メッセヴリア
博物館の町
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ネセバルは世界文化遺産である。黒海沿岸には北にヴァル
ナ、南にブルガスというブルガリアの中では大都会があるが、そのブルガスから北へ海岸沿いに車で1時間ほどの江ノ島の様に黒
海に張り出した島がネセバルである。
ダリウスがスキティア征伐を行った時、既にトラキア人のニプセア族とスキルミアン族が住んでいたらしい。BC6世紀 末にビザンチウムが植民市を築き、その建設者MELSAの名と、トラキア語で「町」を意味する単語BRIAがくっついて MESSAMBRIAと(メッサンブリア)と呼ばれる様になったらしい。BC72年にローマが黒海に侵攻した折、メッサ ンブリアもローマ支配下に入り、MESSEMBRIA(メッセンブリア)として知られるようになった。 |
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ハドリアヌスからフィリップアラビスの間、メッセンブリアは自前で貨幣を発行する程の繁栄を誇ったらしい。3世紀にはゴー ト人の侵入にも無傷でしのぎ、4世紀から7世紀に全盛期を迎える。同時に5、6世紀頃からMESSEMVRIA(メッセヴリ ア)として知られるようになっていた。 680年ブルガリア汗アスパルフが皇帝コンスタンティンを破った際、皇帝はメッセヴリアに逃げ込んだ。 812年から9世紀末(864?)までブルガリア治下にあったらしい。再びビザンツに奪回されたが、町には多数のブルガリ ア人が住む様になっており、1078年にはビザンツ支配に対するドブロミールの反乱が起こっている。 |
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13世紀にはブルガリア第2王国とビザンツで争奪が繰り返され、13世紀後半から14世紀中頃までブルガリア領 (1308-23,28-31,33-66)となるがブルガリア、ビザンツ、ベネチア勢力の混在する町となっていた。 1366年にはサヴォーイア候アマデオ6世に一時支配され、その後ビザンツ領となり、皇帝コンスタンティウス11世は 1441年以降しばしここに滞在した。 1452年に町はハンガリーのヤノシュフニヤディに譲渡される。対トルコ援助をあお ぐ為である。 しかし時虚しく1453年2月、町は陥落したのだった。 島は東西半キロ強、南北300M程度の小さい島だが、ギリシャ時代の城壁、多くのビザンツ時代の教会、多 くの19世紀の家屋が残り、博物館の町と呼ばれるにいたっている。 |
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扉の写真は陸地から島を見たところ(夏)。
左上の写真は逆に半島から本土方向に、島と本土を結ぶ道路を撮影したもの。1月1日だったので、吹き付ける風が凍りつくよう な寒さ。 そのまま反対を向くと、その右の写真の景色が展開している。 写真の右に一部写っているのが4-5世紀建造の城門と城壁の 一部。写真ではよくわからないが、5角形の塔が門の左右に残り、その下1/3くらいがよく残っている。 その下の2枚は島のほど中央にあるパントクラトール教会。左が夏で右が冬。 その下の中央写真は城門から北海岸に沿って100m、19世紀の風車小屋で遺跡ではない。この近くに4世紀のバシリカ遺跡 がある。 最後の2枚は左がオールドメトロポリタン教会(写真では分かりずらいが他の教会の2-3倍の大きさ。。4-5世紀の建造。 右は13世紀建造の大天使ミカエルとガブリエルの教会。 他の主なビザンツ遺跡としては以下のものがある。
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ブルガリア有数の観光地なので、ガイドブックには必ず載っているので、特にここで記載する内容はないでしょう。
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