人の物語』は歴史書ではあるが、強度の 同化叙述の書である、同様に、ギボンも私の中では文学という分類だったのですが、あれも同化叙述の歴史書、という分類に落ち着く ようになりました。

 一方、映画では、昨年記載した記事『エ ジプト製ミステリー映画『ブルー・エレファント』(2014年)に一瞬登場する暗黒の中世社会の映像』において、

 「安易な先入観を吹き飛ばす「リアルというもの」、を際出させる映像」 

という回りくどい文章でしか表現できなかった内容について、「非同化叙述」という、端的に表現できる用語を見つけることができ、 すっきりしました。


(9)追記 ヘイドン・ホワイトの議論との関係

 先の9月29日にヘイドン・ホワイトの『メタヒストリー』 が出版され、先月は『実用的な過去』が、更に3月には『歴史の喩法』が出版されていて、今年はホワイトブームがきている感じでした(仕掛 け人は作品社の編集者内田真人氏らしい)。このタイミングで歴史叙述の記事を書くからには、ホワイト本の出版がらみだと思われる のが普通だと思いますが、この記事の直接のきっかけは8月に小説『オクシタニア』を読んだことで、これまで薄々考えてきたことが 言語化できそうだ、と考えたことにあります。当初考えていたのは(4)までです。

 ホワイトの議論と関連がある、と気づいたのは(5)を書いた後です。(5)と(6)はホワイトの一部の議論(例 えばこちら「「ポストモダニズムと歴史叙述(2009年)」)と関連しています。即ち、『王女メディア』『サテリコ ン』等学生時代(30年前)に「リアリズム」だと思えたものが、現在では単なるアヴァンギャルドに見えるようになってきてしまっ た。しかしそれらは、

 「安易な先入観を吹き飛ばす「リアルというもの」、を際出させる映像」

である点で有用である、という点で、ホワイトの主張する、ポストモダニズムの道具であり作品そのものである、ということです。こ れらの作品群は(5)における、非同化叙述に該当しています。しかしそれは、そのまま異化叙述の作品を意味しているわけではあり ません。ホワイトの議論では同化叙述と非同化叙述それぞれが、モダンとポストモダンにありえることになるわけですが、私の立場で は、異化叙述は非同化叙述の海の中での、極限まで客観的・科学的たる島なのです。

 私がホワイトの「ポストモダニズムと歴史叙述」の議論で少し不足に感じているのは、歴史学において、モダン(近代西洋思考=体 制)を打ち崩すものなら何でも(客観的合理性科学性の無いものでも)同等である、といいきってしまっている(ように思える)とこ ろです。実際その通りなのですが、だからといって、近代思考は無意味だと考えているわけではありません。唯名論的・脱コード的観 点(この用語を私がどのような意味で用いているかの説明は長文になりそうなので端折ります。私自身は通常了解されるところの意味 で用いていると認識しています)で、恒久的な人類の進歩と進化を是とし、思考の監獄に陥ることを否定する立場だからです。近代科 学を持続的に進歩・進化させ続けるためには、近代科学は常に自己相対化をし続け、世界に対して絶対的な認識を持ってはならない (=思考の監獄に陥ってはならない)、と考えているためです。自己を相対化させる<外部>を常に持ち続けなければならない、この ために<外部>が常に必要なので、ホワイトのいう<ポストモダン>は必要だ、と考えているためです。これが、私がサイト「古代世 界の午後」の「こ のサイトについて」で記載している、

 「空間的に、無自覚で自明だった層を新しく認識し、価値観の相対化を行うのが文化人類学であり、歴史学は、時間をさかのぼるこ とで、無自覚で自明だった層を新しく認識し、価値観の相対化を行うもの」

「史料とロジックが科学的であることを前提とした上で、既存の歴史像を常に揺さぶり続けることが、人間の 思考と 認識を進化させることができる、これが人類の未来に対する歴史学の役割である」

の意味です。私にとって、サイトで記事を掲載している、歴史小説・映画も、学術論文の感想等や、数量経済史的な記事も、すべて <等価>です。小説・映画は、ホワイト的な意味での<ポストモダン>的立場で歴史を眺めるものとして掲載しており、数量経済史や 学術論文の紹介等の記事は、ホワイトが<モダン>とする客観的合理性の立場で歴史を眺めるものとして掲載しています(遺跡は両者 の中間かも知れない)。極度にまるめれば、サイトの「このサイトについて」の記事で書いている、主観ー客観−実在は、そのままホ ワイトのポストモダンーモダンー(ポストモダン&モダン+それ以外の認識しえない何か)に当てはまります。
 
 最後に注意喚起しておきたいのは、進歩を是としているからといってその言葉は楽観的なものではない、ということです。自分自身 あまり好きな記事ではありませんが、「人 類史観まとめ」の記事の最後の図で書いているように、人類の進化と進歩はカオス領域の増大と表裏一体です。人類が物 理系(=バタイユ用語では連続体。これも説明は端折ります。最近の著作だと、『サピエンス全史』がこれに近い話を論じているもの と思います)から分離して離陸してしまってからは、人間の領域=カオスが増大しているとの認識です。この意味において、社会科学 や人文科学は人間の領域の秩序を維持するための学問として、重要性が増しているのだ、と考えています。極論すれば、文学や芸術は 相対化のために(その究極の目的は進化のために)必要で、一方人類のカオス化進化への対策は科学だけでは駄目で(科学だけで対応 できると考えていたのが19世紀と20世紀の中盤まで)、進化により増大するカオス領域を研究し、安定化を行なうための学問とし て、人文科学と社会科学の重要性もカオス化に比例して増している、それら諸学も進化し続ける必要がある、と考える次第です。永続 的に進化するからこそ、「歴史学は未来において無限に開かれている」ということになるわけです(岡本充弘氏の『開かれた歴史へ―脱構築の かなたにあるもの』(2013年)がこの観点で書かれたものかどうかは未読ですので未確認ですが、ウンベルト・エー コ『開かれた作品』 の意味で、過去の歴史及び過去の歴史学業績は未来において無限に開かれている、と考えています)。

 私の中で文化相対主義とグローバリゼーションがなんの疑問も無く並存している理由も、概ね以上の通りです。貴重な少数民族写真 集『彼 らが消えてゆく前に』を眺めつつ、消えてゆくものを無理に保持しようとは考えず(そういう運動があっていいと思いま すが)、着実な進歩・進化を遂げつつ新たなる外部を永続的に探し続ける、そういう人類社会を支持する。これが私の立場です。それ が絶対的なものでも正しいものだとも思っていないし、そうであってはならない、と考えているので、あくまで立場としかいいようの ないものです。このようなわけで、私の中ではモダンとポストモダンは(だけでなく唯名論と実在論も)対立する二項でも、矛盾する ものでもなく、内部・外部(あるいは部分と全体)というベン図で共存できるものなのです。

 主観のみを強調し、客観と実在を無視した相対論者というタイプがたまに世の中に散見されますが、多くの場合、自身の主観を正当 化したいだけで、相対主義を自己に都合のよいように利用しているだけの場合が目に尽きます。相対主義は、客観や実在を無視するも のではなく、客観を欠いた相対主義はコミュニケーションすら不可能なカオスに陥ってしまうものです。月並みな用語で記載すると、 既存の客観を脱構築するための相対主義であって、それは実在からより大きなエネルギーを取り出すための進化のための持続的脱構築 なのです。

 こういう観点で、ホワイトの論じている、モダン(近代西洋思考=体制)を打ち崩すものなら何でも(客観的合理性科学性の無いも のでも)同等である、モダンのドグマ的主張を打ち崩す、というような二項対立のように見えるような部分は、もはや古いのではない か、と感じています(私の理解が誤っている、または理解が浅い可能性ももちろんあります)。モダン(内部)を相対化したポストモ ダン(外部)の中に、モダンを脱構築して進化させる部分がある、それを取り入れて拡大する<モダン>、この無限の繰り返しが、脱 コードのあり方だと思う次第です。

 最後に。私が好きな映画のTOP2は、この36年間ほぼ不動で『2001宇宙の旅』と『惑星ソラリス』、少し離れた第三位が 『薔薇の名前』なのですが、(9)を書いていて、それぞれ、この議論で登場するキーワード、進化論(『2001年』)、相対論 (『ソラリス』)、唯名論(『薔薇の名前』)に対応しています。36年間あまり成長していないということなのかも知れません。こ の記事の(9)とその各リンク先は、丁度今から30年前の今の時期、数ヶ月がかりで書いていた卒論のテーマ(歴史の方法論)に半 分くらい重なる(上記映画や、推理小説の黒死館殺人事件とかも登場した)ので、当時を思い出しながらだらだらと長く書いてしまい ました。

□関連記事
 全てを読むことは出来ない〜世界文 学史はいかにして可能か〜
 エジプト製ミステリー映画『ブ ルー・エレファント』(2014年)に一瞬登場する暗黒の中世社会の映像
 歴史学方法論書籍:新版岩波講座世 界歴史 第一巻『世界史へのアプローチ』
 人類史観まとめ

※12/Jul/2018修正  文字数カウントソフト(こちら)を利 用して、『ローマ皇帝群像』『ローマ人の物語』の文字数をカウントし直しました。当初数えた数値以上に、塩野氏の創作文字数が多 いことがわかりました。(当初は、『群像』145文字、『物語』423文字(2.91倍)でしたが、文字数カウントソフトでは、 『群像』160文字、『物語』642文字、3.38倍となりました。
※05/Nov/2022 上述の記載の文字数を636文字、3.975倍に変更しました


BACK